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王の剣士4 「かりそめの宴」
【第二章 「波紋」】


 結論から言うと、ファルシオンは相当不機嫌だった。
「ファルシオン様、大将殿がお見えです」
 侍従長ハンプトンは扉の向こうに声をかけたが、ファルシオンからの返事はない。だが訝るレオアリスを余所に、ハンプトンは躊躇い無く扉を開けた。
「どうぞ、お入りください」
 通されたのはいつもの面会の為の部屋ではなく、ファルシオンの寝室だ。広い部屋に一台、天蓋の付いた寝台が置かれている。
 寝台を覆う布も窓の日除け布も全て上げられていたが、ファルシオンはまだ掛布に包まっているのか、寝台の真ん中がぽっこり盛り上がっていた。ハンプトンが声をかけても起き上がる気配が無い。
 レオアリスは驚いてハンプトンを振り返った。
「殿下はお身体の具合でも?」
「いえ、その、少し――。殿下、大将殿がお見えですよ、殿下――」
 恐縮した様子のハンプトンを片手を上げて止め、レオアリスは寝台に近寄った。
「ファルシオン殿下、」
 寝台の傍に膝を付こうとした時、突然何かが飛んで来て、レオアリスは思わず先日覚えたての舞踏よろしく、華麗な足さばきで避けてしまった。
(あ、ジェイク)
 床に転がったのは大きな熊のぬいぐるみだ。ファルシオンのお気に入りで、いつもこっそり寝台に忍ばせているものだ。
 実は皆知っているのだが、ともかくレオアリスには知られてもいいと思ったのか、前に本を読み聞かせた時にそっと熊の名前を教えてくれた。その名前がジェイクだ。
「何しに来た!」
 当のファルシオンは寝台の上に起き上がり、小さな頬を精一杯に膨らませてレオアリスを睨み付けている。
「何しにって、」
 呼ばれたから、と口にしかけたレオアリスの袖を、傍らのハンプトンが素早く引く。
「殿下、大将殿は心配して駆け付けてくださったのですよ」
(ん?)
「嘘だ、昨日来なかったのに」
「昨日はお忙しくて」
「ほらみろ、後回しじゃないかっ」
「わがままを仰ってはいけません。大将殿は大切なお仕事をお持ちなのですから」
「そんなの知らないっ」
「殿下」
(――えーっと)
 話が全く見えない。
 とりあえず、磨き上げられた床に落ちた熊のぬいぐるみを拾い、まずファルシオンに返すべきか数瞬迷った後に、挨拶を先回しにする事に決めた。膝を付いたものの、小脇に熊のぬいぐるみを抱えたままだ。
「ファルシオン殿下におかれましては、ご機嫌――」
 麗しくない相手には、何と言うべきだろう。
(困った。こういう場合も聞いときゃ良かったな)
 代わりにぬいぐるみを見たが、つぶらな硝子の瞳が答えを返す訳もない。
 一方レオアリスが黙り込んだせいで、それまではらはらと様子を伺っていた侍従達の列に、更なる緊張が走った。
 今日は一日、ファルシオンは機嫌を損ねていたのだ。いや、正確に言えば昨日からずっと、ファルシオンの機嫌は良くなかった。塞ぎ込んでいたと言うべきかもしれない。
 侍従達が固唾を飲んで見守る前で、レオアリスは顔を上げた。
 挨拶よりもまず、原因追求を優先する事にしたようだ。
「殿下、俺が何かご機嫌を損ねるような事を致しましたか」
「――何もしてない」
「では」
「なんにもしてないくせに!」
「――いや、くせにって……」
「出てけ! もう遊ばないんだからな!」
 ますます訳が判らない。何もしていない事でファルシオンは一体何を怒っているのかと、レオアリスは援護を求めるようにハンプトンを見た。
 ハンプトンが困り切った顔で首を振る。
「殿下は昨日の朝、夢見を悪くしてお目覚めになられたのです」
「――はあ」
 つい気の抜けた返事を返してしまった。要は恐い夢を見たという事か。
「非常にご不安をお覚えになられ、大将殿をお呼びになろうとなされたのですが、生憎とご所用があると」
「ああ、昨日は――」
 ゴドフリー侯爵の園遊会が午後にあった為、午前中に済ますべき事が多く、確かに慌ただしかった。
 しかしそれが何故、今のこの状況に繋がるのかが判らない。
 だがハンプトンはレオアリスがそれで全て理解しただろうと言うように、一歩下がった。
「どうぞ、殿下を」
「どうぞって、それだけ?」
 それだけ、という言葉にファルシオンは素早く反応した。
 枕が飛んできて、ぼすんとレオアリスの後頭部に当たる。
「それだけとは何だ!」
「――殿下」
 枕が床に落ちる前に受け止めて、レオアリスはすっくと立ち上がった。すらりと立てばさすがは近衛師団大将、周囲の空気を引き締めるような風格がある。
「人に向かって物を投げるのはいけません。それに枕はともかく、この熊のジェイクは殿下のお気に入りのはずでしょう」
 凛とした口調だが、いかんせん片手には熊のぬいぐるみを持ち上げ片腕で枕を抱えていて、どうしても真面目な様子には見えない。実際、王族の侍従としてまだ鍛え方が足りなかった何人かは、真剣な表情を保ち切れずに俯いて肩を揺らしている。
 ただファルシオンにとっては笑い事ではない。ハンプトンにいつも注意されるのも忘れて、寝台の上で癇癪気味に手足を振った。
「いらない! ジェイクもそなたも、もう顔も見たくない!」
 叩きつけるような言葉に、その場に凍りつくような沈黙が落ちる。幾つもの視線がはらはらと注がれる中、レオアリスは暫くファルシオンの瞳をじっと見つめてから、静かに息を吐いた。
「――判りました」
 レオアリスが普段とは違う厳しい表情をしたのに気付き、ファルシオンの面にたちまち後悔の色が満ちる。
「顔をご覧になりたくないと仰せであれば、これで退出させて戴きます。このジェイクは俺に下賜されたという事で連れて帰りますが、よろしいですね」
 レオアリスは枕をハンプトンに預け、ぬいぐるみを胸の前に持ち上げてみせた。
 尋ねるのではなく、言い切りだ。
 ファルシオンは慌てて大きな瞳を瞬かせた。
 レオアリスは非情なほどにあっさりとファルシオンに背を向けてしまい、ファルシオンの顔を見ようともしない。
「あ――」
 このままではレオアリスも熊のジェイクも行ってしまう。
 ハンプトンもレオアリスを引き止めるつもりは無いらしく、彼を見送ろうと丁寧に頭を下げている。
 実際は二人とも、吹き出しそうなのを堪える為にファルシオンから顔を背けていた訳だが、ファルシオンは堪らず寝台を飛び出した。
「やだあ!」
 走り寄り、両腕を伸ばしてレオアリスの脚にがっちりしがみ付いた。
「ジェイクー!」
(うおっ、ジェイクが先かよ)
 内心の苦笑を隠して、レオアリスはわざとらしく溜息を吐いた。
「仕方ない、ではジェイクはお返しします」
 ずい、と差し出されても、ファルシオンは脚にしがみ付いたまま、ぬいぐるみを受け取ろうとはしない。
「殿下。ジェイクを受け取って戴かないと、俺が帰れませんが」
 少し突き放し過ぎかと思った辺りで、ファルシオンは顔を上げてレオアリスを睨んだ。二つの瞳には薄っすらと涙が滲んでいる。
「そんなに私のところにいるのは嫌なのか」
「――」
 王に良く似た金色の瞳には、単なる癇癪ではない、無視できない色がある。
「嫌だと言った事は一度もありませんが」
「自分からは来ないくせに!」
「殿下がお呼びにならなければ、俺が勝手に居城に上がる訳にはいきません」
「兄上なら呼ばなくても来てくれる!」
 身を振り絞るような声だった。
 たったそれだけの叫びに、ファルシオンの寂しい思いが全て込められているようで、レオアリスははっとして幼い王子を見つめた。
「――」
 ああ、そういう事だったのか、と漸く思い至った。
 ファルシオンが自分に、亡くなった兄を重ねているのだとは聞いていた。
 ファルシオンは恐い夢を見て、誰かに――兄に、傍にいてもらいたかったのだろう。
 常に王の子として、世継としての立ち居振る舞いを求められ、良くそれに応えているとは思うが、ファルシオンはまだたったの四歳に過ぎない。
 本当に、良く周囲の期待に応えている。
 でもやはり、恐い夢を見たら心細いのだ。ファルシオンの為に整えられたこの広い王宮には、駆け寄れる父や母の膝もない。
 もちろん、会いに出かければ会える。おそらくファルシオンが甘えれば、王や王妃は追い返したりなどしないだろうとは思う。王が時折人前に見せる家族としての姿は心温まるものだし、先日レオアリスにファルシオンの事を語った口調も普段の近寄りがたさは無く、深い愛情を感じられた。
 ただ、ファルシオンは頭を撫ぜて欲しいだけではなく、兄という存在に強い憧れを抱いているのだろう。
 大人にばかり囲まれて広い王宮で過ごし、もっと身近な、頼ったり甘えたりする存在が欲しいのだ。
 ファルシオンは確かに、その存在を持っていたはずだった。失われなければ「彼」はファルシオンの傍にいて、ファルシオンが寂しい思いをする事はなかったかもしれない。
 それは、レオアリスにも判る感情だ。
 良く、理解できる。
 胸を締め付けられるような、針を刺すような痛みを感じたが、ただ、どうすればいいのかは判らなかった。
 いくらファルシオンがレオアリスに兄を重ね合わせたとしても、レオアリスはあくまで、一介の臣下でしかない。
 ファルシオンが望むように、どんな時も傍にいるなど無理な話だ。
「殿下――」
 レオアリスは膝を付き、ファルシオンと視線を合わせた。
 掛ける言葉を慎重に、非常に慎重に選ばなくてはいけない。ただ、それが避けては通れないものである事は事実だった。告げるのが遅くなれば遅くなるほど、ファルシオンをいたずらに苦しめる事になる。
「――俺は王にお仕えする者で、いわば貴方の臣下でもあります。必要な時はいつでもお呼びください。ただ」
 ハンプトン達もレオアリスが何を告げようとしているのか気が付いて、はらはらとその様子を見つめている。
 それはとても言いにくい言葉だったが、レオアリスはファルシオンの瞳を真っ直ぐ捉えた。
「俺は、貴方の兄君ではありません」
 ファルシオンの金色の瞳が、緩やかに見開かれる。
 分かり切った事実を告げるのに、こうも消耗を覚えるものかと、心の片隅で思った。
「――」
「殿下の兄君は一人しかいない。誰も代わりにはなれません」
 身体の脇でぎゅっと握られた小さな手が痛々しい。それでもレオアリスは、ゆっくりと言葉を継いだ。
「でもそれは悲しい事ではなく、殿下にとってそれだけ、兄君が特別な方だという事です」
 兄上が、とファルシオンは口の中で繰り返した。
 幼いながらもファルシオンは、レオアリスの言葉を理解したようだ。長い事俯いていたが、やがてこくりと頷いた。
「――でも、そなたは呼んだら来てくれるのだな」
「必ず」
 レオアリスは力強く頷き返した。微笑んで、ファルシオンの手を取って小さな手を包み、それから彼のお気に入りのぬいぐるみを手渡す。
「ほら、ジェイクです。ジェイクも心配してますよ」
 ファルシオンはふかふかの毛並みをぎゅっと抱き締め、ぬいぐるみのお腹に顔を埋めた。レオアリスの手がまだ柔らかな銀色の髪を撫ぜる。
「俺は兄君ほどにはなれませんが、また遊んで戴けますね?」
 ファルシオンの代わりに熊が頷いて、レオアリスは可笑しそうに笑った。緊張しきっていた侍従達もほっと息を零す。
「良かった。さあ、じゃあ今日はどうしますか? かけっこか、玉遊びか、庭をただ散歩してもいいですね」
「――本。おととい、新しい本を母上からいただいたのだ」
「承知しました」
「三冊あるぞ」
 本当は三冊読んで欲しい――三冊分傍に居て欲しいのだけれども、一冊だけと言われるのではないかと、ファルシオンは俯き加減にレオアリスを見上げた。
「全部読みますか? 途中で寝てしまうんじゃ」
「平気!」
 ファルシオンはぱっと瞳を輝かせ、熊を抱き締めたまま走り出した。途中でさすがに、ぬいぐるみを抱き締めているのは恥ずかしいと思ったのだろう、寝台の上にちょこんと戻して、それから寝台脇の低い棚に置いてあった三冊の本を取り上げ、抱えて戻る。
「あっちの温室の長椅子が良い。行こう」
 そういうと、レオアリスの手を取り、引っ張るようにして温室へと歩き出した。


 レオアリスは二刻ほどファルシオンに本を読み聞かせ、とりとめのない話をして、それから退出した。彼が帰る頃にはファルシオンもすっかりいつもの様子を取り戻し、昨日からずっと心配していた侍従達もほっと胸を撫で下ろした。
 夕食も済み、今は湯浴みの最中だ。ハンプトンは湯殿から聞こえるはしゃいだ声に柔らかな笑みを向けた。
「良かったわ、すっかりお元気になられて」
 傍らの侍従達も同意を示して大きく頷く。夕食の間も、どんな本を読んでもらったとか、どんな話をしたのだとか、ファルシオンはとても嬉しそうだった。
 兄という立場ではなくても傍にいてくれるのだという、その事が逆にファルシオンの気持ちを浮き立たせてもいたようだ。
「本当に、殿下は大将殿がお好きなのですねぇ。あんな風にお笑いになるのは嬉しいこと」
「お夕食もしっかり召し上がられましたし――そうだわ、ハンプトン侍従長、今度大将殿を夕食のお席にお招きしてはいかがでしょう」
「それは素敵な思い付きね。それなら殿下には内緒でお呼びして――きっととてもお喜びになるでしょう」
「いつがよろしいかしら」
 ハンプトン達が顔を見合せた時、ファルシオンの声が大きくなった。湯浴みを終えて出てきたのだ。ハンプトン達はそっと口元に指を当て、ファルシオンへの秘密に微笑み合った。
「さあ、それは後でゆっくり考えるとして、殿下のご就寝の用意をしなくてはね。ラナエ」
 ハンプトンは綺麗に整えた白髪の頭を巡らせて、扉の傍に控えていた少女を呼んだ。
 ラナエは彼女達が会話している間じっと一点を見つめていたが、声を掛けられてはっと顔を上げた。
「どうかしましたか?」
 何事か考え込んでいた様子の若い侍従に、ハンプトンは訝しげにその顔を見つめる。ラナエは慌てて首を振った。
「いいえ、何も、侍従長様。すぐご用意いたします」
「よろしくお願いしますね。今晩は貴方が一番にお付きのお役をするのだったわね、大丈夫?」
「はい」
 ラナエは服の裾を持ち上げてお辞儀し、寝室を整える為にハンプトンの前から離れた。急ぐ様子は、どこか逃げるようにも見えたかもしれない。
 ラナエ・キーファーが王城に上がってからもうみ月が経ち、最近ではファルシオンの就寝の世話の役に就けるようになっていた。
 寝台を整え、着替えを手伝い、ファルシオンが寝入るまで寝台の傍らに座って見守る。寝入ってからは前室に退き、交替で朝まで番をするのだ。
 簡単に見えながら、疎かにはできない役目だ。
 はじめは先輩の侍従が一緒に入っていたが、ここ数回はラナエ一人で役割を担えるようになった。
 眠りに就く前のファルシオンと言葉を交わす事も少なく無い。
 ファルシオンはラナエから見てもとても愛らしい。もっと高慢になってもおかしくない立場でありながら、ラナエのような入りたての侍従へも、何の隔たりもなく話しかけてくれる。
 他の侍従達がそうであるように、このみ月の間に、ラナエもまたファルシオンを自分の弟のようにすら感じていた。
 ファルシオンが笑うと、本当に嬉しくなる。
 だから、昨日からファルシオンが塞ぎ込んでいた様子に、ラナエもずっと心配していた。
『兄上なら呼ばなくても来てくれる』
 その言葉に秘められた、強い兄への思慕。
 会う事が叶わなかった兄に、どれほどファルシオンがその存在を求めていたのか、どれほど会いたいと願っていたのか――あの小さな胸の中にそれを隠して、周囲の大人達を心配させないように元気に振る舞っていたファルシオンを思うと、ラナエの胸も痛みを訴えた。
 どくどくと心臓が高鳴り早鐘を打ち、周囲に聞こえてしまうのではないかと思ったほどだ。
 もし聞かれて訝しまれたら、困る。
 何故ならラナエは、秘密を抱えて王城に上がったからだ。
 父、キーファー子爵がラナエにそれを命じた時、そんな事は絶対に無理だと思った。
 実際にファルシオンの姿を見てからは、余計できる訳が無いとそう思っていた。
 ファルシオンと二人きりになる僅かな時間に、ラナエは何度もそれを思い出しては迷い、その都度飲み込んできた。
 だが今、ファルシオンは兄への強い思慕に、幼い胸を痛めている。
 ならば、告げてもいいのではないか。
 いや、告げるべきなのではないだろうか。
『兄上なら』
(ファルシオン様――)
 どんなにか、ファルシオンは兄に会いたいだろうと、ラナエは想いを巡らせた。そして、ファルシオンが会いたいと思うように、彼も――。
 昼に見たレオアリスの様子は、まだその事実を知っている風には見えなかった。
 イリヤはまだレオアリスと会えていないのだろうか。それともまだ、話していないのか。
 けれどきっと、事実を知れば、彼も会わせてあげたいと、そう思うのではないだろうか。
 いいや、イリヤはそう言っていた。彼ならきっと理解してくれるだろうと。
『だから頼むよ、ラナエ。もし機会があったらでいい。少しでも殿下が会いたいと思っているなら――』
 ラナエはラナエの役割を。
 きゅっと唇を引き結び、ラナエは顎を上げた。



 広い寝室の壁に掛けられた灯りを一つ一つ丁寧に吹き消し、ラナエは手元の灯り一つを持ってファルシオンの寝台に近寄った。
「殿下」
 そっと呼ぶと、まだ瞳も閉じていなかったファルシオンは、羽毛の掛布に包まったままもぞもぞと身体を動かした。肩口に、毛布の端からぴょこんとジェイクの耳が覗いている。
「だいじょうぶ、もう寝るから」
 ラナエが注意すると思ったのだろう、ファルシオンは口元まで掛布を引き上げて、ぱちぱちと瞳を瞬かせた。
「いえ――」
「どうしたの?」
 ラナエが言葉を濁したので、ファルシオンは枕の上で首を傾けた。蝋燭の灯りが揺れて、ラナエの影も揺れる。
 告げようと決めたものの、ラナエはまた迷っていた。
 口を開きかけ、一度閉ざしてから、ラナエは微笑んだ。傍らの台に持っていた灯りを置く。
「今日は、ようございましたね」
「うん」
 こっくりと頷いた顔は本当に嬉しそうで、ラナエをまた躊躇させる。
 このまま、告げないでいるべきかと――。
 その思いが強まった時、ふと、ファルシオンが小さな声で尋ねた。
「ラナエは、兄弟はいるのか?」
「私には……」
 瞳を落として、そこに見えたものにラナエははっと息を飲んだ。
 銀色の髪の毛を蝋燭の淡い光が縁取り、まるで白に近い色に見える。
 幼い頃の「彼」の面影が、確かにそこにあった。
 ゆっくりと息を吸い、心の中の躊躇いと一緒にそっと吐き出す。
「ございます」
 それは、一番ファルシオンには聞かせてはいけない言葉だ。ただ、ラナエに今見えていたのは、幼い頃から共に過ごした存在だけだった。
「――兄、が」
 ファルシオンは瞳を見開き、やがて少しだけ淋しそうな笑顔を浮かべた。
「そうなのか……。――じゃあ、今は離ればなれでさみしいな。会いたい?」
「ええ、とても」
 ラナエは素直に頷いた。
 会いたい。
 とても。
 あの時の彼に。
 「兄」としてでは無く。
 ファルシオンは何を思ったのか、掛けていた布を跳ねあげるようにして寝台の上に起き上がった。びっくりしているラナエの前で、寝台に手を付いて彼女の顔を覗き込む。
「もしかして、ここにいるから、兄上に会えないのか?」
「――それは」
「だったら、かえらなきゃ」
 ラナエは瞳を見開き、ファルシオンの顔を見つめた。
「ラナエがここにいるのは、ラナエのしごとだからだ。でも、兄上がいるのに、会えないなんてだめだ」
「殿下――」
「そんなの絶対だめだ」
 ファルシオンの瞳は真剣そのもので、ラナエの心を揺さ振った。
 兄に会いたい。
 ファルシオンの気持ちはやはり、それを強く願っている。
 告げるべきだ。
 喉に引っかかっている重苦しい塊を飲み込むようにしてラナエは息を吸い込み、真っ直ぐにファルシオンの瞳を捉え、一言一言、ゆっくりと区切るように告げた。
「殿下、お聞きください」
 それを告げる事が、どれほど恐ろしい運命を呼び起こすかも知らず。
「貴方様には――、お兄様が、おいでなのです」
 ファルシオンはぱちりと瞳を瞬かせた。それから、四歳という年齢には似つかわしくない、悟ったような笑みを浮かべる。
「知っている。兄上は、私よりもずっと小さい、生まれたばかりのころにお亡くなりになった」
 ラナエは高鳴り疾走する鼓動を何とか押さえ込んだ。身体全体が脈打つように感じられる。
「いいえ。――いいえ、殿下」
 知らせてあげたい。彼女の心の中で、それだけが繰り返し響いている。
 寂しげな顔をするこの少年に、もう一人。
「もう一人――。殿下、貴方様にはもう一人、お兄様がおいでです」
 もう一人、血を分けた兄がいる事を。
 唐突な言葉に、ファルシオンは不思議そうにラナエを見つめた。最初は彼女が何を言っているのか、良く判らなかったようだ。それは当然だ。他の誰が聞いても、ラナエが言っている事など全くの冗談に聞こえるだろう。
 第一王子は生まれてすぐ亡くなった。そして王家に王子は、ファルシオン一人だ。それは明確な、厳然たる事実だった。
 ファルシオンはまだ幼く、そこまで思い至らなかったが、本当にそんな事があれば、王家が覆る。
 ラナエが告げたのはそれほどに恐ろしい言葉だ。
 ファルシオンはただ不思議そうな様子のまま、首を振った。
「兄上? それはちがう。だってそんなこと、聞いたこともない」
「本当です」
 ファルシオンの面に、傷ついた表情が浮かぶ。
「うそをつくな」
 ラナエが単なる慰めを言っているのだと、ファルシオンはそう受け取ったのだ。苛立ちを露わに、ファルシオンはふいと顔を背けた。
「いいえ、殿下、本当に」
 ラナエは膝を付き、寝台を覆う絹の掛け布に縋った。
「うそだっ! ラナエのうそつき! レオアリスは私の兄上はたった一人だって言った! たった一人しかいないんだって」
「彼はまだご存知無いのです、本当に、殿下にはお兄様がおいでです」
「うそだっ」
「いいえ、お聞きください! お兄様は今も生きて――ちゃんと生きてるんです!」
 それはラナエの心の叫びでもあっただろう。
 ファルシオンに兄の存在を知らせてあげたい。いや、兄の――彼の存在をファルシオンに知ってもらいたくて。
 これまで十八年間、その存在すら語られる事すらなく闇に葬られていた、彼の事を。
 ラナエの必死な瞳に、幼いファルシオンにも彼女の想いが伝わったのか、次第にその面に戸惑いが生じる。
「兄上……」
 ファルシオンの呟きに、ラナエは頬を輝かせた。希望が見えたのだと、そう思った。
「そうです。いつでもお側にいてくださるお兄様が」
 その時、寝室の扉を叩く音が響き、ラナエははっと息を詰めた。
 開かれた扉から侍従の一人が顔を覗かせる。
「殿下、どうかされましたか? 大きなお声が聞こえたようですが」
「いえ、すみません、その――」
 慌ててファルシオンを見れば、ファルシオンは掛布を握り締めた自分の手にじっと視線を落としている。
「あの、大丈夫です。少しだけ、お話をさせていただいていて」
 侍従は思わしげな瞳をファルシオンに注いでいて、ラナエの心臓はどんどん早くなった。
 自分は何を言っただろう。
 もし、ファルシオンが今の話を侍従にしてしまったら――。
 どくどくと血が巡る音が響く。
 永劫とも思える、実際にはほんの束の間の沈黙の後で、ファルシオンは微かに首を振った。
「何でもない。もう寝るから」
 ファルシオンはそれだけ言うと、寝台に横になって掛布に包まった。
「ファルシオン様……」
「ラナエ、お前はもうお下がりなさい。私が代わりますから」
 経験の浅いラナエを慮っての言葉なのかもしれないが、侍従の顔にはほんの少し、不審の色が覗いているように見える。
「はい――すみません」
 ラナエは躊躇いながらも立ち上がり、最後にもう一度ファルシオンへと視線を落としたが、ファルシオンが一体どんな顔をしているのか、それを見る事はできなかった。
 侍従が見つめる中を足早に扉へ向かい、お辞儀してその傍を擦り抜ける。
 扉が閉ざされてもラナエは足を止めず、まるで走るように前室を抜け、冷えた廊下を通り、庭園を巡る回廊に出た。
 頬をぴりぴりと刺激する寒さが身を包んだが、そこが庭園だとさえ認識しないままに、ラナエはまろぶようにして歩き続ける。
 告げてしまった――。
 頭の中に恐ろしい言葉が鳴り響いている。
 誰もファルシオンに伝えていなかった事を、ラナエが告げてしまった。
 伝えていなかったのは、理由があるからだ。
 イリヤの母が持っていたあの日記に、その理由は書いてあった。
 ラナエが見ても、それは恐ろしい事だった――。
 ぴたり、と足が止まる。綺麗に整えられた植え込みが右に、白い石膏の彫像が左にある庭園の真ん中で、ラナエは立ち尽くした。
(――どうしよう)
 取り返しのつかない事をしたのではないかと、今更ながらに恐ろしさが込み上げてくる。
 ラナエがファルシオンに告げた事は、見方によっては王家に対する侮辱ですらある。取り沙汰されれば不敬として、下手をすればキーファー子爵家そのものが罪に問われるだろう。
(どうしよう、どうしよう……)
 ラナエは庭園に座り込んだ。
 頭がぐらぐらとして心臓は弾けそうな程に早鐘を打っている。
 世界が彼女だけを残して、回転しているように思えた。
 それは彼女にこそ、全ての罪があると、そう宣言しているかのようだ。
(イリヤ――)
 縋るようにずっと、ラナエは彼の名前を唱えていた。



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