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王の剣士4 「かりそめの宴」
【第二章 「波紋」】


 結論から言うと、ファルシオンは相当不機嫌だった。
「ファルシオン様、大将殿がお見えです」
 侍従長ハンプトンは扉の向こうに声をかけたが、ファルシオンからの返事はない。だが訝るレオアリスを余所に、ハンプトンは躊躇い無く扉を開けた。
「どうぞ、お入りください」
 通されたのはいつもの面会の為の部屋ではなく、ファルシオンの寝室だ。広い部屋に一台、天蓋の付いた寝台が置かれている。
 寝台を覆う布も窓の日除け布も全て上げられていたが、ファルシオンはまだ掛布に包まっているのか、寝台の真ん中がぽっこり盛り上がっていた。ハンプトンが声をかけても起き上がる気配が無い。
 レオアリスは驚いてハンプトンを振り返った。
「殿下はお身体の具合でも?」
「いえ、その、少し――。殿下、大将殿がお見えですよ、殿下――」
 恐縮した様子のハンプトンを片手を上げて止め、レオアリスは寝台に近寄った。
「ファルシオン殿下、」
 寝台の傍に膝を付こうとした時、突然何かが飛んで来て、レオアリスは思わず先日覚えたての舞踏よろしく、華麗な足さばきで避けてしまった。
(あ、ジェイク)
 床に転がったのは大きな熊のぬいぐるみだ。ファルシオンのお気に入りで、いつもこっそり寝台に忍ばせているものだ。
 実は皆知っているのだが、ともかくレオアリスには知られてもいいと思ったのか、前に本を読み聞かせた時にそっと熊の名前を教えてくれた。その名前がジェイクだ。
「何しに来た!」
 当のファルシオンは寝台の上に起き上がり、小さな頬を精一杯に膨らませてレオアリスを睨み付けている。
「何しにって、」
 呼ばれたから、と口にしかけたレオアリスの袖を、傍らのハンプトンが素早く引く。
「殿下、大将殿は心配して駆け付けてくださったのですよ」
(ん?)
「嘘だ、昨日来なかったのに」
「昨日はお忙しくて」
「ほらみろ、後回しじゃないかっ」
「わがままを仰ってはいけません。大将殿は大切なお仕事をお持ちなのですから」
「そんなの知らないっ」
「殿下」
(――えーっと)
 話が全く見えない。
 とりあえず、磨き上げられた床に落ちた熊のぬいぐるみを拾い、まずファルシオンに返すべきか数瞬迷った後に、挨拶を先回しにする事に決めた。膝を付いたものの、小脇に熊のぬいぐるみを抱えたままだ。
「ファルシオン殿下におかれましては、ご機嫌――」
 麗しくない相手には、何と言うべきだろう。
(困った。こういう場合も聞いときゃ良かったな)
 代わりにぬいぐるみを見たが、つぶらな硝子の瞳が答えを返す訳もない。
 一方レオアリスが黙り込んだせいで、それまではらはらと様子を伺っていた侍従達の列に、更なる緊張が走った。
 今日は一日、ファルシオンは機嫌を損ねていたのだ。いや、正確に言えば昨日からずっと、ファルシオンの機嫌は良くなかった。塞ぎ込んでいたと言うべきかもしれない。
 侍従達が固唾を飲んで見守る前で、レオアリスは顔を上げた。
 挨拶よりもまず、原因追求を優先する事にしたようだ。
「殿下、俺が何かご機嫌を損ねるような事を致しましたか」
「――何もしてない」
「では」
「なんにもしてないくせに!」
「――いや、くせにって……」
「出てけ! もう遊ばないんだからな!」
 ますます訳が判らない。何もしていない事でファルシオンは一体何を怒っているのかと、レオアリスは援護を求めるようにハンプトンを見た。
 ハンプトンが困り切った顔で首を振る。
「殿下は昨日の朝、夢見を悪くしてお目覚めになられたのです」
「――はあ」
 つい気の抜けた返事を返してしまった。要は恐い夢を見たという事か。
「非常にご不安をお覚えになられ、大将殿をお呼びになろうとなされたのですが、生憎とご所用があると」
「ああ、昨日は――」
 ゴドフリー侯爵の園遊会が午後にあった為、午前中に済ますべき事が多く、確かに慌ただしかった。
 しかしそれが何故、今のこの状況に繋がるのかが判らない。
 だがハンプトンはレオアリスがそれで全て理解しただろうと言うように、一歩下がった。
「どうぞ、殿下を」
「どうぞって、それだけ?」
 それだけ、という言葉にファルシオンは素早く反応した。
 枕が飛んできて、ぼすんとレオアリスの後頭部に当たる。
「それだけとは何だ!」
「――殿下」
 枕が床に落ちる前に受け止めて、レオアリスはすっくと立ち上がった。すらりと立てばさすがは近衛師団大将、周囲の空気を引き締めるような風格がある。
「人に向かって物を投げるのはいけません。それに枕はともかく、この熊のジェイクは殿下のお気に入りのはずでしょう」
 凛とした口調だが、いかんせん片手には熊のぬいぐるみを持ち上げ片腕で枕を抱えていて、どうしても真面目な様子には見えない。実際、王族の侍従としてまだ鍛え方が足りなかった何人かは、真剣な表情を保ち切れずに俯いて肩を揺らしている。
 ただファルシオンにとっては笑い事ではない。ハンプトンにいつも注意されるのも忘れて、寝台の上で癇癪気味に手足を振った。
「いらない! ジェイクもそなたも、もう顔も見たくない!」
 叩きつけるような言葉に、その場に凍りつくような沈黙が落ちる。幾つもの視線がはらはらと注がれる中、レオアリスは暫くファルシオンの瞳をじっと見つめてから、静かに息を吐いた。
「――判りました」
 レオアリスが普段とは違う厳しい表情をしたのに気付き、ファルシオンの面にたちまち後悔の色が満ちる。
「顔をご覧になりたくないと仰せであれば、これで退出させて戴きます。このジェイクは俺に下賜されたという事で連れて帰りますが、よろしいですね」
 レオアリスは枕をハンプトンに預け、ぬいぐるみを胸の前に持ち上げてみせた。
 尋ねるのではなく、言い切りだ。
 ファルシオンは慌てて大きな瞳を瞬かせた。
 レオアリスは非情なほどにあっさりとファルシオンに背を向けてしまい、ファルシオンの顔を見ようともしない。
「あ――」
 このままではレオアリスも熊のジェイクも行ってしまう。
 ハンプトンもレオアリスを引き止めるつもりは無いらしく、彼を見送ろうと丁寧に頭を下げている。
 実際は二人とも、吹き出しそうなのを堪える為にファルシオンから顔を背けていた訳だが、ファルシオンは堪らず寝台を飛び出した。
「やだあ!」
 走り寄り、両腕を伸ばしてレオアリスの脚にがっちりしがみ付いた。
「ジェイクー!」
(うおっ、ジェイクが先かよ)
 内心の苦笑を隠して、レオアリスはわざとらしく溜息を吐いた。
「仕方ない、ではジェイクはお返しします」
 ずい、と差し出されても、ファルシオンは脚にしがみ付いたまま、ぬいぐるみを受け取ろうとはしない。
「殿下。ジェイクを受け取って戴かないと、俺が帰れませんが」
 少し突き放し過ぎかと思った辺りで、ファルシオンは顔を上げてレオアリスを睨んだ。二つの瞳には薄っすらと涙が滲んでいる。
「そんなに私のところにいるのは嫌なのか」
「――」
 王に良く似た金色の瞳には、単なる癇癪ではない、無視できない色がある。
「嫌だと申し上げた事は一度もありませんが」
「自分からは来ないくせに!」
「殿下がお呼びにならなければ、俺が勝手に居城に上がる訳にはいきません」
「兄上なら呼ばなくても来てくれる!」
 身を振り絞るような声だった。
 たったそれだけの叫びに、ファルシオンの寂しい思いが全て込められているようで、レオアリスははっとして幼い王子を見つめた。
「――」
 ああ、そういう事だったのか、と漸く思い至った。
 ファルシオンが自分に、亡くなった兄を重ねているのだとは聞いていた。
 ファルシオンは恐い夢を見て、誰かに――兄に、傍にいてもらいたかったのだろう。
 常に王の子として、世継としての立ち居振る舞いを求められ、良くそれに応えているとは思うが、ファルシオンはまだたったの四歳に過ぎない。
 本当に、良く周囲の期待に応えている。
 でもやはり、恐い夢を見たら心細いのだ。ファルシオンの為に整えられたこの広い王宮には、駆け寄れる父や母の膝もない。
 もちろん、会いに出かければ会える。おそらくファルシオンが甘えれば、王や王妃は追い返したりなどしないだろうとは思う。王が時折人前に見せる家族としての姿は心温まるものだし、先日レオアリスにファルシオンの事を語った口調も普段の近寄りがたさは無く、深い愛情を感じられた。
 ただ、ファルシオンは頭を撫ぜて欲しいだけではなく、兄という存在に強い憧れを抱いているのだろう。
 大人にばかり囲まれて広い王宮で過ごし、もっと身近な、頼ったり甘えたりする存在が欲しいのだ。
 ファルシオンは確かに、その存在を持っていたはずだった。失われなければ「彼」はファルシオンの傍にいて、ファルシオンが寂しい思いをする事はなかったかもしれない。
 それは、レオアリスにも判る感情だ。
 良く、理解できる。
 胸を締め付けられるような、針を刺すような痛みを感じたが、ただ、どうすればいいのかは判らなかった。
 いくらファルシオンがレオアリスに兄を重ね合わせたとしても、レオアリスはあくまで、一介の臣下でしかない。
 ファルシオンが望むように、どんな時も傍にいるなど無理な話だ。
「殿下――」
 レオアリスは膝を付き、ファルシオンと視線を合わせた。
 掛ける言葉を慎重に、非常に慎重に選ばなくてはいけない。ただ、それが避けては通れないものである事は事実だった。告げるのが遅くなれば遅くなるほど、ファルシオンをいたずらに苦しめる事になる。
「――俺は王にお仕えする者で、いわば貴方の臣下でもあります。必要な時はいつでもお呼びください。ただ」
 ハンプトン達もレオアリスが何を告げようとしているのか気が付いて、はらはらとその様子を見つめている。
 それはとても告げるのが難しい言葉だったが、レオアリスはファルシオンの瞳を真っ直ぐ捉えた。
「俺は、貴方の兄君ではありません」
 ファルシオンの金色の瞳が、緩やかに見開かれる。
 分かり切った事実を告げるのに、こうも消耗を覚えるものかと、心の片隅で思った。
「――」
「殿下の兄君は一人しかいない。誰も代わりにはなれません」
 身体の脇でぎゅっと握られた小さな手が痛々しい。それでもレオアリスは、ゆっくりと言葉を継いだ。
「でもそれは悲しい事ではなく、殿下にとってそれだけ、兄君が特別な方だという事です」
 兄上が、とファルシオンは口の中で繰り返した。
 幼いながらもファルシオンは、レオアリスの言葉を理解したようだ。長い事俯いていたが、やがてこくりと頷いた。
「――でも、そなたは呼んだら来てくれるのだな」
「必ず」
 レオアリスは力強く頷き返した。微笑んで、ファルシオンの手を取って小さな手を包み、それから彼のお気に入りのぬいぐるみを手渡す。
「ほら、ジェイクです。ジェイクも心配してますよ」
 ファルシオンはふかふかの毛並みをぎゅっと抱き締め、ぬいぐるみのお腹に顔を埋めた。レオアリスの手がまだ柔らかな銀色の髪を撫ぜる。
「俺は兄君ほどにはなれませんが、また遊んで戴けますね?」
 ファルシオンの代わりに熊が頷いて、レオアリスは可笑しそうに笑った。緊張しきっていた侍従達もほっと息を零す。
「良かった。さあ、じゃあ今日はどうしますか? かけっこか、玉遊びか、庭をただ散歩してもいいですね」
「――本。おととい、新しい本を母上からいただいたのだ」
「承知しました」
「三冊あるぞ」
 本当は三冊読んで欲しい――三冊分傍に居て欲しいのだけれども、一冊だけと言われるのではないかと、ファルシオンは俯き加減にレオアリスを見上げた。
「全部読みますか? 途中で寝てしまうんじゃ」
「平気!」
 ファルシオンはぱっと瞳を輝かせ、熊を抱き締めたまま走り出した。途中でさすがに、ぬいぐるみを抱き締めているのは恥ずかしいと思ったのだろう、寝台の上にちょこんと戻して、それから寝台脇の低い棚に置いてあった三冊の本を取り上げ、抱えて戻る。
「あっちの温室の長椅子が良い。行こう」
 そういうと、レオアリスの手を取り、引っ張るようにして温室へと歩き出した。



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