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王の剣士4 「かりそめの宴」
【第四章 「生者達の舞踏」】

十八

  誰かが、太陽を見上げて、まるで長い一日が終わったようだと心の中で呟いたが、実際にはまだ少し低い太陽は西に傾いていくものではなく、これから東の空を昇ろうとしている朝日だ。
 ただ先ほどまで激しく波打つ戦場だった池は既に水面を穏やかにたゆたわせ、降り注ぐ日差しを受けて輝いている。空を旋回していたハヤテが、銀の帯を引きながら池のほとりに降り立った。
「大将」
 林の中から出てきた正規兵の一人がホセに近寄り、耳打ちをする。ホセは部下の言葉に顔を引き締めて立ち上がり、ファルシオンとレオアリスに近付くと少し手前で再び膝を付いた。
「失礼致します、殿下」とファルシオンに断ってから、レオアリスに顔を向ける。その面にはまだ現実的な問題が残っていると書かれている。
「レオアリス殿、先ほど救出した少年だが、意識ははっきりしていて怪我もないようだ。このまま王都へ移送すべきとは思うが」
 ファルシオンはホセがイリヤの事を話しているのだと気付き、ホセの厳しい表情に不安を感じてレオアリスを見上げた。ホセの問いかけにレオアリスもまた、判断を迷うようだ。
 ホセにしてみればイリヤの持つ複雑な背景など知らない。正規軍に入っていた情報は、ファルシオンが攫われた事とその件について西海の関わりがある事、その二点だったが、キーファー子爵家の関与は明確にではないにしろ伝わっている。
「我々は当初、彼等の身柄を押えるつもりでいたが……、貴侯はどう思われる。イリヤ・キーファーは殿下を救おうとしたのは確かだ。それに、陛下は彼をお救いになった。身柄を押さえるのではなく、保護して王都へ戻すべきではないか……」
 だがその前に、キーファー子爵家は――いや、元子爵家と言うべきか――既に王都からの追放を言い渡されているのだ。勝手に王都へ戻すのはその判決に反する行為なのではないかと、ホセはそこを気にかけていた。
 ただ、王都へ戻さないとなると、イリヤの身をどう扱うべきか、そこが難しい。
「ホセ大将」
 少し離れた場所でやはり跪いていたロットバルトが顔を上げる。彼に何か考えがあるのだと気付いてレオアリスはファルシオンに断って立ち上がり、その様子を見てやはり立ち上がったホセと共にロットバルトの傍に寄った。
 ロットバルトが声を低く抑え、二人の、特にホセの瞳を捉えた。
「お考えの通り、イリヤ・キーファーの扱いについては、我々だけの判断では終わらないでしょう。キーファー子爵家に対しては既に王都からの追放の判決が下っていますが、イリヤ・キーファー個人には殿下をお救いした功もあります。王都へ戻す判断も難しい状況では、まずは陛下にお伺いを立て御判断が下るまで、当面身柄は近衛師団で預かり、王都外に留め置いて保護すべきかと存じます」
「すると、マウルスのキーファー元子爵邸に?」
 内心では既に答えは決まっていたが、ロットバルトは少し考え込む素振りをして見せた。キーファー元子爵邸に移すのでは、イリヤの身柄の管轄は正規南方軍に移ってしまう事になる。それはあまり具合のいいものではない。
「いえ――、そこではマウルスの街中の混乱もあるでしょう。厄介事は極力避けるべきです。幸い、ヴェルナーの別邸がこの近隣にあります。そこなら混乱なく留め置く事も可能かと」
「侯爵家の……」
 それを聞いたホセの面に浮かんだのは、今まで大きく二つの方向に振れていた思考が定まったかのような、少し安堵した色だった。王の判断を待つまでという期限付きではあるが、ヴェルナー侯爵家が別邸を貸すと言うのであれば、ホセの責任外という事になる。
 ホセとしては、イリヤという厄介な存在を自分の隊に押し付けられなかった事に、内心胸を撫で下ろしていた。
「承知した。近衛にお任せする。彼をこの場に連れて来よう」
 ホセは立ち上がり、林の奥へと近付いて、兵へ指示を出している。それを目で追い、それからレオアリスは少し躊躇った様子でロットバルトに顔を向けた。
「……いいのか、お前、親父さんに断りもなく」
 確かに今のイリヤは簡単に王都へ戻す訳にも行かず、かと言って適当な場所に預ける訳にも行かない。それ故にヴェルナー侯爵家の別邸は預ける場所としては申し分ないが、今回の件は表立って関わる事の難しい、非常に繊細なものだ。イリヤの身を預かるなどしたら、ヴェルナー侯爵家に迷惑が掛かるのではないだろうか。
 それにロットバルトは極力自分の家と距離を置いていて、これまで名前を使う事はあっても侯爵が直接関わるような事はしようとしなかった。
 気掛かりそうなレオアリスの様子に、ロットバルトは保証するように笑みを浮かべる。
「どうせ我々は何も知らない事になっている・・・・・・・・・・・・・。そもそも、今回の判決ではイリヤの存在そのものが公にされていません。ファルシオン殿下救出の功労者を一時保護する程度は問題ありませんよ」
 あの時苛立ちすら感じた審議がこんな場面で役に立つとは思わず、レオアリスは感心ともつかない溜息を吐いた。
「それも王の意図の内と言えるかもしれませんね」
「――王の」
 その言葉に引き寄せられるように、レオアリスは先ほど王が現れた池の上に視線を投げた。日差しを受けた水面は鏡のように光を反射し、足元の冬枯れた下草に光の欠片を散らしている。
 王の意図――。おそらく、そうなのだろう。ただ、その真実を問いかける言葉は、レオアリスも持たない。
「けど本当に、ヴェルナー侯爵には迷惑は」
「多少問題が生じても上手く処理するでしょう。一応長年侯爵家筆頭を張る位だ、政治手腕は相応のものを持っています。それより今、彼を王都へ戻す方が難しい。有効活用できるものを使わない手はありません」
「有効活用……」
「まあ、後で謝罪に行きます」
 相変わらずの口振りだと思ったものの、最後に付け加えられた言葉に、レオアリスはロットバルトを見返した。
「――」
「……何か」
 レオアリスの問いかけるような視線を受けて、ロットバルトの面にほんの僅か、決まり悪そうな色が過ったように見える。
「いや……。有難い」
 口調とは裏腹に、一つ一つの言葉は肯定的ですらある。今回の件で、彼にも思うところがあるのだろうと、努めて顔に出さないようにしながらも、レオアリスは内心笑みを浮かべた。
 親と子の間に、確実に流れるものがあると、レオアリスは知っている。
 状況がそれを複雑にしたとしても。
 王とイリヤの間にも。
「ヴェルナーがあやまらなきゃいけない事なんてない。私が侯爵にあやまるから」
 ふいにファルシオンの声が割って入り、少なからず驚いて、二人は足元を見下ろした。いつの間にかファルシオンが傍に寄り、爪先を伸ばすように彼等を見上げている。
 二人は再び跪き、ロットバルトが口を開く。
「殿下はそのような事をお気になさらずとも大丈夫です。それより、肝心な事は――、貴方は今後イリヤ・キーファーとはお会いになれないという事です。それをご承知置きいただかなくてはいけません」
 厳しいと言える言葉にファルシオンはきゅっと唇を噛み締めたが、それに反対したり、何故と聞いたりはしなかった。
「貴方は先ほど、賢明にも彼を名前でお呼びになりました。それは正しい。以前も申し上げたとおり、貴方がもう暫らく歳を重ね、そしてそれを理解されるべきだと陛下がお考えになれば、必ず充分なご説明があるでしょう」
 ロットバルトの言葉は上手く言い表わしているとは思うが、ファルシオンはまだ四歳の子供だ。レオアリスは少し考えて、こう付け加えた。
「――殿下と、父王と、イリヤだけが知っている秘密です」
「ひみつ……」
 小さな胸に想いを期して、ファルシオンは慎重に頷いた。
 そこに、ホセが数人の正規兵を伴い、林の中から戻ってくる姿が見え、その向こうからクライフに肩を借りながらもしっかりとした足取りで歩いてくるイリヤの姿を見つけて、ファルシオンはぱっと顔を輝かせた。イリヤ達はファルシオンの手前で足を止め、そこで膝を付いた。
 イリヤは少し疲れた様子ながら柔らかい笑みをファルシオンに向けたが、ファルシオンは兄上、と言えずに少し躊躇って、ただ彼を見つめた。周りにはホセや正規兵達がいて、ファルシオンはその事を気にしている。
「ホセ大将、殿下を王都へお連れするに当って、少し」
 ロットバルトがホセに声を掛け、ホセをグランスレイの前まで導く。ホセに従っていた正規兵達も大将の後を追い、ファルシオンの前を離れた。
 ホセはグランスレイとロットバルトを交互に見渡し、ロットバルトが口を開く前に先に尋ねた。
「飛竜を? 師団には大将殿お一人の飛竜しか来てないようだが」
 そう言ったのは王族の警護が近衛師団の管轄だからだ。ファルシオンを王都へ護衛して戻るのに、正規軍の飛竜を借用したいという要望かと考えていたが、ロットバルトの持ちかけた話はホセの予想とは違うものだった。
「それもありますが、師団と言っても火急の中で駆け付けた為、五名しかこの場にはおりません。それでは殿下の護りが手薄に過ぎ、かと言って部隊の到着を待っている時間も惜しい。ホセ大将、できれば貴方と、正規兵の小隊一隊を出し、殿下の護衛をお願いしたい」
「おお、それはもちろんだ」
 この後自分の第四軍はこの場の後処理だけだと思っていた為、同行の要請にホセは僅かに驚いて眼を見張ったが、ファルシオンを救った事で王都に凱旋できるのだ、ホセは異論なく頷いた。
「半刻ほどで用意させよう」
 自らの隊へと足を向けたホセの姿を眼で追いながら、グランスレイは苦笑にも似た表情を浮かべた。
「色々と気を回すな。南方軍に花を持たせるか」
「王位継承者を護衛するには、やはりそれなりの形式と威厳が必要でしょう。それに南方将軍のケストナー殿はアスタロト公が南方公である事に非常な誇りを抱いています。この件で南方を面に出さないのは余り好ましくはない」
「――今回は任せ切りだったな」
 グランスレイは微かに笑みを刷いてから口元を引き締め、ファルシオンとイリヤの姿に視線を注いだ。

 レオアリスはホセとロットバルトが歩いて行った方を確認し、それからイリヤとファルシオンを振り返った。
「小さいお声なら構いません、殿下」
 促すとようやく、ファルシオンは吐息を落とし、イリヤへ真っ直ぐ身体を向けて彼の瞳をじっと見つめた。クライフがイリヤの背中を押すと、イリヤは一度立ち上がってファルシオンの前に立ち、ファルシオンの瞳を見つめ返した。
「――兄上」
 二人の妨げにならないよう、レオアリスとクライフは池のほとりまで下がり、風に押されて打ち寄せる微かな波音に耳を傾けた。二人は暫く黙っていたが、最初に口を開いたのはクライフだ。
「上将、俺は聞かなかった事にすりゃあいいですね」
 レオアリスはクライフの明るい瞳を眺め、笑みを浮かべながらも、いつもより少し低い声で答えた。
「そうだな――。俺達は、皆あまりできる事が無いから」
 レオアリスの表情はまだどこか悔しさもあるが、最近見せていた焦燥に似たものはもう彼の上には見当たらない。クライフはそれだけ確認して、レオアリスの視線とは反対の、今は穏やかに横たわっている池を眺めた。

 イリヤは長い事じっと、ファルシオンの姿を瞳に焼き付けるように見つめていた。
 生まれて初めて会った弟は、真っ直ぐに自分を見てくれた。もしもファルシオンが生まれた時から傍にいて、同じ時を過ごしていたら、きっととても楽しかっただろうと思う。それが残念だ。
 やがて、イリヤはファルシオンの前にしゃがんで、にこりと頬笑みかけた。
「ファルシオン、君と会えて良かった。君に会わなかったら俺は、多分ずっと――、迷ったままだった」
 イリヤの言葉を聞きながら、ファルシオンは片時も逸らさず、兄の瞳を見ていた。
 憧れ、心の中で思い描いていた兄という存在は、今ではすっかりイリヤの顔をしている。
 ただ、もう会えないと思えば思うほど、ファルシオンは悲しくなってイリヤに言葉を返せないでいた。
 父王やレオアリス達の様子から、そうしなければいけないのだと、それだけは判る。
「――」
 一生懸命堪えている様子が握り締めた小さな手から伝わり、イリヤは笑みを浮かべた。そんな様子さえ、イリヤには嬉しいと感じる。ファルシオンがイリヤに向けてくれる、純粋な好意の証のようだ。
「ファルシオン」
 じっと注がれているファルシオンの黄金の瞳。父王のそれと、そのまま同じ色なのだろう。
(父上――)
『ミオスティリヤ――そなたの母が示し、私が選んだ名だ』
 ただその一言を聞いただけで、こうも心が軽くなるものなのか――色々な事が心の奥底に鬩ぎ合っていたはずなのに。
(おかしいよな)
 けれど本当は、王の言葉を聞く前に、イリヤはこの幼い弟に救われていた。
「――俺は、君の傍にいる事はできないけど」
 ファルシオンは唇を噛むように俯いた。イリヤが手を伸ばしてそっと小さな両手を包む。行き交うのは、暖かい体温と、互いの想いだ。
 泣き出すのを堪えているファルシオンの顔を見て、イリヤはくすりと笑った。
「悲しくはないんだよ。君を忘れる事は無いし、今までお互いの存在すら知らなかったのに、今はこんなにはっきりと、君がいる事を知ってる。本当にすごい事だ。それに、」
 イリヤは池のほとりに立ち、二人を見つめているレオアリスをファルシオンに示してみせる。
「俺の変わりになんて言う訳じゃないけど、彼が君の傍にいてくれるだろ? 君は多くの事を彼から学べる。だから君には、兄が三人いるみたいなものだね。すごくないか?」
 レオアリスの姿を見て、涙で潤んでいるファルシオンの瞳も、ほんの少し、悲しみを和らげた。
 けれど、やはり悲しい。レオアリスはレオアリスで傍にいてもらって、イリヤも傍にいてくれないかとそう思うのを止められず、ファルシオンはそっと呟いた。
「りょうほう、いてくれればいいのに」
 もしかしたらイリヤは頷いてくれるかもしれない。そうしたら、何が何でも、父王にお願いするつもりだった。
 一生のお願いだ。本当に。
 けれどイリヤは頷かなかった。
 ファルシオンはとうとう声を上げて泣き出してしまい、イリヤは手を伸ばして、ファルシオンの肩を抱き締めた。
 イリヤには言える言葉は多くは無いが、ファルシオンに伝えたい言葉はもう決まっている。
 一度身体を引き、ファルシオンの黄金の瞳を見つめた。
「君が、いつか立派な王になるのを見守ってる」
 イリヤは暫くの間、小さな身体の体温を胸に刻もうとするようにじっとファルシオンを抱き締めていたが、林の入り口辺りで正規軍の兵士達が慌しく動き始めたのを見て、ファルシオンの背中をぽんぽんと二度ほど叩いて立ち上がった。
 別れの時だ。落とした視線の先で、ファルシオンはまだ泣いている。
 イリヤは込み上げるものを飲み込んで、一歩、しっかりと退いた。
「……レオアリス、ファルシオンを頼めるかな。俺が言える義理じゃないけど」
 今誰かにそれを頼めるとしたら、この一つ年下の近衛師団大将くらいだろう。そう思ってみて、イリヤは可笑しそうに口元に笑みを閃かせた。
「俺は、色々難しい事を君に頼ってばかりだね」
 もしもっと違う立場だったなら、と考えたのはレオアリスに対しても同じだ。いい友人になれたのではないかと、そう思える。もし、イリヤが――。
「勝手を言って、悪いけど」
「――いいや」
 レオアリスは首を振り、ファルシオンに近寄ると彼の傍らに膝を付く。泣いている肩に手を添えると、ファルシオンは彼の身体にぎゅっとしがみついた。
「――じゃあ、ファルシオン、元気で」
 ファルシオンは唇を噛み締めて俯いていたが、やがて震える肩を堪え、顔を上げた。振り返ってイリヤと向かい合い、真っ直ぐ彼を見上げる。
「兄上――」
 イリヤの向こうに、ロットバルトとホセが近付いて来るのが見える。ホセの姿がまだ小さい内に、ファルシオンは想いを込めるように、声に力を込めた。
「兄上とお会いできて、よかったです」
「うん――俺もだ」
「ぜったいに、忘れないから」
「俺も――」
 イリヤがそれ以上何かを言う前に、ホセはファルシオンの傍まで来ると跪いた。
「殿下、お帰りの準備が整いました。充分な輿もございませんが、ご容赦ください」
「……平気だ」
 ファルシオンが父王に似た威厳を込め、首を振る。
 彼の姿に微笑みを浮かべ、イリヤは彼の傍を離れた。ファルシオンに注いでいた視線が、ふとその向こう、林の入り口にいる正規軍の間に引き寄せられる。
 近衛師団の将校らしき女性と、その隣にいるのは、ラナエだ。
「ラナエ……」
 胸の奥がぐっと掴まれ、呟いた言葉の響きは怖がっているようですらある。ロットバルトがイリヤの呟きを聞き付けたように、フレイザーに向かって軽く手を上げた。フレイザーがラナエを促して歩き出し、ロットバルトはそれを確認してからレオアリスの隣に寄った。
「正規の伝令使を借り、アヴァロン閣下に殿下救出の報告を上げ、また彼を近衛師団で一時預かる旨の了承を得ました。私は彼等を別邸に送ってから王都に戻ります」
「頼む。――悪いな」
 レオアリスが頷くと、ロットバルトは次にイリヤへ顔を向けた。
「動けるようであれば、この後すぐ移動します。飛竜で半刻もあれば到着するでしょう」
「大丈夫です、ただ――」
 ほんの少しだけイリヤは口籠もり、もう近くまで来ているラナエに視線を向けた。ロットバルトが彼の視線を追い、頷く。
「ああ――。申し訳ありませんが」
 イリヤはぐっと唇を噛み締めた。レオアリスが口添えをしようと片手を上げかけ、ロットバルトの口元に閃いた笑みを見てそれを途中で下ろした。
「彼女の身柄も軍で保護しなければいけない。少し窮屈を強いますが、手荒には扱いません。貴方と一緒に別邸に移させていただく」
「――」
 イリヤはまじまじとロットバルトの顔を見つめ、深く頭を下げて、それからラナエの方へ向き直った。
「イリヤ!」
 フレイザーに背中を押され、弾けるような声と共に、ラナエが服の裾を翻して駆け寄る。イリヤは今度は自分から腕を広げて彼女を受け止め、抱き締めた。
「ラナエ――」
 温かい、良く知った体温が伝わる。身体の奥底を暖めるような、湧き上がる愛おしさを瞳を閉じて感じながら、どうしてこの温もりを手放そうと考える事ができたのか、それが不思議なくらいだ。
 イリヤの腕の中で、ラナエは顔を上げ、そっと彼の頬に触れた。
「無事で良かった、イリヤ」
「ラナエ――ごめんね、心配ばかりかけた。これからは……」
 ふとイリヤは口籠もり、言葉を切った。これから、という言葉を口にするのは躊躇われたからだ。
 この先自分はどうなるか判らない。犯した罪をどう償えばいいのか。ラナエにそこに居てくれと言う資格が、自分にあるのか。手放したくないと思った傍から、そんな考えが身をもたげる。
 ラナエの肩口で俯いたままのイリヤの耳に、ラナエの言葉が届く。
「傍にいるわ。どんな事があっても」
 イリヤの迷いを断ち切るように、ラナエはきっぱりと告げた。
「イリヤと一緒に私も、できる事をしたいの」
「でも――」
 そう容易くはないのだ、と言おうとしたイリヤの両手を、ラナエは両手で包み込む。
「貴方の望みより、私の望みだからね」
 伝わってくる精一杯の力を、イリヤは瞳を閉じて受け止めた。
 そっと両手を持ち上げ、ラナエの手の甲に額を当てた。
「――君が望む限り、ずっと」
 傍らのレオアリスの顔を見上げ、ファルシオンがそうっと囁く。
「兄上、ちゃんとなかなおりしたんだね。良かった」
「はは――。そうですね……良かった」
 レオアリスにもまた彼等の厳しい道行きは想像に難くなかったが、ファルシオンの素直な、四歳という年齢ならではの言葉は逆に物事を何の障害も無く見ていて、その事に背中を押されるような気持ちになる。二人が再びお互いの手を取れた事、それが今は一番の結果だ。
「取り敢えず、これであらかた納まったか……」
 ロットバルトもファルシオンの言葉に笑みを浮かべていたが、さすがにまだ慎重な視線をレオアリスに向けた。
「さて。下準備だけは、というところでは? この先どうなるか、楽観できる訳ではありません」
「そうだな。肝に命じる」
 息を吐いてそう言うと、レオアリスは池の端で翼を休めていたハヤテに合図するように手を上げる。
「ハヤテだ」
 ファルシオンは先ほどの戦いで勇壮な姿を見せた銀翼の飛竜に、きらきらと大きな瞳を輝かせた。
 翼を気にしてか、ハヤテは少し短い足で、どたんどたん、と音を立て、身体と長い尻尾を振りながら地上を歩いてくる。
 空とは大違いだと笑って、レオアリスはハヤテが近付いて来るのを待ち、手を伸ばしてハヤテの長い首を撫でた。
「良くやってくれた、ハヤテ。お前のお陰だ」
 ハヤテの鱗に走る傷を検分してほっと肩を降ろし、それから懐から手布を取り出して足元の水に付けると、固く絞ってからハヤテの身体の傷を拭ってやる。
 ファルシオンは心配そうにハヤテに近寄り、ハヤテとレオアリスを見比べた。
「ハヤテはだいじょうぶ?」
「王都に帰ったら傷の治療をしますが、大丈夫、それほど深い傷がないので十日程度で治ります。飛竜は治癒力が高いし、翼は特に早いんですよ」
「そうなの?」
 ファルシオンは息を吐いてから、ハヤテの硬い鱗に恐る恐る手を伸ばし、そうっと撫でた。背が低い為に撫でているのはハヤテの腹の辺りで、硬く厚い鱗に被われている割にハヤテは何となくくすぐったそうだ。
「ハヤテに乗りたかったな」
 残念がる声には、ハヤテが怪我をしているのは分かっているんだけど、という思いが含まれていて、レオアリスはハヤテの傷を洗う手を止めて笑った。
「また元気になったらお乗せ致します。ハヤテも殿下に乗っていただけたら嬉しいでしょう」
「うん」
 ファルシオンがこくんと頷く。レオアリスは約束したら、ちゃんと守ってくれるから、その時を待てばいいのだ。
「ハヤテの翼に負担をかけないよう今回はからで帰します。王都までは正規軍の飛竜を借りますが、殿下は俺と一緒でよろしいですね?」
「うん!」
 今度はもっと嬉しそうに、ファルシオンは首を大きく振った。
 頃合いを見計らってホセがファルシオンに声をかける。
「そろそろ参りましょう。陛下へはご報告しておりますが、少しでも早く殿下のご無事なお姿をお見せして、ご安心いただかなくてはいけません」
 ファルシオンは今まで瞳に浮かべていたきらきらとした光をさっと潜めながらも、この時を覚悟していたように、しっかりとホセの顔を見据えて頷いた。
「――判った」
 ホセが立ち上がり背後の兵士達に合図を送ると、林の向こうから空気を打つ翼の音と共に紅玉の飛竜が数十騎姿を現した。陽光に翼を煌めかせて池のほとりに降り立つ。
 俄かに慌ただしさを増した池のほとりで、ファルシオンとイリヤは少し離れた位置から、最後にもう一度向かい合った。
 イリヤは何も言わず、ただファルシオンに穏やかな瞳を向けている。
「レオアリス殿、殿下を飛竜へ。それから、全体の指揮は貴侯にお任せしたい。王の剣士に率いられての凱旋は、兵等の励みにもなろう」
 ホセに促され、レオアリスは再びファルシオンの前に跪く。
「参りましょう、ファルシオン殿下」
 名残惜しさを振り切るのは、まだ幼いファルシオンにはとても難しかっただろう。
 けれどファルシオンは頷いて、自分から飛竜へと歩き出した。
 もうイリヤとは、大切な話をして、大切なものをもらっている。
 ファルシオンが忘れない限り、イリヤという存在がファルシオンの中から失われる事はないのだと、ファルシオンはもうそれを判っていた。
 レオアリスはファルシオンを飛竜の背に抱え上げる時、そっと低く囁いた。
「俺が昔、王都に上がる前、今の殿下と似たような状況で別れた友人がいましたが」
 ファルシオンは飛竜の鞍に座り、続いて飛竜の背に飛び乗ったレオアリスが次に何を言うのかと見つめた。レオアリスは首を捻るようにして自分を見上げるファルシオンに、小さく笑みを返す。
「また、会えました。今でも、いい友人です」
「――うん」
 二つの黄金の瞳を真っ直ぐ前に向けたファルシオンに微笑み、それから表情を引き締めると、レオアリスは辺りを見回した。
「出立する! 王都までおよそ二刻、常に殿下を中心に置いて編隊を維持せよ。諸君等の労は王都に於いてねぎらわれる」
 おお、と声が上がり、先払いの十騎が空中へと翔け出す。続いてホセを中心に置いた二十騎の飛竜が飛び立ち、最後にファルシオンを乗せた飛竜を含めた二十騎が翼を羽ばたかせて青い空に翔け上がった。
 林の向こうから、待機していた残り五十騎の飛竜が一斉に空へと翔上がり、最初に上がった五十騎の後陣に付く。第一王位継承者たる王子を王都へ送るに充分な、飛竜の大編隊だ。
 見る見る小さくなるイリヤの姿を、ファルシオンはずっと見つめていた。
 やがて視界から消えてからは、レオアリスに背中を預け、瞳は前へと向けていた。



 紅玉の飛竜の編隊はあっさりと感じられるほどに、青い空の向こうに消えた。
 イリヤはその空を、暫くの間眩しそうに振り仰いでいた。
 彼の頭上に広がる空は澄んで青い――あの小さな花の花弁を溶かしたような色だ。
「――」
 言葉にならない想いを込めた息をゆっくりと吐き、それからイリヤは残った紅玉の飛竜の傍に立っているロットバルトに視線を向けた。
「もう少し、いいですか」
 ロットバルトが促すように首を僅かに傾けるのを確認し、ラナエにもそこで待っているように告げると、イリヤは一人、池のほとりを歩き出した。それほど歩く事もなく、足を止める。
 イリヤの足元にあるのは、小さな白い墓標だ。
 イリヤはじっと、水面が砕いて弾いた陽光の中にひっそりと置かれた墓標を見つめた。
 明るく輝く水の彩りの中で、墓標は穏やかに眠っている。
 吹き抜ける緩やかな風が、周囲の木立を揺らして過ぎる。
『ミオスティリヤ』
 優しく、柔らかい声が、イリヤの脳裏に蘇る。いつも彼女は、イリヤをそう呼んだ。
「母さん――」
 イリヤが呟いた言葉は、反射する光の中を、静かに墓標へと落ちた。
「ありがとう、俺に残してくれて」
 あの日記。
 想い。
 そして――
 父と、弟を。
「貴方が待ってた王子は、これからもちゃんと、あの居城で笑ってるよ」
 白い墓標は確かに、その色の柔らかさを増した気がした。



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