十一
レオアリスは二刻ほどファルシオンに本を読み聞かせ、とりとめのない話をして、それから退出した。彼が帰る頃にはファルシオンもすっかりいつもの様子を取り戻し、昨日からずっと心配していた侍従達もほっと胸を撫で下ろした。
夕食も済み、今は湯浴みの最中だ。ハンプトンは湯殿から聞こえるはしゃいだ声に柔らかな笑みを向けた。
「良かったわ、すっかりお元気になられて」
傍らの侍従達も同意を示して大きく頷く。夕食の間も、どんな本を読んでもらったとか、どんな話をしたのだとか、ファルシオンはとても嬉しそうだった。
兄という立場ではなくても傍にいてくれるのだという、その事が逆にファルシオンの気持ちを浮き立たせてもいたようだ。
「本当に、殿下は大将殿がお好きなのですねぇ。あんな風にお笑いになるのは嬉しいこと」
「お夕食もしっかり召し上がられましたし――そうだわ、ハンプトン侍従長、今度大将殿を夕食のお席にお招きしてはいかがでしょう」
「それは素敵な思い付きですね。それなら殿下には内緒でお呼びして――きっととてもお喜びになるでしょう」
「いつがよろしいかしら」
ハンプトン達が顔を見合せた時、ファルシオンの声が大きくなった。湯浴みを終えて出てきたのだ。ハンプトン達はそっと口元に指を当て、ファルシオンへの秘密に微笑み合った。
「さあ、それは後でゆっくり考えるとして、殿下のご就寝の用意をしなくてはね。ラナエ」
ハンプトンは綺麗に整えた白髪の頭を巡らせて、扉の傍に控えていた少女を呼んだ。
ラナエは彼女達が会話している間じっと一点を見つめていたが、声を掛けられてはっと顔を上げた。
「どうかしましたか?」
何事か考え込んでいた様子の若い侍従に、ハンプトンは訝しげにその顔を見つめる。ラナエは慌てて首を振った。
「いいえ、何も、侍従長様。すぐご用意いたします」
「よろしくお願いしますね。今晩は貴方が一番にお付きのお役をするのだったわね、大丈夫?」
「はい」
ラナエは服の裾を持ち上げてお辞儀し、寝室を整える為にハンプトンの前から離れた。急ぐ様子は、どこか逃げるようにも見えたかもしれない。
ラナエ・キーファーが王城に上がってからもうみ月が経ち、最近ではファルシオンの就寝の世話の役に就けるようになっていた。
寝台を整え、着替えを手伝い、ファルシオンが寝入るまで寝台の傍らに座って見守る。寝入ってからは前室に退き、交替で朝まで番をするのだ。
簡単に見えながら、疎かにはできない役目だ。
はじめは先輩の侍従が一緒に入っていたが、ここ数回はラナエ一人で役割を担えるようになった。
眠りに就く前のファルシオンと言葉を交わす事も少なく無い。
ファルシオンはラナエから見てもとても愛らしい。もっと高慢になってもおかしくない立場でありながら、ラナエのような入りたての侍従へも、何の隔たりもなく話しかけてくれる。
他の侍従達がそうであるように、このみ月の間に、ラナエもまたファルシオンを自分の弟のようにすら感じていた。
ファルシオンが笑うと、本当に嬉しくなる。
だから、昨日からファルシオンが塞ぎ込んでいた様子に、ラナエもずっと心配していた。
『兄上なら呼ばなくても来てくれる』
その言葉に秘められた、強い兄への思慕。
会う事が叶わなかった兄に、どれほどファルシオンがその存在を求めていたのか、どれほど会いたいと願っていたのか――あの小さな胸の中にそれを隠して、周囲の大人達を心配させないように元気に振る舞っていたファルシオンを思うと、ラナエの胸も痛みを訴えた。
どくどくと心臓が高鳴り早鐘を打ち、周囲に聞こえてしまうのではないかと思ったほどだ。
もし聞かれて訝しまれたら、困る。
何故ならラナエは、秘密を抱えて王城に上がったからだ。
父、キーファー子爵がラナエにそれを命じた時、そんな事は絶対に無理だと思った。
実際にファルシオンの姿を見てからは、余計できる訳が無いとそう思っていた。
ファルシオンと二人きりになる僅かな時間に、ラナエは何度もそれを思い出しては迷い、その都度飲み込んできた。
だが今、ファルシオンは兄への強い思慕に、幼い胸を痛めている。
ならば、告げてもいいのではないか。
いや、告げるべきなのではないだろうか。
『兄上なら』
(ファルシオン様――)
どんなにか、ファルシオンは兄に会いたいだろうと、ラナエは想いを巡らせた。そして、ファルシオンが会いたいと思うように、彼も――。
昼に見たレオアリスの様子は、まだその事実を知っている風には見えなかった。
イリヤはまだレオアリスと会えていないのだろうか。それともまだ、話していないのか。
けれどきっと、事実を知れば、彼も会わせてあげたいと、そう思うのではないだろうか。
いいや、イリヤはそう言っていた。彼ならきっと理解してくれるだろうと。
『だから頼むよ、ラナエ。もし機会があったらでいい。少しでも殿下が会いたいと思っているなら――』
ラナエはラナエの役割を。
きゅっと唇を引き結び、ラナエは顎を上げた。
広い寝室の壁に掛けられた灯りを一つ一つ丁寧に吹き消し、ラナエは手元の灯り一つを持ってファルシオンの寝台に近寄った。
「殿下」
そっと呼ぶと、まだ瞳も閉じていなかったファルシオンは、羽毛の掛布に包まったままもぞもぞと身体を動かした。肩口に、毛布の端からぴょこんとジェイクの耳が覗いている。
「だいじょうぶ、もう寝るから」
ラナエが注意すると思ったのだろう、ファルシオンは口元まで掛布を引き上げて、ぱちぱちと瞳を瞬かせた。
「いえ――」
「どうしたの?」
ラナエが言葉を濁したので、ファルシオンは枕の上で首を傾けた。蝋燭の灯りが揺れて、ラナエの影も揺れる。
告げようと決めたものの、ラナエはまた迷っていた。
口を開きかけ、一度閉ざしてから、ラナエは微笑んだ。傍らの台に持っていた灯りを置く。
「今日は、ようございましたね」
「うん」
こっくりと頷いた顔は本当に嬉しそうで、ラナエをまた躊躇させる。
このまま、告げないでいるべきかと――。
その思いが強まった時、ふと、ファルシオンが小さな声で尋ねた。
「ラナエは、兄弟はいるのか?」
「私には……」
瞳を落として、そこに見えたものにラナエははっと息を飲んだ。
銀色の髪の毛を蝋燭の淡い光が縁取り、まるで白に近い色に見える。
幼い頃の「彼」の面影が、確かにそこにあった。
ゆっくりと息を吸い、心の中の躊躇いと一緒にそっと吐き出す。
「ございます」
それは、一番ファルシオンには聞かせてはいけない言葉だ。ただ、ラナエに今見えていたのは、幼い頃から共に過ごした存在だけだった。
「――兄、が」
ファルシオンは瞳を見開き、やがて少しだけ淋しそうな笑顔を浮かべた。
「そうなのか……。――じゃあ、今は離ればなれでさみしいな。会いたい?」
「ええ、とても」
ラナエは素直に頷いた。
会いたい。
とても。
あの時の彼に。
「兄」としてでは無く。
ファルシオンは何を思ったのか、掛けていた布を跳ねあげるようにして寝台の上に起き上がった。びっくりしているラナエの前で、寝台に手を付いて彼女の顔を覗き込む。
「もしかして、ここにいるから、兄上に会えないのか?」
「――それは」
「だったら、かえらなきゃ」
ラナエは瞳を見開き、ファルシオンの顔を見つめた。
「ラナエがここにいるのは、ラナエのしごとだからだ。でも、兄上がいるのに、会えないなんてだめだ」
「殿下――」
「そんなの絶対だめだ」
ファルシオンの瞳は真剣そのもので、ラナエの心を揺さ振った。
兄に会いたい。
ファルシオンの気持ちはやはり、それを強く願っている。
告げるべきだ。
喉に引っかかっている重苦しい塊を飲み込むようにしてラナエは息を吸い込み、真っ直ぐにファルシオンの瞳を捉え、一言一言、ゆっくりと区切るように告げた。
「殿下、お聞きください」
それを告げる事が、どれほど恐ろしい運命を呼び起こすかも知らず。
「貴方様には――、お兄様が、おいでなのです」
ファルシオンはぱちりと瞳を瞬かせた。それから、四歳という年齢には似つかわしくない、悟ったような笑みを浮かべる。
「知っている。兄上は、私よりもずっと小さい、生まれたばかりのころにお亡くなりになった」
ラナエは高鳴り疾走する鼓動を何とか押さえ込んだ。身体全体が脈打つように感じられる。
「いいえ。――いいえ、殿下」
知らせてあげたい。彼女の心の中で、それだけが繰り返し響いている。
寂しげな顔をするこの少年に、もう一人。
「もう一人――。殿下、貴方様にはもう一人、お兄様がおいでです」
もう一人、血を分けた兄がいる事を。
唐突な言葉に、ファルシオンは不思議そうにラナエを見つめた。最初は彼女が何を言っているのか、良く判らなかったようだ。それは当然だ。他の誰が聞いても、ラナエが言っている事など全くの冗談に聞こえるだろう。
第一王子は生まれてすぐ亡くなった。そして王家に王子は、ファルシオン一人だ。それは明確な、厳然たる事実だった。
ファルシオンはまだ幼く、そこまで思い至らなかったが、本当にそんな事があれば、王家が覆る。
ラナエが告げたのはそれほどに恐ろしい言葉だ。
ファルシオンはただ不思議そうな様子のまま、首を振った。
「兄上? それはちがう。だってそんなこと、聞いたこともない」
「本当です」
ファルシオンの面に、傷ついた表情が浮かぶ。
「うそをつくな」
ラナエが単なる慰めを言っているのだと、ファルシオンはそう受け取ったのだ。苛立ちを露わに、ファルシオンはふいと顔を背けた。
「いいえ、殿下、本当に」
ラナエは膝を付き、寝台を覆う絹の掛け布に縋った。
「うそだっ! ラナエのうそつき! レオアリスは私の兄上はたった一人だって言った! たった一人しかいないんだって」
「彼はまだご存知無いのです、本当に、殿下にはお兄様がおいでです」
「うそだっ」
「いいえ、お聞きください! お兄様は今も生きて――ちゃんと生きてるんです!」
それはラナエの心の叫びでもあっただろう。
ファルシオンに兄の存在を知らせてあげたい。いや、兄の――彼の存在をファルシオンに知ってもらいたくて。
これまで十八年間、その存在すら語られる事すらなく闇に葬られていた、彼の事を。
ラナエの必死な瞳に、幼いファルシオンにも彼女の想いが伝わったのか、次第にその面に戸惑いが生じる。
「兄上……」
ファルシオンの呟きに、ラナエは頬を輝かせた。希望が見えたのだと、そう思った。
「そうです。いつでもお側にいてくださるお兄様が」
その時、寝室の扉を叩く音が響き、ラナエははっと息を詰めた。
開かれた扉から侍従の一人が顔を覗かせる。
「殿下、どうかされましたか? 大きなお声が聞こえたようですが」
「いえ、すみません、その――」
慌ててファルシオンを見れば、ファルシオンは掛布を握り締めた自分の手にじっと視線を落としている。
「あの、大丈夫です。少しだけ、お話をさせていただいていて」
侍従は思わしげな瞳をファルシオンに注いでいて、ラナエの心臓はどんどん早くなった。
自分は何を言っただろう。
もし、ファルシオンが今の話を侍従にしてしまったら――。
どくどくと血が巡る音が響く。
永劫とも思える、実際にはほんの束の間の沈黙の後で、ファルシオンは微かに首を振った。
「何でもない。もう寝るから」
ファルシオンはそれだけ言うと、寝台に横になって掛布に包まった。
「ファルシオン様……」
「ラナエ、お前はもうお下がりなさい。私が代わりますから」
経験の浅いラナエを慮っての言葉なのかもしれないが、侍従の顔にはほんの少し、不審の色が覗いているように見える。
「はい――すみません」
ラナエは躊躇いながらも立ち上がり、最後にもう一度ファルシオンへと視線を落としたが、ファルシオンが一体どんな顔をしているのか、それを見る事はできなかった。
侍従が見つめる中を足早に扉へ向かい、お辞儀してその傍を擦り抜ける。
扉が閉ざされてもラナエは足を止めず、まるで走るように前室を抜け、冷えた廊下を通り、庭園を巡る回廊に出た。
頬をぴりぴりと刺激する寒さが身を包んだが、そこが庭園だとさえ認識しないままに、ラナエはまろぶようにして歩き続ける。
告げてしまった――。
頭の中に恐ろしい言葉が鳴り響いている。
誰もファルシオンに伝えていなかった事を、ラナエが告げてしまった。
伝えていなかったのは、理由があるからだ。
イリヤの母が持っていたあの日記に、その理由は書いてあった。
ラナエが見ても、それは恐ろしい事だった――。
ぴたり、と足が止まる。綺麗に整えられた植え込みが右に、白い石膏の彫像が左にある庭園の真ん中で、ラナエは立ち尽くした。
(――どうしよう)
取り返しのつかない事をしたのではないかと、今更ながらに恐ろしさが込み上げてくる。
ラナエがファルシオンに告げた事は、見方によっては王家に対する侮辱ですらある。取り沙汰されれば不敬として、下手をすればキーファー子爵家そのものが罪に問われるだろう。
(どうしよう、どうしよう……)
ラナエは庭園に座り込んだ。
頭がぐらぐらとして心臓は弾けそうな程に早鐘を打っている。
世界が彼女だけを残して、回転しているように思えた。
それは彼女にこそ、全ての罪があると、そう宣言しているかのようだ。
(イリヤ――)
縋るようにずっと、ラナエは彼の名前を唱えていた。
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