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王の剣士
【第三章「マレル旧運河」】


 王都を縦に走る運河を、堰から放出された水が勢い良く下っていく。
 その水流に乗るように、帆を張った帆船が走っていた。舳先に掲げた小さな明かりが夜の中を移動していく。
 船が越えるべき堰は、下層マレル地区からであれば四つ。堰の落差は下層では緩く、開け放たれている事で更に埋められている。
 解放された運河は四半刻足らずで船を街壁まで運ぶだろう。
 アスタロトは身体に伝わる振動を感じながら、ユンガーと対峙するように立っていた。胸の奥がじわりと冷えている。
 船は出た。
 ただでさえ通常の運航の止まった夜に、放水の勢いに乗ってしまえば、外部から停める術などない。自ら停止する事さえ困難だ。
 ユンガーはアスタロトの胸の内を読み取ったように、優越感に満ちた表情を浮かべた。
「さあ、もう船は目的地まで停まらない。停めるつもりもないしね。たいしたおもてなしもできないが寛いでいてくれ。……そうだね」
 人形はユンガーを支えて動き、船倉の壁際にしつらえてある低いひつを椅子代わりに座らせた。
「君はさっき、何故人形を作るのかと聞きたがった。その話でもしよう」
 アスタロトの瞳は当然それを望んでいなかったが、ユンガーは気にせずに、記憶を追うように瞳を細めた。
「私が人形作りを始めたのは十歳の頃だ」
 アスタロトの意識は外へ向けられている。船が走り出し停める事のできない今も、まだ望みを繋いでいる。
「私の生まれ育った村は人形作りが盛んだった。周辺の村や街では繊維業や陶器作りが隆盛し、素材に事欠かない事が一因だろう」
 ユンガーは右側に立つ人形の腕を撫でた。
「最初は村の人形師に付いて人形作りを学んでいたが、十八になる頃に街に出た。人形を売るには街道沿いの大きな街の方が都合がいいし、値段もそこそこ付けられる。実際、私の人形は精巧さがすぐに評判になり、良く売れた」
 アスタロトはまだ周囲の気配を探りながら、ユンガーに視線を注いだ。
「――その頃からこんな事やってたのか?」
「まさか――私がこの技術を手に入れたのは、もっと後だ」
 ユンガーの瞳に、妖しい陽炎が宿る。
「私には妻がいた――黒髪に黒い瞳のとても美しい女性でね、白い頬や整った目鼻立ちはそれこそ人形のようだった。少年の頃は彼女を得る為に――得てからは家庭を守る為に、私は収入源としての人形作りに打ち込んだ。やがて娘も生まれ、幸せな日々を過ごした」
 釣り込まれるように、アスタロトは口にした。ユンガーの言葉の内容に憤りも覚えていた。
「家族がいるなら、何でこんな事するんだ。この娘達の家族だって、お前と同じに娘が大切なんだぞ」
 ユンガーが笑みを吊り上げる。
 その笑みに背中を冷たいものが走るのを感じて、アスタロトは一歩退がった。
 ユンガーは右側に立つ人形の腕に手を置いている。
 彼は全て過去形で語っていると、アスタロトは思い至った。
 妻と娘――。妻と娘がいた、と。
 ユンガーの妻と娘は、今どうしているのだろう。
「君は今想像している。それはおそらく――間違いじゃない」
 妖しい、陰の揺れる瞳。
(陰――狂気だ)
 四隅に立つ人形。
 ユンガーの傍らに立つ人形――艶やかな黒髪の。
 硬質な白い頬に変わらぬ笑みを浮かべている。
「っ」
 胃の奥が持ち上がるような吐き気を覚えた。
 闇雲に、ここから飛び出したくなったアスタロトの耳に、どこかで笛の音が高く響いて届いた。
 甲板を貫くように、長く、一度。
(ああ、笛だ――)
 アスタロトは目の前の男に意識を吸い寄せられたまま、身に染み込んだ事を呟いた。
(一の笛は、『標的の発見』)
 そしてもう一度、笛の音が続く。
(二の笛――)
 軍の作成行動時の決まりだ。
「接敵」
 その瞬間、船は跳ね上がるように、大きく船体を揺らした。



 ユンガーとアスタロト達を乗せた船がマレル旧運河を下り出して、三つの区画を過ぎた時だった。
 水流の轟きを切り裂いて、高らかに、笛の音が響いた。
 その音が夜に吸い込まれ消える前に、運河に沿った通りの路地や倉庫の屋根から、風を切る音と共に一斉に何かが吐き出された。闇を白い蛇のように走る。
 縄だ。先端におもり――いや、鉤爪の付いた数十もの鉤縄が、水流に乗って下る船の支柱に巻き付き、舳先や船体を捕えて食い込み、絡め取った。
 再び呼びが四方から響く。
「引け!」
 ヒューイットが呼び笛の音を圧して指示を飛ばす。
 運河沿いの建物の屋根や路地に伏せていた兵士達が身を起こし、掴んだ縄を一斉に引いた。
 左右からおよそ五十本もの縄に絡め取られ、船はがくりと船体を上下に揺らした。
 船の重さに引かれ、兵士達の足が滑る。けれど既に船の勢いは死んだ。
 水流を腹に受け身悶えし、だが縄にがんじがらめになった船体は、不服そうに身を捩りながらも、やがて止まった。


 床に放り出されたユンガーの身体を、一瞬遅れて伸びた人形の腕が支える。
「何事だ?!」
 アスタロトは咄嗟に身を伏せ、少女達の身体を抑えた。
 再び跳ねるような衝撃が襲い――、その後、船が停止したのが判った。
(来た!)
 アスタロトは深紅の瞳を輝かせ、床の上で身を起こす。
「これは、君か」
 ユンガーが驚愕の醒めやらぬ眼で、アスタロトと、天井――頭上の甲板を睨み据えた。今や船は完全に止まっている。
「どうやって、船を」
 ただ、止まった船へと乗り込む兵士達のときの声が聞こえる訳でもなく、周囲は逆に静まり返っている。
 それでも、アスタロトにははっきりと、その気配が感じられた。
「さあ――判んない」アスタロトはユンガーと真っ正面から向き合い、確信と共に告げた。
「でも、この先はお前の人形じゃ足りないよ」
 アスタロトの瞳に揺らめいた炎の光、それを見つめ、それからユンガーは唇を歪めた。
「――君はすぐに、後悔する」
 ユンガーの背後の扉の向こうで、廊下を這い歩くようなカシャカシャという音が立つ。
 人形が甲板へ上がって行く音だ。アスタロトはそれを注意深く数えた。
(四体……五体か――まだ少ない。もっと引っ張り出さなきゃ……)
 ユンガーの手勢は、合わせて十八体の人形達だ。それを全て、ここから――娘達の傍から引き離したい。
 あの剣の前に。
 アスタロトの瞳から何を感じ取ったのか、ユンガーは声に僅かな苛立ちを覗かせた。
「昼と同じ事だ――私の人形にはやはり手も足も出ないのだと思い知るだけだ」
 ユンガーは左側の人形を手招き、自分の前に膝を付いた人形の瞳を覗き込んだ。
 五体の人形達は階段を這い上がり、甲板へと出たところだ。ユンガーにも、人形達の瞳に映る光景が見える。その光景に、ユンガーは小さな呻き声を上げた。
 まるで夜の中に磔にされたように、船は縄に幾重にも絡め取られ止まっていた。
 運河を流れる水が船の腹を叩き、船体は不規則に揺れている。
 ユンガーはぎり、と唇を噛み、低く吐き出した。
「――探せ。全ての首を落としてやる」
 しんと静まり返った船上で、人形達は辺りを見回した。


 甲板の上で五体の人形達が辺りを見回しているのが、レオアリス達のいるこの場所からも見て取れた。
 レオアリスが立っているのはマレル旧運河沿いの空き倉庫の上――、正規軍と近衛師団が身を伏せていた屋根の上だ。
 ヒューイットが率いる正規軍の四小隊四百名とクライフの中軍二小隊百名が、運河の左右に展開していた。
「出てきたのはたった五体か。用心深いな。それとも自信かな」
 五体で充分、軍を相手にできると。
「昼の件で証明していますからね。戦力はヒューイット中将の報告からは少なくとも人形十二体――当然それ以上も考えられます」
「地道に行こう」
 ロットバルトは頷いて一歩退いた。ここから先はしばらく、レオアリス一人の舞台になる。
 正規軍の兵士達も、近衛師団もまた、レオアリスの動きを見守るように退いている。
 レオアリスは右手を上げると、自分の鳩尾みぞおちに当てた。
 ずぶりと――右手が沈む・・
 右手は何の抵抗もなく手首の辺りまで飲み込まれ、そこから夜の闇に青白い光が零れた。レオアリスの姿を闇に浮かび上がらせる。
 右手を引き抜くにしたがって、零れ落ちる光の筋は闇に差し掛かった。
 運河に停止した船の、白い帆の上に――甲板の人形達の上に。
 人形達が震え、一斉に光の差す方を振り返った。
 光が形を成していくにつれ、周囲にいた兵士達から抑えた感嘆の声が流れる。正規軍の兵士達にとっては、これほど間近に目にするのは初めてだった。
 レオアリスの周囲の空気が、肌を切るように研ぎ澄まされている。意識して抑えなければ、思わず退きそうになる、圧迫感――。
 それは引き出された右手にいつの間にか握られた、一振りの長剣から発せられていた。
 何の飾り気もない、だが見る者の心を吸い寄せる、冴えた刃。
 剣士のつるぎ
 剣士は主に、左右の腕のいずれかを剣に変化させる。
 だがレオアリスは違った。
 レオアリスは二対の肋骨を変化させ、二振りの剣を持つ。その剣は剣士の中にあってさえ稀だ。
 剣が青白く明滅する。それを確かめるようにちらりと視線を落とし、レオアリスは背後のロットバルトを一度振り返った。
「状況を見計らって、娘達の救出を頼む」
「承知しました」
「大将殿、これを」
 ヒューイットが近寄り、白い布に包んだ小さなものを手渡す。
「これは」
 包みを通して指先に硬い質感が伝わる。
「法術士が解析しました。それと、こちらは――貴方なら使えるでしょうと」
 ヒューイットはもう一つ、何事か書かれた紙切れを見せた。声に出さずにそれを読み取り、レオアリスの瞳に面白そうな光が閃く。
「――なるほど。有り難く使わせてもらおう」
「どうか、公を」
 ヒューイットは低く告げ、レオアリスの傍から離れた。
「それじゃ、行ってくる」
 レオアリスは足元から船へと張られた縄に靴先を掛けると、宙に浮く細い縄の上を走った。
 驚いたのは周囲にいたヒューイットや兵士達の方だ。だが驚きを余所に、レオアリスは不安定に揺れる縄を、体勢を崩す事もなく半ばまで渡った。
 加重にたわんだ縄と共に身体が沈むのに合わせ、膝を屈めると、縄を蹴って一息に跳んだ。
 暗い水を軽々と越え、人形達の正面、甲板の上に降り立つ。
 人形達が一斉に掴み掛かる、その上を、夜の闇を切り裂くように、青白い閃光が一閃した。
 瞬きの後、五体の人形達がぐらりと傾ぎ、次々に音を立てて甲板の上に崩れ落ちる。
 そのまま、人形は動きを止めた。
 真っ二つに割れた胴の中は空洞で、無機質な歯車と骨格が覗いている。
 レオアリスは無人になった船上に立ち、倒れている人形の顔に視線を落とした。人形の虚ろな瞳の奥にあるものを捉える。
人形師ユンガー、そこで見てるんだろう。返してもらいに来たぜ」


「――!」
 人形の視界を通して船上を見ていたユンガーは、背筋を凍らせるような光に思わず身を引いた。
 人形の瞳がレオアリスの瞳の光を映している。
 無機質な瞳を通してユンガーを見据える、酷薄さすら感じられる、切り裂くような光。
 まるで、人形がユンガーを睨むような――
「……っ、ばかな、何だと言うんだ」
 人形が、ユンガーを。
 そんな事は有り得ない。額に冷たい汗を滲ませ、ユンガーは怒りと怯えをすり替えるようにアスタロトを振り返った。
「奴は何者だ」
「剣士。知ってるだろ、近衛師団第一大隊大将。近衛師団が動く事がどういう事か、それくらいお前も判るんじゃない?」
 アスタロトの身にも、レオアリスの剣が発する気配が感じられる。ユンガーは人形を通して、この肌を切る気配と対峙しているのだろう。
「お前は王の懐から、剣を引き抜いたんだ」
「――剣士……王だと」
 ユンガーは頬を強ばらせ、再び人形の瞳の中の姿を睨んだ。


 剣の纏う青白い光に照らされたレオアリスの面には、普段の彼とは全く違う、ある種の冷徹さに似た色が浮かんでいる。
 戦いそのものを楽しんでいるかのような――
 それはレオアリスの執務室を訪れ、経過を報告していた時にヒューイットが感じた戦慄に似ていた。
 剣士としての本能に起因する感覚。
 レオアリスは瞳を細め、甲板の上を見回した。
 倒した五体に続く人形はまだ出て来ない。慎重になっているのが感じられるが、それは問題ではなかった。
 懐から、先ほどヒューイットから渡された包みを取り出す。
「さてと、夜行を見せてもらおうか」
 指先に挟むように掲げたのは、あの水晶だ。
 娘達を攫う為に目印として渡された水晶――解析した正規軍の法術士は、強制的に発動させる為の式を加えた。ヒューイットがレオアリスに見せた紙には、その術式が記されていた。
 レオアリスは紙に記されていた術式を、静かに口ずさんだ。
 短い詠唱を受けて水晶はゆっくりと内側から光り、次第にレオアリスの頬を照らすほどに光を増した。





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