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王の剣士4 「かりそめの宴」
【第三章 「癒えぬ思い」】


 ロットバルトは瞳を上げた。
 彼が今いるのは、王城第二層にある軍の士官に貸与される館の一室、謂わば自室だ。そこにあっても、あの視線は昨日からずっと彼の周辺に張り付いていた。
「趣味が悪いな」
 ロットバルトは口元を笑みの形に歪め、外套をはおると扉を閉めた。中庭には、昨夜師団の厩舎に預けずに待機させていた飛竜が翼を休めている。
 さほど広くは無い中庭の、飛竜の向こうにある壁。そこに再び、視線が現れる。おそらくもし姿形が実在すれば、ロットバルトは視線の主と正面から向き合っているような状態だ。
 ロットバルトが気付いていると判っていないはずも無いのに、視線の主はむしろ自らを誇示するように堂々とそこに存在していた。
 ロットバルトはそれを無視して、飛竜の手綱を引いた。瞬く間に中庭が足元に遠退き、注がれていた視線も途絶えた。
 空の上までは追えないのか、それともそこまでの必要が無いだけか。
 どのみち視線は暫くすると消えるが、またふと現れる。
 明らかにその存在を誇示しながら、何かを仕掛けて来る訳でもない。
 ロットバルトはそれを警告と捉えていたが、何に対して、というのがまず第一の疑問だ。
 イリヤについてなのか、ラナエについてなのか。
 飛竜は瞬く間に近衛師団第一大隊の士官棟に到着し、ゆっくりと旋回しながら士官棟に隣接して置かれている厩舎の草地の上に降りた。飛竜が降りるのに気付いて待機していた係官が、その傍に駆け寄る。
「すぐに出る。ここで休ませておいてくれ」
 頷いた係官に手綱を預けて歩き出そうとした時、再び背後にあの視線が現れる。
(――)
「どうかなさいましたか?」
 足を止めたロットバルトに、飛竜を木陰に寄せようとしていた係官が振り返る。
「いや。上将は?」
「もういらっしゃっています。執務室だと思いますが」
「――、そうか」
 歩き出すと、視線もまた追ってくる。
 この視線がどこまで追ってくるものか、それが問題の一つでもある。レオアリスの前まで出れば、彼はおそらくこれに気付くだろう。
(今の段階ではまだ早いな。直接王城へ行くか……?)
 一旦通りへ出て正面玄関の石段を上がり、棟内を抜けて中庭へ出たところで、ロットバルトはぴたりと足を止めた。中庭をぐるりと見回す。
消えた.
 たった今まで背中に張り付くように注がれていた視線が、完全に消えている。回廊に連なる柱の影にも、その気配は見当たらなかった。
 執務室の扉を開けると、室内に居たレオアリス達が振り返り、レオアリスが意外そうに声を掛ける。
「あれ、お前今日、公休じゃなかったっけ。殿下の所に行く日だろ」
「おはようございます。お約束の時間にはあと一刻ほどありますので」
「それで職場に来るか? もったいねぇ。俺ならぎりぎりまで寝てるのに」
 隙を見つけては日向で寝転ぼうとするレオアリスならではの発言に、ロットバルトも傍らでレオアリスに書類を渡していたグランスレイも苦笑を洩らす。
「昨日残したままの書類があるんですよ」
 そう言うとレオアリスは呆れた顔で肩を竦めた。
「まぁ来たんなら丁度いい。昨日地政院行ったんだろう、何かあったか?」
 ロットバルトの視線がごく一瞬だけ背後へ向けられたのに気付き、レオアリスが訝しそうな表情を浮かべる。
「どうかしたか?」
「――いえ」
 視線の現れる気配は無い。
(さすがにこの場では現れないか)
 レオアリスの剣には、あれを斬る事ができるだろう。それを避けたか、もしくは、ロットバルトの考えを見抜いているのか。どちらにせよ、ロットバルトとしてもそれは今の時点では都合が良いい。
「……昨日は残念ながら、これといった情報は得られませんでした。今日もまだ思い当たる節を当たっては見ますが、出てくるかどうか」
「そうか。まあ一個人の事だしな。何もなければそれでいい」
 レオアリスはさほど気にした様子もなく、ロットバルトの言葉に頷いた。グランスレイだけは一度、薄い緑の瞳を参謀官に向けたが、何も言わず手許にあった書類に戻す。
 机の前でなにやら書類を引っくり返していたクライフは、二つばかり書類を取り上げ、左右の手に持ったそれを目の前に掲げた。
「おーい、ロットバルト、今日の演習の布陣てどっち?」
「昨日机の一番上に置いておいたでしょう。何故判らなくなるんだか」
「さっき引っくり返してさ。ぐっちゃぐちゃ」
 左隣に居たフレイザーがまだ足元に落ちていた紙を拾い上げる。
「片付けないで山みたいに積んでおくからよ。第一、前の布陣はちゃんと綴っておけばいつでもすぐ見返せるのに。ほら、貸しなさい、確認してあげるから」
「あ、いいやロットバルト。フレイザーに見てもらうから」
 妙に嬉しそうな顔をして、クライフは書類に手を伸ばそうとしたロットバルトを止め、フレイザーに素早く書類を差し出した。
「――まったく」
「あいつ一人違う布陣してたら面白いのにねぇ」
 溜息を吐いたロットバルトの横で、ヴィルトールが人の悪い笑みを浮かべ、ロットバルトを見上げる。
「それよりお前、そろそろ時間なんじゃないか? 殿下の」
「ああ――」
 ロットバルトが頷いて外套を手に取った時、それまで椅子の背凭れに身体を預けていたレオアリスが身を起し、広い机に腕を乗せた。
「一度、イリヤ・キーファーと会ってみようと思うんだが、どう思う?」
 唐突とも取れる言葉だったが、レオアリスは何度かそれを考えていたのだろう。グランスレイはレオアリスの顔を見つめて束の間その提案を検討していたが、やがて首を振った。
「何とも言えません。ただ、余り個人的にお会いになるのは、今の段階ではどうかと」
「うん……」
 グランスレイの言う事は当然、レオアリスの中にもある。ただ、彼があの事件に何故関わる事になったのか、一昨日のあの時点で自分達が気付いていない事があるのではないか。グランスレイもレオアリスの目的とする事は判ったようで、考え込むように腕を組んだ。
「西海ですか」
「どうしてもな。もちろん直接そのものずばりを聞く訳じゃないが、明日ぐらいにでも」
「反対ですね」
「え?」
 そう言ったのはロットバルトだ。いつになく厳しいその声の響きに、レオアリスは少し意外そうな顔を見せる。ロットバルトは一旦手に取った外套を置き、レオアリスに向き直った。
「お会いになるべきではありません」
 普段とは違う、諭すというよりは撥ね付けるような口調だ。それに気付いて、クライフとフレイザーも顔を上げる。レオアリスは肘を突いていた腕を下ろして、真っ直ぐにロットバルトを見た。
「でもお前は何かあると思ってるから調べてるんだろう。なら直接会ってみて話を聞いてもいいんじゃないか」
「調査は調査として、貴方が個人的にお会いになる必要は無いでしょう。そこまでの義理は無い」
「義理って――」
 その物言いには少なからず引っかかりを覚えたようだ。立ち上がり、レオアリスにしては珍しい、微かな不快そうな色を眉根に浮かべる。
「義理があるとか無いとか、そんな基準で人に会うかどうか決めるのか? そういうものじゃあ無いだろう」
「貴方が今居る立場は、それらを無視できない所にあります。有体に申し上げれば、係わり合いになる相手は慎重に選ぶべきでしょう。その点から考えれば、今のイリヤ・キーファーは避けるべき相手です」
 クライフ達は顔を見合わせ、何となく黙り込んで、執務机を挟んで向かい合っている二人を見つめた。レオアリスの上にはロットバルトが言う考え方に承服しかねる色と、何故突然そんな事を言い出したのかという戸惑いの、二つが揺れている。
「――そういうの、お前が一番嫌ってたんじゃ無かったのか」
「私の事はどうでもいい」
 取り付く島の無い言葉に、張り詰めた空気が落ちる。ロットバルトがレオアリスにこれほど厳しい物言いをするのは、今まで一度もないと言っていい。クライフは傍らのヴィルトールに肩を寄せた。
「上手くねぇなぁ、あれ、珍しくねぇ?」
「うん、何だろうねぇ。いつもより結論だけ先に行き過ぎてるっていうかな」
 案の定、レオアリスはロットバルトの意図を理解しかねて、ぐっと唇を引き結んでいる。
「貴方は近衛師団大将で、王の剣士と呼ばれる立場だ。それを自覚されるべきです」
 あくまで淡々とした口調に、レオアリスは苛立つ感情を堪えるようにロットバルトを睨んだ。
「そんなのは関係ない」
「関係ありますよ。決して軽視していいものではありません」
「軽視? 俺が王を軽視してるって言うのか」
「自覚が足りないと、そう申し上げているだけです」
「自覚って、」
 あと一歩で険悪な雰囲気になりそうな空気を断ち切り、クライフが取り成すように声を上げた。
「――ま、まあまあ! やめましょうよ、朝から。ロットバルト、お前も何だ、随分厳しいじゃねえか」
 立ち上がってロットバルトに近付き、その肩を軽く抑える。
「厳しい? まだ甘い方でしょう」
「いいから行けって。時間無いぜ」
 クライフが壁際に置かれた時計を指差し、ロットバルトは溜息をついた。確かに、約束の時間まであと半刻しかない。
「――続きは後ほど」
「まだやんのかよ、もういいって」
 閉口した様子のクライフを尻目に、ロットバルトはもう一度レオアリスを見た。気まずそうな様子ながらも、レオアリスも視線を返す。
「前にも一度申し上げましたが、王の剣士と呼ばれる事は、他者が貴方の後ろに王の姿を見るという事です」
「――判ってる、つもりだ」
「――」
 ロットバルトはまた口を開きかけたが、思い直してそれを閉ざした。レオアリスに全てを説明している時間は今はない。
 元々、レオアリスにとって「王の剣士」と呼ばれる価値は他者のそれとは異なるのだ。もう一つ、ごく一般的な意味を自覚するには、その想いが強すぎる。
「失礼しました」
 そう言って一礼し、ロットバルトは執務室を出た。ヴィルトールが立ち上がり、その後を追いかける。扉を後ろ手に閉ざし、ヴィルトールは数歩前を行くロットバルトを呼び止めた。
「ロットバルト」
 近寄る間に、立ち止まったロットバルトの視線がぐるりと中庭を巡ったのに気付き、ヴィルトールは同じように周囲を見回した。
「――何だ?」
「いえ。それよりどうかしましたか」
「どうかってねぇ……お前にしちゃ全然」
 今更最後までいう必要もないと思ったのか、ヴィルトールは呆れたように肩を竦め、それからロットバルトの横に並んだ。灰銀の瞳の奥にこれまでと違った光を浮かべる。
「で、何があるんだ、イリヤ・キーファーに」
 ロットバルトは蒼い瞳をヴィルトールに向け、瞳意外は普段と変わらないのんびりした様子に溜息を落とした。
「そう、見えましたか。確かに全く上手くないな」
「そうだね。いつもならもっと自然にというか理詰めにというか、とにかく納得しやすいように言うだろう」
 反省した様子のロットバルトに笑い、何気なく歩き出す。執務室の対角にある士官棟の出口まで来て、どちらともなく足を止めた。
「……どうなんだ?」
 ロットバルトは一度ヴィルトールの瞳を見据え、口を開いた。中庭を巡る風の中にも、未だあの視線は戻っていない。
「――口に出せる段階ではないと、それだけです」
「……ふうん」
「敢えて言うなら、私も調査を続けるべきではないかもしれない」
 その口振りに、ヴィルトールの瞳の中の光が強さを増す。
「――根拠は」
「ありませんね、まだ」
 ヴィルトールはじっとロットバルトを見つめてから、それ以上は聞かずにぽんと肩を叩いた。
「判った。まあ様子見だね、暫く」
 片手を上げて執務室へと回廊を戻るヴィルトールの姿を暫く追い、ロットバルトは士官棟を出た。
 地籍簿から得た事実をレオアリスに告げなかったのは、その事がどう影響するのか、まだほとんど掴めていない為だ。
 地籍簿を調べる事によって現れたあの視線が、何を目的にしているのかも判らない。あれが警告であれば尚更、不明瞭な状態でレオアリスや近衛師団を巻き込む事は避けるべきだろう。
 巻き込む、と、そう考えるのには理由がある。
 地政院は王城の建物の中にある。王の居城の、すぐ足元だ。
 そこに外部の法術なりが働けるとは考えられない。今回の場所は、防御陣を張り巡らせたゴドフリー侯爵邸とも訳が違う、まさにこの国の中心部なのだ。
 あの視線が万が一イリヤやその関係者が仕掛けた法術だとしても、王城の防御陣を擦り抜けて発動させる事ができるとは考えられなかった。
 法術院の張った精巧かつどこよりも堅牢な防御陣に加え、王その人が居るからだ。
 それが西海であっても、おそらく同じ事だろう。
 そうであれば――、それを仕掛けられるのは、内部、しかもある程度の上層部に通じた存在だと、そう考える事ができる。
 視線は探ろうとする者を「見ている」という警告。
 ならば次に何らかの線に触れれば、第二段階の仕掛けが発芽する。
 それがどの時点で、どんなものか――第二の段階である程度、その先にいる存在が見えるはずだ。
 レオアリスやヴィルトールにはああは言ったものの、ロットバルトはもう少し、この件について入り込む必要があると、そう考えていた。正体が見えないままでは、引くべき位置も判らない。
 それよりも、何を探れば、この視線が正体を現すのか――そこを確かめたかった。
 確かめるまでは、レオアリスだけではなく近衛師団自体が関わりを持ったと捉えられるのは避ける必要がある。
(さて、どう探るか)
 まずは、王城のラナエ・キーファー。
 ファルシオン付きの侍従は三十名前後はいたはずだ。ロットバルトも名前を一人一人確認した事はないが、十六位の娘なら確かに何人かいる。その中の誰がラナエ・キーファーなのかは判らないが、不審な事があれば、近衛師団大将であるレオアリスには何かしらの話があっただろう。
 そしてラナエの出仕は王宮管理官長による許可を得ていて、書式等にも不審な点は無かった。
 これから居城に行くとは言え、ラナエ・キーファーについての調べる機会が多少なりともあるかどうかは微妙なところだ。
(それ以外ではやはり文書宮か)
 地籍で追えないのなら、別の角度から記録を探してみるしかない。ただ、何を足がかりにすべきか、それが未だ見えていない。
(考えている以上に、厄介かもしれないな)
 手元にあるのはまだその事実だけで、明確に方向性を持っている訳ではない。
 厩舎に入ると再びあの視線が現れたが、ロットバルトはもうそれを気にせず、飛竜の手綱を取った。



 ロットバルトとヴィルトールが執務室を出るのを見送り、誰からともなく詰めていた息を吐いた。グランスレイがまだ立ったままのレオアリスに顔を戻す。
「上将、ロットバルトの言う事は尤もだと私も思います」
 レオアリスは気まずそうに視線を逸らし、どさりと椅子に腰を降ろした。
「――判ってるよ。あいつは理由もなくあんな事言わない。けど俺だって何も考えてない訳じゃないぜ。今の立場は良く判ってる」
 そのつもりだ。ただ戸惑うのは、自分自身は全く変わっていないのに、周囲だけが大きく変化しているせいだ。ロットバルトの言葉の意味も、その温度差を指しているのだろうとは理解できる。
(それとも、理解したつもりになってるだけか――?)
「まあ、上将。得意分野が違うんだからいいんですよ、そういう面は奴にまかしときゃ」
 明るい声でそう言って、クライフがにかりと笑ってみせる。
「ほら、俺等もいるし」
「何が俺もだ。お前が一番危ないだろう」
 扉の方から声がして、クライフは戻って来たヴィルトールを不満たっぷりに睨んだ。
「お前さぁ、途中で入って来て話の流れ判ってねぇだろうがよ」
「いや、何となく」
「何となくぅ?!」
「そんな事より、ロットバルトは何か言ってたの?」
 フレイザーは思わし気に、まだ少し沈んだ顔のレオアリスとヴィルトールを見比べた。
「いやぁ、まぁそんなに焦らなくてもいいんじゃないかってさ。もう少し正体が見えてからでもね」
「――」
 レオアリスはヴィルトールののんびりした声を聞きながら、背後にある窓の外に視線を逃した。
(焦る……? 俺が焦ってるっていうより)
 ロットバルトがいつになく慎重過ぎるのだ。先ほどのレオアリスの提案も、いつもならもう少し検討の余地を持たせそうなものだが、今日に限ってにべも無く否定した。
(何がそんなに――)
「さて、そろそろ演習の時間だ。上将、今日は三軍の合同の日ですから、一刻後位には西の第一演習場にいらしてください」
「ああ、そうだった」
 レオアリスが頷いたのを見届け、ヴィルトールは自分の執務机の後ろに立掛けてあった剣を取り、腰に佩びた。クライフやフレイザーも外套をはおり、剣を手に取る。午前中は左中右軍三軍が揃っての三日に一度の演習が行われ、今日もまた慌しい。
「そういや、スランザールは何か言ってくるかな、あの戦術使ってない事――」
「しっ、バカね」
「スランザール?」
 レオアリスがきょとんと三人を見て、クライフは慌てて首を振った。
「い、いやぁ、何でもないっす。ちょっと助言貰ったくらいで」
「へぇ。スランザールの? じゃあ今日それやるのか? 楽しみだな」
 瞳を輝かせたレオアリスに対して、クライフはもごもごと口篭った。さすがにあの戦術をやりたいとも思わないし、レオアリスが下手に指揮をしたいと言い出したら困り物だ。
「や、やるって程大掛かりなものじゃ」
「ワッツのところが今日は第二演習場らしいね。我々より一刻ばかり後に始まるみたいだから、終わった頃には少し見れるかもしれない」
 ヴィルトールがぐいぐいとクライフの腕を引っ張って扉から連れ出し、フレイザーがにこやかな笑みを残して扉を閉じると、なんとなく中途半端な空気が残った。レオアリスとグランスレイは演習が始まる頃に現場に行けばいい。時間はまだ一刻もある。まだと言ってもその間に書類を片付ければいいだけだが。
「やっぱり、中将くらいが一番楽しいよな」
 レオアリスの呟きに、グランスレイは苦笑を零した。レオアリスは目の前に置かれた書類を一枚つまみ上げ、ひらひらと手持ち無沙汰そうに振っている。
「そうかもしれません」
 注意されるかと思ったが、逆にすんなり同意を返されると急に自分が子どもじみて思えてくる。溜息を一つつき、レオアリスは暫く素直に書類に向かって時折確認の署名を書き込んだりしていたが、ふと手を止めた。
「そう言えば――」
 そう言って、机に手を付き立ち上がる。
「上将? 何か」
「いや、ちょっと出てくる。第二には直接行くから」
「まさか、イリヤ・キーファーに会おうとは」
 グランスレイの顔に浮かんだ憂慮の色に、レオアリスは笑った。
「違うって。それに関してはちゃんと、ロットバルトが戻ってから話を聞くよ。――演習の前にワッツに会ってくる。第二演習場だって言ってただろう」
 ああ、とグランスレイは頷いた。ワッツは正規軍西方第一大隊の中将だ。
「今、西海について何か情報があるとしたらあそこだからな」
 レオアリスとワッツは親しい。近衛師団、正規軍の隔てなく、余り表沙汰にできない情報でも信頼してやり取りできる相手だ。特に来年は条約再締結の儀式がある。この時期に何らかの動きが西海にあれば、それが些細なものであっても必ず、西方軍の上層部には伝わるはずだ。
「ワッツならロットバルトも文句言わねぇだろ」
 まだ拘っているレオアリスに苦笑を浮かべ、グランスレイは頬を引き締めた。
「ワッツに情報がなくとも、第七軍にそれとなく探りを入れてもらうと良いでしょう。西方第七軍の大将は彼の元上官です。上将も確か」
「ああ、大将は今ウィンスター殿か」
 第七軍、辺境軍は王都第一軍と同様、要の部隊であり、西海との国境を警戒する役割を担っている。その大将ウィンスターはワッツが第六軍にいた時の大将で、レオアリスも少なからず知っていた。
「そうするよ。じゃあ」
「お気をつけて」
 あっという間に軽い音を立てて閉ざされた扉を苦笑と共に見つめる。結局レオアリスは、黙って机の前に座っているよりも、自分の足で動きたいのだ。レオアリスの言葉ではないが、ワッツと話すのならば問題はない。
 グランスレは厳しい瞳に戻った。先ほどのレオアリスとロットバルトの遣り取りが、まだ意識の内側に引っかかっている。
 ロットバルトはイリヤ・キーファーについて、昨日の地政院では特に得られたものはないと言っていた。
(あの男が、まるで何も掴まなかったという事があるか……?)
 同じような疑問は、ヴィルトールも感じていたようだ。何も無かったと言いながら、先ほどの口振りは、レオアリスがイリヤに直接面会する事を真っ向から否定している。
 ロットバルトの調査能力の高さにはグランスレイも信頼を置いている。今回は疑義を持ちながらもそれ以上に調査が困難な内容か、もしくはイリヤ自身は全く何も関係が無いのか、いずれかなのかもしれない。
 ただ、ロットバルトの手法の特徴の一つは、情報の開示の機を見る事にある。何も得なかったのではなく、何かを掴んだ上で、レオアリスにすら出す段階ではないと考えているとすれば。
(――戻るのは昼か)
 漠然と感じている不安がただの考え過ぎであればそれでいい。
 ただ何か、目の前を一つ目隠しされているような、そんな感覚をグランスレイは持っていた。



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