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王の剣士4 「かりそめの宴」
【終章】


 飛竜で飛び立って二刻ばかり、正午近くになって、行く手に裾野を広げた山のような王都の姿を捉え、レオアリスは腕の中のファルシオンに顔を向けた。
「殿下、もうすぐ王都です。王城ではきっと陛下が……」
 ファルシオンの帰りを待っているだろう、と言いかけて、あれ、と途中で口を噤む。
 見ればファルシオンはすっかり眠ってしまっていた。少し前までは、飛竜に乗っているのが嬉しいらしく、ずっとはしゃいでいたのだが。
 今はレオアリスの手綱を持つ腕に挟まれるようにして座り、身体を預けて気持ち良さそうだ。
(あー、何か体温高いはずだ。ついさっきまで喋ってたのに、落ちるの早いな)
 笑みを零し、少し俯いた頬を眺める。
(疲れたんだろうなぁ、さすがに)
 昨晩からの騒ぎで、ファルシオンもまたほとんど寝ていないのだろう。興奮して張り詰めていた気持ちがほどけたのだ。
 まだ柔らかい頬を見つめていると、レオアリスの心の中にもじわりと安堵が湧き上がる。
 あの庭園で、ファルシオンの姿が消えた時の血の気の引く凍るような感覚は、今思い出しても生々しい。
(本当に、良かった――)
 起こさないようにそっと手綱を握り直し、自分も何となく眠気を覚えながらも前方に視線を転じると、王都はもう目の前に迫っていた。
 周囲に広がる軍の演習場を抜け、王都をぐるりと囲む街壁の門を過ぎる。
 ファルシオンを護衛する百騎もの飛竜達は、にわかに広がった雲のように街に影を落とし、住民達を驚かせた。
 急に足元が陰って何事かと空を見上げた人々は、上空を埋める紅い飛竜の編隊が吉報か凶報かとおののいて、飛竜達が王城を目指して飛ぶのを見送った。
 街が騒めく様子は、飛竜の上にいるレオアリス達にも伝わってくる。
「殿下の事は、どれだけ知られてるんだろうな」
 レオアリスの疑問に、傍らに飛竜を寄せていたグランスレイが首を捻る。
「明け方の捜索では、探していたのが殿下である事は明らかにはしておりません。そこは師団、正規共に口外しないよう徹底させていました。ただ勘のいい者はあれだけの兵を動員した事で、何かしら気付いたかも知れませんな」
「うん。だが見たところ、騒ぎにはなって無さそうだ」
「明後日には、興味が他へ移るでしょう」
「そうだな」
 そう思うのは、二日後にはもう、新年を迎えるからだ。
 新年の前夜から街ではあちこちで華やかな祭典があり、年越しの前後には花火も打ち上がる。
 年が明ければ王城で祝賀式典が行われ、王は王城の露台から国民へと新年の言葉を述べる。
 その時に、ファルシオンも一緒に王の隣に並ぶ。
 例え街に噂が流れていたとしても、ファルシオンの元気な姿を見れば安心するだろう。
 足元を流れる城下の街も下層、中層と呼ばれる区域を過ぎて上層に入り、軍の駐屯区域である王城第一層はもう眼と鼻の先だ。街の区域が幾重にも囲う中心に、王城がある。ホセが飛竜を寄せる。
「レオアリス殿、この数の飛竜は王城には降りられまい、第一層の南地区に降ろすが――」
「そうですね……では一旦このまま王城正門に寄せ、ホセ大将、貴方は私と共に降りていただけますか」
「承知した。兵達は殿下を王城へお送りしてから戻そう」
 正門に近付くと、門の上部に設けられた見張り台に立っていた男が、片腕を上げて大きく回した。帰都の知らせを受けていた、近衛師団第二大隊大将トゥレスだ。
「レオアリス、南方のホセ殿! そのまま殿下をお連れして城の玄関へ飛竜を寄せられよ! 玄関で副将閣下がお待ちだ!」
 大玄関まで飛竜や馬車を寄せられる者は限られている。通常は近衛師団や正規軍も大将位以下はこの正門で乗騎を預け、大玄関までは歩くのだ。
 トゥレスは飛竜を玄関に付けるよう伝える為に、ここでレオアリス達の到着を待っていたのだろう。
「ありがとう、トゥレス!」
 叫び返し、レオアリスはホセに顔を向けた。ホセが頷いて右手を掲げる。
 ホセの合図を受け、飛竜の編隊はざぁっと翼の音を潮騒のように響かせ、次々南へと回頭を始めた。
 正規兵達はファルシオンとホセと、そしてレオアリスへと、右腕を胸に当てて敬礼を向けていく。彼等の誇らしげな顔に応えるように、レオアリスも片手を上げた。
「上将、我々もここで。ハヤテを先に師団に返します」
「ああ、頼む」
 クライフとフレイザーもまた、ハヤテを伴ってここで飛竜を戻し、第一大隊の士官棟がある第一層西地区へ向かって飛び去った。
 レオアリスは手綱を繰ると、飛竜を大玄関の広い馬車寄せに降ろした。駆け寄った門衛の近衛師団隊士へ飛竜の手綱を預け、まだ起きる気配のないファルシオンを抱き抱える。
「レオアリス」
 見上げれば、馬車寄せから大玄関へと左右から緩やかな弧を描いて設けられた広い階段の、一番上の踊り場に、黒い軍服を纏った四十代半ばの女性、近衛師団副将ハリスが立っていた。
「副将閣下」
 レオアリスが階段を上がる間にもハリスは眠っているファルシオンへと敬礼し、高い扉の奥を指差した。
「陛下へは既に到着をお伝えしている、殿下を謁見の間へ」
 ハリスに目礼を返し、レオアリスとグランスレイ、そしてホセは急ぎ足で扉を抜けた。その先に広がる大広間を横切ると、広間の奥の大階段を登って行く。
 謁見の間は王城の五階に位置し、この国の百十三家の諸候および各官衙かんがの首級諸官が一同に会する事ができる、城内で最も広い場所だ。
 任務の正式な報告等を行う際には、常にここ、謁見の間が使われる。
 長い階段を幾つも上がり、廊下の先に謁見の間の高い扉が見えると、ホセは緊張を落ち着かせるように喉元まで覆う軍服の襟を指で整えてから、扉の前に立った。
 レオアリスは腕の中のファルシオンを覗き込んだ。まだぐっすりと眠っているが、ここではさすがに起きてもらわなくてはいけない。
「殿下――ファルシオン殿下」
 何度か呼びかけると、「うーん」と小さな声を零し、ファルシオンが瞼を開けた。ぱちぱちと瞬きをして、辺りを見回す。
「ここ、どこ? ひりゅうは?」
 眠たげに眼をこする手を押さえ、くしゃりと乱れていた髪を整えてやり、レオアリスはファルシオンを床に降ろした。
「王城です。もうすぐ、陛下にお会いになれますよ」
 そう告げると、レオアリスは扉の横に立っていた近衛師団隊士に視線を向けた。隊士はファルシオンに一礼し、両開きの重い扉を押し開ける。
「王太子殿下、ファルシオン様、ご帰還です」
 高らかに呼ばわる声が、広間に残響を落とす。
 扉の前から円柱が連なり、その間を深緑の絨毯が広間の奥へと真っ直ぐに敷かれて延びている。天井の飾り窓から降り注ぐ白い光に遮られ、再奥の玉座は霞むようだ。
 足を踏み入れた途端に身を包んだ空気に気付き、レオアリスはぐっと顎を引いた。
 王が身に纏う気配が、広間に満ちている。
 レオアリスが驚いたのは、それがこの場に既に、王がいる事を意味するからだ。通常の謁見では、臣下が謁見の間に揃ってから王が入室するのが常だった。
 柱を何本か過ぎると、真っ直ぐ絨毯が伸びた先に立つ近衛師団総将アヴァロンの姿と、その背後の高台に置かれた玉座に座る王の姿が眼に入った。王はその面を真っ直ぐに、ファルシオン達に向けている。
 深緑の絨毯を歩く間にも、玉座から王の声が掛かった。
「よくぞ無事で戻った。ファルシオン」
 ファルシオンは父王の呼び掛けに、しきたり通りに王へとお辞儀をするのも堪らず、玉座へと駆け出した。
「父上!」
 高座へ駆け上がるファルシオンを、アヴァロンが膝を付いて恭しく見送る。
 王の腕が玉座の前まで来たファルシオンの身体を抱え上げ、座ったままの膝に乗せた。
 アヴァロンを初めとして、その場にいた全員が少なからず驚いた表情で王の姿を見上げた。王は普段は決して、公の場ではそうした甘えを許さないからだ。
 高座の下に跪いたレオアリス達の胸の内に、温かな喜びが満ちる。王は表情こそ威厳のある普段のままだが、ファルシオンに向けられた黄金の瞳は柔らかい色に満ちているようだった。
 ファルシオンもいつもとは違う父王の行為が嬉しいのだろう、父に良く似た二つの瞳を輝かせ、膝の上で広い背中に腕を回して抱き付いた。
 思いついて、ひょいと顔を上げる。
「ねえ父上、私レオアリスの剣を見たんです。ほんとに、すごく強かったです! 水でできたかいじゅうを全部やっつけちゃったの」
「――そなたは、どうも自分の置かれた状況を理解できていなかったようだな」
 呆れた苦笑含みの口調でそう言い、王はファルシオンの頭を撫で、それから再び彼を抱え上げると、後はまたいつもの通りに玉座の右に用意されていた椅子に座らせた。
 残念だと思ったのはファルシオンだけではなくレオアリスも同じで、何となくもう少し、ファルシオンが父王に甘える姿を見ていたかった。
 だたもう王の上に在るのは、一国の君主としての立場だ。
「ファルシオン。心配をかけさせ、そなたの為に多くの兵達が動いた。まずはそなたを救った者達に礼を述べよ」
 ファルシオンはまだ父親の膝を恋しそうに見つめていたが、それでもしっかり前を向き、レオアリス達を見つめた。
「助けてくれて、ありがとう」
 ちょっと考えてから、傍らの父王に似せて、眉をぐっと寄せる。
「礼を言う」
 第一王位継承者としての、少し背伸びをした物言いに、王は微かに口元に笑みを浮かべた。
「近衛師団第一大隊大将レオアリス、南方第四軍大将ホセ」
 王の瞳がレオアリス達に移され、レオアリス達は膝を付いたまま、深く頭を下げた。
「ファルシオンを無事救出した事に、まずは礼を言おう」
「勿体ないお言葉です」
 王の言葉への喜びと畏敬に、身の裡の剣が微かに鳴動する。切り裂く為の存在である剣でさえ、戦いの歓喜よりも王の言葉を受けるこの一瞬を、至上のものに感じているのが判る。
 レオアリスの隣ではホセも、感極まるように身を伏せている。
「兵とその身をゆっくりと休めよ。二日後には新年の祝賀の宴もあろう。特に第四軍は任務上都に上がる機会もあまりない。新年まで滞在し、英気を養って行くと良い。残してきた兵士達へも追って褒賞を送ろう」
「――有難き幸せに存じます!」
 ホセが再び、深く身を伏せる。
 これで漸く、この事件も幕を閉じる。新年は穏やかに迎える事ができるだろう。
 ただ、まだ二つほど胸の中に残っているものがあり、レオアリスは顔を上げた。
 その内の一つ、イリヤの事を、この場で口にする事はできない。
「恐れながら陛下、西海については――私はビュルゲルを戻し、その上で改めて西海との協議をと考えておりましたが」
「仕方あるまい。あの男はそういう気質だ」
 レオアリスは王の顔を見つめた。王の言う「あの男」というのはビュルゲルを指すのではなく、西海、バルバドスを治める海皇の事だろう。
 海皇の人となりを良く知っているような口振りに、過去の大戦が意識を過ぎる。
 三百年前に終止符を打った大戦――その時王は、その場に居た。その後五十年ごとに再締結される不可侵条約の儀式の場で、王と海皇とは何度と無く合いまみえている。
 そして、今日のあの池で、水面を挟んで対峙した二人の王の様子。
 互いの存在と力が境界で鬩ぎ合いながら、王と西海の主は、ただ対立する立場だけではないように思えた。
 来年の春に予定されている、不可侵条約再締結の儀式。それは一体、どのような形になるのか。
(――)
 片膝を付いた足元に視線を落としたレオアリスの上から、王の言葉が流れる。
「新年を迎えれば、春には再締結の儀式が行われ、その場で海皇とも話ができよう。それまでは捨て置け。ただし、西方の辺境は警備を強化する事にはなろうな」
 レオアリスは静かに頭を下げた。辺境の警備は正規軍の管轄であり、近衛師団の任務は今の時点では終了したという事だ。
「レオアリス、もうひと働きしてもらおう」
「何なりと」
 レオアリスが顔を上げると、王は笑ってファルシオンの背を押した。
「ファルシオンを居城まで送り届けよ。居城の入り口で、既に迎えが待っているだろう」


 居城の控えの廊下には、王の言葉通り、既にファルシオンの為の迎えが揃っていた。
 十数人の侍従達の前にハンプトンがいる。そしてその傍らに立つ見覚えのある男の姿に、レオアリスは驚いて足を止めた。
「ハンプトン――!」
 ファルシオンが駆け寄り、ハンプトンの広げた腕の中に飛び込む。ハンプトンは両膝を付いてファルシオンの顔を覗き込み、彼の身体を大切そうに抱き締めた。
 ファルシオンの無事な姿を眼にし、そして触れた事で、心痛でやつれていたハンプトンの頬に漸く血の気が差して来る。
「殿下……申し訳ございませんでした、私が……」
 そう言ったきり、ハンプトンは言葉に詰まり両手で顔を覆ってしまった。ファルシオンは慌てて、涙を零しているハンプトンの顔を見つめた。
「泣かないで、ハンプトン。私がだまって行っちゃったから、しんぱいさせちゃったの?」
「まあ、殿下――、いいえ」
 ファルシオンにはまだ誘拐という言葉は知識の中にはなく、ただ純粋にハンプトンの様子を心配して彼女の瞳を覗き込んでくる。その事に微笑ましさと、やはり例えようもない安堵を覚えてハンプトンは泣き笑いのような顔をした。
「本当に――」
 ファルシオンの小さな手がハンプトンの背中を撫で、結局それ以上はハンプトンは言葉にする事ができなかった。
 レオアリスはその様子をほっと胸の温まる思いで眺めてから、先ほどハンプトンの傍らに立っていた男が歩み寄って来るのへと顔を向けた。
 彼が今ここにいるのは、レオアリスにとって大きな驚きであり――、同時に深い安堵を覚えた。
「シルマン殿――ご無事で……」
 ファルシオンの警護隊長、シルマンだ。昨晩のあの庭園で、警護官達は全て倒れ一人も動く者の無かったように見えたが、シルマンは顔に疲労の色を浮かべていながらも、怪我を負った様子は見当たらない。
「驚きました――いえ」
 驚いたという言い方は失礼だったかと口を噤んだレオアリスに対して、シルマンが静かな笑みを浮かべる。
「そうでしょう。私自身、今ここに立っていられる事に驚いております。水に息を奪われて意識を失いましたが、命だけは」
「では、他の警護官達も」
「不明者が五名、重症の者もおりますが、幸い私と同様ほとんど外傷はありません。あれは全く短時間の出来事でした。おそらく個々の命を奪うまでの時間が無かった事が幸いしたのではないかと、アヴァロン閣下のご見解です」
 呼吸を奪う事で死に至らしめるには時間がかかる。六十名もの警護官の動きを封じるには、あの僅かな時間では成し得なかったという事か。
 それともイリヤにその意思がなかったせいではないかと、レオアリスはそうも思ったが、それは最早結果論でしかない。
 シルマンは一度ファルシオンへと親愛の情の篭った瞳を向け、それをレオアリスに戻して、静かに告げた。
「私は殿下をお迎えするこの任を以って、職を退きます」
「――」
 レオアリスの表情の中にあるのは、驚きばかりではない。
「陛下はその必要はないと仰ってくださいましたが、殿下をお守りする役を果たせなかった者が、これ以上殿下のお傍に仕える訳にはいきません」
 シルマンはレオアリスの面に浮かんだ色を見て愁眉を解いて見せ、逆に清々しい表情を浮かべた。
「大将殿、貴方にお礼申し上げます。再び殿下のお元気なお姿を拝見できた事は、望外の喜びです」
「シルマン! 母上がいらっしゃってるんだって! ねぇ、早くかえろう。レオアリスは?」
 ファルシオンの元気な声が光に溢れた廊下を、更に輝きで満たす。
 レオアリスはファルシオンの前に跪き、その顔を見つめた。
「今日のところは、この場で御前を失礼させていただきます、殿下」
 レオアリスが帰ると聞いて、ファルシオンはひどく残念そうな顔をした。
「母君にゆっくり甘えられてください」
「甘えるんじゃないぞ、お相手していただくのだ」
 少し唇を尖らせ、それを見てまた可笑しそうに笑ったレオアリスを睨んでから、ファルシオンは耳元に顔を寄せると、そっと囁いた。
「ねえ、あ……イリヤのことがわかったら、おしえてね」
 それが難しいことだと判っていながらも、期待の篭った響きだ。レオアリスは束の間躊躇い、それでもファルシオンの輝く瞳に押されるように、頷いた。



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