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王の剣士 番外二 「暁を渡る」


 その夕方、ヴェルナー家から使者が来ていると、准将が俺を呼びに来た。
 宿舎の一階にある面会室へ行くと、少将と、見覚えのある男が待っていた。父の秘書官の一人だ。高圧的な空気を纏うその使者の前で、少将はまるで父本人の前にでも立ったように畏まっている。俺の顔を見て安堵の色を浮かべ、慌てて手招いた。
「ヴェルナー一等官、お父上がお呼びでいらっしゃる。すぐに行、行かれた方が良い」
 横に立つ使者にちらちらと視線を走らせながら、早口でそう告げた。
 この男は、今俺が置かれている状況を、忘れたとでも言うつもりなのだろうか。
「――私は、大将殿から謹慎を申し渡されている身です。許可なく動く訳には参りませんが」
「そ、それは私からお伝えしておく。とにかく」
 少将の言葉を遮るように、使者が前に出る。
「ロットバルト様。父君は至急に、と」
 それだけを告げ、当然の判断を待つように、ゆっくりと頭を垂れた。
 至急?
 腹の底が冷える感覚を覚えた。
 その感覚に圧されるように、おそらく、笑みを浮かべたのだろう、使者は訝しげな表情を覗かせたが、少将は安堵の息を吐いた。
「……承知した。仕度をする間、表で待て」
 使者の返答を聞く前に踵を返し、廊下へと出る。階段を昇りかけた所で、追いかけてきた少将に呼び止められた。
「ヴェルナー殿」
「――何か」
 込み上げる苛立ちを抑えて振り返る。
「先日は、その、私は決して、他意があった訳ではないのだ。ただ、その」
 その慌てた気まずそうな表情を眺めながら、よくもこれだけ俺の厭う所ばかりを突いて来れるものだと、いっそ感心すら覚える。結局のところ、この男にとって目の前にいるのは俺個人ではなく、ヴェルナーという家の影に過ぎない。
「ああ……申し訳ないが、忘れておりました」
「そ、そうか。……お父上には、」
「……ご安心なさい。例え私が話したところで、あの方は私のそんな話には興味もありませんよ」
 安堵すべきか複雑な表情を浮かべ、少将は幾度か小さく頷いた。それを残し、階段を昇る。使者を送る為に宿舎の玄関口に立っていた准将の、物言いたげな顔が視界に入ったが、気付かない振りをして自室に戻った。
 軍服の上から、ただ外套だけを羽織る。ヴェルナーの当主に目通りするに相応しい装いではないが、敢えて着替える気にはならなかった。
 静かな、吐き気にも似た言い難い苛立ちが、冷気のように胃の中を立ち昇ってくる。
 『至急』?
 あの父に、至急などという概念があるとはお笑いだ。
 どうせ言わんとしている事は想像がつく。使者など追い返しても良かったが、それよりもただ、冷えた苛立ちの方が大きかった。
 扉を開けようとして、ふと立掛けてあった剣に眼が留まった。軍の支給品ではなく、俺の太刀筋に合わせて打たれた、浅く反った刀身を持つ剣だ。
 特に何を考えるでもなく、その剣を取った。



 ヴェルナー家は王都の中心部に屋敷を構えている。広大な敷地の中に、当主の館の他に、俺の育った館も含め、いくつもの棟があった。
 主の住まう館の長い回廊を歩く。以前そこを歩いたのはいつだったかと、そんな事を漠然と考えていた。
 あまり記憶には無い。同じ敷地内に在りこそすれ、そもそもこの館に足を踏み入れる事さえ、年に数度あるか無いかという程度だ。
 既に陽は落ちきり、回廊の両側に張られた硝子の向こうを、墨のようにべたりとした闇が取り巻いていた。
 夜気はしんと冷え込み、日中の暖かさとは打って変わって、静かに回廊に満ちている。
 聞こえるのはただ、館を取り巻く風の音のみだ。
 それから――掠れて行く、微かな響き。
 幾度か折れ曲った回廊を進んだ先に、ヴェルナー公爵の、この館での執務室が現れる。
 両開きの扉の前で立ち止まり、名を告げると、低い声が応えた。
 深く、呼吸を整える。
 重い扉を押し開けると、灯りを落とした広い室内の奥、執務机の前に座している影が僅かに肩を揺らした。
 広い室内の中央を過ぎた辺りで立ち止まり、執務机の正面に向かい合うと、一礼して到着を告げる。
 それが、この家の当主と子息との距離だ。
 父は暫く俺に視線を注いでいたが、俺が黙っているのを見て漸く口を開いた。
「……謹慎を受けていると聞いた」
「お聞きになったとおりです。不徳の致す所でお恥ずかしい限りですが、貴方がお気になさるまでもありません」
 俺の言葉に、父は明らかな不快感を顔に昇らせた。右腕を執務机の上に乗せ、上体を傾ける。
「ヴェルナー家の子息が謹慎など受けて、気にする程の事はないだと? 一体お前はこの侯爵家を何と心得ておるのだ」
「近衛師団での私の地位は、単なる士官候補ですよ」
「お前はヴェルナーの子息だ。いかなる時であれ、家名に泥を塗るような真似は許さん」
 静かに、冷気が胃の中を這い上がる。
 ゆっくり。
「どこにあっても、それに相応しい行動を取れ。出来ないでは済まされんぞ」
 肺を渡り、喉を這う。
「そもそも、王の守護たる近衛師団とはいえ軍などと、侯爵家に相応しい場所ではない。こうなった以上、もはや師団に籍を置く事は認められん」
 突き上げる笑いを抑えようとして喉が引き攣る。
 ――認める? 誰が、誰を?
 許可を得て師団に在籍しているつもりは全く無い。この男が、自分の許容内に置いているつもりになっているだけだ。
 そもそもこの男が見ているのは、兄や俺という個人ではない。
 ただ侯爵家を継ぐ為の、物だ。
 当初は長子である兄以外の子供など、道具と見做す程にも、興味を抱いてはいなかっただろう。
 弟が死ぬ間際まで父を慕った事すら、この男は知るまい。
 もしかすると、どちらが死に、どちらが生き残ったのかさえ、分っていないのではないか。
 薄れていく喘鳴が、耳の奥で響く。
「……近衛師団に関する裁量権は、例え貴方でもお持ちではないでしょう」
 辛うじて、それだけを口にした。それ以上は、節度を保った言葉にはなりそうにない。
 握った手の中で、爪が掌に喰い込んでいる事に気付き、それを緩める。
 だがその甲斐も無く、掌は再び強く握り込まれた。
「では、お前から近衛師団を辞すがいい。内務の席はどうとでもなる」
 当然俺が従うと、疑わない響きだ。
 押さえ込んでいた怒りが、止めようもなく、一気に膨れ上がった。
「――断る。貴方の都合のいいように生きるのはまっぴらだ」
 叩きつけるような口調に驚愕の表情を浮かべ、父は俺を見た。その眼を、正面から見据える。
「跡継ぎが必要なら、適当に優秀な者を見繕って据えればいい。それを望む者など、いくらでも探せるだろう」
「愚かな事を。ヴェルナー家の血を」
 怒りと、笑いが込み上げる。
 回廊を抜ける風が、あの夜を運ぶ。
 夜明けは遠く、途切れていく呼吸以外、そこに物音は無い。
「血? 残念だったな。この血を持つ者の中で、喜んで貴方の意を受ける者などいない」
 僅かに、指先が外套の下の剣に触れた。
「唯一、心から貴方の言葉を欲した者は、既にない。……貴方に省みられる事無く、死んだ」
 左手が、外套の上から剣の鞘を掴む。
 ――この男を、斬ろうか。
 まあ剣を抜いた所で、斬る事は叶わないだろう。
 別にそれもどうでもいい。
 ただ剣を抜けば、それがどんな形を取るにせよ、俺の望みどおり、ここから解放されるのは確かだ。
 鞘を握り込み、右足を踏み出しかけた時、父が呟くのが聞こえた。
「――あれには、辛い思いをさせた」
 一瞬、呼吸が止まった。
 ゆっくりと、視線を父の上に向ける。
 何だって?
 この男は、今、何を言ったのか。
「お前から書状を受け取った晩、私は直ぐにでも行くべきだった。だが、職務の前にそれを怠ったのは事実だ」
「……何、を」
「後悔していない訳ではない。だからこそ、お前には」
「――何を言っているんだ、貴方は」
 手足が凍りついたような冷たさを帯び、麻痺していくのと比例するように、頭の奥が冴えていく。だが明瞭な思考を持った冴え方とは違う。
「今更、そんな言葉は無価値だ。あの時に施されなかった修正が、今更効くと、そう思っているのか?」
 お笑い種だ。
 それを受けるべき相手は、既にいないというのに?
 夜の明ける前に、呼吸は消えた。
 『君が、笑えるように』
 馬鹿な事を。そんな事を考えているから死ぬのだと、そう怒鳴りたかった。人の事などどうでもいい。彼が今も笑っている方がずっと重要な事だ。
 本当に代わる事が出来たなら、そうしただろう。
 だが、代わる事など出来ないまま、俺だけが今ここにいる。
 今更、あの時この男がどう思っていたかなど、何の意味もない。
 意味など無い。
 強く握り込み過ぎた指が、外套の上を滑る。
 剣が帯から外れ、音を立てて床の上に落ちた。
 敷き詰められた絨毯に金属音を吸い取られながら、その音は部屋の空気を裂く様に響いた。
 俺と父の、二つの視線が剣の上に集中する。
 父はよろめくように椅子から立ち上がった。
「――ロットバルト、お前は」
 身をかがめ、足元のそれを緩慢に拾い上げる。冷えた鞘の感覚が、意識に深く忍び込む。
 だが、この剣をどうすべきか?
 目の前で、呆然と俺の姿を見つめている男に向けるか。
 何の為に?
 あの父の言葉を聞けば、弟はそれでも喜ぶだろうと、そんな事を漠然と思った。
 俺は――何を望んでいるのか。
 周囲が固い輪郭を崩すように感じられ、ただ無意識に父の前へと歩み寄る。崩れていく輪郭の中で、父と手の中の剣だけが確かな存在だ。
 父はただ、信じ難い表情を浮かべたまま、俺を見つめている。
 あと数歩、歩み寄れば、切っ先が届く。
 剣を抜きさえすれば、終わる。
 それとも――
 俺に、向けるべきか。
 指が、鍔を押し上げようと――
 不意に、夜のしじまを縫って、慌てふためく声が複数走った。
 俄かに回廊が慌しさを増したと思った瞬間、両開きの扉が音を立てて開き、回廊から差し込む光に、見覚えのある影が浮かんだ。
 凛とした声が響く。
「ロットバルト・アレス・ヴェルナー。俺はお前の謹慎を解いた覚えはないが?」
 崩れかけていた輪郭が、弾かれたように形を取り戻す。
 振り向いた俺の前へ、レオアリスはゆっくりと歩み寄り、部屋の中央で足を止めた。
 俺の左手が掴んだままの剣に眼を止め、僅かにその眼を細める。
「――無礼な。近衛の大将とはいえ、ここをどこだと心得ている」
 苛立ちを滲ませ、だが普段の自分に立ち返る事でどこか安堵したかのように、父がレオアリスを睨む。
 レオアリスの漆黒の瞳が静かにその視線を弾いた。
「近衛師団ではないのは、残念ながら事実ですね」
「ならば去れ」
「俺が残念ながらと申し上げたのは、近衛師団に属する者が謹慎中の身でありながらその規律を破り、この場にいる事にです。貴方のご子息ではあるが、今は俺の管轄下にある。許可なく勝手な振る舞いは許されない」
 思わず俺は、それまでの状況を忘れ、レオアリスの顔をまじまじと眺めた。ついこの昼には、出歩いた事を咎めもせず、大して気にした素振りも見せなかったのは誰だったか。
 だが当の本人は至って真面目な顔で俺に視線を戻した。漆黒の瞳が俺を捉える。
「ヴェルナー一等官。速やかに近衛師団へ戻り、引き続き謹慎に付け」
 言われるがままに、俺はレオアリスに向かって一礼し、扉に向かった。
 呼び止める父の苛立った声に、レオアリスの澄ました声が重なる。
「本来なら再度処分を申し渡す所ですが、今回は危急のご用という事もあったのでしょう。侯爵の御前でもある、この場は不問に処しましょう」



 先に門を出た俺は、そこでレオアリスが出てくるのを待った。警備の者達はみな、相手が近衛師団の大将ではぞんざいに扱う訳にもいかず、複雑な顔でレオアリスが通り過ぎるのを見送っている。
 俺の前まで来るとレオアリスは足を止め、苦笑を浮かべて警備兵達を振り返った。
「アレはまずいだろう。今後は例え近衛師団総将であっても、闖入者は放り出せと言っておけ」
「……貴方が言いますか」
「確かになぁ」
 声を上げて笑うと、夜の中を、近衛師団へ向けて歩き出す。少し先に、彼の乗騎だろう、銀翼の飛竜が羽を休めているのが見えた。
「――何故、こちらに?」
 当然の疑問だと思うが、レオアリスは呆れ返った顔で振り向いた。
「何で? お前、さっき俺が言った事が聞こえなかったのか。謹慎中の奴が何度もふらふら出歩くな。ついでに言っとくが、謹慎中の帯刀は認められてない」
 そう言うと、さっさと飛竜の背に飛び乗る。それからふと思い直したように、俺に視線を落とした。
「……お前のところの准将が、蒼白な面で飛び込んで来た。お前が思い詰めた顔で、剣を持って出たってな。――良かったのか悪かったのか、判らないが」
 それに答える言葉は、俺にも無い。その代わり、別の事を尋ねた。
「少々面倒な事になるのでは?」
 だがレオアリスは小さく肩を竦めただけだ。
「ま、アヴァロン閣下と内務長官の前で申し開きをする事にはなるだろう。だが俺の権限内だ。それよりお前の方がめんどくさいと思うぜ?」
「そうかもしれませんね」
 父との対面をあんな形で放り出してきたのだ。
 頷いた俺に、けれどもレオアリスは真面目くさった顔で視線を投げた。
「ここから歩いて戻ったら、一刻はかかる」
 呆気に取られたままの俺を尻目に、レオアリスを乗せた飛竜は瞬く間に中空高く舞い上がった。



 レオアリスにああは言ったものの、父が今晩の事を正式に取り沙汰すとは、俺自身思ってはいなかった。
 あの時、どちらに進むべきか、双方共に見失っていたあの薄闇を、切り裂いたのは紛れも無く彼だ。
 どこへ向かいたかったのか――思い返してみても、俺には見えない。
 殺したいと憎むほど、執着しているつもりも無い。
 ただ、一瞬とはいえ、掴んだ剣を抜く先を見失った事に、僅かな混乱を覚えていた。
 これ程に自分の意思が、不確かな土台に立っているとは思いも寄らなかった。たかが一つの悔恨の言葉が欲しかった訳ではあるまい。
 あの場で俺を見据えた、漆黒の瞳を思い返す。
 闇よりも深く、闇を切り裂く。
 答えを、彼は知っているだろうか。
 問いかければ明確な言葉が返るのか。
 彼が答えを持っているはずも無かったが、無性に、それを思った。





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