十七
ファルシオンを乗せた紅玉の飛竜が林の上へ退き、正規軍西方軍中隊は池を取り囲むように布陣する。
ファルシオンは乗っている飛竜が林の奥に降りようとするのを見て、自分を抱えているクライフの袖を引いた。
「ここがいい」
「しかし殿下」
クライフが自分を安全な場所に降ろそうとしているのは判っていたが、ファルシオンはきっぱりと首を振った。
「見たい」
そう、ファルシオンはずっと、それを見たいと願っていた。
レオアリスの、父王が自らの剣士と呼んだ、その剣を。
いつか見せると言ったあの約束を、レオアリスは今、果たしてくれた。
レオアリスは青白く揺らめく光を纏う剣を一見無造作に提げたまま、銀翼の飛竜の背に立ち、ビュルゲルと向かい合っている。
その姿には見る者が息を潜めるような静謐さと、取り巻く空気に触れるだけで切り裂かれそうな冴え渡った気配があった。
「――確かに、剣士と三の戟との戦いなんて滅多にお目にかかれるものじゃねぇし……」
グランスレイが聞けば叱責されそうな事をクライフはこそりと呟いたが、おそらく地上に布陣しているグランスレイ達も、あの両者の姿を固唾を飲んで見つめているはずだ。
ただし、目の前で始まろうとしているものは、御前試合や演習といった、いわゆる見世物ではない。
どちらの刃も、確実に相手を容赦なく切り裂こうとするものだ。
レオアリスは既に完全にその剣を御しているが、いつ両者の力が周囲に波及しないとも限らない。
「危ないと思ったらすぐ退きますよ、よろしいですね?」
ファルシオンは池の上を食い入るように見つめたまま、こくりと頷いた。
池の水が、砕けた硝子を敷き詰めたように、高く上がった陽光を乱反射して輝く。それは美しいとさえ言える光景だったが、その光景を作り出しているのは、池の上に犇めく使隷達が半透明の水の身体の中で光を屈折させるせいだ。
ハヤテが浮かぶ池の中央の僅か三間四方だけを残し、およそ五十体に近い水の兵士がぐるりと周囲を囲んでいた。
レオアリスは剣を提げ視線をビュルゲルに据えているものの、動く様子はない。ただその全身から発せられる圧力が、使隷達の身体を通してビュルゲルの肌にも感じられる。
一方でレオアリスも、ビュルゲルが纏わせている冷気を確認するように、意識を注いでいた。
レオアリスが考えていたのは、ビュルゲルの力がどの程度か、そして何より自軍との距離――自らの剣の及ぶ範囲だ。
どこまでで抑えるか。
二人は睨み合うように互いの姿を捉えたまま動かず、その場の空気が痛いほど張り詰めていく。
兵数で言えば、ビュルゲルの方が上だ。レオアリスは自身の指揮下の兵では無いとは言え、千名の中隊を林ぎりぎりまで退がらせ、ビュルゲルの兵とたった一人で対峙している。
それは無謀とも、驕りとも見えるが、そうではない事を向かい合うビュルゲル本人が一番良く感じていた。
ただ剣を提げ立っているだけのように見えて、打ち込む隙は見当たらない。
「――剣士か」
ビュルゲルの中に渦巻いていた怒りと焦燥さえ、目の前の若い剣士を前に冷やされ、形を変えていく。
西海の三の戟と呼ばれるビュルゲルの感覚が、怒りに血の昇った思考では我が身を不利に陥れるだけだと警告しているからだ。
いずれ――。
「――見定めさせてもらおう」
ビュルゲルの手にする戟が穂先を揺らす。戟の柄を掴んだ右手が穂先を回転させ、とぷりと水にその切っ先を浸した。水面が鉾の力を伝えるように激しい波紋を広げる。
切っ先が水を掻き、跳ね上がる。
ビュルゲルの正面にいた使隷達が身を揺すり、一斉に動いた。
戟の切っ先が作り上げた波が使隷達の身体を高く押し上げ、中央に立つレオアリスへと、高波のように押し寄せる。
レオアリスは自分の身長の倍以上の高さから逼る波と使隷達の姿を見上げた。
波がレオアリスとハヤテの姿を飲み込んだと思えた瞬間、水の表面に青白い閃光が幾筋も走った。
まるで硝子が砕けるが如く、波が砕け、霧散する。
飛び散った飛沫が陽光を弾きながら降り掛かる中で、レオアリスは右手の剣を一閃した。ビュルゲルを目がけ、見えない圧力が水を裂き走る。
ビュルゲルはそれを予期していたかのように、戟の石突で水面を弾き、跳躍した。
砕ける水音すらなく、剣の軌道上の使隷が跡形もなく消え、水面は水底を見せるほど割れた後、覆い被さるように水が傾れ込んだ。それでいて、池のほとりの草はそよりともそよがない。
それまで息を潜めて退いていた正規西方軍の中から、感嘆と、安堵に近い声が洩れる。その安堵は彼等もまた、レオアリスの、剣士の剣を少なからず恐れていた証だ。
「初めて彼の剣を見たが、なるほど……王の剣士か」
唸るように呟いたのは、正規軍南方第四大隊大将、ホセだ。これまでレオアリスの存在をどう捉えていたかは判らないが、今のホセの表情には目の前の剣への感嘆がある。
ロットバルトはホセの感嘆の表情から視線を移し、傍らのグランスレイを見た。
「完全に、剣は制御下にあるようですね」
「今後戦術が変わるな」
これまで、レオアリスの剣の余波を避ける為に自軍の兵まで退く必要があったが、今の一振りは剣を完全に制御下に置いている事を証明してみせた。
「ここにあるのが師団でないのが残念ですが」
ホセに聞こえない程度に呟いたロットバルトの横顔にちらりと視線を走らせ、グランスレイは微かな苦笑を浮かべながらも、彼の考えている事へ同意を示すように頷いた。
日頃の指揮系統と意思疎通の確立した第一大隊が手元にあれば、少し危険を負ってでも、あの場に投入する事は可能だ。参謀として、そして一軍を預かる将として、剣士の剣と連携した戦術を取りたいと考えるのは無理もない。グランスレイ自身少なからず、血が騒ぐのを感じている。
それを抑えるように、グランスレイは息を吐いた。
「だが今回は、ビュルゲルの力が不明だ。下手に兵を危険に晒すより、上将にお任せするのが一番いい」
グランスレイ達の視線の前で、残り三方に伏せていた使隷達が陽光を煌めかせて動く。ビュルゲルが鉾で水面を突いた。
同時ではなく、第一波が右手から立ち上がり、一呼吸置いて左辺、続いて後方に波が立ち上がった。ただ感覚を撹乱をさせるように、押し寄せる速度は左辺が速く、波の高さは後方が最も高い。
「ハヤテ」
レオアリスの声と同時に、ハヤテは翼を力強く一つ羽ばたかせた。巻き起こる風が水面を叩き、ハヤテの身体が一息に上昇する。
打ち寄せる波を躱して垂直に空へと駆け上がったハヤテの背から、手綱と足を離し、レオアリスの身体はふわりと宙に浮いた。
中空で身体を捻り、目標を捕まえ損なって互いにぶつかり合った波の上に落下しながら、眼下で砕ける波と寄せた使隷達の溜まりへと、右手の剣が十字の閃光を描く。
水面に十字が穿たれ、一瞬、水が青白く発光したかと思うと、使隷達の身体が霧散した。
砕けた水が高く吹き上がり、白く泡立つ水飛沫となってレオアリスの上に降り注ぐ。
その飛沫の幕の中を切り、弧を描いて舞い戻った銀翼の飛竜が、水面に落下する直前のレオアリスの身体をその背に拾い上げた。
水面が一度大きく波打ち、しんと静まり返る。
押し寄せ、砕け、霧散する波の音が周囲の樹々を揺るがせながら、それはまるで無音の世界にあるような、そこだけ時間が切り取られたかのような光景だった。
ビュルゲルは束の間使隷達が消えた水面を見つめていたが、浮かべていた驚愕の表情を、ゆっくりと笑みに変えた。
「なるほど――剣士とはそういう者か。では使隷などいくら居ても意味が無いな」
再び戟を一回転させ、水面を打つ。
僅かに残っていた使隷が弾けるように崩れて水に戻る。次いでビュルゲルの足元の水が盛り上がり、異形の形を成した。
薄く平べったい扇状の身体を持つ生物、レオアリス達には初めて目にするものだったが、それは海中に棲息するエイだ。
その背に立ったビュルゲルと、飛竜の背に立ち見下ろすレオアリスとが向かい合う。
彼等二人を中心に、空気が収錬されていく。
林の上に浮かぶ飛竜の背からその光景を見つめていたファルシオンは、恐れるように息を潜めながらも身を乗り出した。クライフがファルシオンの身体をしっかりと抑える。
幼いファルシオンにも、状況は肌を撫ぜる冷気のように伝わっている。
互いの力を探る為の、いわば小手調べはこれで終わり、ここから先に展開されるのは間違いなく、相手を倒す為の力のぶつかり合いになる。
レオアリスは再び、剣を手にしている右手を提げた。漆黒の瞳をビュルゲルへ据え、口を開く。
「もう一度言おう。西海へ退け。ここで今、無駄に剣を交えても意味が無い」
ビュルゲルは銀翼の飛竜の上に立つレオアリスの全身を、注意深く眺めた。
右手に提げた青白い陽炎を纏う剣の他に、もう一つ。
(まだ、力を残すか)
もう一つ、底知れない力を宿すものが、レオアリスの身の裡にあるのが感じられる。
剣は二本――この少年が剣士という種族の中でさえ稀な、二刀を有する剣士だと、ビュルゲルも聞き及んでいた。
いずれこの剣士は、ビュルゲル達の――、西海にとっての、最大の障壁となる。
今の内に、その存在を打ち払っておくべきだ。
「――貴様がもし逆の立場であれば、ここでは退くまい」
「なら――強制的に退場して貰うぜ」
レオアリスはハヤテの手綱を引いた。
ハヤテは初動の翼の一打ちで急速に加速し、水面に飛沫の尾を引きながらビュルゲルへと翔る。
直前でハヤテは身を捻って急上昇し、ビュルゲルの背後へ回ると、再びビュルゲルへと翼を羽ばたかせた。
ビュルゲルはハヤテを追って振り返り、戟を正面に構え――、ぎくりとして飛竜の背中を見た。レオアリスの姿が無い。
ビュルゲルの足元が翳る。
「――!」
金属が打ち鳴らされ軋む音が響く。咄嗟に上げたビュルゲルの戟の柄を、上から振り下ろされたレオアリスの青白い剣が捉えている。
片手で打ち下ろしただけの剣に戟がたわみ、ビュルゲルの足が波間に沈んだ。剣の余波がビュルゲルの身体を叩き、幾つもの裂傷が走る。
ただビュルゲルは剣を弾こうとせず、敢えて身体を反らして力を受け流し、左手を引くと同時に右手で戟を回した。全ての動作が一呼吸の内に行われ、強烈な斬戟を繰り出す。
レオアリスの足がビュルゲルの胴を蹴り、逼る横薙ぎの斬戟を躱して後方へ跳んだ。掠めた斬戟が軍服の胸元を切り裂く。
再び、ハヤテの背が彼の身体を受け止めた。足場はレオアリスに不利と見えたが、ハヤテの機動力はそれを補って余りある。
ビュルゲルの乗騎の長い尾が水面を打ち、跳ね上がる。
初戟の横薙ぎをレオアリスは身を屈めて躱し、続けざまに振り下ろされた戟の柄を、剣を下から撃ち上げるようにして止めた。
ビュルゲルが瞬時に弾かれた戟を引き、更に反して切っ先で突く。レオアリスは頭を反らせ、喉元を掠める刃に対して左手で柄を掴み引き寄せると、同時に踏み込んで間合いを詰め、ビュルゲルの引き手、戟の柄を握った懐の左手を狙って剣を振り上げた。
剣がビュルゲルの左手を切り裂く前に、ビュルゲルが左手を引く。レオアリスは構わずそのまま剣で柄を打ち上げた。
引き寄せられて前屈みに体勢を崩していたビュルゲルは、柄を弾く鋭い衝撃に右手の抑えを失い、戟はビュルゲルの手を離れた。
青白い閃光が閃く。白刃を視界に収める寸前で、ビュルゲルは乗騎の背を蹴った。
レオアリスの剣が風を巻き、たった今までビュルゲルがいた場所を切り裂く。ビュルゲルの乗騎が刃を受け、陽の光を弾くように砕けた。
更に追おうとして剣が一際青白い光を纏ったが、レオアリスはそこで剣を止めた。
ビュルゲルは水面に降り立ちレオアリスを睨み上げ、レオアリスはビュルゲルの視線を受け止めながら、手にした戟を肩に軽く当ててくるりと回し、右手の剣を再び提げた。
全てが瞬きの間の攻防だ。
ビュルゲルとレオアリス、二人の剣技が目の前で繰り広げられ、息を詰めてそれを見守っていた周囲から、漸く解放の呼吸が洩れた。
「すごい」
ファルシオンの感嘆に、クライフは少しばかりの複雑さを含んで頷く。
「俺もあれをやられますよ。長物は刃先だけではなく柄も打撃に使えて間合いも長い。一見有利に見えますが、ああやって間合いを殺されると辛くなる」
一般には剣の威力だけを謳われがちだが、レオアリスは剣技に於いても非常に優れた使い手だ。相対して改めて、その剣の鋭さに息を呑む。
「――」
レオアリスの手に移った戟を、ビュルゲルは憎悪を込めて見据えた。
武器を奪われるなど、これまでの経験の中で、これほどの屈辱は無い。ビュルゲルのぬるりとした面が、どす黒い血を昇らせる。
「――貴様は、この手で殺す」
応えるように、レオアリスの口元に微かな笑みが浮かんだ。その意味するものに気付いて、ビュルゲルの中に少なからぬ戦慄が走った。
武器を失ったビュルゲルの言葉を、悔し紛れだと嗤っているのではない。ビュルゲルの次の手に、どう剣を合わせるか。それを待つ笑みだ。
この状況に於いて――この若い剣士は、戦いそのものを、愉しんでいるとさえ言える。
戦場を見つめていたグランスレイもまた、レオアリスの笑みが示すものを見て取り、肌が粟立つのを感じていた。
レオアリスが王という鞘を得たのは、ある意味この国にとってさえ、幸いと言えたかもしれない。
主を持たず、一切の制約を受けないあの剣が野にあるのは脅威だったはずだ。
バインドが証明した、剣士という種が持つ狂気、飽くなき闘争本能。
それを抑え得るものが、彼等が剣を捧げる主という名の鞘だ。
(では、鞘が……)
ふと頭を過ぎった暗い想像に、グランスレイは自然頬を引き締めた。
「副将?」
グランスレイの面に浮かんでいる緊迫した色に気付き、ロットバルトがその横顔に訝しむ視線を向ける。
「どうかされましたか」
「いや――」
苦笑を浮かべたのは、さすがに穿ち過ぎだと思ったからだ。
王はレオアリスの前に、確固たる、そしてあの剣を抑え、包む鞘として在り続ける。
そしてレオアリス自身、既に剣を自らの意思の下に制御している。
周囲の正規兵達からどよめきが上がる。
グランスレイは意識からその考えを切り捨て、目の前の戦いに視線を戻した。
ビュルゲルの足元の水面が盛り上がり、ビュルゲルを乗せたまま、蛇のような長い鎌首をもたげる。五間ほど――五層の塔ほどの高さに、ビュルゲルを乗せた頭が浮かぶ。
その左右にも、同様の首が伸び、長い首が踊るようにうねった。
水竜――、いや、三本の首を持つ蛇――大蛟。
「厄介ですね。水が有る限り、ビュルゲルは様々な物を創り出す能力を持っているようだ」
尽きない力の源、供給源である池を見つめ、ロットバルトは瞳を細めた。ビュルゲルを水から切り離す必要がある。
そして一見、レオアリスの力がビュルゲルを上回っているように見えるが、今のままではおそらく戦況は変わらない。その証拠にレオアリスは先ほど、ビュルゲルを討てる位置にあって剣を止めた。
理由は二つある。
「やはりこの布陣では妨げになるか……」
ロットバルトの呟きに、グランスレイも頷いた。
池のほとりを丸く囲い込む現在の陣は、地形上の理由と戦いの余波を避けるという目的の他に、相手の退路を断ち物理的、精神的な効果を与える目的も持っている。
だが、ビュルゲルの足元に水源がある以上、後者の効果は打ち消される。
逆にレオアリスは、兵を考慮に入れた戦いに限定せざるを得ない。
ロットバルトは正規軍大将ホセとグランスレイに顔を向けた。
「現時点でビュルゲルには、戦場を拡大する意図は無いと判断していいでしょう。陣形を変えます」
「だが、この状況で他にどう変える?」
「池を中心に小隊毎に放射状に配置し、『道』を開きます。この陣形なら囲むよりも面で対する必要が少なく、兵への被害は最小限に抑えられ、また必要に応じて左右からの挟撃が可能です」
ロットバルトが言う『道』とは、ビュルゲルを水上から切り離す為に開く地上の空間を指している。レオアリスの剣の『通り道』だ。
「なるほど」
ホセは頷いた。通常の戦術には無い奇抜な陣形だが、この戦いには確かに則したものだ。
「十小隊、九本の道が開けるな。引き込んだ時にも展開しやすい。それで行こう」
傍らに伝令兵を呼び、布陣の変更を指示する。伝令兵が駆け出す間にも、池の上の戦いが動く。
大蛟の頭がゆらりと揺れ、右側の一つがレオアリスへと鎌首を向けた。同時に左手の一頭も、くの字に長い身をたわめる。
引き絞られた弓から放たれる矢のように、二方向から蛇の頭が逼る。開いた口は全身の水の色に相反して、赤い。
急激に逼る二頭の大蛟を見据えながら、レオアリスは眉を顰めた。
(最初の波と同じだな……何かあるか?)
三の戟と呼ばれる者が、一度無効に終わった攻撃をただ繰り返すとも思えない。
レオアリスは飛沫を蹴立てて突進する右の大蛟の頭を半身を捻って躱し、そのまま右足を蹴って反動を付ける。
回転に乗せた横薙ぎの剣が青白い光の尾を引き、左から眼前に逼る大蛟の頭を捉えた。振り切った刃が、一度躱したもう一頭の胴を切り裂く。
二頭は刃を受け、レオアリスの左右で水の身体を弾けさせた。
「――」
レオアリスの瞳が砕いた先の変化を追う。細く飛び散った水は無数の蛇となり、レオアリスの上に降り掛かると、手足に巻き付いた。
戟に巻き付いた蛇が、レオアリスの手から戟をもぎ取り、触手が縮まるようにビュルゲルの下に戻った。
ビュルゲルの手が戟を掴む。長く荒い、憤りを孕んだ息が、ビュルゲルの口から洩れた。
「戻ったな、忌々しい事だ。――まずは貴様の手足を封じさせてもらおう」
「この程度でか」
レオアリスは手足に巻きついている細い蛇達に、ちらりと視線を落とした。先ほど使隷の束縛を砕いた事からも、この種の手が通じないのはビュルゲルも判っているはずだ。
だがレオアリスの言葉に返すように笑い、ビュルゲルが手にした戟で足元を突き回転させる。ビュルゲルを乗せた大蛟が一度身をたわめ、低く突進した。
水面に浸された戟先が水を割り、まだ手足に蛇を絡み付かせたままのレオアリスへと奔る。
一瞬早くハヤテが横へ回避し、斜め下から跳ね上がった戟の切っ先が、レオアリスの頭があった空間を裂いて過ぎた。掠めた刃が黒い髪の先を僅か、すぱりと断って散らす。
蛇を絡み付かせたまま、レオアリスが右手の剣を振り抜く。同時に身を取り巻いた青白い剣光に触れ蛇達は跡形もなく消滅した。だがレオアリスの動きは僅かに遅れ、剣はビュルゲルの身体を捉える事なく振り切られた。
ビュルゲルの戟が上段から振り下ろされ、レオアリスの頭上で青白い刃と交差し、止まる。
剣の鍔元と鉾の刃が高い音を立て、互いの身体が弾かれるように距離が離れる。
ビュルゲルの間合いだ。
ビュルゲルは一呼吸も置かず、弾かれて上がった戟を振り下ろした。受け止めようとしたレオアリスの剣が迷う。
「?!」
戟の軌道は予想していた間合いを取っていない。レオアリスは咄嗟にハヤテの手綱を引いた。
戟の切っ先がハヤテの鼻先を掠めて水面を打つ。水が振動し、次の瞬間、無数の刃を形取って氷柱のように隆起し、荒くそそり立つ鋭利な先端が真下から銀色の鱗に突き刺さった。
「! ハヤテ!」
深手には至らなかったものの、翼の薄い膜が貫かれ、ハヤテはぐらりと体勢を崩した。
再びビュルゲルの戟が水面を打つ。ハヤテを追って水面が次々と、鋭利な刃となって隆起する。
レオアリスが唇を噛み、瞳に怒りを刷いた。
(狙いはハヤテか)
乗騎を奪い機動力を削ぐのは戦場での常套手段だ。この状態で乗騎を失えば、レオアリスにとって著しく不利になるのは明白だったが、それ以上に、ハヤテを傷付けられる事はレオアリスの中に苛立ちを生んだ。
「ハヤテ、上がれ!」
ハヤテが翼を羽ばたかせ上昇する。陽光にハヤテの影を落とす水面が、上昇するその影を追って立ち上がる。巨大な三本の水柱がハヤテの腹と喉元を目がけて奔った。
「ハヤテ!」
レオアリスは左手でハヤテの手綱を引いた。レオアリスの意図を理解して、ハヤテはぐるりと身体を捻り、右の翼を下に向けた。
左手に手綱を巻き付け、鞍を両脚で抑えて横倒しになった身体を支えながら、レオアリスの剣が目前に迫った水柱を砕く。
崩れ落ちる水柱の飛沫の向こうからビュルゲルの戟が飛び出し、レオアリスの右肩を裂いた。
「ッ」
再び水が立ち上がる。ハヤテは柱を縫うように回避したものの、ビュルゲルに近付く事ができずに弧を描いた。
(まずいな、水から離れないと――)
ビュルゲルは水を自在に変化させ、ハヤテとレオアリスを同時に攻撃する事ができ、それを狙っている。
下からの攻撃はハヤテの身体に遮られてレオアリスには見えにくく、避ける為にハヤテを遠く離せばレオアリスの手は限られてくる。ビュルゲルならば難なく躱すはすだ。
ハヤテの翼は既に薄い皮膜が何ヶ所も破れ、銀の鱗も傷を負って細く血が流れ落ちている。
だがハヤテの青い眼がレオアリスを振り返る事は無い。彼の翼がレオアリスを援けている事を理解している為だろう。
レオアリスは苛立ちを押さえ、ぐっと右手の剣を握り締めた。
ビュルゲルの攻撃を止めなくてはいけないが、今までの打ち合いから既に、この相手に抑えた剣では押し切るのは難しい事は判っている。
レオアリスはビュルゲルの向こう、池を取り囲んで布陣する正規軍へ視線を走らせた。彼等を退かせるべきだが、ここで指示を送れば、ビュルゲルにもその意図は知れるだろう。
そう思っていたレオアリスの瞳が、ふと見開かれた。
陣形が動き出している。
(あれは――)
戟の石突が、再び水を打った。
ハヤテを狙って立ち上がる水の刃を叩き落とし、だが同時に斬り付ける戟がレオアリスの頬を掠める。
ビュルゲルを乗せた大蛟とハヤテが交差して過ぎる。その合間に鉾と剣がしのぎを削るように打ち合ったが、体勢を整え切れていないレオアリスの剣はビュルゲルの力に弾かれた。
ビュルゲルは鉾を引き、水の柱を回避して池の上を飛ぶだけのレオアリスへ、瞼のない銀の眼を向けた。
「どうした、躱すだけで手が尽きたか? 見てみろ、不利だと悟ったか、軍も退いていくぞ」
「――」
再び走らせた視線の先で、正規軍が陣形を変えていく。
その意図は明確にレオアリスに伝わった。ビュルゲルがそれを退却だと捉えているのが幸いだ。
だがまだ、ビュルゲルと正規軍の位置が重なっている。
(なら――)
身を屈め、ハヤテに囁く。
「もういいぜ、ハヤテ、助かった。あと一度飛んだら、上空で待機しろ」
ハヤテが青い瞳を閃かせた。レオアリスはハヤテを一旦、後方に退かせ、追いかける水柱を避けながら、レオアリスは剣を翻した。
剣風が奔り水を裂いてビュルゲルへと逼る。だが想定通り、ビュルゲルはそれを難なく躱した。
二度、三度と奔る剣風をビュルゲルは左右に跳んで躱す。
「そんな離れた位置からの苦し紛れの攻撃が、今更通じると思っているのか」
再び、レオアリスの剣が翻り、剣風が水を割る。ビュルゲルは足を止め、水に浸した戟の先を振り上げた。
互いの力が水を裂いて奔り、中央でぶつかって砕ける。ビュルゲルの力が打ち勝ち、まだ勢いを保ったままレオアリスへと向かったが、それはハヤテが上昇して避けた。
高い位置に上がったレオアリスをビュルゲルが見上げる。
「戦う気が失せたか?」
ビュルゲルは嘲笑を浮かべ、詰めを確信するように、レオアリスへと真っ直ぐ一歩、踏み出した。
レオアリスが再び剣を振るう。確かにそれは、この状況から抜け出そうとして足掻くだけの行為に見える。
ビュルゲルは半歩だけ右に動き、悠然と剣風を躱した。
「無駄だ」
「――」
レオアリスは向けられた嘲笑を受け止め、ハヤテの背の上で、僅かに身体を落とすように歩幅を開いた。
レオアリスの正面、嘲笑を浮かべるビュルゲルの背後に、くっきりと道が開けている。
(重なった!)
レオアリスは素早く手綱を繰り、ハヤテの騎首を真っ直ぐビュルゲルに向けた。ハヤテが翼を一振りし、加速する。
「突っ込んで来るか。大将ともあろう者が、詰めを焦るとは」
ビュルゲルは戟を身体の前で回転させ、水面を打った。
立ち上がった水柱がハヤテとレオアリスの身体を掠め、皮膚を裂いたが、ハヤテはそれを回避しながらも速度を緩めず、飛ぶ位置もビュルゲルの正面から僅かなりとも逸らさない。レオアリスは落とした体勢から、右手の剣を後方へ引き、その半身をビュルゲルへと向けた。
何かを狙っているのだと気付き、ぎくりとしてビュルゲルは背後を振り返った。微かな呻き声が洩れる。
背後にあった兵の壁が消え、林の奥まで見渡せる道ができている。
正規軍は退却したのではなく、陣形を変えたのだ。
そしてレオアリスが闇雲に振っていたと思えた剣は、ビュルゲルをその道の前に立たせるものだ。
「――貴様」
ハヤテの背に立つレオアリスの剣が一際青く輝く。
これまでの剣とは違う光に、ビュルゲルは咄嗟に、身を庇うように戟を縦にして身体の前に張り出した。
戟の柄が、青白い光の尾を引く剣を正面から受け止める。
レオアリスは構わず、剣を振り抜いた。
戟の一度限界までたわみ――、音を立てて折れた。
「ぐっ!」
剣先が掠めたビュルゲルの肩がざくりと避け、剣風はそのまま池の岸と林の地面を削って奔った。衝撃を喰らってビュルゲルの身体が弾け飛び、池のほとりを通り越し、大地に奔った亀裂を追うように林の奥に落ちる。
レオアリスはハヤテの背を蹴った。
地面に叩きつけられ、呻き声をあげて起き上がろうとしたビュルゲルの身体を囲むように、複数の槍が突き立った。『道』の左右に布陣していた正規兵達の槍だ。
正規軍の兵士達はビュルゲルを槍の檻に閉じ込め、再び陣形の中に退いた。
ビュルゲルの頭のすぐ横の地面に、レオアリスが降り立つ。
青白い光が帯のように揺れ、白刃がビュルゲルの視線の先に突き付けられた。
「終わりだ。――退け」
剣から発せられる圧力は、水上にいた時のそれとは掛け離れている。僅かに切っ先を動かしただけで、ビュルゲルの身体を断ちそうな光だ。
身体の奥底が冷えるのを感じながらも、ビュルゲルはレオアリスの言葉を嗤った。
「退け、だと? この期に及んで甘い事を。敗れておめおめと帰る事などできると思うか。我が君は情けを掛けられて戻った私を許すまい」
「悪いが、お前の都合など知らない。ここでお前を殺して、それを盾に条約違反を問われでもしたら迷惑だからな」
それはこの戦いの決着を付ける事よりも、ずっと重要な事だ。剣士としてではなく、近衛師団大将としての立場で、レオアリスはそう告げた。
「――敢えて退かないと言う事もできる」
「ならばこの場は身柄を取り押さえ、王都で正式な審議に掛けた上で、西海に送り返す。帰りは護衛も付けて安全に西海まで移送してやろう」
ビュルゲルはぬるりとした顔を歪めた。ビュルゲルにとって、それは何よりも屈辱的な事だ。
「そのような屈辱を受けるのであれば、この場で自ら死を選ぶ方がましだ」
決然とした口振りだった。おそらく無理に解放しても、ビュルゲルは自らの言葉通り死を選ぶだろう。
レオアリスは束の間黙ってビュルゲルを見つめ、ややあって口を開いた。
「――三の鉾ってのは、海皇の親衛隊だと聞いている。お前の本来の役割はこんな所で無駄に死ぬ事じゃなく、お前の王を守る事にあるんじゃないのか?」
ビュルゲルは微かな驚きを面に昇らせレオアリスの顔を見たが、すぐに視線を逸らした。
「……それは貴様の心理だ、王の剣士」
だが、ビュルゲルはレオアリスの告げた言葉を考え込むように視線を落とした。レオアリスは対話の終わりを告げるように、突き付けていた剣を引いた。
「条件を持ち帰れ。来年の春、不可侵条約の再締結の儀式まで、再び国境を侵す事無く、不必要な争乱を起さないと。ファルシオン殿下を攫い、王都を騒がせた事については、再締結の場で王が海皇へ相応の話をされるだろう」
二人の遣り取りを黙って見つめていたロットバルトは、レオアリスの後ろ姿に視線を向け、傍らのグランスレイへそれを移した。グランスレイが了承の意味で微かに頷く。
正規軍が囲み状況を見据える中、レオアリスは西海との条約を踏まえ、そしてもう一つの事を意図した話をしている。
ロットバルトは正規軍の陣形の置くに降ろされた、イリヤがいるだろう場所へ一瞬だけ視線を流した。
「……私がここで誓っても、意味を持つまい」
ビュルゲルは最後の抵抗を示すように口を開いたが、その響きは低く力はない。
「持ち帰り、海皇に伝えるのが、お前の役目だ」
「――」
レオアリスは顔を伏せたビュルゲルの様子を見下ろし、周囲にいた正規兵に視線を向けた。視線を受けて数人の正規兵が近寄り、ビュルゲルの身体を囲っていた槍を引き抜く。
ビュルゲルは慎重に立ち上がり、暫くレオアリスを睨みつけていたが、裂けた肩口を片手で覆うようにして僅かによろめきながら、池へと歩き出した。
「大将殿、本当にこのまま帰しても?」
正規軍の中将らしき男が、レオアリスの顔を見つめる。
「一人を斬って見せるより、条約の保全が先決だ」
レオアリスは疑いなく言い切り、中将は振り返ってホセの顔を確認したが、ホセの意思も同じだと読み取って、納得した顔で退がった。
彼等の視線の前で、ビュルゲルは振り返らずに歩き、水面に足を乗せる。一度、足は水中に沈みかけたが、ビュルゲルはゆっくりと水面を渡り出した。
ビュルゲルの姿が池の底に消えるのを見届ければ、それでこの場の戦いは幕を閉じる。
誰もがその思いを深めかけた時、池の中央へと歩いていたビュルゲルがふと足を止めた。
その顔が、引き寄せられるように足元の水面に向けられる。
レオアリスはその様子に眉を顰めた。
(何だ?)
ビュルゲルは水上で凍り付き、足元を見据えている。その面に、くっきりとした恐怖が浮かんだ。
水面が揺れる。
身をぞっと震わせる空気が水面から吹き上がり、一瞬にして池のほとりを包んだ。
レオアリスの手にはまだ剣が残り、何かあった際に対応できるよう、ビュルゲルの姿を注意深く追っていた。
それでも、それは瞬きの間の出来事だった。
水面を割って巨大な触手が突き出し、ビュルゲルの身体に巻き付く。
ごきん、と骨が砕ける嫌な音がした。
苦鳴は池のほとりまでは届かず、ビュルゲルの身体は力を失って、触手の間にだらりと下がった。
唐突な光景に、兵士達が騒めく。
レオアリスは踏み込み、右手の剣を振り抜いた。
空気を裂いて青白い剣光が奔る。
触手の根に当たり、だが剣光は易々と弾かれた。
力なく手足を垂らしたビュルゲルの身体を巻き付けたまま、触手は泡の弾ける音を立てて水面に沈んでいく。
「……」
息を飲んだまま向けられる視線の中で、触手は池の水面に微かな波紋を残して消えた。
誰もが口を閉ざしたまま、暫くは一言もなく、今は穏やかに揺れる水面を眺めていた。
やがてゆっくり息を吐き、レオアリスは右手の剣を消した。束縛を解かれ、正規軍の兵士達も身動ぎ、動き出す。
「――グランスレイ、殿下は」
振り返ったレオアリスは少し離れた場所に降りる紅玉の飛竜と、鞠が跳ねるように駆け寄ってくる幼い王子の姿を見つけ、足を速めて歩き出した。
「レオアリス!」
走り寄ったファルシオンはその場に跪いたレオアリスに跳びつき、その身体にぎゅっと腕を回した。
安堵と歓喜がその両腕から温かく伝わってくる。
ファルシオンから感じる体温に、レオアリスは深く、息を吐いた。
銀の柔らかい髪が、レオアリスの視線の先にある。ファルシオンが顔を上げ、黄金の光を湛えた瞳と視線が合った。王に似た二つの瞳は、きらきらと生命に溢れて輝いている。
安堵がレオアリスの中に、ゆっくりと染み渡ってくる。
「……ご無事で――、何よりです、殿下。どこにもお怪我はありませんか?」
「だいじょうぶ。だってちゃんと、レオアリスと、皆と、」
兄上が、と言おうとして、聡いファルシオンはそっと口を閉ざした。それは秘密なのだと、なんとなくだがファルシオンは理解していた。
「……イリヤが、助けてくれた」
レオアリスはにこりと柔らかい笑みを浮かべ、ファルシオンに向けた。
「彼も無事でしょう。彼が貴方を守った事は、ここにいる全員が知っています」
そう言ってレオアリスは周囲を見回し、跪いていたホセがファルシオンの視線に頷くのを見た。居城で起こしたあの事件を無かった事にはできないまでも、その事は確実に考慮に入れられるはずだ。
「陛下も――」
その言葉を聞いて、ファルシオンは嬉しそうに、大きく頷いた。
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