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王の剣士4 「かりそめの宴」
【第二章 「波紋」】


 ソーヤーはイリヤ達を再び広間の扉まで案内した後、深く一礼して自らの落ち度を詫びた。
「この度は警備の不行き届きにより危険が及ぶような事態を招いてしまい、申し訳ございません。調査結果が判り次第、あなた方にもお知らせいたします。当主よりも改めて、ご挨拶をさせていただきたいと申し付かっております」
 キーファー子爵は大仰に眉をしかめ、頭を下げたままのソーヤーを睨み付けた。
「怪我がなかったから良かったようなものの、大事な息子の身に何かあったらどう責任を取るつもりなのか」
「申し訳ございません」
 ソーヤーはただひたすらに頭を下げている。
「申し訳ないでは」
「父上」
 イリヤの声がくどくどと続きそうなキーファー子爵の言葉を遮った。
「お前は黙っていろ」
「いえ、ソーヤー隊長にお聞きしたい事があるんですが」
「私に?」
 キーファー子爵の不満そうな顔を無視して、イリヤはソーヤーに向き直った。
「以前近衛師団にいらっしゃったと言っていましたが、長かったんですか?」
 ソーヤーはその質問が何になるのかと疑問に思いはしたようだが、すぐに口を開いた。
「そうですね、二十五の歳に入隊して三十六で辞めましたので、十、いえ十一年はおりました」
「十一年……そうですか」
 そうなるとソーヤーが近衛師団に入団したのは十六年前だ。イリヤは当てが外れた事に落胆を覚えたが、顔には出さず、質問の続きを待っているソーヤーを見上げた。
「いえ、やはり以前近衛師団にいた方と懇意にしているもので、ご存知かと思って」
「どなたです?」
「フォルケ伯爵です。ご存知ですか?」
「フォルケ伯爵? ああ、あの方が師団にいらっしゃったのは私の入隊する前ですね。私が入隊した頃には、既に正規軍の顧問として現在の地位におられましたので、残念ながら面識はありません」
「そうですか――いえ、すみません、いきなりそんな事を聞いて」
 ソーヤーは構わないと言うように微笑を浮かべて、広間への扉を開いた。イリヤ達が広間に入るとソーヤーは廊下から扉を閉ざし、途端に流れる楽の音に今までの静けさも独特の緊張感も消える。
 広間ではまだ多くの着飾った紳士淑女達が思い思いに談笑していたが、彼等の華やかな装いもそれを照らす煌びやかな燭蝋の光も、流れる楽の音も、最初ほどにも美しくは思えなかった。
「……疲れましたね」
 緊張が解け、それまで感じていなかった疲労がどっと押し寄せてきて、イリヤは壁際に置かれた長椅子を選んで、そこに座った。すぐにでも帰りたい気にもなっていたが、まだ捕まえて話をすべき相手がいる。
 イリヤがその相手を探す為に顔を持ち上げた時、キーファー子爵は辺りを見回し、イリヤの隣に腰かけると声を潜めた。
「王に――イリヤ、今王に名が知られるのは不味いのではないか」
 老顔は引きつるように青ざめて、声には縋る響きがある。
「もし、王が」
 この男は思った以上に小心だと、イリヤは内心で呆れた溜息をついた。以前は散々イリヤに浴びせた居丈高な口調も、全く影を潜めている。先ほどレオアリス達の前にいた時も、あれでは怪しんでくれと言わんばかりだ。
 湧き上がる苦々しい思いを抑え、イリヤはキーファー子爵を安心させるように首を振った。今ここで怖じ気付かれて手を引かれたら、これまでの事は全く意味が無くなる。
「大丈夫ですよ、判りっこない。逆に名前を聞いて判る位なら、もうそれで――」
 言い掛けて、イリヤは口を噤んだ。
 それで――。何と言おうとしたのだろう。
 それで?
 噛み締めた唇と色違いの瞳には一瞬の苛立ちが表れていたが、すぐにイリヤは口元を笑みの形に歪めた。
「気付く訳がありませんよ」
 そう言ったイリヤの胸の内では、鼓動が普段よりも早い間隔で刻まれている。自分を嘲笑うようなその鼓動を、イリヤは聞かない振りをした。
「それよりも、予定外ではありますが剣士殿と繋がりができた。普通に挨拶を交わしただけより、後日また尋ねやすいんじゃないかな」
 あの迷路で、何の含みもなく差し出された手の温もりがふと蘇る。自分では意識していなかったが、イリヤは口元に笑みを浮かべた。
「本当にずっと話しやすそうだし、怪我の功名ってやつだ」
「何を暢気な」
 イリヤの落ち着きぶりに比べて、今のキーファー子爵にはどれもこれも悪い方向に向っているように思え、それをぶつけるように忌々しげにイリヤを睨み付けた。
「そもそも先ほどの事件は、どういう事なのだ」
 元はと言えばイリヤがあんな事件に巻き込まれたから悪いのだと言わんばかりに、キーファー子爵の声には刺が含まれている。
「私に判る訳ないじゃないですか。さすがに死ぬんじゃないかと思ったくらいだ。でも、多分」
 イリヤには一つ確信があった。
 庭園から戻った時の、フォルケ伯爵の表情。
 探すまでもなく、広間の客の間にこちらを見つめるフォルケ伯爵の姿を捉え、向けられた視線に答えてイリヤはにこりと笑った。
「彼が知ってますよ」
 イリヤの視線を追ってフォルケ伯爵を見つけ、キーファー子爵は驚いた顔で白い眉を上げた。
「伯爵が? まさか」
 フォルケ伯爵はイリヤのもの柔らかな視線を恐れるように暫くその場に立ち尽くしていたが、やがて二人へと歩み寄った。立ち上がり、フォルケ伯爵を悠然と迎えて、イリヤは笑みを浮かべたまま軽く目礼する。
「イリヤ殿」
「どうも、フォルケ伯爵。剣士殿と面識ができましたよ。当初の予定とは違いますが、貴方が何やら手助けをしてくださったんでしょう」
 弾んだ、いかにも楽しげな声には、フォルケ伯爵の意志を弱らせる毒が含まれている。
「違う、私はただ」
 口籠もりながら何とか言い抜けようとするフォルケ伯爵に対し、イリヤの笑みはますます深まった。
「この場では話し難いでしょう。それに私が近衛師団に何を話したのか、貴方にもご報告しておかなきゃいけません。一旦私共の屋敷にご一緒願えますか」
 色違いの瞳が射抜くようにフォルケ伯爵を見つめ、フォルケ伯爵は飲み込まれそうな感覚に頭を強く振った。
 イリヤは先に立って楽の音が続く広間を後にし、フォルケ伯爵が後に続いているのかも確認しないまま、玄関へと歩いていく。
 一度だけ、廊下の奥、先ほどの部屋がある辺りへ視線を投げたが、まだレオアリス達が出てくる様子は無かった。



 キーファー子爵邸に着いた頃には、もう陽は傾き始めていた。
 先日初めてフォルケ伯爵と会った客間に入り、再び暖炉の前に長椅子を寄せる。暖かい場所という意図以上に、そこが扉からも窓からも一番離れているからだ。
「どうぞ」
 椅子を勧めたのはイリヤだ。この場の主導権はすっかりイリヤに移っていた。
「お飲み物を用意させています。それまで私が今日の話を掻い摘んでご説明しますので、伯爵はどうぞ身体を暖めてください」
 イリヤの説明は途中で飲み物が運ばれて来た時以外、キーファー子爵もフォルケ伯爵も口を挟む事なく続けられた。先ほどのレオアリス達とのやりとりを、一言一句なぞるかのようだ。
「あの場での結論は、幸いまだ我々に疑問を持たれるようなものじゃ無かった。色々聞かれましたが、襲われた理由は本当に私にも判らないですしね」
 ほっと息を吐きかけたフォルケ伯爵を牽制するように、イリヤは容赦なく言葉を継いだ。
「ただ、貴方には理由が判ってるんじゃないですか?」
「――」
 フォルケ伯爵の顔には後ろめたさから来る陰が色濃く落ちている。だが、まだ口を開くのを躊躇う素振りを見せるフォルケ伯爵に対して、イリヤはその顔を覗き込むように矢を放った。
「そうだ、今日の件は、王へ報告が上がるそうですよ」
 ぎょっとしてフォルケ伯爵は思わず立ち上がった。
「お、王に」
「まあ侯爵家の邸内で、しかも近衛師団の大将が関わった事件では、彼等としては報告しない訳にはいかないんでしょうね。本当に予定外だ。こんな事で王に家名が伝わったら、この後何かあった時にかなりやりにくくなりますよ」
 フォルケ伯爵は立ち竦み口元を震わせた。イリヤは長椅子に掛けたまま、それを冷たい瞳で見上げる。
「当然、私がまた何か質問を受ける事もあるでしょう。そうしたら思い当たる節を全て包み隠さず話すしかないですね。そう言えば、ゴドフリー侯爵家の警備隊長は元近衛師団だとか――残念ながら貴方の事は知らなかったけど」
「確認すると」
 フォルケ伯爵の絞り出すような声に、イリヤは口を閉ざした。
「――確認?」
 今やフォルケ伯爵の顔からはすっかり血の気が失せ、紙のように白い。額には玉のような汗が浮かんでいる。
「奴がそう言ったのだ。まさか、あのような乱暴な手立てを取るとは思わなかった」
「どういう事なのか、はっきり説明してください。奴というのは誰なんですか」
「私は、協力を求めようと……この話は我々だけでは困難だ。かといって下手に他の者に知らせる訳にもいかぬ。あの者達ならば、王に密告される恐れもない」
 確かにフォルケ伯爵の言葉は的を射ている。彼等の目的を達成するのに、彼等だけでは力不足だ。
 だが、イリヤにとっては、違う。
 イリヤは辿り着けば、それでいい。
「イリヤ殿、貴方が本当にあの手記の通りであれば、彼等は協力すると言ったのだ。その為には、確認が必要だと」
 一度息を吸い込み、イリヤは注意深くフォルケ伯爵を見つめた。
「――何のですか」
「貴方が持っている力の」
「――」
 イリヤは自分の右手に視線を落とした。イリヤが有する力。幼い頃から気味が悪いとそう言われ続けた能力だ。あって良かったとは、一度も思った事が無い。
 それを持っているから何なのか――
「その力があれば、貴方は確実に」
『その最たるものは――』
「――」
 イリヤは静かに、出来る限り抑えて息を吸い込み、吐き出した。
 疎ましく思っていた力。
 そこに最も深い繋がりが顕れていたのか。
 叫びたいのか、笑いたいのか、それとも――。感情を押し込め、非常に辛抱強く、イリヤはフォルケ伯爵の面長な顔をじっと見据えた。
「誰が――フォルケ伯爵、それは誰なんです」
「――西方の」
 言いかけて、一度口を噤み、開け放たれた扉を用心深く見つめる。暫くしてから漸く、イリヤ達にさえ届くか届かないかの声で囁いた。
「ある方の使者から、伝言があった」
「西方――?」
 まず思い浮かんだのは、フォルケ伯爵が軍事顧問になっている正規軍西方辺境軍だ。有力な協力者として考えられるのは、辺境軍大将ウィンスター。
 その次に、辺境軍大将よりも地位が高く西方軍全体を動かせる存在、正規西方軍将軍ヴァン・グレッグ。
 それから最も可能性が低く、王の次に位の高い者――西方公、ルシファー。
 だが、フォルケが告げた名は、そのどれでも無かった。
いにしえの海の」
 思いも寄らない言葉に、一瞬の間があった。
 キーファー子爵が息を呑み、そして驚愕と――それよりも強い恐怖に顔を強ばらせる。
「まさか――」
 その先を口にするのを恐れるように、キーファー子爵は口に出しかけた言葉を飲み込んだ。
 フォルケは既に言葉を収めるつもりはない。まるで尋ねた彼等が悪いのだと、そう言うように口元を歪めた。
「――海皇かいおう
 室内は一瞬の内に凍り付いた。暖炉の炎すら熱を失ったように感じられる。
 西の辺境に広がる古の海、バルバドス。王国との長きに渡る激しい戦乱は、今も歴史の中に深い疵となって刻み込まれている。
 戦乱の末に漸く結ばれた不可侵条約により、今は西海との境界を越える事は禁じられている。それはイリヤですら知っている事だ。
「……何を考えてるんですか、西海を呼び込むなんて――」
 イリヤの声もまた、戸惑いに語尾が擦れている。
 フォルケ伯爵のやろうとしている事は、身を滅ぼしかねない愚かな行為だ。
 しかも西海は、不可侵条約を破った事になる。
 その事実の大きさに気付いて、イリヤは愕然とした。
 下手をすれば――
「――」
 フォルケ伯爵は引きつった笑みを浮かべ、醜く歪めた面をイリヤとキーファー子爵に向けた。
「私も後戻りはできない。だがあなた方も、後戻りなどできないと、それを覚悟してもらおう」
 キーファー子爵は立つ力を失って長椅子に凭れ込んだまま、フォルケ伯爵を見上げ、弱々しく首を振った。
「馬鹿な、そんな……私はそんなつもりは」
「今さら何を。目的は王に近付く事だったはずだ。我々だけでそれを成し得ると、そう思っていたのかね? 有力な支援が必要なのは判っていたはず――欲しかったはずだ」
「し、しかし」
「今夜にも、また返答があるだろう」
 キーファー子爵は血の気の失せた顔で頭を抱え込み、フォルケ伯爵はその前に立ちはだかり、傲然とすら見える。
 その光景は、まるで劇の一幕のようにすら映った。
 出来損ないの喜劇だ。
 だが、この喜劇に単純な幕はない。
(――)
 じっとその場面を見つめ、暫くしてイリヤは瞳を逸らした。
 その二つの瞳にはそれぞれに、せめぎ合う二つの色があった。



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renewal:2008.11.22
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