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王の剣士
【第三章「マレル旧運河」】


 水晶が地上で星の欠片のように輝く。
 音もなく降り注ぐ光は甲板に遮られながらも、人形達を誘った。ユンガーの周りで人形がぴくりと反応する。
 リン、と鈴が鳴る。
 人形は鮮やかな帽子を被った頭を巡らせた。
「待て、どうしたんだ」
 船倉の四隅にいた人形達が身を震わせて動き出すのを、ユンガーは慌てて押しとどめた。
 だが既に別室にいた人形達が甲板に向かって歩き出したのが、廊下から聞こえる鈴の音で知れる。
「待て!」
 再び命じたものの、人形は次々と階段を上がっていく。
 あの水晶に王都の法術士が何かをしたのか、人形達はユンガーの制止を半ば受け付けていないようだった。
 まだレオアリスの剣への対応を思い付いていない内に、事態はユンガーの手を離れていこうとしている。
 五体がたった一刀のもとに切り伏せられ、ユンガーの人形はあと十三体だ。
 剣士の剣の前に、まるで紙のように切り裂かれた。
 僅か四半刻前までは、全てがユンガーの手の内にあると思われていたものが。
「――くそ」
 吐き出し、憤りと焦りの色も濃く、ユンガーは人形に抱えられて立ち上がった。
 苛々と手立てを求めて辺りを見回し――、ふいにくるりと札を返すようにユンガーは落ち着きを取り戻した。
 それどころか、瞳に粘つく光を浮かべ、その瞳を室内に留まっていた人形に向ける。
 四隅の人形の内二体が動き出し、扉へと向かった。
 嫌な予感に捉われ、アスタロトはユンガーを睨んだ。
「――何を狙ってる」
 二体を動かした事でこの部屋に残っているのは、彼の脇にいる二体を合わせて四体。
 結局九体の人形が甲板に向かったが、先ほどの様子を見れば例え九体の人形を向けたとしても、レオアリスの剣に適うとはもうユンガーも考えていないはずだ。
 ユンガーが唇を歪める。
「アスタロト公。ここにいる人形達は、もともと人間だった」
 そうだ。つい先ほど、そのおぞましい事実をユンガーから聞かされた。
 ただ、今またそれを言い出したユンガーの意図が判らず、アスタロトは黙ったままユンガーを睨み付けていたが、次の言葉に叩きつけられるような驚愕を覚えて深紅の瞳を見開いた。
「彼は知らずに、娘達を殺す事になる」
 返す言葉を見失い、アスタロトはじっとユンガーを見つめ――、それからユンガーの悪意に満ちた意図を理解して瞳に怒りを昇らせた。
「ふざけるなよ! 人形にしたのはお前じゃないか! 今さら何言って――」
「戻す術があると言ったら――?」
 アスタロトは息を止め、もう一度まじまじとユンガーを見つめた。
 嘘だ、と強く思う。こうなって、元に戻る術などないという事はアスタロトにも判る。
 ただユンガーは妖しく静かな笑みを刷き、揺るぎなく言い切った。
「私なら、戻せる。私は私の妻を再び戻す為に研究を重ねてきた――」
 傍らの黒髪の人形へ、ユンガーは慈しむような視線を向け、その手を包んだ。
「彼女が再び、元通り私の傍に帰る為に、ずっと」
「それだって、お前が自分でそんな姿にしたんだろ――」
「その通り。だがそこで終わりじゃない。研究はほぼ完成している」
 それは多分、無視すべき言葉だ。ただアスタロトを惑わせ自らの優位を導こうとしているだけの言葉に過ぎない。
 けれど――、ユンガーの瞳の奥底にある光が、アスタロトの意識の奥を引っ掻いた。
「もう私の人形が剣士に敵わないのは判っている。だから取引だ。私は妻を元に戻せればいい。君は娘達を助けたいだろう? 君が彼を止めてくれれば、人形達を元に戻し、この娘達も解放しよう」
「――嘘だ……」
「嘘だと思うなら、ここで見ているといい。君は目の前に単純に見えるものしか救おうとしないのか、それとも彼が手を掛ける分には自分には関係無いと思っているのかな」
 アスタロトは喘ぐように喉を震わせた。
「……お前の言葉をどう信じるって言うんだ」
「言っているだろう、信じられなければ仕方ない。ただ、早く止めないと、彼は何も知らないまま、娘達を全て殺してしまうぞ」
 アスタロトはぴくりと肩を震わせた。ユンガーは笑みを浮かべたまま、アスタロトの答えを待っている。
 甲板で激しく叩きつける音が響き、船が船体を揺らす。
「出たのは九人――。もう、残っていないかもしれないな」
「――最低だ」
 一言吐き出し、アスタロトは駆け出した。



 既に放水による急流は収まり、船は落ち着きを取り戻した運河に船体をゆっくりと揺らしている。
 船の横腹を舐める波と軋む板目の音に交じり、リン、と鈴の音が流れた。
 船倉へ続く階段から、すうっと女の上半身が突き出し、レオアリスの手元――光る水晶を見つめた。
 すぐに全身を現し、くるりと服の裾を揺らす。
 次々と、七体の優雅な衣装を纏った人形達が甲板に現れ、舞踏会の一場面のように身を揺らした。
 鮮やかで華やかな衣装、身を翻すごとに赤い衣装が大輪の花弁を甲板に広げる。
 取り囲む兵士達も思わず息を洩らした。
 だが、七体――。レオアリス達は知る術は無いが、ユンガーが動かした人形は合わせて九体だ。
 水晶に誘われたのではなく、ユンガーの指示で動き出した二体の姿はまだ甲板に現われていない。
「夜行か――」
 レオアリスは甲板の中央、ちょうど帆柱のある位置に立ち、階段から這い出した七体の人形はレオアリスの行く手を阻むように、階段の手前で半月形に広がった。
 そしてレオアリスの視線の先でぴたり、と動きを止め、様子を伺っているのか、そこからじっと動く気配は無い。
 レオアリスの手の中ではまだ水晶が揺らめき光っていたが、人形達はあたかも美術館の彫像のように固まっている。
「――女じゃなくて戸惑ってんのかな」
 レオアリスは自分を伺う人形達を見渡し、微かな笑いを含んだ息を吐いた。肩から力を抜くような仕草で下ろした剣の先が、コツリと甲板に触れる。
 その瞬間、足元の甲板が音を立てて内側から弾け飛んだ。割れ目から突き出した手がレオアリスの右足首を掴む。
 腕は更に宙に伸び、レオアリスの身体を放り投げるように吊り上げた。
 その拍子に手から零れ落ちた水晶が甲板で砕ける。
 彫像のようだった人形達がぴくりと震え、レオアリスを見上げた。
「あれは――」
 兵士達からどよめきが上がる。レオアリスの手は空だ。
 剣は輝きを失い、甲板に突き刺さるように立っている。
 ヒューイットはロットバルトを振り返った。
「援護、いや、突入を」
 ヒューイットの声は動揺を含んでいたが、ロットバルトは一度対岸に視線を向け、表情も変えずに首を振った。
 対岸にいるグランスレイに動き出す様子は見えない。片手を剣の柄に当てて立ったまま、船上に視線を注いでいる。
「――必要ありません。まだ対象が甲板に出ていない。このまま予定通りでいいでしょう」
 ヒューイットは再び船上を見た。
「しかし、あれでは」
 武器もなく動きを封じられ、一見して、危険な状況に見える。機を逃せば瞬く間に状況は悪化するに違いない。
 ただヒューイットはその考えに、もう一つ付け加えた。
 ――通常の想定なら。
 ヒューイットの思考を裏打ちするように、ロットバルトは頷いた。
「我々には少し、通常とは違った戦術が必要です」
 腕はレオアリスの身体を二間ほどの高さに吊り下げたまま、ゆっくりしなった。みし、と再び甲板が鳴る。
 もう一本の腕が割れた甲板から突き出す。
「――」
 片腕を追って伸び、帆を張った支柱の横木を掴んだ。
 腕が縮み、発条ばねが弾けるように、甲板を割って現れた本体が帆柱に取り付く。手足は異様に長く、四つ足の蜘蛛を思わせる姿だ。
 更にもう一体の人形が、甲板の割れ目からレオアリスを挟むように立ち上がった。
「……すごい造りだな」
 目の前に張り付いた人形を見つめ、レオアリスは感心混じりに呟いた。手の関節が外れ、人間の骨に当たる木組みが伸びる造りになっている。
 木組みに筋肉繊維のように絡んでいるのは、無数の糸だ。
 通常の剣で斬り付けても糸の束に弾かれるか、途中で遮られてしまうだろう。
「しかもこれで動けるのか」
 再び周囲の兵士達が騒めく。
 人形の異様さに驚いたからではなく、帆柱に張り付いた人形の胸元に、剣が突き立っているのを見付けたからだ。
 剣は取り落としたのではなく、足元に潜む人形を既に捕えていたのだと気付き、ヒューイットも身を乗り出した。
「なら動力部は腹――そこを砕かないと駄目だな」
 宙に吊り下げられたまま、レオアリスは腕を伸ばし目の前の剣の柄を掴んだ。
 再び、刀身が青白い輝きを纏う。
 光に触発されたかのように、正面にいた七体がゆらりと立ち上がった。
 顔がレオアリスの位置まで上がる。
 合わせて九体の人形達はレオアリスを取り囲み、ゆらゆらと揺れながら中心にいるレオアリスを覗き込んだ。
 その動きはまるで輪舞ロンドを眺めているようだ。今がどんな状況か、一時忘れてしまう、奇妙に美しい光景だった。
「こんな事じゃなけりゃ良かったのにな――」
 微かな哀惜の響きを滲ませて呟き、レオアリスは人形の胸元に突き立てていた剣を引き抜くと、そのまま斬り下ろした。
 輝く刃が触れた人形の身体が、縦に一本、筋を刻む。
 うっすらと硬質な笑みを浮かべたまま、人形は肩から胸の下辺りで、左右にずれた。
 人形の張り付いていた帆柱も、ごとんと重い音を立て、まるで初めからそこが外れる仕組みだったかのように滑らかな断面を覗かせた。
 レオアリスの足を掴んでいた手が緩み、外れる。
 剣が翻り、背後の一体の胴を断った。
 次の瞬間には、柱は帆を纏い付かせながら、二体の人形達を巻き込んで甲板の上に倒れた。
 船体が跳ねる。
 めりめりと甲板を割り、柱はてっぺんから運河の水面に滑り落ちた。
 激しい水しぶきが立ち上り、束の間先ほどまでの雨を思わせる水音が甲板を叩いた。



「うわ、上将無茶やるなぁ……俺あそこに降りようと思ってたのに」
 クライフは眼前に展開するあまりの光景に、思わず平時のような溜息を洩らした。
 彼等が待機する倉庫の足元からは、やはり船を繋ぎ止めている縄が何本も張っている。ちょうど帆柱に巻き付いたものも一本あったが、それは今の拍子に切れてしまった。
「何バカ言ってるの、あんな所じゃすぐに動けないし、格好付けてあんな所に降りたら後が怖いわよ?」
 傍らにいたフレイザーが右隣の倉庫の上に立つグランスレイと、対岸のロットバルトを視線で示す。
「判ってるよぉ」
「じゃ早いとこ見繕いなさい」
「はいはい。全く、ロットバルトも無茶振りするよなぁ。こんな降下訓練した事ねぇっつうの。途中で外れんじゃねぇか?」
 クライフは倉庫の屋上にしゃがみ、持っていた鉄の鉤を船を繋ぎ止めている縄に掛けた。引っ掛けたものも張られた鉤縄と同じものだ。鉤の曲がりが深い為に、思った以上に安定感はあるようだ。
「大体自分はやらねぇし……」
「参謀は全体を見れる位置にいないと意味ないでしょ。ぶつぶつ言ってないで早くなさい」
 傍らではフレイザーも同じように手にした鉤縄を掛け、それから身体に縄を結んだ。一方を引けばすぐに解ける特殊な結び方だ。
「準備はいいわね」
 手早く結び終え、二人は再び船上に視線を向けた。



 レオアリスは水面から斜めに突き出した帆柱を避け、甲板に降り立った。それを追って残った五体の人形が円を縮め、次々に腕や首を突き出し、掴み掛かる。
 伸びた腕が鞭のようにしなって足元の甲板を叩き、穿つ。
 嵐の如く振り下ろされる腕の中、レオアリスは剣を提げたまま無造作に正面の一体へと踏み込むと、剣を斬り上げた。
 青白く輝く剣が夜に筋を残す。
 正面にいた人形の胴が断たれてずれる。
 瞬きの間――
 固唾を飲んで見守っていた兵士達は、三度みたび呻くような声を上げた。
「……剣士か――」
 ヒューイットは口の中で呟いた。
 眼下の戦場で、レオアリスは取り囲む九体の人形達を前に全く動じる事無く、あっさりと五体を倒して見せた。
(何者だ、あれは……)
 自分達とは余りに掛け離れている。
 剣が動くごとに空気が震え、この場所にまであの冴えた刃が届くような、そんな恐怖すらある。
 戦闘種、という言葉が改めて頭を過った。その呼び名の理由が今なら良く判る。
 もう一つの呼び名が浮かびかけた時、傍らに立っていたロットバルトの蒼い瞳と視線が合い、ヒューイットは心を見透かされたように慌ててその言葉を呑み込んだ。
 時に『殺戮種』と呼ぶその言葉は、剣士への畏怖と同時に、そこから生じる揶揄や嫌悪すら含むものだ。
 ヒューイットの様子をどう捉えたのか、ロットバルトはただ笑みを浮かべた。
「先ほどの続きになりますが、あの剣の間合い、余波、それを前提に戦術を組む必要があります。通常は隊が自ら動く為の戦場を確保するところを、我々の場合はあの剣を生かし、その為の戦場の確保が第一義となります。隊は引いて布陣し、動くべき機を見計らう」
 自陣にすらある剣への畏怖。
 剣士を将として戴くという事はそういう事だ。
 ヒューイットは無言で頷き、眼下の戦場に視線を戻した。
 その瞳が見開かれる。
「公!」



 斬り上げた剣の動きを追うように、レオアリスは身を翻して右手の人形の懐に踏み込んだ。
 人形の腹へ剣が走る。
「レオアリス、待って!」
 ふいに響いた声に、レオアリスは斬り裂く寸前で剣を止めた。人形の腕が肩ぎりぎりを掠め、甲板を蹴って距離を置く。
「アスタロト! お前、無事で――」
 レオアリスは安堵の色を浮かべ、再び繰り出された腕を避けつつアスタロトを振り返った。
「攫われた娘達は!」
 二体の人形が迫り、腕が振り下ろされる。レオアリスの剣が動く。
「斬っちゃだめだ!」
 まだ迷う気持ちを振り切り、アスタロトは無理矢理声を張り上げた。
「何だって?!」
 思いがけない言葉に戸惑いながらも、レオアリスは頭上に迫った腕の関節を蹴り上げ、もう一体も躱すと人形から離れた。さほど広くは無い甲板で、船の縁に背中が当たる。
 ゆらゆらと揺れる人形を見上げ、それからアスタロトを見た。
「何言って」
「その人形達は元は人間だ――攫われた娘達なんだ!」





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