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王の剣士4 「かりそめの宴」
【第四章 「生者達の舞踏」】


 イリヤ・キーファーの母、シーリィア・ウィネスの書いた日記。
 執務机の上に置かれたその革の表紙を、レオアリスは長い間見つめていた。グランスレイやロットバルトが時折視線を向けたが、思考を妨げるのを避ける為か声をかけはしなかった。だからずいぶん長い間、レオアリスはただそうして向き合っていただろう。
 それを開いて中を読む事は憚られた。そこに記されているものが王家の隠された過去だからと言うよりは、それがイリヤ個人のものであり、第二王妃シーリィアの想いそのものだと判っていたからだ。
 ただその表紙を見つめていると、イリヤの語った言葉が、繰り返し脳裏に浮かんで響く。
 イリヤの言葉が真実かどうか、それを決めるのはレオアリス達ではないが、心の内では既に、偽りでは無いと理解していた。
 王と同じ瞳の色が、レオアリスに理解させたと言ってもいい。
 何よりも、イリヤの言葉に潜んでいた大きくうねるような感情が、真実かどうかという事よりも単純な引っ掛かりを生んでいた。
 言葉の真実より、イリヤの感情の真実がどこにあるのか。
 王に会う為に王都へ来たと、イリヤは確かにそう言った。
(王)
 それはおそらく、レオアリスが王都を目指していた時に感じていたような、今でさえ身を振るわす、深く、そして単純なまでの純化された憧れとは違うだろう。
 自分の父がこの国の王だと知った時の、イリヤの想いはどのようなものだったのか。
 いや、いないものだと思っていた自らの父が、生きているのだと、そう知った時の――。
(親、か……)
 レオアリスの脳裏に浮かぶのは、ただ一面に白い、雪に包まれた廃墟の光景だ。
 その言葉を呟く時に、胸の奥を掴まれるように感じる痛みを、思慕と呼ぶのかもしれない。
 顔も見た事のない、声も聞いた事のない存在にも関わらず。
 それなら記憶の奥底には、彼等の思い出があるのだろうか。
 もし。
 もし、自分の父か母が、生きているとしたら。
 そんな仮定はする意味はないと判っていながらも、思考はそこに向かってしまう。
 生きていたら――、会いたい。
 たった一言でも、声を聞きたいと、そう思う。
 レオアリスは自分の感情を置き換えるように、ぐっと拳を握り締めた。
 問題は、イリヤだ。
『別に俺は、父親なんていてもいなくてもどうでも良かったけど』
『いつもこの眼だけを見てた。俺じゃなく、この眼の向こうにいる奴を。だから、やっぱり、気になってね』
 嘲るような、どうでもいい事を語るような口調。
『俺は、この名前を捨てに来た』
 全てを投げ打つような口調。
 そこに見せていたのは、思慕とは違う。
 その反面で、二つの瞳に浮かんだ複雑な色の陽炎かぎろい
『王の剣士――。君は、王から名を貰った』
 そこに含まれた明らかな、憎しみ。
『何故、君だけが』
 イリヤは、ばらばらだ。
 彼の真実の望みが、どこにあるのか、あの時のイリヤの上には見分けられなかった。
 もうどこにもいないと判っているから、ただ会いたいのか。
 生きていると判れば、逆に複雑な想いが生まれるのか。
『父に会う為に、王都に来たんだ』
『この名前を捨てに来た』
「上将」
 扉を開けて、ヴィルトールが顔を出す。
「準備が整いました」
 頷いて、レオアリスは席を立った。


「これです」
 ヴィルトールが卓に置かれた白い壺の蓋を開け、壺を傾けるようにして中に収められている物を示す。
 レオアリスは視線を落とし、陶器の壺の底に転がる二つの珠に瞳を細めた。壁に掲げられた燭蝋の揺らめく灯りを受け、乳白色の玉が幻惑するように光を弾く。
 彼等がいるのは士官棟の地下、二間四方の狭い部屋の中だ。本来倉庫として使われているそこをわざわざ開けたのは、この部屋に窓が無い為だった。
 グランスレイ、ヴィルトール、ロットバルト、そして大隊の法術士官長エンティが見つめる前で、レオアリスは厳しい瞳で壺の中を睨んでいる。彼等の足元には白く輝く法陣が敷かれていた。検分の為にエンティが敷いた防御陣だ。
 レオアリスは壺から視線を戻し、ヴィルトールに視線を向けた。漆黒の瞳には、見る者を射竦める光が浮かんでいる。
「――これは、最初からこのままか?」
「一度、副将が手に取ろうとした時に変化しました。すぐにまたこの形態に戻りましたが」
「……数は」
「そこにある二つです。現地で掘り起こした時確認しています」
 ヴィルトールはそう答えた後、レオアリスの問いかけの意味に気付いて、ぐっと口を引き結んだ。グランスレイとロットバルトも同じ事に気付いたのか、レオアリスに視線を注いでいる。
 ヴィルトールは壺の中の乳白色の珠を睨んだ。
「イリヤ・キーファーが埋めたのは」
「――四つだと言った」
 室内の空気が張り詰める。
「退ってろ」
 短い指示に、レオアリスだけを残して全員、法陣の外へと退った。
 レオアリスが壺の中に手を差し入れる。グランスレイが手を浮かせかけたが、それを視線で止め、一つを掴んで灯りの中に取り出すと、レオアリスは珠を包んだ拳を目の高さ、法陣の中心に掲げた。
 足元で法陣が明滅する。
 先ほど、グランスレイが手に取ろうとした時には威嚇するように変化した珠は、レオアリスの手の中で沈黙している。
 包み込んでいた指を、ゆっくり開く。
 珠は手の中から零れて飾蝋と法陣の光を弾きながら落下し、床の法陣に触れた瞬間――、形を崩した。
 膨れ上がり、捻れ、突き出すように手足が生える。びしゃり、と音を立てて四つんばいになり、最後に首が生えた。
 唸りにも似た声を上げ、人型の首がレオアリスに向かって伸びる。
「上将!」
 グランスレイ達は踏み出しかけ、足を止めた。
 人型の首の横に、ぴたりと青白い刃が当てられている。
 首は中途半端に伸びたまま、行き処なく止まっていた。
 レオアリスの手にした剣が薄灯りの中で光を纏い、圧力に似た空気がその場の者達の皮膚を弾く。グランスレイ達はもう一歩、押されるように後ろへ退った。
 レオアリスは剣を人型の首筋に当てたまま、唸るように体を震わせている人型を見下ろした。底知れない力を秘めながらも、僅か髪の毛一筋ほどの距離を置いて、剣の力は止められている。切り裂くのはレオアリスの意思一つだ。
「三の戟の使隷か。あとの二体はどこに行った?」
 半透明の身体の中で、様々な色彩が渦を巻く。言葉など通じないと思わせる容貌以上に、通じたとしてもおそらく、答えるはずなどないだろう。
「まあ、回答を期待しても無駄か」
 レオアリスは剣を振り上げ、人型へと下ろした。
 苛烈さなど微塵もない剣筋だが、刀身が触れた瞬間、人型は蒸発するような音を立て、霧散した。
「エンティ」
 レオアリスの背中を見つめ、エンティが一礼する。
「残り一つ、法術院の協力を仰いで分析しろ。そこから追跡する。できれば、明日の朝までに」
「明朝」
 自信無さそうにエンティが呟いたのを聞いて、レオアリスは首を巡らせて唇に微かな笑みを引いた。
「院長を引っ張り出せよ。全く未知の物体を提供するって言えば喜んでやるさ。少なくとも今後防御陣に加えるべき要素になるはずだ」
 おそらくこの存在を見れば、院長のアルジマールは自ら調べると言うだろう。法術院の誰もがこぞって調べたがる代物である事は確かだ。一つでは足りないと法術院は不満を言うかもしれないが、二つ残すには危険が大きい。
「可能な限り至急に、と伝えてくれ」
 いかにこの国の法術を知り尽くしたアルジマールと言えど明日の朝までに解き明かすのは難しいだろうが、まだ二体もの使隷の所在が不明な以上、早期の解明は必須だ。
「承知致しました」
 エンティは頷いて残った珠を壺ごと取り、慎重に蓋を閉じると改めて封印を施す為に術式を唱えた。
「一応、法術院まで私が同行します」
 ヴィルトールがそう言うと、エンティがほっとしたような顔を見せる。エンティが封印を終えるのを待ち、二人は部屋を出た。
「上将。イリヤ・キーファーは貴方に対しては、使隷が四体存在すると言ったんですね?」
 ロットバルトの言葉に、レオアリスが頷く。
「我々に寄越した書面には、全ての使隷をあの場所に埋めたと書いてありましたが、そうなると」
「実際には埋めていないか、埋めた後に使隷が消えたかのどっちかだが、後者の可能性が高いな」
 レオアリスは足元でまだ光る法陣の線を見つめながらそう言った。
 使隷は自在に形を変える上に、特異な移動能力を有している。壺に施してあったのはただ蓋を補強するだけの紙で、法術のような効果は持たない。
 そもそも今ある術式では、あれらを封じ込める事自体が難しいのだ。あれらはまだ、この国の持つ術式に組み込まれる知識の外にある。
「イリヤがあれを埋めたのは俺に会う前だと言っていた。俺に会ったのは偶然で、今回の事は元から計画していた訳でもない。その言葉を信じるなら、だが」
「なるほど……。当初から使隷を証拠として使うつもりは無かった……」
 元々イリヤは、レオアリスに近付き、そこから王へと辿ろうとしていた。それは今日の一件からも明らかだ。
 ただ、イリヤは今日の一連の流れを全て、昼にレオアリスに出会った事をきっかけに組み立てたのだろう。
 非常に頭の回転が早いようだ。さすがは、という言葉のその先を、ロットバルトは頭の中でさえ飲み込んだ。
「それに、もうイリヤには必要無い。使隷を使わなくても、あいつの目的はもう達成される」
「――」
 ロットバルトは少し複雑な表情を浮かべたものの、特には何も言わなかった。イリヤの望みどおりになるかどうか――それは最早、彼等が選択できる範囲には無い。
 けれどもレオアリスが今言った言葉から、彼がイリヤの望みが叶うべきだ・・・と考えているのは判る。
 父に会う為に、というイリヤの言葉は、どうしてもレオアリス自身の想いに重なってしまう。
 それは少し、危険な事に思えた。いや、危険というほどのものではないにしろ、それが叶わないと知った時に、やはり彼は落胆するのだろう。
 逆にロットバルトは既に、イリヤの望みは叶う事はないだろうと、そう考えている。
 王政とは、感情論のみで語れるものではない。
 ロットバルトの浮かべた表情に、レオアリスは問いかけるような視線を向けたが、口にはしなかった。
「……今考える必要があるのは、西海が何を狙っていて、どう動くか、その点だ」
 レオアリスは手にしていた剣に視線を落とし、そのゆっくりとした青白い明滅を見つめた。
 西海は何の為にイリヤに手を貸すと言ってきたのか。消えた使隷が、そのまま西海に戻るだけとは考えにくい。現状はもう、様子見だけでは済まないところまで来ている。
「王に――、まずはアヴァロン閣下にご報告し、捜査の為の指示を得たい。総司令部に行って来る」
 グランスレイは自分が行くか束の間迷ったが、頷いた。
「ロットバルト、悪いが総司令部に行く道すがらでいい、今回の流れについて、もう少し詳しい説明が欲しい。まだ俺は全体が把握できてないからな」
 レオアリスはエンティが敷いた法陣に、剣先を当てる。切っ先を掠めるように動かすと法陣を構成していた文字が幾つか、光を失った。それと共に法陣全体が光を失っていくのを確認し、手の中から剣を消すと、レオアリスは部屋を出た。
 ロットバルトはレオアリスを追って廊下に出て、その隣に並ぶ。靴音の響く廊下を歩きながら、レオアリスは傍らを見上げた。
「口に出せない事が多いのは判る。たださっきお前も確認した通り、俺はイリヤ本人から大体の話を聞いた。核心からとは言わない、話せると判断している範囲でいい」
「私も事実として知っている訳ではありません。幾つかの情報、状況を元に組み立てた推論――言ってしまえばイリヤ・キーファーが動くまで、全くの想定の域を出ていなかった。ただ今回の件について確実に言える事は、こうして知った以上、次に取るべき手段は事実の開示ではなく、秘匿です」
「――イリヤが」レオアリスは一度口を噤んだ。階段を上がりきり、そこにある扉を開く。その先はいつもの中庭だ。誰もいない事を確認し、再び口を開く。「……イリヤ自身の言う通りの者であってはならない、か」
 レオアリスは回廊を回らず、扉から士官棟の出口へと真っ直ぐ中庭を横切るように、芝に足を踏み入れた。
 単に近道だけを考えていた訳ではないようだ。中央にある噴水の近くで足を止め、レオアリスはロットバルトを振り返った。噴水から流れる音が、低く抑えられた声を風に乗る前に消してくれる。
「……何故、過去を口にすべきじゃないと考えているんだ?」
 レオアリスは納得しきれてはいないのだ。ロットバルトはそれにどう答えるべきか、束の間言葉を探した。
 ただ、レオアリスに対してはもう、口をつぐんでも意味は無い。
 イリヤとキーファー子爵家の地籍簿、スランザールの忠告、そしてあの視線の主である法術士とのやり取り、それらを順を追って説明した上で、ロットバルトはレオアリスに視線を注いだ。
 重要なのはその先だ。
「彼が生きていると知られれば、過去の処置に過失、或いは作為があったと認める事になります。十八年前、王家は既に第二王妃の処刑を公表している。今回の件に絡む部分は、第二王妃が事件に関わっていたかどうかではなく、処刑が何を示す為に行われたか」
「――」
 レオアリスの顔を見ればその先は言わなくても理解していると判っていたが、ロットバルトは敢えて言葉を継いだ。
「再び同じような考えを持つ者が出る事を防ぐ為です。いわば王家の威信。これは覆らない」
 レオアリスはロットバルトの言葉の向こうを見定めようとするように、冷えた蒼い色の瞳を見つめた。
 やがて落とした溜息は、やはり納得を示すものではない。
「だから、今のイリヤも切り捨てるのか」
「感情論ではないんですよ」
 余りにあっさりとした言い方に、レオアリスは唇を噛みしめた。
「お前は」
 だが何を言いたいのか自分でも掴み切れず、視線を落とす。
 ロットバルトはその様子を黙って見つめながら、レオアリスを説得すべきかと考えを巡らせた。
 イリヤへの同情、もしくは同調は、好ましい傾向ではない。そもそもそれを避ける為に、イリヤの要望を容れて近衛師団を動かしたのだ。
(――とは言え、同情するなと言っても難しいか)
 レオアリスはそこで割り切れる性格ではないだろう。特に彼等の背景が重なる分、理論では判っていてもイリヤの側から周囲を見ようとしてしまう。
 ただ、だからと言って何ができるかと考えれば、レオアリスには――レオアリスだけではなく誰にも、何もしようが無い。
 一級監獄塔に入った時点でイリヤの身柄は司法の手に委ねられ、近衛師団の管轄から離れた。
 そこから先は王の領分であり、王の決断を待つしかない。
(王のご決断そのものも、おそらく納得行くものではないだろうが……)
 それこそロットバルトがここで口にしても仕方がないものだ。話題を変える、という訳ではないが、ロットバルトは別の懸案を出した。
「上将、今はもう一つ、急いで対処しなければならない事があります」
「もう一つ? 何だ?」
「これが一番重要かと思いますが……、ラナエ・キーファーの件です」
「ラナエ――」
 レオアリスはその名を繰り返した。イリヤが最後に、レオアリスに頼んでいった相手。
『ラナエは関係ないと、君からも言ってもらえないか』
 彼のそれまでの口調とはまるで異なる、真摯な響きだった。だからレオアリスはラナエという相手を知らないままに、イリヤに頷いたのだ。
「……妹だと言っていたな」
「正しくは、地籍上の妹です」
 キーファー子爵邸でロットバルトがラナエの名を口にした時、イリヤは強ばった顔を見せた。
「――」
 イリヤにとって彼女がどういう存在なのか、それは測りようが無い。それより問題は、ラナエが今いる場所だった。
 先ほどの説明の中でロットバルトは、論点を明確にする為に敢えてラナエに関する事を省いていたが、現時点では重要度はこちらの方が上だと考えていた。
「二ヶ月ほど前から、ファルシオン殿下の侍従として居城に上がっています」
「殿下の?」
 レオアリスは驚き、ロットバルトへと一歩踏み出した。足元で踏みしだかれた芝が、微かな音を立てる。漆黒の瞳には、それまで以上に厳しい色が浮かんでいる。
「どういう状況なんだ」
 問い返す声には懸念と警戒の色が強い。ファルシオンは、この件から一番遠ざけなければいけない存在だ。
「侍従という事以外ははっきりとは判りません。ご存知の通り、殿下のお傍には常に複数の侍従と警護官が控えています。その中で殿下に危害を加えるような事は、余り想定する必要は無いでしょう。しかし問題は、殿下は既に、おそらくラナエ・キーファーから、兄について何らかの話をお聞きになっているようだという事です」
 レオアリスは瞳を見開いた。
「まさか――いつだ?」
「昨日貴方が殿下にお会いになった後、昨夜からこの朝にかけてではないかと思われます」
「――」
 昼のファルシオンの様子を手短に説明するロットバルトの声を聞きながら、レオアリスは奥歯を噛み締め、冬枯れた芝に視線を落とした。
 昨日の、寂しさを堪えるようなファルシオンの顔が瞳の奥をよぎる。
 あれほどに兄を慕っているファルシオンがイリヤの存在を聞けば、会いたいと、当然そう思うだろう。
 だが今のままでは、余計に悲しい想いをさせてしまうだけだ。
「……まだ、誰が、とまでは、お聞きになっていないんだな?」
「そのはずです」
 レオアリスは眉を寄せて暫く考え込んでいたが、結局今取れる対応は多くはない。零れた溜息が、冷えた空気に白く散る。
「――ラナエ・キーファーについては早急に、一隊で預かるようアヴァロン閣下に願い出よう」
 その言葉にロットバルトは眉をひそめた。
「一隊で? そこまでは難しいと思いますが。既にキーファーに関する件の管轄は司法警護部に移っています。下手に口出しをして関与を疑われても面倒だ」
「だからって、女一人司法警護部に引き渡すか? あそこの扱いは甘くない」
 方針が決まるまではラナエを監視下に置く必要があるが、特に何の罪を犯した訳でもない少女の身柄を軍が拘束するというのは、余り好ましくはない。
 だがこのままでも明日、早ければ今日中には、ラナエも身柄を押さえられる。事情が判っていない司法警護官に引き渡すよりも、第一大隊が預かるのが一番いい。それがイリヤとの約束でもあった。
 ロットバルトは暫く思案を巡らせていたが、頷いた。
「判りました。貴方の仰る事も尤もだ、司法へは話を通します。どちらにせよ、これ以上殿下のお側に置いておく訳にはいきません。対応は早い方がいい」
 レオアリスは安堵の色を顔に昇らせた後、ふと、複雑そうに眉を寄せた。気付いたロットバルトが視線を向ける。
「どうかしましたか?」
「いや――。結局、俺は口で言ってるだけで、自分では何もしてないな……」
 反省するような口調に、ロットバルトは少し笑った。
「それは当然でしょう。大将の本来の役割は意思決定です。その為に手足となるべき我々がいる。まあ実際、今回のように余りご自分で動かれても困りますからね」
「……」
「要は状況を判断し、決断したらぶれない事――。上に立つ者がぶれては、下は混乱します。簡単に見えて最も難しい役割だからこそ、大将という職位があるんですよ」
「――本当に、難しいな……」
 どこまで、それに近付けるのか、まるで検討がつかない。ただやはり、自分は常に多くの存在に支えられているのだと、改めて思う。
「まあ、貴方がそんな普通の大将になったら面白くありませんが」
「面白いって何だ……」
 今はやりがいがあって、などと嘯いたロットバルトを斜めに見て、レオアリスは苦笑に近いものを浮かべた。
「アヴァロン閣下の許可を戴いたら、その足で司法警護部へ行ってきます。ひとまず、フレイザー中将の預かりにするのがいいでしょう」
「悪いな」
「何も」
 レオアリスは噴水の傍を離れ、士官棟の出口に足を向けた。
「アヴァロン閣下は、西海の使隷についての調査だけを指示されるだろうな」
「そう思います」
 第一王子暗殺の裏を、アヴァロンは当然知っているはずだ。その上で、アヴァロンはイリヤを赤の塔へ入れるよう指示した。
 ではそれはすべからく、王の意思だ。
 王はどう考えているのだろうと、レオアリスは歩きながら、王城の方角へと視線を投げた。
 王の金色の瞳。それを映したような、イリヤの右の瞳の金。
 イリヤの顔が思い出される。イリヤが唯一、今回の件から切り離そうとしといる少女。
 そんな存在がありながら、自分は暗い道を辿ろうとしている。
 イリヤという存在は、まだレオアリスの中に収まりきっていない。どう捉えたらいいのか。
 イリヤが王の子であれば、彼はファルシオンと同様に、レオアリスが仕えるべき主の子という事になる。
 剣を捧げる主の。
 イリヤを捕え、牢に入れるという事は、例えイリヤ自身が望んだにしても、レオアリスの中に少なからずわだかまりを生んでいる。
 本当に、そうする事が正しかったのか、という疑問だ。
(赤の塔――)
 もう既に、その扉は閉ざされているだろう。
 アヴァロンが――王がそこを指示した理由は、どこにあるのか。
 王は、イリヤを王家とは関係の無い存在として扱うつもりでいるのだろうか。十八年前と同様に、第一王子暗殺の罪と共に。
 レオアリスにはどうしても、そうとは思えなかった。
 何かが、心に引っかかっている。
 イリヤと話していた時に――。
 大切な、何か。
 レオアリスが、イリヤの言葉を真実だと感じた、最大の理由は――。
「……名前」
『俺の本当の名は、ミオスティリヤと言うんだ』
 レオアリスはぴたりと足を止めた。
「上将?」
 ロットバルトは立ち止まったレオアリスを振り返った。レオアリスは足元に視線を落としている。
「ミオスティリヤ――」
「……イリヤ・キーファーの本名ですね」
「そうだ、だけど違う」
 ロットバルトが訝しそうにレオアリスの横顔を見つめる。レオアリスの瞳に微かな光が、ゆっくり、だが次第にはっきりと浮かび上がるのが判った。
「ミオスティリヤ、――忘れな草だ」
「――花の名前、ですか……」
 王の私室の庭に咲いていた、季節外れの青い花。
 枯れる事を忘れたような。
『俺は、この名前を捨てに来た』
「――」
 イリヤは王が、自分の事など全く覚えてもいないと、そう思っている。だが――
 王は、イリヤの事を忘れてはいない。
 あの青い小さな花が、今回の複雑に絡んだ想いを解きほぐす鍵になるのではないかと、そう思えた。



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