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王の剣士 番外二 「暁を渡る」


 二日間の謹慎の間に論文を提出し、俺は再び通常通り隊の訓練に戻った。
 最初の乱闘騒ぎと直談判の件はすっかり知れ渡っていて、どうも関わるのは得ではないと判断されたのだろう、交わされる囁き声すら減っていた。
 一方で意外だったのは、ごく少数ながら何が気に入ったものか、入隊早々五日も謹慎を食らった経緯について、興味津々で話を聞きに来る者がいた事だ。
 聞かれて有難いものではなかったが、彼等と幾つか言葉を交わしている中で、判った事がある。
 多くの隊士がこの第一隊に配属された事を誇りにしていた。レオアリスは二、三隊の大将よりずっと親しみやすく、一兵卒にでも気やすく声をかけた。訓練に於いてはかなり厳しい内容をこなさなければならなかったが、隊の風通しは良く、何より、最高位の剣士と謳われる存在が自分達の将である事は、それだけで気分を高揚させた。
 出自が民間である事も、彼等にとっては共感を覚える要素のようだった。ただそれにより自分達の大将が軽んじられる事には、少なからず憤りを覚えている。
 階級性の重んじられるこの社会の中で、確かにそうした傾向はあるだろう。それは俺自身常に身を置いてきた世界だ。近衛師団はその中でもましな方だと言っていい。
 訓練は普段と何ら変わる事なく続けられたが、さすがに手を抜くのは止めていた。それによって更に囁き声は無くなり、向けられる視線からもそれまでの色が消えた。
 結局俺は、ひどく単純な事を、漸くそこで学んだ事になる。
 数日は、ただそうして過ぎた。
 父からの再度の呼び出しは無く、レオアリスが内務に出向いたという話も聞いていない。
 平穏というには余りに宙に浮いたままの状態に、俺は戸惑いすら覚えていた。
 あの夜、どうすべきだったのか、未だ答えは見出せないままに、ただ時間だけを過ごしている。
 肺の奥にわだかまる焦燥と、それとは対を成す空虚な感情を、代わる代わる覗き込んでいるように感じられた。
 レオアリスはあの夜、何を思っただろう。
 剣を手にした俺を見て、父を斬ると、思っただろうか。
 問い掛けてみたかった。
 それよりも、ただあの漆黒の瞳を覗き込めば、そこに答えがあると、そんな気がしていたのかもしれない。
 休憩中にそんな事を漠然と考えていた時に、不意に声がかけられた。
「相変わらず、つまらなそうな顔してるな」
 声の先を振り返ると、練兵場の周囲に巡らされた観覧席の一番手前、俺が寄り掛かっている、すぐ上に張り巡らされた塀に凭れるようにして、レオアリスが見下ろしていた。
「真面目にやってもまだ面白くないか?」
「……いえ――変わりましたよ」
 それを面白いというのかは判らないが、確かに以前と訓練の感じ方は少なからず変わったように思う。
「そりゃいいや。にしても」
 レオアリスは欄に頬杖をつくようにして寄りかかったまま周囲を見回し、苦笑を洩らした。他の隊士達は遠巻きに、だが何を話しているのかは気になるのだろう、視線をこちらに向けている。
「随分おっかなびっくりになっちまったなぁ。お前が三人もボコるからだぜ」
「――護身は幼少の頃から叩き込まれているもので」
「なるほど……そりゃそうか。家が大きすぎるのも何かとめんどくさそうだ」
 准将がレオアリスに気付いて歩み寄ってくるのへ軽く手を上げて答える。そう言えば彼にはまだ礼を述べていなかったと、その姿を視界の端に捉えながら思った。
 訓練を増やすかな、と呟きが聞こえ、視線を戻すとレオアリスが複雑そうに眉をしかめた。
「だってなぁ、五人だろ。問題大有りだ……。グランスレイなんかそこにものすごい青筋立てて、目ぇ回してなかったら五人とも今頃別の意味でぶっ倒れてただろうな。……けど、あいつらもそれなりの腕なんだぜ。何しろ一隊は一番剣の腕がいい」
 眉をしかめながらも、その顔は得意そうだ。
「まあ確かに、お前の腕は相当のものだ。常に相手の行動の二、三手先を読んだ動きだよな」
 見ていたのかと、軽い驚きを覚えた。
 冷えていた指先が、熱を帯びる。
「さすがにあの論文を書いただけの事はある。面白かったぜ、あれは。それで何でそんなつまらなそうな面してんだか」
 可笑しそうな響きを含んだ口調でそう言うと、寄りかかっていた手摺から体を起こした。
 漆黒の瞳が深い色を宿して俺を映す。に、と口元に軽やかな笑みを刷いた。
「――望みを言えよ。全部とはいかないが、一つ位なら、俺が叶えてやるぜ。まぁもちろん内容にも寄るけどな」
 冗談とも本気ともつかない、軽快な口調だ。休息の終了を告げる准将の号令がかかったのを機に、レオアリスは手摺に置いていた手を離した。
 鼓動が身体の裡で響く。
 俺の望み?
 判らない。だが
「――あのっ」
 立ち去りかけた背中を呼び止める。自分でも思いも寄らない言葉が口を衝いて出た。
「俺と、手合せをして頂けませんか」
 准将の卒倒しそうな顔が視界に入り、他人事のように同情した。一斉に静まり返った演習場の空気の中、振り返ったレオアリスの顔には、呆れたような、面白がっているかのような表情が浮かんでいる。
「――お前って、つまらなそうな顔ばっかしてる割には、やる事はほんとぶっ飛んでるな……」
「も、申し訳ありませんっ、単なる気の迷いで……良く言って聞かせますから、今回は……」
 准将が真っ青になって、体を九十度も折り曲げるようにして幾度も頭を下げた。
 この男は人がいい。面倒事ばかり起す部下を抱えて、人が良すぎる位だろう。尊重すべき相手だが、ただ、今、この時は邪魔をされたくはなかった。
「気の迷いじゃない。余計な口出しをしないでくれ」
「こ……、ヴェルナー、貴様……っ」
 礼を言わなければと思っていながらこの態度は呆れたものだとチラリと思う。
 レオアリスはじっと俺の眼を覗き込んだ。
 自分がどんな顔をしていたかは判らない。ただその眼を跳ね返すように黙って立っていた。
「……上官には礼儀を払うもんだぜ」
 呆れたような口調でそう言うと、レオアリスは塀に手をかけて飛び越え、地面の上に降り立った。
 纏っていた長布を外して畏まったままの准将に預け、静まり返った演習場の中央に向って歩き出す。
「来い。相手をしてやろう」
 俺は一瞬馬鹿のように突っ立ってから、慌ててその後を追った。
 咄嗟に手にしたのは、軍の支給品ではなく、自身の剣だ。
 足許の地面が綿にでも変わったかのように、ふわふわと覚束ない。
 自分で言い出しておいておかしな話だが、まさかレオアリスが申し出を受けるとは、思っていなかったのだ。
 レオアリスは中央まで行くと、振り返って俺が着くのを待った。演習場内の全ての視線が、その場に集中していた。
 張り詰めたような空気が、ビリビリと肌に伝わる。
 広い演習場を埋め尽くすその圧迫感が、自分より頭半分ほど低いレオアリスの身体から発せられているのだと気が付いた時、自分の腕が、僅かに震えているのが分かった。
 向かい合ったまま立ち尽くして動かない俺を眺め、レオアリスが笑みを浮かべる。
「どうした。いつでもいいぜ。組み手でも、剣でも、何でもな。好きに選べ」
 圧されるように、剣の柄に手を掛けた。
 だが、レオアリスは構える気配すらない。見れば鎧も身に着けておらず、剣もその手にしてはいなかった。
 全身を急激に血が巡るのが判る。
 ここに至って、まともに相手をする価値すらないのかと、そう思った。
「……剣は、どうしたんです」
「気にするな。必要になったら出す。来ないのか?」
 頭に、血が昇った。
 剣の鞘を握った左手の指で、鍔を弾く。
 同時に刀身を引き抜いた。
 抜き打ちざま、間合いを詰める。
 殺せる間合いだ。
 喉を狙って走らせた剣は、だがレオアリスの身体には届かずに、空を切った。
「抜き打ちか」
 レオアリスが浮かべた笑みは、嬉しそうですらあった。
 僅かに身体を逸らして避けたのだと、その時は気付いていたか分からない。いや、避けるだろうと、その方向まで分かっていた。
 左から抜き打てば、剣先は弧を描くように左から右へと走る。相手は剣先を避ける為には後方か、右に動く以外にない。かがめば次の動作への移行が大幅に遅れ、また横薙ぎの剣の懐に入る奴はまずいない。
 その上で、相手が引くのか迎え撃つのか。それさえ判断すれば、次の攻撃に移るのは容易い。
 自分の動作を最小限に抑え、相手が反撃に出ようとする前に次の太刀を繰り出す。そうして全ての動きを封じてしまえば、倒すのは呼吸をするよりも簡単な事だった。
 だが何度太刀を繰り出しても、剣先はレオアリスの身体に掠りもしなかった。剣先が掠める寸前で、刃は空を切る。
 僅かに届かないのではない。僅か紙一重の差で躱されているのだ。俺の太刀筋、間合い、全てが読まれているのだと、そう気付いた時には、既に肩で息を切っていた。肺が空気を求めて激しく喘ぐ。
 極度の緊張と圧迫感が、疲労の度合いを濃くしている。
 それを与えている当の本人は、まるで気にした素振りもなく、楽しそうに笑った。
「なかなかいい太刀筋だが、甘い。お前は想定しすぎる」
「っ」
 怒りに任せて頭上から振り下ろした剣は、レオアリスの左手に止められた。
 親指と人差し指、たった二本の指に挟まれただけの剣は、押しても引いても、びくともしなかった。
「今のが、一番いいかもな」
 ふっ、と自分の足が浮いたのが分かった。腹に焼け付く痛みが走る。
 身構える間もなく、数間先の地面に叩きつけられた。
 一瞬、呼吸が止まる。それから、肺が急激に酸素を取り込もうと動き、過剰な空気の摂取に噎せ返った。
 レオアリスの右足が僅かに浮いているのを見て、漸く蹴られたのだと気が付いた。
 よろめく足を押さえて立ち上がる。周囲が何かを言っていたが、全く耳に入らなかった。目の前に立つレオアリスの姿だけが、視界に明瞭に浮かび上がる。
 剣を握り直すと、地面を蹴った。紙一重で避けるのなら、更に踏み込めばいい。それでも避けられれば、もっと。
 薙いだ剣を、下方から跳ね上げるように斬り返す。右上から叩きつけ、左から右へと、間髪を入れずに剣を戻す。
 それでも剣先は一向に、レオアリスの身体には届かなかった。切っ先が止められ、また一瞬でも剣を止めれば、容赦なく蹴りが飛ぶ。
 何度目か、地面に叩きつけられた時には、既に演習場内には声もなかった。僅かな呼吸の音すら恐れるように、息を潜め、ただ視線だけを注いでいる。
 何故まだ立ち上がるのか、自分でも判らないまま、それでも力の入らない身体を無理やり起こした。全身の筋肉が俺の意思など無いように震え、呼吸すら苦痛に思える。
 握力の失われた手は、剣を握っているのがやっとだ。腕も、足も、身体も、鉛を括ったように重い。肺は酸素を求めて忙しなく動き、噎せる。
 自分の意志を受け付けない身体が、指の一本一本に至るまで――それこそが俺自身なのだと、今、初めて意識した。
 そこには、物音一つ無い夜も、途切れていく呼吸も、父の姿さえも無い。
 ただ、俺の意識があるだけだ。
 視線の先に、風一つ吹いてさえいないかのように、レオアリスが立っている。
 その顔に、呆れたような、面白がっているかのような表情が浮かぶ。
 思えば、初めて会ってからずっと、レオアリスが俺に向ける表情はいつもそんな感じだった。
 それでいて、どんな時も俺の正面に立ち、その視線を向けている。
「ホントに、妙な奴だ。普段はつまらなそうな顔をしているくせに」
 レオアリスはゆっくりと、右手を自分の鳩尾に充てた。
 ずぶり、と手首まで、身体の中に沈む。
 青白い光が漏れ、その場を覆った。
 光が強く輝きを増すにつれ、何かを握ったような形をした右手が再び現れる。
 光が消えた時、レオアリスの右手には、一本の剣が握られていた。
 青白く光を纏う、美しい長剣。
 場内に、波のように、感嘆の声が広がる。
 初めて眼にした――、
 最高位と謳われる剣士の、剣。
 目の前の身体から発せられる身を切るような空気が、俺の皮膚に叩きつけられる。
「最後だろう。来い」
 その言葉に突き動かされたように、俺は踏み込み、間合いを詰めた。
 何も考えないまま、鞘に収めた剣を抜き打つ。
 走った切っ先は、レオアリスの身体に届く直前で、青白い剣に阻まれた。
 その刀身に触れた瞬間、振り抜いた刃は俺の手の中で、根元から砕け散った。
 青白く光る剣が風を巻く。
 衝撃を感じたのかどうかは分からない。
 ただ、闇に呑まれていく意識の中、いつかの弟の笑みが浮かんだ気がした。





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