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王の剣士4 「かりそめの宴」
【第三章 「癒えぬ思い」】


「おはようございます、ファルシオン様。お目覚めのお時間でございますよ」
 ハンプトンの声とともに、窓に掛かっていた厚い日除け布がさっと開かれる。それまで光の遮られていた室内は途端に薄闇を払拭し、朝の白く輝く陽光に満ちた。
 王城の六階に位置するファルシオンの寝室からは、青い空がすぐ横に見える。
「今日はすっかり晴れて、気持ちの良い一日になりそうですこと」
「――」
「ファルシオン様?」
 陽差しはファルシオンの目には一瞬刺すように感じられた。結局夕べから、余り眠る事ができなかったのだ。ラナエのあの言葉。
『殿下にはもう一人、お兄様がおいでなのです』
 それずっと、ファルシオンの心に響き続けていた。
(兄上が――)
 その響きは、ファルシオンの幼い胸を否が応にも早くした。
 第一王子が生まれてすぐ、まだ名前も無いままに亡くなった事、それは周知の事実だ。その時に起こった悲痛な出来事、いや、事件を知らない者はほとんどいない。
 そして、それをつまびらかに語る者もまた、いない。
 ただファルシオンには、彼が三歳になったある日――詳しい者が聞けばそれは第一王子が亡くなった日だとすぐに気付いただろう――初めて、王自身の口からその事を教えられた。
 幼い彼が理解できるかに関わらず、それは第一王位継承者として知っておくべき王家の歴史だからだ。
 その日をファルシオンは良く覚えている。
 夕食の後で王の前に呼ばれた時、いつもは必ず傍らにいて父王と共にファルシオンに微笑みかける王妃はいなかった。
 王は一人ファルシオンに向かい合い、第一王子が居た事、そして生まれて僅か一日の内に亡くなった事を告げた。
 初めて聞く、自分に兄がいたという事実、そして兄という響きは、物心ついたばかりのファルシオンの心に、暖かな思慕を芽生えさせた。
『あにうえが……』
 もし兄が今も居たら、どんな感じだっただろうか。一緒に遊んでくれて、色々話をしてくれただろうか。
 きっととてもやさしい兄で、ファルシオンの傍に居てくれたに違いない。
 もしも、生きていたら。
 ファルシオンは悲しい気持ちになって、父王に尋ねた。
『あにうえは、どうしておなくなりになったのですか』
 父王は暫く黙って、その金色の瞳でファルシオンを見つめていたが、やがて静かな諭すような響きをその声に宿した。
『そなたの兄の死は、――によるものだ』
 兄が何故死んでしまったのか、まだたったの三歳でしかなかったファルシオンには、父王が告げた言葉は難しくて良く理解できなかった。
 ただ死ぬという事がどういう事なのかは漠然と知っていて、例えば飼っていた小鳥が動かなくなってだんだん冷たくなっていくような、とても悲しい事なのだと、そう思った。
 そう言うと、父王は泣いているファルシオンを抱き上げ、膝の上に置いてくれた。
 滅多に甘えられない父親の膝の上で、ファルシオンは兄の事を考えていた。
 こうして甘えられるのはファルシオンが今生きているからだ。もう兄は、父の膝に乗る事もできない。それが死んでしまうという事だ。
 悲しい、と、そう思いながら、ふと見上げた父王がどんな顔をしていたのか、涙で父王の顔がぼやけていたせいで、良く覚えていない。
 ただファルシオンの頭を撫ぜながら、金の瞳はそこではない遠くを見つめていたようだった。
 やはり、とても悲しいと思った。
『お兄様は、生きているんです』
 ラナエからそれを聞いた後、ファルシオンは寝台の中で瞳を開いたまま、父王から教えられたその出来事をずっとずっと考えていた。
「ファルシオン様、どうかなさいましたか? ご気分が?」
 ハンプトンが寝台の上で身を起こしたままじっと俯いているファルシオンを心配して、その顔を覗き込む。
 はっと顔を上げ、ファルシオンは首を振った。見渡せば、寝台から離れた所に立っている侍従達も皆、心配そうな顔でファルシオンを見つめている。
「なんでもない」
「まぁ、何でもないお顔ではありませんよ。とにかく先生に診ていただきましょうね」
 ハンプトンの言葉に、典医のドルムントがファルシオンの傍に寄り、寝台の横に置かれた椅子に腰を降ろした。それはいつもの朝の日課でもある。ファルシオンは大人しく老医師に顔を向けた。
「失礼いたします。――特にお熱はございませんね」
 額に手を当て、瞳と喉を覗き込み、ドルムントはハンプトンを振り返って頷いた。
「体調はお宜しいようです。ただ少しお疲れのようだ。あまりお眠りになられなかったご様子ですね」
 ハンプトンはちらりと後ろに並ぶ侍従達を見た。昨晩ラナエに代わった侍従が少し不安そうに眉を寄せるのがファルシオンの視界にも映る。
「だいじょうぶ」
 憂慮の色を浮かべたまま、ハンプトンは首を傾けた。
「お着替えをされますか? まだ少しお休みになられてもようございますが」
「へいき。起きる」
 全く眠くもないし、寝てなど居られない。ハンプトンが今日は休養だと決めてしまう前に、ファルシオンは急いで掛布から抜け出し、寝台からすとんと降りた。二人の侍従がその傍に寄り、ファルシオンを着替えさせる。首の釦を留めてもらいながら、ファルシオンは侍従達を見回した。
(――)
 朝はいつも、ファルシオン付きの侍従達が全員揃うのだが、今、その中にラナエの顔は見当たらない。ファルシオンはそっとハンプトンの顔を見上げた。
「――ラナエは?」
「ラナエ? ――ファルシオン様、ラナエが何か申しましたか?」
 ハンプトンの顔がファルシオンにも判るほど、さっと引き締められる。
 既に昨夜の様子はハンプトンの耳にも入っていた。ラナエがファルシオンに何を話していたのかは判らないが、ファルシオンが随分驚いていた様子だったとハンプトンも聞いている。
「どのような事を」
「何でもない」
 さっとそう言って首を振る。ファルシオンは幼いながらも聡いその心で、昨夜のラナエの言葉を口にしてはいけないのだと、漠然とそう理解していた。誰もそんな事は言った事が無い。父王もまた、ファルシオンの兄は亡くなったと言っただけで、もう一人兄がいるなどとは言わなかった。
 けれど――。
 一晩中、何度も何度も考えて、やはりそれは俄かには信じ難いものだったが、それでも、瞳に浮かぶラナエの顔は嘘を言っているようには思えなかった。
 もし。
 もしも、本当に兄がいるのなら――。
 それはどういう事だろう。
 いや、それよりも。
 兄が。
 自分に、兄が、いたら――。
 どくりと、心臓が鳴る。
 もう一度、ラナエと話をしたかった。すぐにでも。
「ラナエは?」
 もう一度尋ねると、ハンプトンは暫くファルシオンを見つめてから、少しだけ慎重な口振りで答えた。ラナエには後できちんと話をしなければならないと、心の中でそう思いながら。ただ、今の彼女には話をするのは難しいだろう。
「本日はお休みをいただいております。昨夜長いこと表にいたようで、今朝方熱を出したのです」
 昨晩、ファルシオンの就寝の番を変わった後、何故なのか、ラナエはずっと庭園に出ていたようだ。着替えもせずに、早朝になって庭園の真ん中で倒れているのを庭師が見つけた。ひどい高熱で、典医のドルムントが処置をしたが、まだ深く眠ったまま意識は戻っていない。
「ねつ――? だいじょうぶなの?」
 ファルシオンの顔に浮かんだ心配そうな色に、ハンプトンはそれまでの憂慮を和らげて、穏やかな笑みを向けた。
「寝ておりますから平気ですよ。ただ、完全に治るまでファルシオン様のお側に上がる事はできません。貴方様に風邪が移りでもしたら大変ですから」
「すぐなおる?」
「熱が高いので三日は寝ていないと……ただ、あまりに熱が引かないようなら、一時宿下がりをしないといけないでしょうね。キーファー子爵もさぞご心配なさるでしょうし」
 ハンプトンの言葉に、ファルシオンがまだ靴を履かないまま身体ごと彼女に向き直る。裸足の足に伝わる冷たさも、今は気にならなかった。
「帰っちゃうの?」
「治らなければ」
「駄目だ!」
 思いがけない強い口調に、驚いて屈んでいた身体を起し、ハンプトンはファルシオンを見つめた。
「絶対」
「どうなさったのですか、やはり」
「何でもないったら!」
 ハンプトンが瞳を見開く。
「ファルシオン様」
 ハンプトンの瞳には、先程よりも強い憂慮の色が浮かんでいる。ファルシオンがもう少し語彙や観察力が高く備わっている年齢であれば、そこに猜疑と、不審の色を見分けただろう。
 ただ、漠然とハンプトンの感情はファルシオンにも伝わり、ファルシオンは自分の言葉がもたらしたものに狼狽えたように、きゅっと唇を噛み締めた。
「――ごめんなさい」
「いいえ、私にお謝りになる必要など――けれど、どうなさったのです? やはりラナエが何か」
「何でもないんだ。ただ、風邪なのにおうちに帰しちゃうなんてかわいそうだと思って」
「そんな事はございませんよ。本人の家の方がゆっくり休めるからというだけで、良くなったらまた戻ってもらうのですから」
「――そう」
 今は会えないの? と尋ねたかったが、それ以上ハンプトンに問いかけられる前に、ファルシオンは口を閉ざした。



『貴方様には、お兄様がおいでです』
 朝食の間も、午前中の学問の時間になっても、ファルシオンの頭の中にはずっとその言葉が響き続けていた。
 もうすぐ教育官がやってくる。ファルシオンには三歳になった時から複数の教育官がついていて、それぞれ学問や武芸を教わっていた。
 主な科目はずっと同じ教育官が担当していたが、それ以外に定期的に何人か、外から教育官として招いている。ファルシオンは学ぶ事が好きで、今日は特にファルシオンの楽しみにしている教育官だ。月の内二回程、特別に呼んでいる。
 しかしいつもなら教育官が来るまでの間も、その日に教わる本を眺めたり、まだ呼びに来ないものかと窓の近くを行ったり来たりしているのだが、その事も忘れてラナエの言葉と王の言葉を繰り返し考えていた。
『そなたの兄の死は』
 あの時、父王は何を言ったのだろう。あの言葉の意味が、今でも判らない。
『――によるものだ』
 ファルシオンは顔を上げ、立ち上がった。教育官が来た時に聞けば教えてくれるに違いない。ただ誰かに聞かずとも自分で言葉の意味を調べる事ができると、ファルシオンは最近覚えたばかりだ。
「ファルシオン様、どちらへ? もうすぐ先生がいらっしゃいます」
「学習室に行ってる」
「まあ」
 ハンプトンはファルシオンがいつものように待ちきれないのだと思って、可笑しそうに笑みを刷いた。
「そんなにお急ぎにならずとも、いらっしゃったらすぐにお呼びいたしますよ」
「いいの」
「ファルシオン様?」
 ファルシオンがぱたぱたと居間を駆け出し、廊下の向こうの学習室へ走っていくのを追いかけようとした時、別の扉から顔を出した侍従に呼ばれてハンプトンは足を止めた。
「お着きになったそうです。もうお通ししてもよろしいですか?」
「あら、まるで殿下はお着きになったのがお判りになったようですね。すぐにお通ししてください」
「はい」
 若い侍従はどことなく弾んだ足取りで出迎えに出て行き、ハンプトンは今日もまた学習室の周りが暫く騒がしいのだろうと苦笑しながら、ファルシオンを追い掛けて足早に学習室へ向かった。
 学習室はファルシオンの為の館の、庭園に半分突き出すようにして造られている。奥の壁の一面と、それから左右の壁は反面ずつ、陽の光を呼び込む大きな窓になっていて、大理石よりも温もりの伝わる木の素材を多く取り入れた、気持ちの落ち着く造りだ。
 窓以外の壁はほとんどを書棚で埋められ、これまでファルシオンが学んできた書物や、この先もう少ししたら学ぶ為の書物がきちんと整理されて並んでいた。窓からは右側に温室が見え、庭園が広がっている。
 朝、ラナエが倒れていた場所も少し先の陽光の中に見えていたが、ファルシオンには告げられていなかった。
 学習室に走り込み、まだ準備を整えていた侍従が驚く横を、壁面の書棚に駆け寄る。書棚の木枠に掴まるようにして背伸びをしながら、幼い金の瞳が一生懸命に、書棚に並べられた書物の背表紙の文字を拾っていく。
「あった!」
 侍従は傍らによると、背伸びして高いところに収められた書物を取ろうとしているファルシオンの手を押さえた。
「危のうございます。私がお取りいたしますわ、どちらを?」
「あのじしょを取って」
 ファルシオンが指差したのは、彼の頭の少し上の棚に収められている分厚い辞典だ。侍従が下ろして卓の上に置いたそれを、ファルシオンは慎重に開いた。
(えーと……『あ』)
 父王の告げた言葉の意味は判らなくとも、ファルシオンの中に忘れる事無く刻まれている。
(『あ……、ん……』)
 一枚一枚確かめるように項を繰り、指先で文字をなぞりながら、ファルシオンはその単語に辿り着いた。
(あった)
 細かい文字を見る為に、彼の身体の幅ほどもある書物に上半身を乗っかるようにして顔を近付け、見つけた単語の次に書かれている文章を口の中で呟いた。
(ええと……『ひそかに、ねらって』)
 ひそかに、とはどういう事だろう。
(『ひとを』――)
『殺すこと』
 ファルシオンは首を傾げた。ところどころ、まだ彼の知識では判らない文字がある。特に次の一文はほとんど読めなかった。
『政治的に対立する相手を計画して殺害する行為』
(ぜんぜん、知らないつづりだ)
 だがその文面からは、とてもいやな感じがした。多分とても悪い事だ。
 少し自信が無くなって、ファルシオンはもう一度、先頭に書かれている単語を読んだ。
(あんさつ)
 ただ、あの日、父王は確かにそう言ったのだ。
『そなたの兄の死は、暗殺によるものだ』
「ファルシオン様、先生がおいでです」
 ふいに呼ばれ、どきりと胸を鳴らし、ファルシオンは辞書を閉じた。



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