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王の剣士4 「かりそめの宴」
【第四章 「生者達の舞踏」】

十六

 渦が激しく泡立ちながら池の中央へと寄せていく。レオアリスの足元から、背中を伝って這い上がる、畏怖。
「我が贄をお受け取りになれば、次の再締結の儀式までは、些細でも退屈をしのぐ興になろう」
「――」
 ビュルゲルの位置からはレオアリスの顔は見えない。ビュルゲルはレオアリスの落胆と絶望を確認しようとしてか、彼の顔を覗き込み――、ふと動きを止めた。
 ビュルゲルの予想に反して、レオアリスの面に現れているのは、絶望の色ではない。レオアリスはただ瞳を水面に向け、じっと何かを追っている。
 レオアリスの視線の先、泡立つ水面の奥に、ごく細い糸のような光が幾筋か揺れていた。
 金色の。
 金色の細い光が、水に糸巻きをほぐしたように、波間を彼等の足元まで漂って来ている。
 ビュルゲルは顔を跳ね上げ、池の中央を見た。イリヤ達が飲み込まれた辺りだ。
 水面がそこだけ、金色の光を発していた。
「――まさか」
 ビュルゲルの喉が鳴らされる。それは明らかに予想外の出来事への、憤りからだ。
 見る間に水面が盛り上がり、水を割って金色の光を帯びた球体が浮かんだ。
 その中に、イリヤと、イリヤに抱えられたファルシオンの姿がある。
 一度水面より上に浮かび上がった球体は、光を次第に薄れさせ、再び水面に落ちた。
 透き通る金色の球体の中で、イリヤとファルシオンの身体がゆっくりと倒れ、それと共に光も眼を凝らさなければ見えないほどに薄れた。
「馬鹿な、この水の檻を抜けるだと……?」
 ビュルゲルの驚愕は無理もない。今、ここに働いているのは、ビュルゲル一人だけの力ではないからだ。完全には繋がってはいないものの、ビュルゲルの主の力が、もうこの池の境界にまで達している。
「……さすがは、王の血を引く者という事か」
 苛立ちに唇を歪め半ば唸りながら、ビュルゲルがイリヤ達へと近寄ろうとした時、不意に凍るような気配が背筋を撫で上げた。
「――」
 振り返ったビュルゲルの銀の眼が、立ち昇る青白い陽炎を捉える。
 それがレオアリスの身体を包んでいるのだと気付いた瞬間には、彼の手足を捉えていた使隷の腕があたかも見えない刃に触れたように切り裂かれ、霧散した。
 ゆら、と陽炎が揺れる。
「――貴様、今まで」
 低く呻いたビュルゲルを残し、レオアリスは水を蹴って駆け出した。走りながら、高く呼ばわる。
「クライフ!」
 グランスレイの背後の林から、鋭い羽音とともに、銀翼の飛竜が飛び立つ。
 ハヤテは使隷達の上を飛び越し池へと一直線に飛んだ。ハヤテの背にいたクライフが、急降下をするハヤテの背から手綱を落とす。
 レオアリスが手綱を掴むのを確認すると、ハヤテは上昇し、レオアリスの身体を水の中から引き上げた。
 左手に手綱を絡めた宙吊りに近い状態のレオアリスを翼の下に置いたまま、ハヤテは一旦池を駆け抜け、再び旋回して池の中央へと翔ける。レオアリスの意図は明らかだ。
「させん」
 ビュルゲルは憎悪を面に昇らせ、燃え立つ銀の瞳を使隷達に向けた。
 使隷が蠢き、レオアリス達を追って池へ向かって身を翻した時、林の中から驟雨のような音と共に、数百の矢が使隷達の上に降り注いだ。多くの矢は何の抵抗もなく使隷の身体を擦り抜けたが、「核」を捉えた矢が二体の使隷を破壊する。
「!!」
 ビュルゲルは首を廻らせ林を睨み付けた。陽の光を受け、林の中で金属が反射する。瞼のない眼が細められ、鼻の辺りに憤りを示すように皺が寄る。
「――軍……」
 ビュルゲルは自分の思い違いに気付き、噛み締めた歯の間から、低く吐き出した。
 軍は初めから、林の中に伏せていたのだ。ファルシオンとイリヤを助け出す切っ掛けを待ち、動く為に。
「いい動き出しだ」
 グランスレイは背後を振り返り、歩み寄ってくるロットバルトと正規軍中将の姿を認め、頷いた。ビュルゲルが予想したとおり、この池のほとりに来る前に正規軍とは合流していた。初めに中隊の姿を見せなかったのは、ビュルゲルの油断を誘う為だ。
 ビュルゲルが池に意識を向けている間に伏せていた正規西方軍の中隊は、既に三陣までの包囲網を完成させている。
 弓が再び引き絞られる。その矢が使隷へ向けて放たれるのを見届け、ロットバルトはグランスレイの近くへ立った。
「想定は」
「あの数相手に接近戦では、中隊であっても混乱するでしょう。時間稼ぎついでに遠距離から潰せるだけ潰します。残りが十体を切った時点で包囲を狭める手筈ですが、さすがに三の鉾はそこまで待たないでしょうね」
「それでいい。まずは上将が殿下の御身を確保する時間を作る。殿下をお救いするまでは、我々が上将の動きを妨げないよう、敢えて危険を冒す必要は無い」
 今の中隊の動きは、使隷達の足止めで十分だ。銀翼の飛竜の動きを、二人の視線が追う。ハヤテは既に池の中央で浮遊している。
 レオアリスは降り注ぐ矢と、立ち止まって使隷達へと意識を向けているビュルゲルの姿を視界の端で確認し、片手で手綱に掴まったまま、水面のファルシオンとイリヤに手を伸ばした。
 二人は薄く光る膜をはしけの代わりのようにして、水面に浮かんでいる。未だ渦巻く水面は今にも再び二人を飲み込んでしまいそうだ。
「殿下、イリヤ!」
「レオアリス!」
 ファルシオンが瞳を輝かせて上体を起し、安堵を込めてレオアリスと飛竜を振り仰いだ。ただレオアリスが伸ばした手は、ファルシオンにあと僅か届かない。
 これ以上降りるとハヤテの翼が煽る風でただでさえ不安定な水面を更に揺すり、それだけで薄い膜が弾けてしまいそうだった。
「殿下、そこに立って手を伸ばせますか?!」
 立ち上がれば、ファルシオンの身長でも何とかレオアリスの手に届く。ファルシオンは恐々とゆらゆらと揺れる薄い膜を見回し、気丈に頷いた。
「できる――でも、兄上が」
 イリヤは気を失っているのか、膜の上に横たわっている。
「イリヤ!」
 何度目かの呼びかけに、ぴくり、とイリヤの肩が揺れた。
 うっすらと瞳を開き、手を差し伸べているレオアリスの姿を捉える。
 一瞬だけ、イリヤは自分が、いつかの庭園の迷路にいるのかと思った。あの時もレオアリスは、当然のようにイリヤに手を差し伸べていた。
 レオアリスは安堵の色を浮かべ、更に腕を伸ばした。
「気が付いたな。殿下をしっかり抱えて手を伸ばせ! 周りを見るなよ」
 イリヤが笑みを浮かべる。
「覚えてるかな、君は前にも俺に手を差し伸べた」
「? 何でもいい、早く手を伸ばせ! もうその膜はたない」
 レオアリスはビュルゲルと渦巻く水面の、その下の存在に素早く視線を走らせ、イリヤを急かした。その緊迫した表情に、レオアリスもまたあの存在を感じ取っているのだと気付き、イリヤはそれ以上言わずに頷いた。
「――判った」
 イリヤはファルシオンの身体を左腕でしっかりと抱え込み、右手をレオアリスへ伸ばした。その手首をレオアリスの右手が掴む。
「ハヤテ、上がれ!」
 ハヤテが騎首を上空に向け、大きく羽ばたく。イリヤの身体は水を滴らせながら、水面からふわりと浮いた。イリヤの足が離れた途端、薄い膜は役割を終えたように消え、逆巻く水が飛沫を散らす。
「しっかり掴まってろよ」
 レオアリスはイリヤへそう言うと、ハヤテとその上のクライフを見上げた。
「いいぜ、池を迂回して西方軍の中に降ろす」
 ハヤテの翼が再び風を煽った瞬間、足元の水面が大きく膨れ上がる。
「!」
 瞬き一つの間に幾筋もの触手が水面から伸び、水面の近くにあったイリヤの足に巻きついた。
「兄上!」
 ぐい、と触手がイリヤの身体を手繰り寄せ、ハヤテの身体がよろめく。触手は再びイリヤ達を取り戻そうと、強い力で引き降ろしかける。
「くそ、剣を――」
 剣があれば触手を断ち切れるが、両手が塞がったこの状態では剣を抜く事はすらできない。泡立つ水面は次第に近付いて来る。
「クライフ! そこから触手を狙えるか!?」
「――無理です。ハヤテの翼の下で見えねェッ」
 がくん、ともう一段、ハヤテの身体が落ち、ファルシオンは悲鳴を噛み殺してイリヤにしがみついた。イリヤの足先が水面に付くほどに引き降ろされている。
「陸から狙わせて――」
 視線を陸に向け、レオアリスは唇を噛んだ。視線の先で、水の上を大股に歩いてくるビュルゲルの姿が見える。
 数十の矢がその後を追うように飛んだが、ビュルゲルの身体に届く前に全て弾かれるように水の上に落ちた。グランスレイとロットバルトが駆け出しているものの、彼らの間にはまだ十体近い使隷が垣根のように連なっている。
 林から鋭い呼び笛が吹き鳴らされ、正規軍がほとりへと走り出て使隷へと打ちかかる。だが使隷達が確実に数を減らしても、ビュルゲルは足を止める様子はない。
 ゆっくり、しかし真っ直ぐに、レオアリス達へと歩み寄ってくる。
「クライフ、奴を足止めしろ! ハヤテ、少し下れ!」
「やってみます」
 クライフは肩に背負っていた槍を引き抜き、ハヤテはレオアリスの意を汲んで、それまで上昇しようとしていた翼の力を僅かに緩めた。イリヤの手を引っ張り上げながら、逆に触手が引く力に合わせてレオアリスの身体も水面近くに下る。
 イリヤの足に絡んでいる触手は、二本。一見しただけでは、ただの水にしか見えない。レオアリスは片足を振り上げ、触手を断ち切るように蹴り付けた。
 水の触手は蹴りを受けて、あっけなく崩れ水面に散った。
「あと一本」
 ハヤテの上でクライフが、身を反らすようにして肩口に担いだ槍を、力任せにビュルゲル目掛けて投げ付ける。
 槍は一直線に空を疾駆し、ビュルゲルの胸に深々と突き刺さった。
 ビュルゲルの身体が槍の勢いに押されて数間後退し、がくんと首を垂れて立ち止まる。身体がぐらりと揺れ、片方の足が水中に沈んだ。
 使隷達の動きが止まり、正規軍兵の手によって瞬く間に核を砕かれた使隷達が次々とただの水に戻る。
 レオアリスは視界の端でそれを確認し、もう一本の触手も蹴りつけ、砕いた。
「いいぞ、上がれ!」
 ビュルゲルが垂れていた顔を上げた。銀の眼が光を受けた硬貨のように輝いた。
 ごぼ、と水面が泡立つ。
 再び突き出した触手が、今度はイリヤの胴に絡まった。
「!」
「くそ、またかよ!」
 水がある限り、切りが無い。あくまでビュルゲルは、イリヤとファルシオンを水の底に引き擦り込むつもりでいる。
「せめて、奴の気を少しの間逸らせれば――」
 触手を断ち切り、その手の届かない位置までハヤテが上昇する時間、その僅かな時間を作る方法が思いつかず、レオアリスは奥歯を噛み締めた。
 触手は蛇のようにイリヤの胴に巻きつき、ぎし、と骨の鳴る音がする。
「待ってろ、もう一度」
「――いい」
 苦痛に眉を寄せながらも、イリヤは抱えていたファルシオンの身体をレオアリスに押し付けた。
「先に、ファルシオンを。ファルシオン、レオアリスに掴まって」
「兄上は」
「俺は平気だよ、後から」
「駄目だ。お前も無事助け出すと、ついさっきラナエって娘に約束した」
 少女の名にイリヤは少し目元を緩め、複雑な色の交ざった表情を浮かべた。
「……切りが無い、できる事からやれよ。俺は後でいいから」
「後なんて無い、今――」
「上将! 奴が」
 クライフの声が降る。レオアリスははっとして視線を向けた。
 胸に槍を突き立てたまま、ビュルゲルは沈んだ片足を持ち上げ、再び水面に立った。その面に笑みが浮かび、赤い口が耳元まで裂ける。
 ビュルゲルは胸に突き立った槍の柄を掴むと一息に引き抜き、自らの血に塗れたそれを、へレオアリス達目掛けて投げ返した。
「!」
 咄嗟に首を反らす。槍はレオアリスとイリヤの間擦れ擦れを、空気を切り裂く音と共に突き抜けた。
「――イリヤ!」
 気が付けば、レオアリスの腕の中にあるのは、ファルシオンの身体だ。
 笑みを浮かべたイリヤの姿が、ファルシオンの向こうでゆっくりと水面に落ちていく。
「俺はその子の兄を王に返せない。だから、その子だけでも王に返してくれ」
「イリ……」
 水音を上げ、イリヤの身体が水に落ちた。水がイリヤを迎え入れるように激しく渦巻き、飲み込む。
「イリヤッ!」
「兄上!」
 泡立つ水面に視線を走らせても、イリヤの影は見当たらない。
「上将! ビュルゲルが来ます! ここじゃ不利だ、一旦退かねぇと!」
「待て、探す!」
 レオアリスはファルシオンを抱きかかえたまま、クライフの言葉に首を振った。
「けど上将、そこじゃあの野郎とは戦えねぇ」
「――」
 ファルシオンを守る為には、イリヤを置いて退かなければいけないのは判っている。それが王の守護たる近衛師団大将の最重要事項であり、レオアリスが誓った事だ。
 だが、イリヤもまた、王の子だ。
 王は、十八年間片時もイリヤの事を忘れる事は無く、庭の片隅に青い花を植えていた。
 イリヤを、ここで死なせる訳には行かない。彼が王の姿を見る事も無く――
 王が、イリヤの姿を見る事も無く。
(王――)
 レオアリスは空を振り仰いだ。そこに見えるはずの無い王の姿を探す。
「王――陛下! お聞きください!」
 いつだったか、王は天空に巨大な手を作り出し、レオアリスの剣の力が暴走するのを止めた。
 そしてそのずっと前、レオアリスが剣士として覚醒した時に、やはりその手を伸ばして剣の覚醒を助けた。
 ならば何故、自らの血を分けた子を、助けないという事があるだろう。
「貴方のお子です、彼は――!」
 渦巻く水音に掻き消されながらも、レオアリスの声は祈りに近い。だが、答えは返らない。
 池とはまるで正反対に、林も空も眠ったように静かだ。降り注ぐ陽射しも。
 轟々と、イリヤを飲み込んだ池だけが声を上げている。
「……どんな理由があっても、貴方はただ父親なんです。どうか――」
 レオアリスの声は次第に小さくなり、やがて渦巻く水音に消えた。
 こんな終わり方をしなければいけないほどの理由など、あるだろうか。
 王家とは、自らの子をただ助ける事も許されないほど、がんじがらめに縛られているものか。
「――そんなの、おかしいだろ……」
 低い笑いが耳を打ち、レオアリスは視線を上げた。
「無駄な事だ。貴様等の王はあの王子を見捨てたのだ。貴様も奴を殺せと言われて来たのではないか?」
 ビュルゲルは少し離れた場所で足を止め、レオアリスの様子を面白い劇でも観るように眺めている。レオアリスは揺らめく怒りを浮かべた瞳で、ビュルゲルを睨んだ。
「貴様が、軽々しく王のお考えを口にするな」
「クク……随分と信頼の厚い事だ。だがあの男がこの件について何かをしたかね? 周りを見回してみろ。どこかにお前の主の姿があるか?」
「黙れ」
 レオアリスの身を包む青白い陽炎がゆらりと揺れ、ビュルゲルはそれをいなすように僅かに顎を上げた。二人の間は僅かに三間――踏み込めば刃の交わる距離だ。
「上将、一旦殿下を連れて退いた方がいい」
「いやだ、私はここでいい。レオアリス、兄上を助けて」
 二人の言葉はそれぞれ、レオアリスの中でぶつかり合う二つの意識と同じだ。ファルシオンを危険に晒すのか、イリヤを見捨てるのか――、選択をしなければいけない。
 レオアリスは一度伏せた瞳を、開いた。
「――ハヤテ!」
 ハヤテが手綱を付けた首を一振りする。その勢いを利用して、レオアリスは手綱に反動を付け上へと弧を描くと、そのままくるりと身を翻してハヤテの背に飛び乗った。
「見捨てる事にしたか。賢明な選択だ」
 ビュルゲルの嘲笑が肌に纏いつくようだ。
 クライフはレオアリスとファルシオンの姿に安堵の色を浮かべ、複雑な表情で頭を下げた。
「すいません、けど、今は」
「判ってる――手綱を頼む」
 クライフが頷き、レオアリスから渡された手綱を取ると、ハヤテの首を廻らせた。
「レオアリス……」
 見上げるファルシオンの瞳に、レオアリスはにこりと笑いかけた。
「殿下、飛竜には乗れますね。当然、貴方一人ではなく、このクライフもいます」
「上将、何言って」
 レオアリスの言葉の意味する事に気付いて、クライフは慌てて振り返った。レオアリスの横顔は真っ直ぐに渦巻く水面に向けられている。
「今ならまだ間に合うかもしれない。お前は殿下を連れて王都へ戻れ。上空ならさすがにあの男も追いようがないだろう」
「待ってください、幾ら何でも無茶だ、あんな激流――。それに、あの男が黙って見てる訳無いでしょう。第一あの下には」
 ビュルゲルの喉から洩れる嘲笑交じりの低い笑いは、二人の会話を楽しむように響いている。レオアリスはただそれを一瞥し、ハヤテの背の上に立ち上がった。
「俺が近衛師団大将なのは、ただ大将って椅子に座ってる為だけじゃないんだ」
「なら俺が行きます」
「お前には……」
 無理だ、と言おうとして、レオアリスはぴたりと口を閉ざした。
「上将……?」
「対応は決まったか? イリヤを拾いに行くのなら、私がファルシオンを預かってやろうか――」
 ビュルゲルもまた、口を閉ざす。だた、ビュルゲルの眉根に浮かんだのは、レオアリスとは正反対の色――不快と、畏怖の色だ。
 ふ、と――。
 渦巻く水音も、池のほとりの戦闘の喧騒も――、一瞬、全ての音が吸い取られるように消えた。
 レオアリスもクライフも、岸にいるグランスレイ達も、ビュルゲルでさえ、その静寂に呑まれたように動きを止める。
 その静寂を破り、ひら、と、何かの欠片が一枚、空から舞った。
 レオアリスの視界を過り、水の上に落ちて、すうっと溶ける。
 レオアリスは空を見上げ、瞳を見開いた。
 最初は雪かとも見えたが、池の上に広がる空は晴れ渡っている。そこから、幾つもの青い欠片が舞い落ちていた。
 微かな金色の光を帯びた、小さな青い花の花弁。
「青い、花……」
 それはクライフやレオアリスの前をひらひらと舞い落ち、水面に散り敷かれた。
 うねり、緑に濁っていた水が、花びらが浮かんだ場所から鎮められ、穏やかに澄み渡っていく。
 ぽう、と水の奥が一点、丸く光り、それは次第に水面に浮かび上がった。
 金色の光に包まれたイリヤの身体が、水面に横たわるように現れる。
「――」
 ぼんやりと開かれたイリヤの瞳が、最後に一枚舞った青い花の花弁を捉え、風に舞いながら落ちてくるそれを追った。
 伸ばした手のひらにひらりと落ち、溶ける。
「……父上」
 手のひらから伝わる温度を深く噛み締めるように、イリヤは一度、瞳を閉じ――、すぐ傍で響いた水を踏む音に、閉じた瞼を開けた。
 その瞳が、予期しない驚きに丸く見開かれる。
 いつの間にか、横たわったイリヤの横に、誰かが、背を向けて立っていた。
 静寂と畏怖を纏ったような男だ。
 男の持つ力が水を伝うように、男の足元から丸い波紋が次々と生まれ広がる。
 実体ではないと判ったのは、陽光にその姿が時折透けるせいと、足元の水に影を映していないからだった。
 イリヤの視界の外で、グランスレイや正規軍が一斉に跪く。レオアリスもまた、ハヤテの背の上で跪き、深く頭を下げた。
「――陛下!」
 長身を暗紅色のゆったりとした長衣に包み、吹き抜ける微かな風に銀の髪を揺らす。
 背を向けているせいで顔を見る事はできなかったが、流れた声はイリヤが想像していた響きと似ていた。
「――趣向が過ぎよう、西海の皇よ」
 びくり、と身を縮めたのは、離れた場所に立つビュルゲルだ。王はビュルゲルに背を向けていたが、ビュルゲルはその背から発せられる何かを恐れるように数歩、後退った。二、三歩でその足を止めたのは自分の行動への苛立ちからだ。
 王の足元で、既に凪いだ水面が応えるようにうねる。イリヤが水の中で聞いた、あの笑い声がゆっくりと立ち上り、水を震わせた。
 気が付けばこの場の誰もが、息を潜め、全身に冷たい汗を浮かべていた。
 それはこの水と陸、両極とも言える世界を統べる二人の王の、存在の対峙が生むものだ。
 笑いはやがて、深い水の底で響くような声に変わった。
『久しいな――そなたまで出て来ようとは、此度の我が宴は良い客に恵まれた』
「そなたと合いまみえるのは今ではなく、ここではない」
 王の黄金の両眼が、質量を以って水面に向けられる。
 二つの意思が、互いの意思を図るように水面という境で鬩ぎ合う。
 大気と水が、互いの領域を鬩ぎ合っているようにも感じられた。
 ここがたった直径三十間ほどの池だとは思えず、あたかも大海の上にいるのだと錯覚させられるような感覚だ。
 身を押し潰しそうなほどの圧迫感がその場の全ての者達を包み――、ふと、消失した。
 水が再び、全身を震わせて笑った。
 その下にあった気配が、再び遠退いて行く。
 呪縛を解かれ、一番最初に動いたのは、ビュルゲルだ。
「お待ちください、我が君! まだ私は」
 ビュルゲルは水面に膝を付き、遠退いて行く気配を手繰り寄せようというように、両手を水面に当てた。
『残念だ』
 水は一言、そう笑って、やがてただの浅い池に戻った。
 ビュルゲルは言葉を失い、両手を付いたまま水の上に額を落とした。
「――陛下」
 ハヤテを水面ぎりぎりまで降ろし、レオアリスは跪き、深く一礼する。
「非礼を申し上げました。どのようにも、咎めはお受けします」
 ファルシオンは慌てて、レオアリスを庇うように両手を広げた。
「そんなの――レオアリスは悪くないんです、父上。私と兄上を助けてくれようとしたんだから」
 王はレオアリスとその前のファルシオンの姿に一度瞳を向け、微かに笑い、短く告げた。
「この場の片を付け、王都へ戻れ」
 レオアリスはもう一度、静かに頭を下げた。王は一歩踏み出しかけ、それから足を止めた。
「ミオスティリヤ――」
 じっと王の姿を見上げていたイリヤは驚きに肩を震わせ、そしてまた少し恐れるように、彼の視界に映る背を見つめる。
「そなたの母が示し、私が選んだ名だ」
「――」
 イリヤが、そっと息を呑む。
「忘れ得ぬようにと」
 王の視線の先にあるのは、池のほとりにひっそりと置かれた、白い墓標だ。
 言いたい言葉はあったはずだった。思い描いていたものも、思い描かないようにしていたものも。
 だがそのどれも、イリヤの中で明確な形にはならなかった。
 ただ一言、その言葉だけが、胸の奥から湧き出した。
「――父上……」
 王は僅かに、首を傾けた。イリヤの瞳に王の顔が映ったかどうか――
 微かな波紋をその場に残し、王の姿は消えた。
 風が一陣吹き抜けて水面を揺らす。レオアリスは息を吐き、伏せていた面を上げた。
 片手を宙に上げ、手で幾つかの指令を描き出す。池のほとりにいるロットバルトが近くにいた正規兵へ指示を出すのを確認し、戻した視線を一点に向ける。
 ほどなく赤い宝玉のような鱗をした飛竜が二騎、林の中から飛び立ち、一騎はイリヤを救い上げる為に水面に降り、もう一騎がハヤテの近くに寄った。その間レオアリスはずっと、一点に視線を据えている。
 正規兵がイリヤの身体を飛竜の背に引き上げ、ふわりと浮かび上がる。
「――クライフ、お前は殿下を連れて安全な場所に移れ」
「判りました。――上将」
 クライフもまた、レオアリスの視線の先をちらりと確認し、眉を顰める。
「まだ、納得していないみたいだからな」
 レオアリスの視線が真っ直ぐ注がれているのは、池の上に屈み込んだビュルゲルの姿だ。俯いたその姿から伝わるのは、今や嘲笑でも愉悦でもなく――、強い怒りの感情だった。
 その怒りの感情が、水面をひたひたと揺らしている。
「行け」
 クライフがファルシオンを抱え、紅玉の飛竜に移る。彼らを背に、レオアリスはビュルゲルと向かい合った。
「――三の鉾、もうこの件は終わりだ。これ以上は意味が無い、お前もここで退け」
「……調子に乗るなよ、小僧」
 ビュルゲルが水の上に立ち上がる。
 使隷を全て失った事も胸から流れる血も、気にする様子はない。ただ、彼の思い描いた結末を邪魔し、海皇の気配がその場から微塵も感じられなくなった事への苛立ちと怒りが、その面を染めていた。
 そして、何よりその意識を絡め取っているのは、恐れだ。
 海皇はビュルゲルに対し、残念だ、と、そう言った。
 たった一言。
 それはビュルゲルにとってこの上ない恐怖と、屈辱だった。
「――この場の者全て、引き裂いてその血を我が君に捧げる事で、我が失地をすすいでくれる」
 ビュルゲルが右腕を伸ばす。足元の水面が盛り上がり、捻った蛇口から流れる水が逆流するように細長い柄となって、ビュルゲルの手の中に収まった。
 二度ほど光を発したそれは、長い柄と上部に三叉の刃を持った打突用の武器――鉾だ。
 ビュルゲルは鉾を一回転させ、石突で水面をどん、と打った。
 水面があちこちで膨れ上がり、再び無数の使隷が形作られ、ざわざわと身を揺する。水がある限り無限に作り出される兵士が、池の中央に浮かぶレオアリス達を取り囲むように、びしゃりと足を進めた。
「レオアリス」
 ファルシオンは小さな手を伸ばし、レオアリスの軍服の長布をぎゅっと握った。レオアリスの身体を青白い光が取り巻いているのに気付き、彼の顔を見上げる。
「殿下は、兄君とおいでください」
「でも」
 レオアリスはファルシオンに微笑んで見せてから、そっとファルシオンの手を解いた。
「殿下――お約束通り」
 一度片膝を付いて深く頭を下げ、立ち上がる。
 右手を鳩尾に当てた。
「御前に、剣をお見せします」
 ずぶり、と右手が鳩尾に沈んだ。
 青白い光が溢れ、辺りを染める。研ぎ澄まされた空気が、その場にいる者達の肌を薄い氷の刃のように撫でる。
 零れた光が再び結晶するように、レオアリスの手が一振りの剣を引き抜いていく。
 息を飲み、瞳を見開いて見つめるファルシオンの前に現れたのは、月の光に浸したような、青白く冴える長剣だ。
 その刀身を光が伝い、雫が零れるように水面に落ちた。
 生じた波紋がビュルゲルの足元まで広がる。
 波紋に触れた使隷達が、ざわりと身を揺すった。



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