六
アスタロトの声は闇を貫くように響き、遠巻きにしている兵士達へもはっきりと届いた。
ざわりと空気が揺れ、兵士達は互いに不安そうな顔を見合わせた。
「公は何を仰ったんだ?」
「人間って言ったぞ――」
「じゃあ斬ったらまずいんじゃないか」
「どうするんだ」
ロットバルトは彼等の呟きを聞きながら、微かに眉を潜めて船上を睨んだ。
(不味い状況だな……)
運河の水面に広がる幾つもの波紋が、その事実が投げ掛けるものを示しているようだ。
「人?」
レオアリスもまた驚き、瞳を見開いて再び人形達を見上げた。
白く滑らかな陶器の頬――いや。
「――っ」
樹脂で固めた肌。
レオアリスの驚きを感じ取ったのか、人形達がぴたりと動きを止め、船上は凍るように静まり返った。
「ユンガーは戻せるって言った」
アスタロトの声は、静寂の中でさえ微かだった。
何故止めたのか、レオアリスにもその理由は理解できた。
だが。
「――アスタロト、それは」
目の前の人形達はどう見ても、生命の無い空洞の存在だ。木組みの骨格、糸で紡がれた筋肉繊維。
肉の無い、硬質な肌。
戻るとは到底思えない。
「アスタロト、どんな法術をもってしても、それは無理だ」
答えたのはアスタロトではなく、男の声だった。
「だったら、全て斬り裂けばいい」
掛けられた声に、アスタロトは身体ごと振り返った。
「ユンガー!」
ユンガーが黒髪の人形に支えられ、階段の前に立っている。
ゆっくりと一歩進み出ると、ユンガーは青白い顔をレオアリスに向けた。
「斬り捨てて、ただ終わりにするのもいいだろう」
「……お前が人形師か。アスタロトにどんな事を吹き込んだんだか知らないが、今更――」
踏み出そうとしてレオアリスは足を止めた。
詠唱が微かに風に乗って届き、直後に背後から赤い光が差す。
レオアリスは振り返りざま、後方へと剣を振り抜いた。
奔った剣風が放たれた火球を砕き、霧散させる。
「何やってんだい、ユンガー! そのガキをさっさとおとなしくさせなよ!」
船尾の一段高い甲板に立って叫んだのはエマだ。もう一度、詠唱を始めている。
「法術士か」
レオアリスの呟きに焦りはない。法術士の存在はもともと計算の内だ。法術そのものは厄介だが、姿が見えていれば、護衛の無い法術士を封じるのは容易い。
レオアリスはちらりと視線を上げ、倉庫の上を見た。
同時に風を切る音が響き、倉庫の上から放たれた数本の矢がエマの足元に突き刺さる。エマが身を捩り、詠唱は途切れた。
「ちくしょう!」
逃がれようと動いたその先にも、再び矢が突き立つ。
「――ユンガー! 何やってんのさ!」
苛々とエマが叫ぶ。
「聞こえてる」
対照的に落ち着き払い、ユンガーはエマの気を鎮めるように笑ってみせた。
「私は彼と話がある。エマ、君の出番は最後――ここを去る時だ」
頬に浮かんでいるのは自分に勝算があると確信している笑みだ。アスタロトは悔しさに唇を噛み締め、ユンガーを睨み付けた。
答えるように悠然と笑み返し、ユンガーはレオアリスへ身体を向けた。
「これを見ろ」
きし、と軋む音と共に、ユンガーの後ろから三体の人形が姿を現す。
腕に抱えられているのは王都で攫われた娘達だ。
「――」
レオアリスは瞳を細め、娘達を捕らえている人形を見つめた。
三体の人形の手から伸びた細い糸が、彼女達の手や足、喉にしっかりと巻き付いている。昼間、正規軍の兵士達の命を絶った糸。
レオアリスへ視線を据えたまま、ユンガーは手前にいた娘の髪を撫でた。
「それにしても、剣士とは素晴らしいな。こうも容易く私の人形が斬り裂かれるとは思ってもみなかった。さすがは戦闘種の頂点に立つ存在だけはある。いや……」
挑発するような笑みがユンガーの頬に浮かぶ。
「殺戮種と言った方が相応しいかな。容赦なく斬り裂く――」
アスタロトは瞳に怒りを昇らせた。
「ユンガー、そんな事をお前が言うのは許さない!」
怒りを含んだ声にも、ユンガーはますます声量を上げた。周囲に聞こえるようにだ。
「人形達が元に戻る可能性があっても、彼には関係ないという訳だ。確かに、斬り裂いた方が話は早い。それに、戦っている時の彼はとても楽しそうだ――」
演説でもするように周囲を見回す。
「何と優雅に斬り裂く事か」
アスタロトがユンガーの襟元を掴む。
「卑怯だぞ! いい加減にしろっ」
その手をやんわりと押し退けて、ユンガーはアスタロトに囁いた。
「どれほど罵ろうと構わないが、結局は私の勝ちだ。そうだろう? この状況を見るといい」
手を広げ、人形に抱えられた娘達を示し、レオアリスと向き合う。
「君もそこにいる正規軍から、昼の様子は聞いているんじゃないのか。彼等が動けなかった理由を」
「――」
「彼女達の首を落すのは残念だが……もう背に腹は変えられないと判っている。ちゃんと理解しているよ」
その言葉は、投降を意図したものではなく、人質が手元にあるのだと示す為のものだ。
娘を抱えた人形が二体、状況を誇示するように、ゆったりと優雅な足取りでレオアリスへと近付いた。
倒れている人形の残骸と、ユンガーの指示を待つように動かない人形達の間を縫ってレオアリスの左右を通り過ぎ、背後で交差して位置を変え再びユンガーの前へと戻った。
レオアリスの身体を剣と同じ青白い光が陽炎のように取り巻く。
触れるだけで斬り裂きそうなその光は、ユンガーをたじろがせたものの、今の状況を表すかのようにレオアリスの周りを離れずに揺らいだ。
「……それで、どうしろって?」
押し出された言葉の響きに自らの優位を感じ取り、ユンガーは白い面に歪んだ喜色を刷いた。
アスタロトの告げた事実はユンガーの狙い通り、レオアリスだけではなく、取り囲む兵士達にも迷いを生んでいる。
アスタロトの言葉で告げさせたからだ。
彼等はその言葉に縛られる。
もう既に、兵士達は戸惑い、ユンガーに向けるべき弓を引き絞るのも忘れてお互いの顔を見回していた。
静まり返った戦場をユンガーは満足げに見渡した。砕けた甲板と人形達に肩を竦める。
両方とも、もう使い物にはならないが構わなかった。ユンガーとこの傍らの人形だけ残ればいい。
「私は多くは望まない。君達を好んで壊滅させたいとも思っていないんだ。私は剣士とは違うからね」
「――」
「条件は、三つ。一つには、君が剣を収めること。一つには兵士達を撤退させること。そして我々を追わないこと」
レオアリスは静かに息を吐き、ユンガーを睨み付けた。
「残った人形達を必ず元に戻し、今後一切同じ事を繰り返さないと言えるか」
「君に条件を出す権利は無い」
それから、ユンガーは首を傾げた。
「それとも、その条件の代わりに自分の命を差し出してみるか? アスタロト公のように」
レオアリスの表情は変わらないが、ユンガーは取り立てて急ぐ様子もなく、身体の前で腕を組んだ。
「君のその姿と、その剣は気に入った。人形を作ってみたら面白そうだ」
人形に支えられて甲板を歩き、ユンガーはレオアリスの少し前に立ち止まると、まるで自分の仕事場で新たな素材を検分するような悠長さでじっと見つめた。
「剣をどう再現するかな」
「――遠慮する。俺もこの剣も、じっとしてるのは性に合わない」
肩を竦めたレオアリスを眺め、ユンガーが笑う。
「君達はよく似ているな――。決して恐れず永遠など欲しがらない。だが、思い上がりだよ。時は止まる事なく流れ続け、不意に足元に亀裂を穿つ。君達にもそれは例外ではない」
自分の言葉の何に触発されたのか、白い頬に差す陰は一言では言い難い色彩を帯びた。それまでの口調とは、どことなく違う感情が籠もっている。
「誰もがいずれ、私の技術を欲するようになる。この娘達もここで帰るより、私と共に行く事を望むかもしれないね」
「お前以外の誰も、そんな事は望んじゃいない」
「誰も? いいや――」
ユンガーは再びレオアリスの傍から離れると、二人に相対するようにアスタロトとレオアリスの中間に立ち止まった。
「私の妻はそれを望んだ。――彼女は」
ユンガーの告げた言葉の禍々しさに、レオアリスは眉を顰めた。ユンガーが示したのは、彼を支えるように立つ、艶やかな黒髪の人形だ。
「妻――? お前、……」
「美しいだろう。まるで生きているようだと思わないか?」
「お前、自分の――」
さすがにそれ以上を口にする気にはなれず、レオアリスは唇を引き結んだ。視線の先で、ユンガーは瞳に鬼火のような光を灯している。
「命は簡単に費える。若い君達はまだ考えた事もないかもしれないが」
ユンガーは一度口をつぐみ、束の間思案した後、再び開いた。
「アスタロト公には話が途中だったな」
「――」
「どこまで話をしたか……。そう、私がこの人形達を作り出す事になったきっかけの辺りだ」
レオアリスはユンガーの向こう側にいるアスタロトへ視線を投げた。アスタロトの様子は逃れたい気持ちを押さえ、その場にかろうじて踏み留まっているように見える。
「私の妻はとても美しかった。君ほどでは無かったけれど、近隣でも一番と評判の美しい女性だったよ。私は彼女を得て、やがて娘も生まれ、誰よりも幸せな暮らしを送っていた。
「だが、ある時街の半分がかかるほどの流行病が起きた。まだ六つだった娘をあっという間に失い、私も妻も病に苦しめられた。私は暫くすると何とか回復したが、彼女の病は重くてね」
ユンガーは遠くへと視線を向け、苦痛に耐えるように瞳を細めた。頬が微かに震える。
「病は妻の美しさを奪って行った……。艶やかだった黒髪は抜け落ち、陶器のような肌もひび割れ、瞳からも生気が失せた。――妻はそれをひどく嘆いて、私にこう言った」
自分を支えている人形の頬に手を当て、ユンガーはあたかも今ある苦痛を和らげようとするように撫ぜた。
「――私の作る人形がうらやましい、と」
『彼女達のように美しいままで、貴方の傍にいられたら――』
病の淵でユンガーの妻は涙を零してそう告げ、それから二日後に息を引き取った。
「私は――、無力だった」
どれほど美しく、生者と見まごう人形を作り上げる事ができても、自分の妻の命を救う事はできなかった。
脱け殻のようになったユンガーは人形を作る事もせず、食事もろくにとれないまま、朽ちて行こうとする彼の妻の亡骸の前に座っていた。
愛する者を失った悲しみの中で自らの無力さを嘆き、呪い――、だがある瞬間にふと、気が付いた。
できる――。彼女の望んだとおり。
永遠の美しさを与える事が、自分にはできる。
抜け落ちた髪を植え、乾いた肌を特殊な樹脂で覆う。
その時のユンガーの心にあったのはただ、妻と再び会う事への喜びだ。
慎重に作業しなくてはいけない。
まずは何体かの実験を繰り返し、五体目だったか――、ユンガーはついに成功した。
彼が作り上げた人形はユンガーの意思に応え、動いた。
それは人形師達が理想とする、技を極め昇華していった結果とは違ったが、確かに動いた。
ユンガーは保存していた妻の身体に、それを施した。
ユンガーの呼び掛けに起き上がり、眼差しを彼に向けた時の喜び。
――あの時のあの喜びは、紛れもなく真実だった。
「……妻は美しさを取り戻したんだ。永遠に」
レオアリスはユンガーとその傍らの人形をじっと見つめた。
「――」
人形はユンガーを硝子玉の瞳で見つめている。そこにはユンガー以外には見えないものが映っているのか。
レオアリスに見える硝子玉の瞳は、何も映していない。鏡と同じ、ただ無機質な硝子の球面に映像を弾いているだけだ。
「――そんなの、違うよ!」
静寂を破ったのはアスタロトだった。アスタロトは唇を噛み締め、喉につかえたものを吐き出すように叫んだ。
「奥さんはそんな事望んでなかったんじゃないの?! 本当に望んでたのは」
ユンガーの面に激しい苛立ちが過る。アスタロトを睨み付け、吐き出した。
「君に何が判る。まだほんの少しも、美しさを損なった事の無い君に、判る訳が無い」
「そうだよ、判らない! けど、私だったら自分の意思が無いのなんて嫌だ」
「黙れ」
「言葉を交せないなんて嫌だよ。そんなの生きてるのとは違う」
「黙れ!」
「お前の奥さんだって――」
「黙れッ!」
ユンガーは激高して首を振り、荒い呼吸を吐いた。俯いたまましばらく肩が大きく上下していたが、やがてゆっくり顔を上げ、もう一度繰り返した。
「君に何が判る」
「違う、ちゃんと考えないと」
ユンガーに近付こうとして何かが喉元に絡まっているのに気付き、アスタロトは喉に手を当てた。
指先に触れたのは、ごく細い糸だ。
ユンガーは会話を断ち切るようにアスタロトに背を向け、レオアリスへ視線を投げた。
「斬りたければ止めはしない。だがその結果、人形も、この娘達も戻らない」
「――」
「娘達が死んでも構わないなら、好きに斬り裂け」
停止していた人形達が身を揺する。再び腕が振り下ろされ、レオアリスの足元を砕いた。
「その剣で終わりにするのもいいだろう。どうせ哀れな娘達だ。美しさを保つ事に拘り、永遠を望んだのは彼女達自身だよ。私はただ囁いただけ――選んだのは彼女達自身だ。今は幸せだろう」
ユンガーの視線の前で人形は踊るようになめらかに動き、レオアリスへ攻撃の手を繰り出した。
「さあ、どうする」
振り下ろされる腕を躱しながら、レオアリスは剣の柄を握り締めた。人形が甲板を砕き、足場は確実に失われていく。
攻撃を続ける四体の人形の向こうに、ユンガーとアスタロト、そして娘達を抱える三体の人形が見え隠れしている。
彼等を捕えている糸を斬るのも人形を斬るのも、どちらにもレオアリスには容易い。
だが。
「娘達を助けたいなら、剣を捨てろ」
「――それでお前は、人形達を本当に戻せるのか?」
レオアリスが問い返した事に、ユンガーは笑みを深めた。彼の勝ちだ。
「戻せる――」
「よせ、レオアリス! 私はそんなつもりで言ったんじゃない!」
レオアリスは一度ユンガーを射抜くように見つめ、足を止めた。
人形達の口から糸が吐き出され、レオアリスの喉や腕、足を絡めとる。
四体の人形達は身動きを封じられたレオアリスの上に、同時に腕を振り下ろした。激しい音が辺りを圧する。
「……レオアリス!」
レオアリスの姿を人形が完全に覆い隠している。軋み砕ける音が響く。
駆け寄ろうとしたアスタロトの腕を、ユンガーの傍らの人形が掴んだ。
「放せ――」
浴びせかけるような高らかな笑い声が響いた。ユンガーが喉を反らせて笑っている。
「君達はつくづく愚かだな! あれはもう脱け殻だ。そんなにも形骸に拘って何になる。形などどうとでも残せる。どんな形であれ、形だけなら残せる」
ユンガーの口調は次第に冷静さを欠き始め、瞳はぎらぎらと光を帯びていた。
アスタロトは眉を潜め、その様子を見つめた。
「そんなにこの脱け殻を元に戻したいのか」
「――お前が戻せるって言ったんだ」
ユンガーの喉が笑いに引きつる。
「戻せる――? はははッ! そんな訳がない。どうせ君だって初めから信じていないだろう」
「――っ」
「ただ君は、君の友人に、かつてとは言え人であった娘達を斬らせるのが嫌だっただけだ。――そんな感傷が結果的に、全てを不幸な方向へ向けたが。残念だね」
「……最低だ、お前は」
アスタロトの語尾は震えていた。ユンガーは吐き出すように笑い、歪んだ面をアスタロトに突き付けた。
「もう気にしなくていい。そんな事よりも、これからは永遠に美しいまま在り続ける事を喜ぶべきだ」
アスタロトの腕をぐい、と掴んで引き寄せ、ユンガーは周囲の倉庫を見渡した。
「そこの兵士共! 動くなよ! お前達が動いても同じ事だ! ――エマ!」
エマは足元に突き立っていた矢を忌々しそうに足で払い、一段低い甲板の上に降りた。
「これでお別れだ。娘達と君達の大切なアスタロト公が永遠の命を得る事に祝福を!」
再びユンガーは喉を反らせて笑った。
「――黙れよ」
低い声がかかり、アスタロトとユンガーはそれぞれの光を宿した瞳を向けた。
腕を振り下ろした状態で停止していた人形達が、ぎし、と軋んだ音を立てた。
折り重なるように屈んでいる人形達の隙間から、青白い光が零れる。
「レオアリス!」
振り下ろされた腕は、全て頭上に掲げたレオアリスの剣に止められていた。
絡みついた糸に、赤い血が滲み、甲板の上に滴り落ちる。
レオアリスは自分を覗き込むような人形達の顔を見上げた。
人形の――かつては生き、自分の意志で笑っていたはずの娘の顔が目の前にある。
覗き込んだ硝子玉の瞳は、どこまで行っても無機質で、生命の光は無い。
空洞、虚無――そこに宿る哀しみ。
「戻れないのか」
レオアリスの声は呟きと同じほどに小さかったが、ユンガーの元に届いた。そこには人形達が元に戻れない事への哀惜が込められているように感じられた。
その響きに刺激されたように、ユンガーは引きつった笑い声を立てた。
「まさか、剣士である君までそんな事を信じたのか? 今更遅い。内臓を抜き、樹脂で固めた抜け殻だ。ただの入れ物ですら無い」
青白い光が零れるにつれ、人形達の身体に細かい無数の皹が走る。
ユンガーはそれを数えようとするように視線を向けたまま、呻きとも呟きともつかない声を上げた。
「私は何度も試した。何度となく――」
形を留めた彼の人形に、再び命を甦らそうと、何度となく人形を作り続けた。
「だが、私の妻は永遠に言葉を失い、冷たいままだ! 戻る事など無い!」
美しさを留め、ユンガーの意のままに動き――
結局、どこまで行っても抜け殻のまま。
「信じて? ――いいや、お前の言葉を信じた訳じゃない。――戻らないんだな」
レオアリスはもう一度、確認するようにそう言った。
元に戻る事もできず、このままの姿では帰りを待ち侘びる家族の許に戻す事すらできない。
ずっと、この姿で居続けなければならないのなら。
「なら――送る」
「待て……」
アスタロトは迷いを振り切るように、きっと顔を上げた。
「お前が手に掛ける必要なんてない! 私がやる! 私が手を出したんだ、私が最後まで」
ひび割れていく人形達の向こうに、青ざめたアスタロトの姿が見える。レオアリスは微かに笑みを刷いた。
「お前はいい。向かないだろ」
じゃあお前は向くのか、と。
アスタロトはその問いを飲み込んだ。
レオアリスは剣を握る右手に力を込めた。青白い光が強さを増す。右腕に絡む糸が食い込み血を滴らせる。
一瞬――
身を縛る無数の糸は全て、レオアリスの纏う光に触れて溶けた。
青白い閃光が渦を巻き、瞬きの間に、レオアリスの姿を覆っていた人形の身体が弾け飛ぶ。
レオアリスは甲板を蹴って跳躍し、ユンガーと娘達を捕えている人形達の間に降り立った。
剣を巻くように踏み込む。
娘達に巻き付いていた糸が断ち切られて弾ける。
一呼吸の間もなく、三体の人形は胴を断たれ、ゆっくりと甲板の上に崩れ落ちた。
クライフ達の視線の先で、レオアリスの剣が青白い光と共に一閃した。
「行くわよ」
フレイザーが右手で鉤の柄を掴む。そのまま躊躇無く、鉤を滑車代わりに倉庫から滑り降りた。船へ。
「フレイザー!」
フレイザーより先に甲板に着くべく、クライフも勢いをつけて滑り降りる。
甲板に降り立ったクライフ達の反対側にはヴィルトール、もう片方ではヒューイットとその部下が同じく甲板に降り立ったところだ。
それを横目で確認し、クライフは甲板を蹴って倒れている娘達へと駆け寄った。
レオアリスと目が合うと、静かな視線が返る。
そこに宿ったものを今は飲み込み、クライフは娘の傍に膝を付いた。
「ちょうど五人」
一人を抱え、降り立ったのとは反対側の縁へ走る。
「待て――!」
ユンガーを支えている最後の一体が、口から無数の糸を吐き出した。
微かな光を弾いてクライフ達の上に降り掛かったそれが、次の瞬間青白い閃光に断たれ、甲板に散る。
クライフ達は易々と駆け抜け、予め当たりを付けていた、船の縁を捕らえている縄へと駆け寄った。
フレイザーが少女を抱えて先に降りるのを確認しつつ、持っていた鉤縄を張られた縄に引っ掛け、もう一度滑り降りた。今度は岸壁へ。
岸壁の上では兵士達が待っている。クライフとフレイザーが辿り着くと、数人が腕を伸ばして素早く娘達を受け取った。
正規兵の一人が呼び笛を鳴らす。
短く三回、娘達の救出の合図だ。
すぐに反対側の岸壁からも、応えるように三回呼び笛が鳴った。
三回目の笛の音を聞きながら、レオアリスはアスタロトを振り返り、左腕を胸に当てて敬礼した。
「正規軍将軍アスタロト公。現時点を以って指揮権をお返しする」
交された瞳の色は、この場では口にしがたい光を帯びている。
「――近衛師団の協力に感謝する」
素早くそれだけ言い、アスタロトはユンガーに向き直った。
船は荒れ果てた姿を見せながら、ゆっくりと水面に船体を揺らしている。
甲板に倒れている人形達の面は、何の感情も窺わせずただ無機質だった。
「お前の人形も、残ったのはその一体だけだ」
「――」
「連行する。可哀そうだけど、一緒の牢には入れられない」
ユンガーは黙ったまま、じっと甲板を見つめ項垂れていた。
「剣士ってのはすごいな」
「けど、やり過ぎな気もするぜ」
「まだ、もしかしたら助かったかもしれないし」
「本気で言ってるのか? どう見たって無理だろ、あれじゃ」
「まあそうだけどな。でももとは人間だったものを、良く躊躇なく斬れる……」
「おい」
小声で言葉を交していた兵士達は、思いがけず近くにいたロットバルトに気付いて慌てて口を閉ざした。
冷えた視線に兵士達は身を縮めたが、ロットバルトは彼等を一瞥したものの、特に何か言う訳ではなく視線を戻した。
兵士達の言葉はユンガーがもたらしたものから出ているが、その根底にあるのはまだ拭いきれないレオアリスの立場への拘りや、剣士という存在への畏怖だ。
それを感じているのは、彼等だけと言う事は無いだろう。
「――」
眼下の船上では、事件は終わりを告げた。
けれどこの事件は少なからず、レオアリスの不安定な立場を浮き彫りにしたようにも思えた。
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