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王の剣士4 「かりそめの宴」
【第四章 「生者達の舞踏」】


 ファルシオンの傍にはいつでも必ず、誰かしら侍従が付いている。主には身辺の世話と警護、そして万が一にも不意にファルシオンが体調を悪くした時の為だ。
 だからラナエと話をしたくても、たった一人で彼女と話をする機会は全くと言っていいほど無かった。ラナエ達の部屋がどの辺りにあるのかは判っていたが、そこは普段ファルシオンの立ち寄る場所ではなく、行こうとすれば必ず理由を問われるだろう。
 熱を出して寝ているラナエのお見舞いに、と言えば尋ねる事を許されるかもしれないが、その代わりハンプトンなり他の侍従が一緒に来る事になる。
 ファルシオンはずっとずっと考えて、やはり一人で行かなければ駄目だと、そう思っていた。
 兄が生きているなどと、誰もファルシオンには言わなかった。ラナエだけだ。だからきっと、ラナエしかその事を知らないのだろうと思った。
 それが本当なのか、嘘なのか、良い事なのか、悪い事なのか――そんな事よりも、今ファルシオンの胸を一杯にしているのは、ただ兄に会えるかもしれないという想いだけだった。
 兄はどんな人なのだろう。会ったら、自分を弟だと判ってくれるだろうか。一緒に、この館に住む事はできるだろうか。
 そんな事を考えれば心が躍るように感じられ、もう早く会いたいという想いばかりが強くなる。
 突き動かされるような想いの中で、ファルシオンは、いつだったら、どうやったらラナエに会えるだろうと考え、溜息をついた。
「ファルシオン様?」
 訝しそうな声に顔を上げれば、ハンプトンがファルシオンの顔を覗き込んでいる。夕食の最中だったのだ。ファルシオンの手が止まっていて、それでハンプトンは心配そうに眉を寄せた。
「ご気分が? 今日のお食事は、お口に合いませんでしたか?」
 ファルシオンは慌てて首を振った。口に合わないなどと思われたら、料理長が怒られてしまう。
「ううん、おいしいよ、すごく」
 とにかく今はせっかく作ってくれたものをちゃんと食べなくてはいけないと、ファルシオンは一生懸命手を動かして料理を口に運んだ。慌てたものだから端に置かれていた匙を袖に引っ掛けて落としてしまったが、ファルシオンが拾おうとする前に、後ろに立っていた侍従の一人が拾ってくれた。
「ありがとう」
 と言うと、彼女はお辞儀をしてそのまま裏へ落ちた匙を運んで行き、すぐに別の侍従が新しい匙を卓の上に丁寧に載せる。全く無駄のない、流れるように洗練された対応だ。
 こうした事だけではなく、ファルシオンが何かしようとすれば、侍従達はさりげなく、そして素早くファルシオンを手助けしてくれる。
 朝起きてから寝るまでずっと、必ず誰かが傍にいて一人きりになる事はなく、まだファルシオンはそれを煩わしいと感じるような年齢でもなかったが、今だけは、どうにか一人になりたかった。
(がくしゅうの時間もだめだし、にゅうよくの時間もだめだし……かくれんぼしても、ぜったいすぐ見つかっちゃう)
 指折り数えてみて、はっとファルシオンはその指を見つめた。
(そうだ、夜)
 朝起きてから寝るまでは、ずっと誰かが傍にいる。しかし、夜寝る時だけは、ファルシオンは一人きりになった。その時だけは、侍従は寝室を出て、前室で控えるしきたりになっているのだ。
(夜、ねるときなら、きっと出られる)
「ファルシオン様。また手が止まっておいでですよ」
 ハンプトンにたしなめられ、さっとその手をしまって、それから何事もない振りをしてファルシオンはまた匙を手に取った。
 横顔の柔らかい頬の線を愛おしそうに見つめながら、今日のファルシオンはどこか上の空だと、ハンプトンが苦笑と僅かな疑問を含んだ溜息をついた時、食堂に入ってきた侍従がハンプトンを呼んだ。
「侍従長様」
 そっと押さえた呼び方に、ハンプトンはファルシオンの傍を離れてその侍従に近寄った。
「どうしたのです。今は殿下のお食事中ですよ」
 そうは言いながらも侍従の様子を見て取り、ファルシオンの視界から隠れるように扉の外に出た。侍従は廊下の押さえた明かりのせいだけではなく、少し青ざめた顔をしている。
「何か?」
「司法警護官がおいでです。どのようにいたしましょう……」
「司法警護官?」
 およそこの場所に相応しくない名を繰り返して、ハンプトンは侍従の顔と、その奥の廊下を見つめた。第一王子の館に、司法警護官が何の用があるというのか。ハンプトンには全く思い当たる節がない。
「――どちらに」
「急ぎの用だとおっしゃって、今、もうこちらへいらっしゃったので、控えの間にお通ししています」
 それを聞いて、ハンプトンは眉を顰めた。
「控えの廊下ではなく、直接こちらに? まさかこの時間に、殿下にお会いになろうなどと言うのではないでしょうね」
 夕刻を過ぎれば、ファルシオンへの面会は取り次がないのが常識だ。これほど急に、しかも通常は居城の入口にある控えの廊下で待つべき所を、案内も待たずにファルシオンの館にやって来るなど、普段は穏やかなハンプトンの顔にも、少し憤慨した色がある。侍従は素早く首を振った。
「いえ、侍従長様に、と」
「私に?」
 不審そうに繰り返し、憤慨の色は緩やかだか不安へと変化していく。
 わざわざ、司法警護官が、ハンプトンに面会に来る――。
「――判りました、とにかくお会い致しましょう。貴女は急いでシルマン警護官長をお呼びして、ご同席いただくようお伝えしてください」
「はい」
 侍従はすぐ、シルマンのいる王宮警護官の詰所へと足を向けた。ハンプトンは一度食堂の扉を開き、近くの侍従を呼んでファルシオンの食事の対応を指示すると、先に立って廊下を足早に歩き、館の入り口近くに置かれている控えの間へと向かった。
 控えの間の扉を開けると、待っていた司法警護官が立ち上がる。三十代後半ほどの男だ。
「遅くに申し訳ない、しかし火急の用向きでして」
 どことなく高圧的な声音に、ハンプトンがまた眉を顰める。だがそれを極力押し殺して、司法警護官へお辞儀をした。
「……お役目ご苦労様です。侍従長のハンプトンでございます」
「司法警護部副長、ヒックスです。控えの廊下では少し手間取りましたが、火急の用向きでして。まずは侍従長にお話を通すべきと参りました。こちらには――」
「お待ちください」
 ヒックスはハンプトンの言葉に被せるように話し始め、不快さも一層増したが、まずは丁寧にそれを遮った。案内も待たずにファルシオンの館に押し掛け、挙げ句にこれではやはり歓迎する気にはなれない。
「今、ファルシオン様の警護官長のシルマン殿もおいでになります。彼がいらしてからお話を伺った方がお手間をとらせる事も無く良いでしょう。まずはお座りになってくださいませ」
「しかし」
「この館の事は、私よりシルマン殿にお話しいただくのが筋でございます」
 居城のしきたりを無視した事への苦言を口にしなかったのは、不安に駆られたからでもあった。司法警護官が火急にハンプトンに面会を求めるという事は、やはりそれなりの理由があるはずだ。
 ハンプトンに椅子を勧められ、ヒックスは肩を竦めて腰を降ろした。
 ほどなく扉が開き、王宮警護部第一王子警護官長のシルマンが顔を見せる。
「お待たせいたしました」
 シルマンが挨拶をしても、ヒックスは立ち上がりもせずもう一度自己紹介を繰り返して、シルマンが座るのを待った。
 丸い卓を三人で挟むように向かい合い、まずはシルマンが口を開く。
「今回は随分、大胆な事をされましたな。火急とはお聞きしましたが、それでもまず控えの廊下でお待ちいただくのが礼儀というもの、今後は留意されたいものだ」
「これは申し訳ございません、しかし」
 ヒックスはさっと顔を赤くしたが、恥じ入るというよりは苛立ったからのようだ。元々、司法はその性質上、職務の遂行に他者の都合を顧みないところがある。ただ、この男の場合は個人の性格に寄るものが強いのだろうと思いながらも、シルマンは構わず続けた。
「どこにも流儀はあります。司法は司法の、居城は居城の。とは言え、それを無視されるという事は、お持ちになった案件は余程重要なのでしょう。殿下の御身に関わる事か」
 さすがに、シルマンの瞳には真剣な光が浮かんでいる。しかしヒックスは首を振った。
「いえ――」
 そこを否定されるとは思っていなかった為、シルマンとハンプトンは顔を見合せた。ヒックスはシルマンが口を閉ざしたのを見て、要件を切り出した。
「殿下の元にいる侍従の身柄を引き渡していただきたい」
「身柄の引き渡し?」
 唐突に飛び出した言葉にハンプトンが眉を顰める。引き渡しなどと、罪人を匿っているような言い方だ。
 だがヒックスは自分の言葉がどう捉えられるかまでは気が回らなかったようで、大仰に頷いた。
「左様です。ラナエ・キーファーは重要参考人であり、即刻身柄を移す必要があります」
「――ラナエ? 重要参考人とはどういう事です」
 告げられた名にぎくりとして、ハンプトンは声を強張らせた。唇を湿らせ、ヒックスが声を落とす。
「まだ口外しないよう気を付けていただきたいのだが――、キーファー子爵が、今夕捕えられました」
「……キーファー子爵が……? 何故」
 ハンプトンが驚きに呆然とした瞳をヒックスに向けたが、ヒックスはそれには答えず、質問を続けた。
「ラナエ・キーファーという娘は、こちらではどのような事を? 何か、特に気になる事を言ってはいなかったでしょうか? 怪しい行動や、手紙のやりとりなど。思い出せる限りで結構ですが、全てお話いただきたい。庇ったり黙っておられると貴方も余計な疑いを――」
「待ちなさい」
 それまで黙っていたシルマンが溜息と共に遮り、苦い色を言葉に含める。
「いきなり状況の詳細な説明も無く尋問のような事を。順を追ってご説明いただきたい」
「そのようなつもりは」
 シルマンは落ち着きのある、だが厳しい瞳を向けた。
「そもそも、貴方は何の為にいらしたのか。調査か、身柄の引き受けか。まさかいたずらに殿下の身の回りを騒がせに来た訳ではありますまい。ここで最も重要な事は、殿下の御身の安全、司法の論理ばかりが通る場所ではない」
 ここは第一王子の館なのだ、と暗に示され、さすがにヒックスも口籠もった。自分の立場を履き違えていた事に漸く気付いたようだ。
「私は、その……、身柄引き受けです」
 少し肩を縮め、ヒックスは決まり悪そうにそう言った。
 ハンプトンが不安を帯びた瞳を向ける。
 ファルシオンは昨晩、ラナエから何か話を聞いたようだった。今日はどこか気もそぞろで、考え込んでいる場面が多かった。
 ラナエは、ファルシオンに何を言ったのか。
 ハンプトンは両手を絞るように、ぎゅっと重ね合わせた。
「ラナエは――ラナエ・キーファーは確かにこちらにおりますが――、ラナエは何かしたのですか? 身柄引き渡しとは……」
「いや、ラナエ・キーファー自身は特に関わりはないだろうと、そう仰っておられました」
「仰って?」
 誰が、という問いかけに、ヒックスは背筋を伸ばし、いかにも重要な事を告げるように声音を落とす。
「先刻、近衛師団第一大隊のヴェルナー中将がおいでになり、この件に関して我々にご依頼されたのです。ラナエ・キーファーの身柄を近衛師団で預かりたい、と」
「ヴェルナー中将が?」
 ハンプトンの眉根にあった警戒が和らいだのを見て、ヒックスは満足そうに頷いた。その名前が自分の威厳を高めると思っている節がある。
「わざわざ当方においでになりましてね。始めから事の経緯をご説明しますと、今夕、キーファー子爵とその子息が西海との謀略の容疑で捕らえられました。西海と繋がりがあったようです。これを捕らえたのは第一大隊ですが、アヴァロン閣下のご命令ですぐ、キーファー子爵家の者の身柄は赤の塔に収監され、今は司法警護部の管轄下にあります」
 ハンプトンが微かに息を呑む。
「何という……」
「西海」
 不穏な言葉に、シルマンも改めて、表情を引き締めた。
「ラナエ・キーファーがこちらにいるというのは、まあ私が掴んだ情報でして、居城にとは捨ておけない、一刻も早くこちらにもお知らせしなければと、その思いに駆られまして」
 早口でそう言い添えたヒックスの声には、どことなく得意げな響きがある。
「ただヴェルナー中将が仰るには、ラナエ・キーファーに関しては扱いが難しいのです。取り立てた罪が無い一方でキーファー子爵邸が現在接収されている事、更に露見した以上西海は関係者の口封じを狙ってくる可能性もあると。そうなればいかに居城とは言え、いえ、居城だからこそ尚更、殿下のご身辺に僅かなりとも危惧があってはいけない。そこで本来は我々の管轄の事なのですが、今回は王の剣士がいらっしゃる第一大隊でラナエ・キーファーをお預かりいただくのが最も安全だろうと。何と言ってもラナエ・キーファーは重要参考人で、今後の調査の上でも身の安全を確保する必要がありますので」
 言われた内容を繰り返すような口調だったが、それは逆にハンプトンにとっては安心になった。ロットバルトの――レオアリスの考えというのなら、却って問題はない。
「それで、ラナエを」
 漸く納得の表情を見せたハンプトンに、ヒックスは重々しく頷いた。
「身柄は我々が引き取り、第一大隊へお送りする事になっております」
 近衛師団から直接居城管理部に話を通す事もできるが、居城から身柄を受けるのは司法警護部の権限の中にあり、近衛師団には司法から引き継ぐのが筋だと、あの青年はそう言ってヒックスに依頼した。
 今回捕えたキーファー子爵の関係者が居城に出仕しているというのは、まだ司法でも把握していなかった事だ。司法警護部が動くのに必要であれば、それはヒックスが繋がりを探り当てた事にしてもいい、と、そうも告げた。
 わざわざあのヴェルナー家の人間に頼みに来られては悪い気はしない。居城に重要参考人がいる事を探し当てた手柄を自分のものにできるという事も、長官ではなく、副官のヒックスに依頼したという所も、ヒックスには風向きのいい話だった。
 今晩という急な話ではあったが、そもそもいずれ司法警護部が動くべき案件でもあり、ヒックスはすんなり引き渡しを了承した。
 それに引き渡すとは言っても、そのまま右から左に渡すつもりはヒックスにはない。若い娘など、少し厳しく問えば簡単に口を割るものだ。
 近衛師団、しかも第一大隊に恩を売れる上に、ヒックスがいち早く重要情報を入手すれば近衛師団に対しても優位な立場に立てる。ますます悪くない話だ。
 そうした諸々の計算も織り込み済みでロットバルトが今回の話をヒックスに持ち込んだとは、ヒックスの思考の外にあったが、シルマンやハンプトンに対して強気な態度で臨んだのはそうした理由があった。
「この後、司法警護官数名が立ち入る許可をいただきたい。もちろんシルマン殿にも、立ち会いをお願いします」
 ハンプトンは判断を伺うようにシルマンの顔を見た。ヒックスの人となりへの不快感はともかく、ファルシオンの身の安全を考える上でも、退ける理由は無い。シルマンも同じ考えのようで、ハンプトンに頷き、ヒックスに視線を戻した。
「承知した。だが、殿下にご不安があってはいけない。殿下がお休みになってからにしていただこう」
「では、また後ほど改めて伺います」
 ヒックスは満足そうに頷くと、その場を辞した。



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