青い花 (三)
がしゃん! と騒々しい音を立てて路地のごみ箱がひしゃげ、石畳に転がった。
背中を思い切りぶつけた上、頭も打ったらしく路地の狭い空が回る。もっとも既に何発か殴られていたせいで、元々視界はぐらぐらと定まっていなかったのだが。
「イリヤ!」
ラナエの悲鳴のような声に、男の声が重なる。
「二度とお嬢様に近付くんじゃねぇ!」
どこかの安っぽい劇の台詞のようだと、ふとそんな言葉が頭に浮かぶ。身分違いの恋、というのは演劇の格好の題材で、この街の小さな劇場でも良く演目で掛かっている。
それはともかく、屋敷の警備だか門番だかの男はまだ何か言いかけたが、ちょうど建物の扉から出てきた老齢の男を見て口を閉ざした。
「お館様」
「父様、私」
父親に訴えようとする娘の頬をはたき、男は座り込んでいるイリヤを侮蔑の眼差しもあらわに見下ろした。
「こそこそと、キーファー子爵家の娘に手を出そうなど、身の程を弁えろ。今後一切この家に近付くんじゃあない」
「お父様、イリヤは幼なじみよ、何でひどい事言うの?!」
「お前は部屋に戻れ。二度と会おうなどとするな」
ラナエは無理矢理扉の中に押し込まれ、扉は無情さも感じさせないほどあっさりと閉じた。
キーファー子爵は忌々しげにイリヤを睨み据え、何事かを吐き捨てた後、自分も屋敷に消えた。残ったのは背を反り返らせて威嚇するように立つ門番だけだ。
イリヤは立ち上がり、歩きながら口元を拭った。切れた口の端の血に、苦笑に似たものが浮かぶ。
まあこの年なら良くある事だ、それなりに。
それで大体は、こんな風に親が禁じても当人同士にはあまり効果が無い。何故なら大抵、二人だけの秘密の場所を持っているからだ。
二、三日ほとぼりを冷まして、またそっとその場所で会えばいい。
ただ少しイリヤの場合状況が違うのは、イリヤが生まれつき持っている外見と力のせいだった。
『忌み子が』
キーファーの投げつけた言葉は、別に今初めて言われた訳でもない。
色の抜けた髪と左右色違いの瞳。そして、他者には無い力。
そのせいで、この狭い街でイリヤはちょっとした有名人だった。
ただそれで街の住民から嫌がらせを受ける事はあまりない。どちらかと言えば、薄気味悪がられて近寄られない。
付け加えれば母親しかおらず、しかも父親は誰とも判らない。
「劇作家にでもなるかな」
自分を題材にして、とイリヤは一人笑った。
家に帰るのは憂鬱だ。
特段家庭環境が悪いとは思っていない。殴られる事もないし、食べる物に困っている訳でもない。
ただ、あの瞳を向けられるのが苦手だった。
あの透明な、朧気な瞳。
母は美しい女性だった。物静かで理知的で、いつも柔らかく微笑んでいる。
多分元は――元はというのもおかしな言い方だが、元はどこかの良家の娘で、しっかりとした教育や作法を受けてきたのだろうと、息子のイリヤでさえ思う。
生れ故郷はこの街ではなく、別の遠い土地から、生まれたばかりのイリヤを連れてこの街にやって来たのだと、ラナエから聞いた。ラナエは両親か館の誰かから聞いたのだろう。
その時には、既に独りだったとも。
父親は知らない。死んだとも生きているとも、どちらとも聞かされていない。母は聞いても答えなかったし、そのうち興味も無くなって、イリヤも尋ねるのを止めた。
ただ、遠くを見つめる瞳でイリヤを呼ぶのだ。ミオスティリヤ、と。
その瞳が苦手だ。
イリヤを見ながら見ていない、金色の右目の、向こう側の面影を見つめる瞳。
じゃあ何故、彼女はこんな処にいるのだろう。
そんな瞳をする位ならば。
わざとゆっくり歩いても、そう時間も掛からずに家に辿り着いてしまう。イリヤの家は街の外れにあったが、街そのものがごく小さい、狭い街なのだ。
「……ただいま」
二階建てのこぢんまりした家の玄関を開け、イリヤは口の中で呟いた。
廊下の右側にある階段を見上げ、腫れた頬を掌で撫でながら束の間迷った後、やはり顔を見せる事にした。見せなければ余計心配させる。
階段を昇って二階に上がり、二つ並んだ扉の、奥の部屋を開いた。
寝台の上で、母親が身を起こす。戸口に立ったイリヤを柔らかい笑みで迎えた。
「お帰りなさい」
最近になって、彼女は寝込む事が多くなった。本人は単純な発熱というが、この一ヶ月ですっかり痩せてしまった。
本来の儚げな美しさは、より透明な硝子のような脆さを感じさせた。
何故、このひとが独りで病の床に臥せているのだろう、とイリヤはまたぼんやりと思った。
守ってやりたいと、そう思わせるような女性だ。例え彼女がその外見からは想像もできない芯の強さを持っていたとしても――事実イリヤを女手一つで育ててきた訳だが――、彼女をたった一人で放り出すのは、一体どんな男なのか。
キーファーが彼女を手に入れたくて、しょっちゅう何かしら送り付けて来るのも知っている。いつも受け取る事はなく、だから余計、キーファーのイリヤへの風当たりが強いのだ。
娘のラナエとイリヤが結婚しても困るかもしれない。
(息子の俺を懐柔しようとしないところが馬鹿だよな。まあそういうのは嫌いじゃないが)
正直、父親には欲しくない。イリヤだってラナエが妹になっても困るし、早々に追い出されそうだ。
「どうしたの?」
突っ立っていたイリヤに母親は首を傾げた。
「ただいま。……何か欲しいものはある? 水でも持ってこようか」
「大丈夫、いらないわ」
「そう。じゃあ下にいるよ。夕飯を作るから」
そのまま部屋を出ようとしたイリヤを、訝しそうな声が引き留める。
「声が変ね。どうかした?」
どうせばれる事だ。イリヤは溜息を一つ落として、寝台に近付いた。
イリヤの腫れ上がった頬を見て、母親が心配の色を浮かべる。
「まあ、何があったの? そんなに顔を腫らして」
ほっそりとした手がいとおしむように頬を包む。
少し冷えて腫れた頬に心地好い手の先の、はかなげな顔を、イリヤは複雑な色を宿した瞳で見つめ、言葉を濁した。
「ちょっとまあ」
「――。……痛む?」
「ちょっとね。でもそれほどでもないよ」
「そう、良かったわ。ちゃんとお薬を塗っておくのよ。腫れが引かなかったらお父様が貴方を見ても判らないかもしれないわ」
(見る訳ないじゃないか)
呆れてそう思った後、ふとイリヤは瞳を見開いた。
彼女の口からそんな言葉が出たのは初めてではないだろうか。
(――生きてるのか……)
だが、問いかけようと思うには、それはイリヤにとって触れる気のない疑問で、すぐに意識の外に追い出した。
「会う事もないんだ。意味がないよ」
母親は悲しそうに眉を寄せた。
「――ミオスティリヤ」
ぐっとイリヤは口元を引き締め、感情を飲み込んだ。
(――ほんと、悪趣味な名前だ)
他の誰もそんな風には呼ばないし、イリヤも絶対に名乗らない。
ミオスティリヤ――「忘れな草」などと。
あの小さい、薄青い花の名だ。
忘れないでと、そう願いながら、いずれ失われる事を約束されたような名だ。
(忘れりゃいいのに)
この名と一緒に、もう目の前にいない相手の事など、忘れてしまえばいいのだ。
相手が生きているのなら、尚更。
どうせ相手ももう忘れている。
ふと、今更ながらに激しい憤りを覚えて、イリヤはそれを押さえ込む為に唇を引き締めた。
「もう下にいくよ。夕飯ができたら持ってくるから」
母の手をそっと押して離し、寝台の傍を離れる。
「ミオスティリヤ」
ふ、と流れた風のような言葉に、イリヤはもう一度振り返る。
だが、それはイリヤに向けられた言葉ではないのか、母はもう瞳を閉じて横になっていた。
「――」
イリヤは何も言わずに扉を閉ざした。
階下に降り、台所に入って、ふいに、そこにあった台を思い切り殴り付けた。台の上に乗った銅の鍋が賑やかな音を立てる。
「馬鹿じゃないのか」
『忘れないで』
時折、母親はそう口にする。
何を忘れるなと言うのだろう。何も過去など知りはしないのに。
『お父様が貴方を見ても判らないかもしれないわ』
(知るかよ)
イリヤには忘れるべき過去も無い。
いつまでも、自分を捨てた男の思い出に縋って。多分その男は、彼女が病の床にある事も知らないのだ。
馬鹿馬鹿しいとしか思えなかった。
そんなものより自分は前だけを見たい。未来の方が過去よりずっと価値がある。
台の上に身を伏せたまま、イリヤは長く息を吐いた。
「――あーあ。ラナエに会いたいなぁ」
イリヤにとっては、ラナエが未来の象徴のようだった。
ラナエは元気で温かくて、現実的だ。幼い頃から知っているが、一度としてイリヤを蔑んだ事も哀れんだ事も、異端の眼で見た事もない。
ひりひりと痛む口元に指を当て、少し顔をしかめ、それから自分の今の状況に呆れて笑った。
(好きになった娘は高嶺の花か。よっぽど花と相性が悪いんだな)
まあそれでも、彼女がどこかの立派な屋敷に嫁いでしまう前に、何とか身を起こして見合う身分を手に入れようとイリヤは心に決めていた。
(もっと大きな街に出て、軍に入るのが一番手っ取り早いかな。全く、せめてこの力がもっと使えるものだったらいいのに、役に立たない)
岩を砕くくらいできれば、まだ軍に入るのに有利だったかもしれないが、残念ながら細い枝を折ってみせるのがやっとな体たらくだ。しかも一度使うと非常に疲れる。
力がもっと強ければ、例えばあの近衛師団の大将にまでなった剣士のように、充分な機会が得られたかもしれない。
(年ほとんど変わらないのになぁ。俺はホント中途半端だ)
同年代の少年達が彼の姿に憧れを抱くように、イリヤにとってもその噂を聞く毎に、憧憬と、いつかは自分も、という野心を掻き立てられた。
そしてやはり、誰もが感じるだろう、正体もなく胃の中で焦げる焦燥。
“何かを、どうにかしなくては”
(いつかは、じゃ駄目なんだ)
判っている。
いつかはと言っている限り、そのいつかなど絶対に来ない。
何だかんだと迷ったまま、動いていないのは自分自身だ。あの剣士は十四で御前試合に出たというのだから。
けれど今日は思い切り殴られて、ラナエの悲しそうな顔を見て、一層、早くこの状況から抜け出そうという気持ちが強くなった。
その半面、身体の弱い母を置いて行くのかと、いつもの考えが身をもたげる。
いっその事、早く、母が――。
(くそ)
僅かにでもそんな事を考える自分が嫌だった。
半面、望んでいるのは変わり無いのにそれを嫌だと思う自分すら、欺瞞的に思える。
別に母親の傍にいたいと明確に思っている訳ではないが、それは確かに無意識に深く刺さるイリヤの楔だった。
『忘れないで』
振り払うようにイリヤはわざと声に出した。
「あーあ、やっぱり失敗だったよな」
今日愚かにもラナエの家まで迎えに行ってしまったから、あの父親にバレて、二、三日はほとぼりを冷まさないとラナエには会えないだろう。
「馬鹿だなぁ、俺」
『忘れないで』
母のその言葉の意味など深く考える気もないまま、イリヤは取り敢えず空腹を満たす為に食事を作るべく、籠に盛ってあったじゃがいもを一つ取り上げ、ぽんと手の上で放った。
ひと月後――。母親は呆気なくこの世を去った。
死んでしまったら、もう過去など捨て去ればいいものを、イリヤに過去を遺していった。
過去だけを。
秘められていた過去が突然その蓋を開いたのは、母の遺品を整理していた時だ。イリヤは最初息を飲んで、やがて茫然と、そして貪るようにそれを読み続けた。
見つかった日記には、イリヤが初めて知る、彼女の激動とも言える過去が繊細な文字で綴られていた。
イリヤの母はオルブリオという聞いた事もない街の、男爵家の三女として生まれ育った。
どこにでもある貴族の風習の一つとして、礼儀作法見習いという名目で王城に上げられた彼女は、ふとしたきっかけで王に見初められ、側室として迎えられた。
男爵家から側室とは言え、王家の一員となる――。華々しい、誰もが一度は憧れるような物語だ。
王には正妃があったが、長い間子供に恵まれず、周囲が彼女に期待したのも、待ち望んでいる第一子を――世継となる王子を産む事だった。
世間の期待、そして何より彼女の実家である男爵家の期待は非常に高かったようだ。
やがて彼女は、王の子を身籠った。
そこから先は、イリヤも知っている話だ。
イリヤがそれを知っていた事自体は驚くには値しない。国中で有名な話だったからだ。
イリヤの過去は、白日の下、常に彼の周囲にあったのだ。
自分の父親が、この国の王だと――、そして自分が生まれた経緯を知り、イリヤは長いこと、ただ手元の日記を見つめたまま座っていただろう。
母の日記に記された様々な言葉が、頭の中で渦を巻き踊った。
驚き、喜び、不安、期待。
王への深い愛と、周囲からの期待に対する戸惑い。
その中に正妃への遠慮が見えるのは彼女らしい。
王子の誕生。
そして、その後に起きた恐ろしい事件。
誰もが知っているその事件の、正に中心に自分がいたなどと、イリヤは何度読み返してもそれを現実の事とは思えなかった。
あれは悲しい、だが遠い世界の噂話だ。
時間が経つにつれ、混乱した思考の中から次第に浮き上がって来たのは、憤りだ。
父親はやはり生きていた。
だが結局一度として、母やイリヤに会いに来た事はなかった。
一般的な言い方など当てはまらない存在なのかもしれないが、父親には他に暖かい家庭があるのだ。
王女と王子に恵まれ、幸せそうな一家の様子は王都から遠く離れたこの街にも伝わってきた。ラナエが瞳を輝かせて語ったその話に、イリヤも何となく喜びを感じてすらいた。
自分達を見捨てた父親だなどと、夢にも思わずに。
もうイリヤの母がいたという過去は、公然の触れざる秘密となって葬り去られている。
日記を読んだラナエは父キーファーに相談し、キーファーはイリヤを養子に迎えたいと告げてきた。
その目的は余りに判り切っていたが、どうせキーファーの望み通りになどなりはしない。それよりも、子爵という身分があれば、王に近付ける可能性が出てくるのではないかと、そう考えてそれを受ける事にした。
ラナエには余り詳しくを話さなかった。だからおそらく、ラナエはイリヤの真意をはかりかね、苦しんだに違いない。
もし、イリヤが目的を果たしたら――。
甘い考えだと、自分でも判っていたから、口に出す気にはならなかった。
青い花。
母親が死んだ時、青い花は満開に野辺に咲いていた。
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