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王の剣士4 「かりそめの宴」
【第二章 「波紋」】

十一

 彼等はただそれをじっと待っていた。部屋の片隅に置かれた水盆が、ある姿を浮かび上がらせるのを。
 キーファー子爵はそれが全くの嘘や質の悪い冗談で、あんな指先程度の浅い水盆から人が姿を現すなど有る訳が無いと思い、またそう思いたかった。もしかしたら彼等にそれを告げたフォルケ伯爵すら、本心はキーファーと変わりは無かったかもしれない。
 全て無かった事にならないか――と。
 フォルケが告げた時刻が近づくにつれ、キーファーは落ち着きを無くしてきて、先ほどからずっと暖炉の前を行ったり来たりしている。
 イリヤは窓際の椅子に腰掛けて片膝を緩く抱えたまま、じっと水盆にその色違いの視線を注いでいた。
 フォルケから西海の使者が今夜訪れると告げられ、イリヤ達はそれを確かめる為に、伯爵の館で待っていた。しかし約束の時間になっても一向に、使者が現れる様子はなかった。
「伯爵、使者とやらは本当に今日現れるのですか。もしや気が変わったのでは」
「日が変わる頃と、確かに伝令使はそう伝えてきた」
 疑わしそうな視線を向けるキーファーも、気まずさを含んだフォルケの顔にも、どこか安堵の色がある。
(現れなければ――)
 それで、終わるだろうか。
 イリヤは彼等の上に一度ちらりと視線を投げ、また水盆に戻した。
 鏡のような水面は、風の無い室内ではそよぎもしない。
(現れなければ)
 いつの間にかそればかりを繰り返している自分に気付き、イリヤは唇を歪めた。
 そして深夜――日付が変わって一刻ほども経ち、もはや何も起こらないのではないかと全員が思い始めた頃――。彼等の期待を裏切り、水盆はゆっくりと、薄い表面を揺らし始めた。
 細波のように小刻みに水面が揺れ、やがてぐぐ、と盛り上がる。みるみる内に水が立ち上がり、形を成していく。歪に突き出した後頭部、ぬらりとした毛一筋無い肌。
 イリヤは息を呑み、椅子から背を起した。
(同じ――)
 昨日の昼間、あの生物が水路から現れた時と、同じだ。
 違うのは衣類を身に纏っている事と、肌の色と、明確な意思と知性を伺わせる面。
 思わず立ち上がり、身構えるように睨み付けたイリヤに対して、水盆に身体半分を生やした男は、瞼の無い銀色の瞳を向けて笑った。独特の臭気が鼻を突く。深い水の、湿って淀んだ臭い。
「気を静められよ。御身に相応しい態度を取るがいい」
 嘲るとも、忠告とも付かない口調だ。
「――」
 イリヤは黙って男を睨み付けたまま、努めて、肩の力を抜いた。言い返そうと思ったが、適当な言葉は出てこなかった。
 男は半身を水盆の上で折り、奇妙に優雅に一礼した。まるで水盆を乗せる大理石の円柱の台が、彼の下半身であるかのようだ。
「お初にお目にかかる。我が名はビュルゲル。大いなる西海の支配者、海皇の三の戟が一人。此度は我が主の御言葉と御意思を運ぶお役を仰せ仕った」
 笑うと一文字に引かれた口が、ほぼ耳の辺りまで裂ける。色素の薄いビュルゲルの姿の中で、そこだけがぽかりと赤い。
 これが西海の住人なのかと、おののきすら覚えてイリヤは水盆の男を見つめた。
「イリヤ殿。貴方の力はしかとこの眼が見定めた。我が使隷を砕いて見せたのは見事」
 ビュルゲルはこの眼、と言ったがあの場にこの男は居なかったはずだ。全て筒抜けになっているようで、薄気味の悪さが一層増していく。
 喜びよりも恐れの強い複雑な表情で、フォルケは喉を鳴らした。
「そ、それで」
「我が主もご納得された。この件、我が手を貸そう」
 フォルケとキーファーが顔を見合わせる。この言葉をどう受けとめればいいのか、戸惑った顔だ。
「その――」
「何が望みだ」
 フォルケが唇を湿らせた横で、それまで黙っていたイリヤがビュルゲルを一直線に見据える。ビュルゲルは水盆の上で身体をゆらりと揺らした。
「望みとは?」
「惚けるなよ。西海がただ俺達に手を貸したって何の得にもならない。手を貸す振りをして、何を狙ってるんだ」
「イリヤ殿!」
 フォルケの慌てた様子と真っ直ぐに立つイリヤの姿を見比べ、ビュルゲルは表情の読み取り難い顔を歪めて笑った。
「さすがは――。もうこの国へ負うべき義務に目覚められたか」
「――ふざけてるのか」
「まさか」
 ゆら、ゆら、とビュルゲルの上半身が揺れる。
「確かに、相応の目的が無ければ信頼は得られまい。こちらの条件――それをまずは述べさせてもらおう」
 密談をする時の低い声音で、ビュルゲルは助力に対する条件を語り始めた。それはイリヤの耳にはどこか薄っぺらく響いた。
「見事目的を成し得た暁には、現国境よりちょうど百里。我国へ割譲していただこう」
 ぎょっとして青ざめたフォルケとキーファーを見て、ビュルゲルは喉の奥で笑いを転がす。彼等の反応を完全に楽しんでいるのだ。
「と、本来はそう条件を付けたいところだが、それでは約束を果たすのも難しかろう。漸く得た地位も、その条件を明らかにした途端失われる事になる」
 この場で、ビュルゲル一人が愉しげだ。
「我が主の御意思は、関税の廃止による交易の活性化、二国間の往来の自由化――言うなれば」
 ビュルゲルの銀の瞳が光を弾く。
「不可侵条約ではなく、修交通商条約を結んでも良い、と、そうお考えだ」
 何と響きの良い言葉を巧みに使うのか。ビュルゲルの告げた条件は確かに国益に繋がり、どちらの国土も痛めず、イリヤ達にさえ不利益を及ぼさない。
 イリヤは表情に出さないよう注意を払いながらも、ビュルゲルのにこやかとさえ言えるのっぺりした顔を見つめた。
 薄皮一枚剥ぐだけで、真実の顔は現れる。
 だがそれを剥ぐ事は、イリヤ達の破滅を意味する。
 それが西海の真意ではないとありありと判っていながら、イリヤ達には信じた振りをして頷くしか、初めから道は用意されていないのだ。
 深みにはまって――それこそ、西海の冥く深い海の中にどこまでも沈んでいく気がした。
 イリヤはそっと、自分の右手に視線を落とした。だがそれでは目の前のこの男の皮膚一枚も傷付けないだろう。
 上げた瞳をビュルゲルの銀の眼が愉しげに迎える。イリヤの考えなど見抜いていて、そして彼が何をしようと無駄だと、そう言うように笑った。
「――」
 イリヤが唇を噛み締める。
「手足が要ろう。こやつ等を使うといい。イリヤ殿には既にお会いした、能力は知っておられるな」
 ビュルゲルが指を弾くと、水盆の表面が大きく膨れ上がり、打ち寄せる波のように水がどっと四方に零れ落ちた。
 床で砕ける瞬間、水は四つの人の形を取った。胴から手足が生え、びしゃりと四つんばいになると、そこから半透明の身を起こす。
 ゆらゆらと立ち上がる四体の人型の向こうで、ビュルゲルの身体が水盆に沈んでいく。
「またお会いしよう、ミオスティリヤ殿下」
 束の間棒のように立ち尽くし、はっと我に帰ってイリヤは水盆に駆け寄った。
「――待て! まだ話は」
 イリヤの前を人型が阻む。人型の向こうに、ビュルゲルの頭が水盆に沈むのが見えた。
 とぷん、と軽い音を立て、水面が最後の波を揺らす。イリヤは人型達の間を無理矢理抜けて台を覗き込んだが、水盆は浅い水の上にイリヤの顔を映すだけだ。
「――」
 水盆の縁から手を離し溜息をついた時、後ろで二人が息を飲むのが聞こえた。
「?!」
 キーファー達とイリヤとの間で、人型が収縮していく。
 見る間に四体の人型は四つの丸い珠となって、床の上に転がった。乳白色の珠は意外なほど美しく、薄い光を弾いている。
 手に取るべきか――、束の間迷い、イリヤは思い切ってそれを拾い上げた。掌に載ったそれはつるりと硬質で冷たい。
「イ、イリヤ」
「どうするつもりだ、イリヤ殿、まさかそれを使って、王を」
 フォルケは自らが口にした響きにさっと青冷めた。
 水さえあれば、この生物はどこにでも侵入する事ができるのだ。だがイリヤには、その考えは全く有効とは思えなかった。
 西海がそれを成し得るほどの力をイリヤ達に与える訳が無い。
 例え居城に侵入できたとしても、王自身を害せるとは思えない。
 そして、王の近くには、あの剣士がいる。この生物を一刀で切り裂き、霧散させた。
 これらを使う事でイリヤ達にもたらされるのは、決定的な破滅だ。
「使ったら最後ですよ。――こんなもの」
 床に叩きつけて砕こうと、イリヤは腕を振り上げた。キーファー達が驚きの声を発する前に、珠は唐突にイリヤの手の中から水を噴き出した。
「!」
 ぐにゃりと腕に絡むただの水とも違う感覚に、慌てて珠を振り払う。
 珠は床に転がり、再び丸く硬質な姿を取り戻した。
「――」
「だ、大丈夫かねイリヤ」
 おそるおそる、キーファーがイリヤを見つめる。イリヤは唇を噛み締め、暫く珠を睨み付けていたが、やがて深く息を吐いた。
「――これは預かります。何か入れ物は? 密封できるものがいいんですが」
 フォルケが差し出した陶器の小さい壺に四つの珠を入れ、蓋を閉める。
 それを注意深く卓の上に置いて、イリヤは二人を見回した。
「とにかく、これで退く道は無くなりましたね。私が目的を達成する事以外、私にもあなた方にも未来はない」
「しかしどうやって。今の状態では王に直接謁見も難しい」
「西海と協力して」
「馬鹿を言わないでください、奴等は引っ掻き回して楽しんでるだけだ。私達が失敗しようと成功しようと、奴等は何の痛痒も感じないんですからね」
「しかしあの男は条件を付けてきたではないか。彼等にも利点があるからこそ、協力を申し出て」
「西海が協力? そんな事を本気にしてるんですか。関税だの何だの、どうでもいいような話じゃないですか。本気でそう考えているなら、国同士で話をすればいいだけだ」
「しかし――」
 呻くように言ったきり、二人とも黙り込んでしまった。まだ始まってもいない段階で自分達が既に追い詰められていると、そう思いたくない気持ちはイリヤにも判る。
 ただ、元々彼等が自分を利用して得ようとしていた望みなど、ただの甘い空想に過ぎない事もイリヤは知っている。
 イリヤ自身にも、それを叶えてやるつもりなど初めから無い。
 彼等もそれが途方もなく困難な事だと、判っていないはずはないのだ。
 だが、第一王子が失われ、ファルシオンがまだ幼く以前大病を患った事、そしてイリヤが今生きている事。それだけに希望を見いだしている。
 たった一つの、甘美な期待。
 イリヤの母の追憶が生み出した幻想だ。
「――西海は危険過ぎる。当初の予定通り、王の剣士、彼と接触します。そこから手繰る。本来はもっと慎重に事を運ばなければ進まなかったが仕方ない、なるべく王に近付けるように話を持っていきます」
「――彼に話して、協力が仰げるなら、逆に西海の事も……情報を提供する事で」
 単純すぎる思考に、イリヤは呆れ果てた瞳を二人に向けた。
「まだ判っていないんですか。私達はこの時点で、既に」
 それを告げるのが彼等の為だ。
 もはや退く事はできないとしても。
「王の、敵なんですよ」



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