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王の剣士1 「豊穣の丘」




 目を開くと、よく晴れた青い空が見えた。
 空は視界を覗き込むように高く伸びた樹々の上に広がり、白い雲を薄く棚引かせている。
 雲の足は速い。上空は風が強かったからなぁ、と心の中で呟き、それで漸く自分の状況に疑問を持った。
「……何でこんなとこで寝っ転がってんだ……?」
 この視点だとどうやら、柔らかい草地の上に仰向けに寝ているらしい。天気はいいし暖かいし昼寝は好きだからそれ自体は悪くは無いが、何故こうしているのかが一瞬思い出せなかった。けして寝ぼけている訳ではない、はずだ。
 もう一度青く透明な空を見上げ、「ハヤテが喜ぶだろうな」と、あの空に良く似合う若い銀翼の飛竜を頭に描き――、レオアリスは今更ながら、自分が彼の背から落ちたのだという事を思い出した。
 慌てて跳ね起きる。地面に打ちつけたらしい背中が鈍い痛みを訴えたが、とにかく草の上に片手を付いたまま辺りを見回した。
「ハヤテ!」
 返る声はない。レオアリスは幾度か、空や周囲の樹々の間に目を向けて彼の乗騎を探したものの、どこにも彼の飛竜の姿は見当たらなかった。
 立ち上がり、取り敢えずは自分の体の状態を確かめる事にして、肩や腕、足を動かす。それほど上空を飛んでいなかった為か、怪我は全く負っていない。尤も大抵の場合、自分がそうそう怪我を負う事はないと良く知っていたから、自己点検を後回しにしたのだが。
 レオアリスは回したついでなのか残念な気持ちが現れたのか、小さく肩を落とした。
「帰っちまったかな」
 見捨てて帰ったとは思っていないが、もし落ちたレオアリスを探して見つからなかった場合、飛竜は事態を知らせに戻るだろう。その位彼は頭がいい。
 落ちた時は確かまだ昼前だった。ハヤテは少し冷えた爽やかな空気の中を、嬉しそうに駆け抜けていた。
 そろそろ帰ろうと、レオアリスも飛竜の背中の上で伸びをした瞬間――落ちた。
 レオアリスはそれを思い返して、青年というよりはまだ少年に近いその顔の上に悔しそうに朱を昇らせたが、実際には飛龍の操作を誤ったというよりは、何かに弾かれたのだ。
 固い衝撃と、ハヤテの銀翼が青い空で一回転したのを覚えている。
(弾かれた……ぶつかったのか? ……何に?)
 短い黒髪の頭を上空に振り向け、レオアリスは漆黒の瞳を細めた。
 視界には遮るものは何も無かった。空を駆ける王者の、更に上位にある銀翼に敬意と惧れを表し、鳥達も道を譲る。ハヤテは本当に気持ち良さそうに、伸び伸びと、蒼天を駆けていたのだ。
(判らないな、ここからじゃ)
 今も空には何もないが、おそらく落ちた瞬間も、目に見えるものは無かったのだろう。爽快な解放感を満喫していたとはいえ、レオアリスもさすがに、中空で何かにぶつかるまで気付かないほど気を抜いてはいない。
「それより帰った時の方が問題か……うっかり落っこちた、とか言ったら何を言われるか」
 グランスレイは渋い顔を更に渋くして、「だから一人で出かけるべきではない」と懇々と諭すだろうし、ロットバルトはあの顔に見た目だけ穏やかな笑みを浮かべ、迂闊と断じるだろう。想像が付き過ぎて、レオアリスは今から溜息を付いた。それよりももしかしたら、ハヤテで遠出する事も今後止められてしまうかもしれない。
 しかし、まずは今、更に、もっと、重要な事があった。
 飛竜の気にまかせて飛び過ぎた。飛竜は徒歩で半月かかる距離でも、僅か三刻程で駆け抜ける。そして、銀翼は飛竜族の中でも上位の、迅い翼を持っていた。確か一刻は飛んでいた筈だから……。
 軽い眩暈を覚え、レオアリスは額に右手を当てて、頭を抱え込むようにして草の上にしゃがみ込んだ。
「ここはどこで、俺は下手すると、ここから歩いて帰るのか……?」
 溜息と共に空を仰いでみたものの、依然ハヤテの姿は見当たらない。暫く待っていれば迎えも来るだろうが、ここでずっと待っていていずれやって来た迎えに対し、のんびり座ってにこやかに手を振って見せるというのも、少々気が引けた。
「まいったな……せめてクライフが来てくれりゃいいが」
 まあレオアリスは元来あまり後ろ向きではない性格だ。ここでただ待っていても仕方ないし自分で帰る努力をしないというのも戴けないと、そう結論付けると、少し努力をしてみる事にした。
「カイ」
 呼ばわると、どこからとも無く小さな鳥の鳴き声が響き、すぐに中空に、烏に似た黒く長い尾の鳥が姿を現す。レオアリスの伸ばした腕に降りると、再び高く鳴いた。
 常にレオアリスの傍に従う、伝令使だ。艶やかな黒い羽毛に包まれた喉元を指で撫ぜ、金色の眼を覗き込む。
「お前ちょっと、ここがどこか見てきてくれるか。確認できたらグランスレイ達に伝言頼む」
 カイは翼を羽ばたかせて了承の意を示すと、姿を消した。一瞬後には上空高く舞い上がり、辺りを数度旋回する。
 僅かの間もなく再びレオアリスの腕に降り、カイは二、三度、レオアリスにしか汲み取れない言葉を発した。たちまちレオアリスの顔が曇る。
「ヤンサールって……、ほんとかよ」
 カイが告げたのは、現在地がヤンサール地方の丘陵地帯であり、すぐ近くに主要な街道は見当たらない、という事だった。ヤンサールといえば、王都から百六十里ほど離れた西方にあり、整備された西の街道を使っても馬で五日程かかる所だ。
 なだらかな丘が幾つも連なるそこは、緑豊かな絨毯が敷かれたようで見た目には美しい景観だが、小さな村が点在するばかりで交通の便は悪い。すぐに街道に出られれば乗り合いの馬車でも捕まえられるか、街に出られさえすれば馬や飛竜を貸す厩舎もあるだろうが、どうもそう都合良くは行かないようだった。
「しょうがねぇ、待つか」
 適当に動きすぎて迎えとすれ違っても、また言い訳が面倒くさい。レオアリスはカイの頭を一つ撫でると、弾みをつけるように上空へ放した。
 カイは心得たとばかりに一つ鳴き、たちまち空中に溶ける様に姿を消した。数瞬後には王都に着いて、レオアリスの言葉を伝えるだろう。ちょっと昼寝でもしていればその間に迎えも来ると、レオアリスは改めて柔らかい草の上に寝転がった。
 仰向けに両足を投げ出し目を閉じると、陽射しが薄く瞼の裏に感じられ、状況さえ脇に除けてみれば、かなり心地良い。これは案外得かもしれないと、グランスレイが聞けば目を剥きそうな事を暢気に考えながら、頭の後ろに腕を組んだ。
 それにしても、とふと思う。
 一体自分は「何」に弾かれたのだろう?



「クライフ中将、上将をお見かけしませんでしたか」
 爽やかな日差しの注ぐ回廊で涼やかな声に呼び止められ、第一大隊中軍中将クライフは、爽やかな気分が一気に褪めた。乳白色の円柱を連ねた回廊を彼の方に歩み寄ってくるのは、すらりとした長身の、金の髪の、蒼い瞳の、むかつくぐらい顔の整った男で、クライフの前に立ち止まると、こいつにしか似合わないだろうという程の卒のない笑みを口元に浮かべた。黒地の軍服に包んだ身のこなしも卒がない。
 第一大隊の一等参謀官である、ロットバルトだ。
 聞かれたくない相手に、聞かれたくない事を聞かれたもんだと、クライフは内心溜息をついた――つもりだが、どうやら顔にすっかり出ていたようだ。ロットバルトは不審なものを感じたのか、蒼い瞳を冷ややかに細め、クライフに据えた。
「……どちらに?」
 「ああー、いや、まぁ、すぐ帰ってくるって。心配すんな」
 努めて明るく言ったものの、ロットバルトはあっさりと肩を竦めた。低く響きの良い声には、取り繕う事も無い呆れた色がある。
「今の言葉で何が判るんです。……アスタロト公とご一緒ですか。それとも飛竜で?」
「――飛竜です」
 自分より後に中将に――彼の場合一等参謀官という職位だが、とにかくクライフより後にその地位に就いたくせにこの不遜な態度はどうかと思うが、取り敢えずクライフは不必要につつかないよう、できる限り簡素に素直に答えた。
 レオアリスがクライフに告げて彼の飛竜で出てから、もう二刻は経っている。それが朝の会議後で、今はそろそろ正午になろうというところだ。ただのいつもの散策だし、程なく戻ってくるだろうから、そう問題はない。
 クライフとしては更に突っ込まれるかと少し恐々としていたのだが、ロットバルトもそう考えたのだろう、普段は容赦のないこの参謀官も特に苦言も言わず頷いただけだ。
「仕方ありませんね。お戻りになってからでも私の用は足りる。ただ副将が探しておられたので、上将がお戻りになったら、先ずは執務室においで頂くよう伝えてください」
 ロットバルトの用はいつもの通り、午後の演習の布陣についてだろう。彼の手にしている書類の束に眼を留め、午後の演習を思って少々うんざりとしながらも、クライフは明るく軽く、颯爽と片手を上げた。
「りょーかい了解。んじゃな」
 そう言って歩き出そうとした時、上空に飛竜の羽ばたきが響いた。
「お、言ってる間に戻ったんじゃないか?」
 少しほっとしながら、クライフは短く刈り上げた明るい茶色の頭を、回廊の丸みを帯びた天井の下からひょいと出して、空を振り仰いだ。思ったとおり、二人のいる士官棟の中庭の上を、銀翼の飛竜が旋回しながら降りてくるところだった。ロットバルトも整った顔の上に呆れたような、だが僅かに温かみを覗かせた笑みを小さく浮かべ、中庭に身体を向ける。
 二人は左腕を胸に当て、その場に片膝を付きかけて――同時に動きを止めた。
 飛竜の背は、空だ。乗っているべき主の姿が見当たらない。
 飛竜は一声、高く鳴いた。
「……ハヤテ! 上将はどうした!」
 見るからに興奮した様子の飛竜へクライフが駆け寄り、ロットバルトも厳しく眉を顰めて中庭に降り立つ。
 飛竜は今にも再び飛び立とうとするかのように翼を震わせ、それから二、三度鋭い声を上げると、また翼を広げた。
「……飛竜の用意をさせましょう」
 緊張の面差しのまま、ロットバルトが回廊へ踵を返しかけた時、今度は鳥の鳴き声が響いた。羽根を舞い落としながら、見覚えのある漆黒の鳥が姿を現す。
 二人の中間点に降り立ち、パカリとその黒い嘴を開くと、彼等の年若い上官の声がふわりと流れた。
『……悪ぃ、ちょっと落っこちた。ヤンサール丘陵の、真ん中あたりかな。移動手段が徒歩しかねぇ。カイに案内させるから、適当に迎えよろしく。』
 少し気まずそうな、だが明るいその響きに、クライフはハヤテの長い首に手を置いたまま、ロットバルトは回廊の石畳に片足をかけたまま、束の間固まった。
「……は、はは……。落っこったって」
「――迂闊な……」



 大陸の西部に位置する王国アレウス・エクゼシリウムは、大陸で最も広大で富裕な国土を有していた。
 現王の在位は長く、既に三百年に渡り安定したまつりごとが続いている。
 王都アル・ディ・シウムを中心に放射状に基幹街道が整備され、王都と地方との交易は盛んだ。
 国土は東に峻険ミストラ山脈、西に古の海バルバドス、南に灼熱の砂漠アルケサス、北に黒森ヴィジャが行く者の足を阻み、そこから先は数多くの小国が乱立し生まれては消える、争乱に満ちた土地が広がっている。
 王国の四方を取り巻く生者を寄せ付けぬ酷地は、逆にそれら小国の侵入を阻む絶好の塁壁でもあり、それが王国が長期の安定を保っている大きな要因でもあった。
 ただ四方の辺境のうち、古の海バルバドスは、海皇と呼ばれる存在が深淵の世界を治め、他国とは一線を画していた。
 およそ四百年前、バルバドスとの間に大きな戦乱があり、百年もの長きに渡り、西方の辺境部は激しい戦乱に覆われた。双方共に多数の死者を出した戦乱は、三百年前に両国の間に不可侵条約が結ばれる事で漸く決着を見、以来大きな戦乱はなく、時折小規模な争いが発生する他は国内は安寧を保っている。
 国内は王の統治のもと、四大公と呼ばれる四つの公爵家、十の侯爵家、及び九十九家の諸侯がそれぞれの領地を治めている。
 国の政務を司るのは、大別して四つの機関に分かれる。
 内政を司る内政官房、治水、土地、生活を司る地政院、財務、商工業を司る財務院、治安、軍務を司る正規軍。
 それぞれの長を四人の公爵が務め、正規軍の長である南方公アスタロトは特に、その有する能力から『炎帝公』とも呼ばれていた。
 また正規軍とは別に、王と王城を守護する王直属の軍である、近衛師団があった。

 近衛師団は王を守護する王直轄の部隊であり、総将アヴァロンの元、総数は約四千五百名、それぞれ一千五百名毎の三つの大隊に分けられる。
 第一大隊から第三大隊までの各大隊は大将が率い、その中で更に三つの中隊、左中右軍に分かれた。
 王城の守護以外にも、王の勅命が下れば、要人警護、突発的な紛争、様々な件に対応する。
 正規軍と近衛師団との関係は、国土の保守平定と王の守護、どちらが上位という訳でもない。
 だが組織の違いは意識の違いであり、多少の反目感情が存在しているのもまた事実だった。



 ロットバルトは飛竜の鞍を整えながら、軽く溜息をついた。広い厩舎の隣では、クライフが楽しそうな鼻歌交じりで、自分の飛竜の準備に余念が無い。
 副将であるグランスレイはレオアリスの迎えを二人に命じた。平時であれば一人で何ら問題はないと反論するところだが、数日前、ヤンサールでは西方三軍に動きがあったと聞いている。特に関連も影響も無かったため、レオアリスに報告をしなかったが、あの時一言告げておくべきだったかと、ロットバルトは僅かな後悔の念を抱いた。
(余計な事に、首を突っ込まないといいが)
 上官の行動を不遜な表現で評し、ロットバルトは騎乗の準備の手を早めた。


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