四
深い闇の中、長靴の固い足音が大理石の廊下に響く。
アヴァロンは謁見の間の扉を通り過ぎ、その先にある階段を昇ると、幾つもの扉を抜けて一つの部屋の前で足を止めた。既にそこは王城内の公的な層を抜けた、王の居城の区域内だ。
扉の前でおとないを告げると、王本人の低い声が応えた。
扉を開け左胸に腕を当てて一礼を捧げる。アヴァロンは王の前へと歩を進め、その場に片膝を付いた。王の傍らに立っていたベールがアヴァロンに場を譲るために一歩退くのへ、静かに頭を下げる。
深夜にも関わらず、王はまるで休息していた気配も見せず、黒檀の執務机の前に腰かけたままアヴァロンにその黄金の視線を向けた。
王の居城の一角、執務の為に使われているこの部屋には、四大公や筆頭侯爵家、相談役、そして師団総将の、限られた者しか立ち入る事を許されていない。通常の謁見及び執務は、階下の謁見の間で行われる。
壁一面の書棚と執務の机のみが置かれた簡素な造りだが、王城内と同じ黒と銀を基調にした室内には、重厚な空気が漂っていた。それは目の前の存在が纏う空気だ。
アヴァロンの口からバインドの一件を聞いても、王はその表情を動かす事は無かった。昼にアスタロトから報告を受けている事もあるのだろうが、王の上には少しの焦燥も懸念もない。
エザム調査の指示を出しているが、通常の指示の範囲を出てはおらず、アスタロトやアヴァロンに委ねられた形になっている。
本来、王には国など必ずしも必要ではないのだと、アヴァロンは時折そんな事を思う事がある。
王を守護する要の役割にありながら不敬な考えかもしれないが、王を守護すると言ったところで王の前に自分達の力など微々たるものだ。
王が支配を必要としているのではなく、自分達、この地が王の支配を必要としているのだ。王の支配と規律が無ければ、この国は他国と同様に、混沌と戦乱が満ちるだろう。
こうしてアヴァロンの報告に耳を傾ける時の王の姿を眼にすると、アヴァロンはより強くその事を思った。
十七年前、バインドの件を伏せさせた事についても、内部の混乱を抑える為でしかない。王自身がどれほどの危惧を感じているのか、アヴァロンには感じ取る事は出来ない。
ただあの時は、王の関与は少なからずあった。十七年という歳月は、王の意識を摩耗させるほど長いとは思わない。
王は今回の事を、どう捉えているのか。今回、あの時より問題はひとつ多いのだ。
「……バインドとの接触により、レオアリスは既に疑問を持ち始めております。全てが明らかになるのは、時間の問題かと」
例えバインドの名を伏せ、あの戦場を伏せたとしても、多くの者の記憶にそれらはこびり付いて消える事はない。バインドが動き続ける限り、やがてはレオアリスは答えに行き着くだろう。
それは再び、あの戦場を蘇らせる危険すら併せ持っていた。
判断を待つアヴァロンの前で、王は僅かに口元に笑みを刷いた。
「そなたは、あれが過去を知って変わると思うか」
王の言葉に、アヴァロンは暫くの間、黙ってその顔を見つめた。
変わるか、変わらないか――。
レオアリスの王に対する忠誠心は疑うべくも無い。今の段階では変節があるとは考え難い程、それは強固に思える。
だがそれはあくまでアヴァロンの主観に過ぎず、説明できる根拠がある訳ではない。
アヴァロンの思考を読んだように、王は再び薄く笑みを浮かべた。
「敢えて知らせる必要はない」
「しかし、」
「だが、バインドが現れた以上、事態は再び動き出した。もはやレオアリスが知る事を止める必要もないだろう。真実はあれ自身が自ら知り、判断すべき事だ。あれとバインド以外、誰一人当事者では有り得ないのだからな」
アヴァロンは傍らのベールに意見を求めるように、ちらりとその視線を向けたが、ベールはただアヴァロンに視線を返すだけで特に口を挟もうとはしなかった。諦めて王に視線を戻す。
王は、レオアリスが変節する事は無いと確信しているのだろうか。
それとも、変わったとしても、それはそれで構わないと、そう考えているのだろうか。
アヴァロンの顔に浮かんだ疑問に答えるかのように、王は黄金の瞳を細めた。
「私は、少し、見てみたいのだ」
何を、と問おうとして、王がもはやそれに関して語る気の無い事を、その瞳から悟る。
黄金の瞳が向けられる先に見えているだろうものは、アヴァロンには想像する術はない。心の中に持ち上がる僅かな懸念を飲み込み、アヴァロンは深く頭を下げた。
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