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王の剣士4 「かりそめの宴」
【第二章 「波紋」】


 あと十日ほどで新年を迎え、冬も本格的になってきたせいもあるが、先程の王の言葉が示したものによって王城を取り巻く空気はやけに冷え冷えと感じられた。
 厚い雲が空を覆っている為に、空気もどこか重苦しく地上にのしかかっているように思える。もうすぐ一雨来そうな空模様だ。
「西海か――」
 レオアリスは一度王城の尖塔を見上げ、のしかかる曇天を振り払うように踵を返し、歩き出した。
 歩く間も、思考は事件に吸い寄せられる。ゴドフリー侯爵邸に現われたあれらが西海の生物だったとして、その目的は何なのか。何故ゴドフリー邸で、何故イリヤ・キーファーを襲ったのか。
「……もう一度、あいつと話がしたいな」
 イリヤ・キーファーと。
 それは越権行為になるだろうか。王が静観せよと言った、その指示に反する事になるだろうか。
 厚い雲に陽光が遮られ、足元に落ちる影も見えないように、今のこの状況は何もかも曖昧だ。
 何かもう少し、手掛かりがあれば。
(いや――待つべきだ)
 全体像が見えていない時は、状況を静観する事が何より重要だと、それも判っている。
 見えているものは一つでも、その裏にまだ隠されているものは複数あるはずだ。王が推移を見ろと言ったように、現状だけを見て動くのは早計なのだろう。
 特に、西海が絡むようなら、尚更迂闊な行動はできない。
 王城を取り囲む城壁まで歩き、西の正門を出て厩舎に立ち寄ると、預けていた飛竜に近付いた。飛竜はレオアリスの姿を認め、早くも飛び立とうと翼を広げる。
「ハヤテ」
 大将の乗騎の証しでもある銀翼の飛竜の首筋を叩き、係官から手綱を受け取ってその背中に飛び乗った。
 手綱を引くと、銀竜の翼は何の抵抗も無くふわりと宙に浮かび上がる。
「士官棟に戻る」
 一言告げただけでハヤテは心得て、厩舎の中央に設けられた開口部から空へ駆け出した。


 近衛師団に帰り着いたレオアリスを迎えたのは、いつものクライフの明るい声だ。
「お疲れ様です。王は何か仰ってましたか?」
 意識を占めていた重苦しい空気が、朗らかな声に幾分軽くなる。見回せば、執務室にいるのはクライフとフレイザー、ヴィルトールの三人だけだ。
「ああ。グランスレイとロットバルトは?」
「副将は隣に。呼びましょうか?」
「そうだな、全員揃った方がいい」
 レオアリスの様子にクライフも王の指示が何かあったのだと気付いたのだろう、すぐに立ち上がって書庫になっている隣室への扉を叩く。「副将、上将が戻りましたよ」声をかけながら、レオアリスを振り返った。
「ロットバルトは朝から姿を見てませんが」
「なら多分まだ文書宮だろう、昨日頼んだから」
 外套を脱いで扉の横に掛け、執務机の前に座り、半刻ばかりグランスレイと通常業務の書類についてやり取りしていたところで、扉が開いた。
 入って来たロットバルトはレオアリスが戻っているのを見て目礼し、真っすぐに執務机の前へ歩み寄った。
 グランスレイや他の中将達もレオアリスの前に立つ。ロットバルトは手にしていた数枚の書類を卓上に広げた。
「現段階で、芳しい情報はありません。厳しいですね」
 きっぱりと告げた口振りは苦笑に近い。レオアリスも数枚の書類を取り上げながら、同様に苦笑を零した。さすがにロットバルトも、伝聞だけの不確かな情報からすぐに解答を探り当てるのは難しいだろう。
「法術の面では法術院に任せるとして、文書宮では水棲生物の点で洗ってみました。結論として、現在確認されている種族、水棲生物の中で、昨日の襲撃者に該当、もしくは近いものはありません」
「早いな」
 厳しいと言いながらも、短時間でそこまで調べてきた事に感心すると、ロットバルトは苦笑した。
「最後は老公に頼りましたよ」
 老公――王立文書宮の長、スランザールの事だ。自ら大賢者と公言して憚らないが、そう言っても余りあるほどの広く深い知識を有している。文書宮の他に王立学術院の長、そして王の相談役を兼任している。
「さすがに書物を全て調べるのに膨大な手間がかかる。お陰で徹夜ですが」
「じゃ昨日から一晩講義に付き合ったのか」
 レオアリスが笑うと、ロットバルトは肩を竦めた。
「答えだけはくれませんからね、あのご老人は」
 とにかく一を尋ねると百を喋りたがる。そのくせすぐには答えてくれない、難儀な老人だ。
 ロットバルトは苦笑を消し、頬を引き締めた。
「今回の件は、あの大賢者にして、明言を避けました」
 その言い方に引っ掛かるものを感じて、レオアリスは眉を潜めてぐっとロットバルトを見つめた。
「明言を、しなかった?」
 ロットバルトは頷き、一度窓の外に視線を投げる。窓の向こうには中庭が広がっていて、その中央には噴水が陽光を弾いて水を踊らせている。
 何の変哲もなく、光を弾きながら飛沫を散らす透明な水。
 それが今回の鍵だ。
「――国内に、水を媒介にして異なる地点へ移動できる『生物』は存在しない、或いは確認されていない。あくまで生物に限定しては、老公はそう言い切りました。その上で」
 レオアリスはその先に続く言葉を、ロットバルトが口にする前に理解した。
「西海。――そこの生物は、詳細には把握していない、と」
「西海?! おいおい、いきなりそんな」
 クライフは笑いさえ含んだ少しうわずった声を上げ、その真意を問うようにロットバルトを見た。
 クライフの反応が大げさな訳ではない。グランスレイもヴィルトールやフレイザーも、やはり同様に驚きと困惑と、それからまるで質の悪い冗談でも聞いたかのような曖昧な表情を浮かべている。
 だがそれも無理はない話だ。西海は大戦以降、存在すれども関わらず、といったものになっていた。昨日今日に起こった小さな事件に、ぽんと名前が出てくるような存在ではない。
 だがロットバルトの表情には冗談の欠けらもなく、レオアリスの瞳は鋭く細められている。
 単なる憶測でそう言っている訳ではないのだと気付き、クライフもすぐに緊張を張り巡らせた。
「上将、王は」
 グランスレイの問いにレオアリスが頷く。
「西海を示された」
 室内の空気が一気に張り詰める。
 レオアリスは机に両肘を付いて手を組み口元に手を当て、じっと考え込んだ。
 アヴァロンの指示、スランザール、そして王。
 示しているのは西の異界だ。
「――お前、不可侵条約は詳しいか?」
 問われたロットバルトはすでにその問いを想定していたらしく、迷う事無く頷く。
「さほど長いものではありません。『第一条総則、本条約は二国間に於いて締結され、両国の恒久的和平を定めるものとする。第二条、両国は何時も、兵を以て二国間の国境を侵してはならない』」
 第二条から第四条は国境、そしてそこに配備される兵数の制限などが定められていると、ロットバルトは掻い摘んで言葉を継いだ。
「個人については」
「第五条からです。まずは交易及び関税の規定。現実にはほとんど無いに等しいものの、交易は認められています。今回の事例を判断するなら、第八条ですが」
「何て?」
「第八条は、両国民の友好について定められています。その中の一つ」
 レオアリスが何を危惧しているのか、そのやり取りから次第に判ってきて、グランスレイ達も次第に表情を硬くし、室内の空気はぴんと張り詰めた。
「第八条四項――両国民は何人も、悪意を以って国境を侵す事はできない」
 レオアリスは眉を寄せ、暫らくしてから息を吐き出した。
「悪意を以って、か。難しいな」
「その通り。判断基準は曖昧です。だからこそ老公は明言を避けたのでしょうね」
 そして、王も。
 まだ西海の生物と決まった訳でもなく、明確な王国に対する悪意があると判っている訳でもない。
 慎重に見極めなくては、先走った判断は重大な過失を呼ぶ事になる。
「王のご見解は」
 グランスレイがレオアリスの上に視線を落とす。灰色の瞳にあるのは、珍しく不安に近い光だ。
「西海を示唆された上で、まずは状況の推移を見定めよと仰った」
 誰からとも知れず、張り詰めていた空気を解くように、溜めていた息を吐いた。
 口には出さないが、想像していた事は全員同じだろう。
 先の大戦。
 それが再び起こる契機になる事を懸念している。率直に表現すれば、恐れていると言ってもいい。
 フレイザーが翡翠の瞳を注意深く向ける。
「法術院ではどんな判断だったんですか? やはり法術だと?」
「いいや。現場を見てないからやっぱり断定はできないんだが、ただ法術ではない可能性はあると言っていた」
 グランスレイは真っ直ぐな眉を厳しく寄せた。
「いずれにしても、王の仰るとおり慎重に推移を見るべきでしょう。単なる杞憂に済めばそれに越した事はありません」そこで一旦言葉を区切り、グランスレイはレオアリスと視線を合わせた。
「――上将、この不可侵条約が五十年毎に再締結されているのはご存知ですか」
「知ってる。確か――」
「来年。王と海皇、両者が列席のもと、再締結の儀式が行われます」
「――来年……」
 再締結の儀式。王が西の国境に赴き、海皇と対面して条項を確認し、国璽を以って調印する事により、条約を改めて締結する。
 この時近衛師団が王の警護に付き、海皇もまた「三のほこ」と呼ばれる親衛隊の警護を伴って儀式に望む。
 ただし双方共に伴う兵は五十名、約一個小隊までと限定され、儀式が行われる場所の一里以内には、それ以外の兵は一兵たりとも立ち入る事は認められない。
 非常に重要な、繊細な儀式だ。
 現在近衛師団に籍を置いている者でこれを経験しているのは、総将アヴァロンのみだった。
 ほとんどの者にとって西海は、明確な姿の見えない存在だと言えた。
「儀式までに西海と事を構えるのは得策ではありません」
 クライフは片方の眉を上げて、グランスレイと中将達、それからレオアリスを見回した。クライフには異論があるようだ。
「ちょっと消極的すぎやしませんか。ちょっかい出されてただ黙ってたら、西海が調子付くだけでしょう」
 すぐ隣でヴィルトールが肩を竦める。
「噛み付かれてすぐ吠えかかるのも情けないじゃないか」
「てめぇ、誰が吠えかかってるって?」
「ほらそうやってきゃんきゃん吠える。見た目は大型犬なのに気持ちは子犬じゃ似合わないよ」
「何だその例え」
「いやぁ、娘が最近犬を欲しがってて」
「知るか。……俺が言ってんのはさぁ、国対国なら威厳示さなきゃ風下に置かれるって事だよ。腹立つだろ」
 理論的なのか感情的なのか判らない意見でクライフは同意を求めたが、フレイザーもロットバルトもその意見に賛同する気は薄そうだ。
「まだ西海と決まった訳でもないし、過剰に反応して事態を大きくしかねないのもどうかしら」
「――そりゃま、そうだけどよォ」
 別に俺だって戦争したい訳じゃねぇし、と、クライフは頬を膨らませた。レオアリスが苦笑を浮かべる。
「まあ、クライフの言う事も判る。だから王も静観せよと仰ったんだろう。事態がもう少しはっきりしなくちゃ、判断のしようが無いからな」
 今ここでどんな推測をしようと、最終的に近衛師団は王の下命の下に動く。
「どちらに転んでも対応できるように整えておく他無い」
 クライフも頷き、その隣でロットバルトが言葉を継いだ。
「ゴドフリー卿は遅からず同じ結論に達するでしょう。そこからどう展開するか、まずはそれを見てから本格的に対応すればいい」
「そうだな」
 ちょうどその時、扉を叩く音と共に事務官のウィンレットが顔を出した。
「失礼いたします! 上将、ファルシオン殿下の御使者がお見えです。殿下が至急に御召しとの事ですが」
「殿下が?」
 そういえばここ四、五日、ファルシオンの所に顔を出していない。もっとも呼ばれていないのだから勝手に訪ねる訳にもいかないが、久々に遊び相手として思い出したのだろう。
「重要な案件なのか」
  とはいえ、職務的に身辺問題にかかる重要案件が直接レオアリスに来るとは考えにくい。
「何だろうな」
 何となく、今までの会話の流れと程遠いところから飛び込んで来た印象があり、どうも問題を放り出して行くようで気が引けた。
 ロットバルトは卓上の書類を纏め、レオアリスの机の端にまたすぐに手に取れるように置いた。
「いいと思いますよ。結局様子見以外にすべき事もない。我慢せず遊んで来てはどうです」
「お前、俺が率先して遊んでるみたいな言い方を……」
 大体遊びと決めつけているのもどうか。
「いいなぁ、俺も行きたいですねぇ! 下町のガキと休日は良く遊んでやってますよ」
「遊んで貰ってるの間違いだろう」
 突っ込んだのは例によってヴィルトールだ。
「しょっちゅう遊んでくれって誘いに来るんだよ、休暇で寝てるってのにうるさいの何の。人気者は辛いね」
「独りで寂しそうだからって同情されてるんじゃないかい?」
「どういう意味だ」
 クライフとヴィルトールの掛け合いが流れる横で、ウィンレットは上官を急かすべきか使者を待たせるべきか困り顔だ。
「あのぅ」
「どちらにせよ殿下の召命を断る訳にはいかないでしょう。ご機嫌を損ねない内に顔をお見せになった方がいいですよ。どうしてもこちらが気になるのであれば、少し早めに御前を退出されればいい」
「――そうするか」
 話題を切り上げるように執務机に手を付いて立ち上がる。レオアリスも何もファルシオンに会うのが億劫な訳でもない。王子に対する単なる義務ではなく、元気でやんちゃなファルシオンの相手は中々に楽しかった。
「じゃまあ、行ってくる。なるべく早めに戻るよ」
「いいですよ、ごゆっくり〜」
 クライフはにこやかに手を振ってレオアリスを送り出し、そのまま左右を見回した。
「で、俺達は」
「演習だね」
「当然でしょ」
 そこでロットバルトは懐から何やら一枚の紙切れを取り出し、クライフ達の前に掲げた。
「今日は特別に、スランザール公が作った演習図があります。非常に貴重な機会ですよ」
「スランザールが?」
 三人は恐々と紙を覗き込んだ。グランスレイも興味深い顔で輪に近寄る。
「何、これやんの?! あり得なくね?」
「うわぁ、奇策ねぇ」
 フレイザーが感心とも呆れともつかない溜息をついた。グランスレイは一度考えるように視線を流したが、取り立てて反対する様子は無い。
 奇策、というより珍策に近い。
「お前、何かスランザールに弱味でも握られてんのか」
「まさか。純粋に、どうなるか興味があるでしょう」
「断って来い、頼むから」
「笑い死ぬなぁ」
「戦意喪失よね。ある意味平和的かも」
 スランザールの考案した戦術は、敵陣に相対した時、全隊が一斉に踊るというものだ。
「スランザール曰く『古来より戦場での舞踊は戦の舞いとも呼ばれるほど、戦意を鼓舞するものだ』と」
「しねぇだろ。お前、何でそんなトコだけ適当なの?」
 ロットバルトの胸中にあるのはおそらく単純な興味だ。果たしてそんなものが本当に戦意を高揚させるのか……参謀官としての興味というよりはある意味学術的な興味だろう。
「老公がそう言ったんじゃあ仕方ないね。じゃあ左軍と中軍でよろしく。右軍は別にやりたい事があるから残念だけど遠慮しとくよ」
 認めた上で回避するのが得策とばかり、ヴィルトールはしれっとしてにこやかに手を振った。
「お前はいっつも調子いいよなぁ」
「左軍も遠慮しとくわ。大体今日は合同演習の日じゃないし。中軍はこういうの得意でしょ? 貴方にぴったり。いつもお酒飲んでやってるじゃない」
「ちょっとちょっと……副将、無いっすよねぇこんな戦術」
「……スランザール公のお考えになった戦術だ。深い意味があるのだろう」
「いや、絶対無いですって、おかしいですって」
 何故か陥ったのっぴきならない事態に、クライフは必死になって状況回避の方法を探し、最後に自らも意図せず起死回生の言葉を放った。
「じゃあ上将が戻ってから! 絶対上将は見たがりますよ!」
「――」
 しん、とその場に沈黙が落ちる。
 レオアリスは絶対見たがる。確実に見たがる。
 それは確実だが、今や王の剣士とさえ呼び慣わされる近衛師団大将がこんな奇策を指揮するのはいかがなものか、と副将及び参謀は考えたようだ。
 もし今後、西海との問題が表面化した時に、あの近衛師団第一大隊の戦術は対西海用だったのかと本気で思われでもしたら――
 結局、残念ながら、スランザールの戦術が日の目を見る事は無かった。



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