TOP Novels


王の剣士4 「かりそめの宴」
【第四章 「生者達の舞踏」】


 明かりを落とした部屋の中で、ファルシオンは瞳を凝らした。前室に退いた侍従は多分、ファルシオンが声をかけたり何か物音がしたらすぐ入ってこられるように、扉の傍に座っているだろう。
 彼女達がそうしてそこに控えている事は、幼いファルシオンには安心して眠れる事でもあったが、今晩ばかりは、その安心よりも気付かれないように抜け出す事への緊張が強い。
 扉が閉まってから百を数え、少し迷い、そしてまた百を数えた。一度寝台の中で深く息を吸い込む。
 衣擦れの音すら立てないように、そっと寝台から抜け出して寝台から離れ、ふと思い付いてまたその傍に戻る。
(ねてるふり――)
 熊のジェイクを自分の代わりに毛布の下に入れ、丸く盛り上がるように毛布を整えた。
 扉を気にしながら露台への硝子戸へ寄り、薄く押し開ける。すうっと屋外の冷気が流れ込み、肌を撫でる。
 ファルシオンは息を殺し、顔を巡らせて、月明かりだけの庭園を見渡した。ファルシオンの寝室は庭園に面していて、硝子戸の向こうの広い露台には階段があり、すぐに庭園に降りられる。
 庭園には昼夜を問わず王宮警護官が警護に着いているが、幸い近くの警護官は少し先の植え込みの向こうで、館に背を向けて立っている。
(今だ)
 ファルシオンは裸足のまま、足音を殺して露台から駆け降りた。
 青い月の光が冴え冴えと降り注ぐ広い庭園には昼間の柔らかさは無く、肌を刺す空気の冷たさと相まって、氷に閉じ込められた世界のようだ。
 零れる白い息が世界とは異質なもののように、生命の存在を訴えている。ファルシオンはなるべく息が零れないよう、手で口元を押さえた。
 時折見回りの警護官が通り過ぎるのを、植え込みが落とす濃い影に身を縮めながらやり過ごす。
 そうして植え込みの影を伝い、時には月明かりの中を駆けるという冒険を繰り返し、ほどなくファルシオンは庭園の南端にある建物に辿り着いた。そこが、侍従達が暮らす宿舎だ。
 多分まだ誰も、ファルシオンが寝室を抜け出した事に気付いていない。気付かれたら今日の侍従はハンプトンに怒られてしまうだろう。もしばれてしまったら後でちゃんと謝らなくてはと思いながら、それでもほっと息を吐き、ファルシオンは建物の入り口を潜った。
 入り口から真っ直ぐ続く廊下には、誰の姿も無い。右の壁に設けられた窓から、月の光が斜めに差し込んで窓の輪郭を影にして落とし、薄青く廊下を染めている。
 そして左側の壁に、扉がずらりと並んでいた。扉を三つずつ挟んで、建物の奥に向かう廊下が暗く口を開けている。
 さっと見ただけでも十は並んでいる扉を眺め――、そこでファルシオンは困り果ててしまった。
 ファルシオンは、ラナエの部屋を知らないのだ。
 同じような扉が並んでいて、誰の部屋かなど全く判らない。けれど間違った部屋を開けてしまう訳には行かなかった。
 どうすればいいか思いつかず、冷たくなってきた指先に息を吐きかけながら、辺りを見回した時だ。
 ずっと向こうの扉が、静かに開いた。誰かが出てくる。
 ファルシオンは慌てて、傍にあった廊下の角に飛び込んだ。
 影に身を縮めて、息を潜める。
「では、ラナエ――迎えが来るまで、この部屋を動かないように。いいですね」
(ハンプトンだ……)
 どきり、と心臓が鳴る。ファルシオンが普段耳にする事の無い、厳しい響きの声だった。
 だがそれよりも、またハンプトンがここにいるという事以上に、ハンプトンが「ラナエ」と呼んだ事が、いっそう鼓動の高鳴りを大きくした。
(ラナエが)
 ハンプトンに対して、部屋の中から小さな声が答え、扉が閉ざされる音がする。
 足音が近付き、ファルシオンはあともう少し、廊下の影の中に退った。
 ハンプトンが近付くにつれ胸が苦しいほど心臓が鳴り出したが、ハンプトンは角の奥にいるファルシオンには気付かず、建物の出口へと廊下を通り過ぎた。
 月明かりに照らし出されたハンプトンの横顔は、とても厳しく、そして不安そうな様子をしている。
(――どうしたんだろう)
 思わず身を縮めるのも忘れ、ファルシオンは身を乗り出した。足音が聞こえなくなるまで待つ間も、床に視線を落としたまま通り過ぎたハンプトンの姿が、ずっと瞳の奥に残っていた。
 何かあったのだろうか。もしかして、ラナエがどうかしたのだろうか。
 熱が高いと言っていたから、それで心配しているのかもしれない。
 完全に足音が聞こえなくなった後、ファルシオンはそっと月明かりの満ちる廊下に顔を出し、誰もいないのを確認してから先ほどの扉に駆け寄った。
 把手を回すと、抵抗もなくかちゃりと開く。
 そっと部屋の扉を開け、中へ滑り込む。これまで肺に吸い込んだ息を全て吐き出すように深呼吸し、ラナエを探そうと顔を上げたところで、声がかかった。
「ファルシオン様!?」
 扉の正面の、窓際に寝台が置かれていて、ラナエが身体を起こしている。そこに寝台があるとは思っていなかった為、驚いて心臓をどきどきとさせながらも、ファルシオンは寝台に近付いた。
 ラナエはファルシオンが何の目的でここに来たか、判ったのだろう。熱で白い頬から、更に血の気を引かせた。ただ、目元には泣き腫らした跡がある。
 枕元の台には折り畳まれた白い便箋が二枚置かれていたが、ファルシオンはそれには気付かなかった。
「ラナエ」
 ファルシオンが寝台の傍に来る前に、ラナエは寝台から出て床の上に膝を付き、顔を伏せた。
 部屋の床はひんやりと冷たい。自分の裸足の足を伝わる冷たさに、ファルシオンは幼い眉根を寄せた。
「起きなくてもいいんだ」
「いいえ」
「ねつがあるって聞いた。寝てなきゃ」
 ファルシオンの言葉に、逆にラナエは申し訳ない気持ちで一杯になり、ますます床に身体を伏せる。
「このような場所、殿下のおいでになる所ではございません、どうぞお部屋へお戻りください」
「ラナエは、私に兄上がいるって言った」
 単刀直入な言葉に、ラナエはびくりと身体を縮め、ファルシオンの瞳を避けるように視線を落とす。
「どういうことなんだ」
「お許しください」
 漸く絞り出したようなか細い声にも、ファルシオンは納得をせず強い瞳を向ける。
「兄上がいるって、そう言ったじゃないか。あれはうそなのか?」
 そう問いながらも、ファルシオンの瞳は、ラナエの言葉を信じている。ファルシオンが聞きたいのは、別の事だ。
「――」
「どこにいるんだ」
 消え入るような声で、ラナエは首を振った。普段は一つに纏めている髪が、両側からラナエの頬を隠すように覆っている。
 罪を、隠すように。
「いいえ、私は……」
「兄上とは、どうやったら会えるんだ」
 ラナエは押し黙り、床に手をついたままじっと指先を見つめている。
 何故、ファルシオンにあんな事を言ってしまったのか。
 自分の告げてしまった言葉を、ラナエはずっと後悔していた。
 ハンプトンは、イリヤが近衛師団に捕らえられたと、そう告げたのだ。余りの驚きに、その後のハンプトンの言葉は頭の中に入って来なかった。
 ラナエがファルシオンに告げてしまったせいで、イリヤが捕まってしまったのだとしたら――。事実はそれとは違ったが、それはラナエにとっては、恐ろしいほど真実味を帯びていた。
 ラナエの罪だ。
(止めていれば――)
 あの時、イリヤが父の養子になると言った時に。
 それとも、ラナエが王城に上がると知って、イリヤがラナエに協力して欲しいと、そう言った時に。
 その後悔は、ずっとラナエの中にあった。
 止められなかったから。
 イリヤが何を考えているか、判らなくなってしまったから。
 あんなにも傍にいたのに、遠く離れてしまったから。
(イリヤ――)
 本当はすぐにでも、イリヤに会いに行きたかった。
 けれど、おそらく。
 もう、イリヤには会う事はできない。
 熱くて苦しい塊が、胸から競り上がってきて喉を塞いでしまいそうだ。
 俯き、嗚咽を堪えるように肩を震わせていたラナエの上に、ぽつりと言葉が落ちた。
「会いたい――」
 引き寄せられるように、ラナエが顔を上げる。
 自分の心が呟いたのかと、そう思えた。
「私の兄上は生きてるって、ラナエが言ったんじゃないか――」
 見上げたラナエの瞳が、ファルシオンの顔を捉える。大きな瞳が、潤むように揺れている。
 ファルシオンは俯いて、小さな手をぎゅっと握り締めた。
「ラナエが、生きてるっていったんだ。兄上が。――会えないの……」
 寂しげに、心もとなげに揺らめきながらも、細い燭蝋の僅かな明かりにも映える、金の瞳。
 それは、イリヤの――
「わ――私の」
 ラナエは耐え切れず、泣き伏した。ファルシオンが驚いてラナエを見つめる。
「ラナエ――どうしたの?」
 夕方になって、イリヤは手紙を送ってきた。
 手紙には、ラナエは何も関係が無いのだと書いてあった。
 だから、自分の事は忘れろと。
『元気で――』
(何で、そんなこと言うの?)
 ハンプトンは、イリヤが捕らえられたと告げた。
 大変な重罪を犯して、だから一級監獄塔に入れられたのだと。
 ハンプトンは言わなかったが、ラナエにも一級監獄塔が、赤の塔がどんな意味を持つか知っている。
 入ったら、もう二度と出られない。もしかしたら、命さえ――。
 イリヤはそれを判っていたのかもしれない。
『さよなら』
 怖くて、胸が押し潰されそうで、ラナエは一筋の光に縋るように、ファルシオンを見上げた。
「ファルシオン様――」
 こんな幼い少年に、何を負わせようと言うのか――、自分の中の押し止める声を、ラナエは振り切ってしまった。
「ファルシオン様、イリヤを――貴方様の兄君をお助けください」
「どういう、こと……」
 ファルシオンは黄金の瞳を見開き、ラナエの傍に一歩近寄った。
「兄上を、って……どういうことだ」
「イリヤが、イリヤ・キーファーが、貴方様の」
 兄上です、と唇が綴りかけた時。
「殿下から離れよ!」
 恫喝にも近い、厳しい響きの声が背後から投げ付けられた。
 振り返れば、開かれた扉の前に、青ざめたハンプトンと王宮警護官長シルマン、そしてファルシオンが見た事の無い制服姿の男達が立っている。ラナエはさっと口を閉ざし、突っ伏すように平伏した。
 ハンプトンと男達も、その場で跪き深く頭を下げる。
「何だ……、お前たち」
 ファルシオンは驚いて男達と、ハンプトンを見つめた。
「ハンプトン」
 ハンプトンは素早くファルシオンの傍に寄ると、彼の身体を抱えるように引き寄せてラナエから遠ざけた。瞳には怯えの色すら浮かべている。
「ファルシオン様、なぜこのような場所においでなのですか」
 問いかける声は厳しい反面で、微かに震えていた。ハンプトンをひどく心配させたのだと判って、ファルシオンが顔を曇らせる。それでも理由を答えるのは躊躇われた。
「ラナエに――ラナエがかぜをひいてたから、おみまいに来たんだ」
「……こんなお時間に」
 ファルシオンが何かを隠しているのは判る。朝からずっとそうだった。けれども、何故、ファルシオンはこれほどまでにラナエに拘っているのか、それがハンプトンには判らない。
「言っていただければ、せめて私共がお連れ致しましたものを」
「ごめんなさい……。でも」
 小さい手を身体の両脇でぐっと握る。一人で行動するという事は、ハンプトン達への信頼と関わるとも取られ、ファルシオンのような立場に立つ者が口にすべきではない。それは幼いながら、ファルシオンも漠然と理解していた。
「……何でハンプトンたちがここにいるの。そこにいるのは」
「司法警護官でございます」
「しほう……?」
 一番前にいたヒックスは頭を下げたまま、素早く答えた。
「司法警護官副長のヒックスと申します。計らずも深夜突然とは申せ、ご尊顔を拝謁し恐悦至極に存じます」
「そのしほうけいごかんが何の用だ」
 ファルシオンはぎゅっと唇を引き締め、ヒックスを睨んだ。
「殿下……」
 ハンプトンはファルシオンを膝を付いて抱き締めたまま彼の顔を見つめたが、視線の先のファルシオンははっとする程厳しい表情を浮かべている。
 ファルシオンから睨まれて狼狽えたヒックスは、寝台の前に平伏して身を震わせているラナエを指差した。
「その者は、殿下のお傍にあるのに相応しくは無いのです。身柄を引き受けに参りました」
 ファルシオンが驚いて、ラナエとヒックスを見比べる。
「……そんなの、聞いてない」
「この夕刻に急遽決まった事でございます」
「だれが決めたんだ」
「私ども司法警護部の決定事項で――恐れながら、本件は私どもに一任されております。それが私どもの任務でございますので、何とぞご理解を賜りますよう」
 ヒックスは深々と頭を下げた。次にはハンプトンが黙っているファルシオンの背をさすり、諭すように口を開く。
「ファルシオン様、ラナエには直接の罪は無いのです。ラナエの兄が……いえ、キーファー子爵家が問題となっているのです。ですから、ラナエはもうここには居れません。けれど、ラナエは近衛師団で――」
 ハンプトンは兄という言葉を素早く取り消したが、ファルシオンは聞き逃さなかった。
「ラナエの、兄上? 兄上って」
 視線を落とした先で、ラナエは震えを大きくした。
「ラナエ……」
「御前、ご無礼を。引き立てろ」
 ヒックスの指示に司法警護官達が立ち上がり、ラナエの周りを囲もうと近寄る。剣が鞘から放たれた。
 白刃を目にして、ハンプトンが小さく悲鳴を上げる。
「――待て!」
 ファルシオンは彼を抱き締めようとしたハンプトンの腕の中からするりと抜け出し、ラナエの前に立ちはだかると、司法警護官達を妨げるように小さな腕を精一杯に広げた。
 ぎょっとして、警護官達が立ち止まる。
「つれて行くのは、ゆるさない!」
「ファルシオン様!!」
 ファルシオンの行動に驚いたものの、次の瞬間にはハンプトンはファルシオンを守るように抱き締め、キッとヒックス達を睨み付けた。
「無礼な! 殿下の御前で剣を抜かれるなど、いくら任務と申されても非常識が過ぎましょう! 万が一にも殿下が怪我をされたらどうなさるおつもりですか!」
 シルマンもファルシオンと司法警護官達の間に割って入る。
「今すぐ剣を収めよ! 帯刀を許したのは、西海が絡んだ場合を考慮したまで、殿下の御前で女一人に向ける為ではない!」
 ヒックス達は失態に気付いて青ざめ、慌てて剣を鞘に戻すと、その場に平伏した。居城内は帯刀が許されない場所だ。緊急時、それこそ護衛の為ならともかく、この場合彼等が抑えるのは少女一人、王子の面前で抜刀する理由にはならない。
「司法警護官長には、今日の事はご報告致します」
 彼等を厳しく見据えてから、ハンプトンは屈んでファルシオンの両肩に手を置いて、顔を覗き込んだ。
「ファルシオン様、申し訳ございません。けれど、このような事……剣の前に飛び出すなど、決してなさってはいけません」
 ハンプトンの声はそれこそ震えている。
「さあ、ファルシオン様、ここは騒がしゅうございます。どうぞもう、お部屋へ」
「いやだ」
「ファルシオン様、そのような」
 戸惑い、どうしていいか判らない顔で、ハンプトンはファルシオンを見つめた。ファルシオンの面に浮かんでいるのは、ただ我が儘という容易いものではない。
「ラナエをつれて行かないって、やくそくしてからじゃないと帰らない」
「ファルシオン様――」
「ラナエはねつで寝てたんだ、それなのに」
「ラナエはただ、ここを出るだけで、」
「だめだ!」
 滅多に見せないファルシオンの激しい口調に、ハンプトンもシルマンも、圧されるように一歩退いた。
 そこにあるのは父王の威厳にも似た、断固たる意思の瞳だ。
「ラナエをつれて行くのは、私がみとめない」
 兄、と。
 ラナエは、兄を――ファルシオンの兄を助けて欲しいと言ったのだ。
 ファルシオンの。
「――ファルシオン様」
 暫く誰もが戸惑い、答えを探すように顔を見合わせていたが、ややあってシルマンは跪いた。
「承知致しました」
「シルマン殿、ですが」
 慌てるハンプトンに考えがあると目配せをし、シルマンは言葉を継いだ。
「ラナエの体調が回復するまで――それでよろしゅうございますね」
「でも」
「決して手荒な真似は致しません。そもそも、本来は司法警護部が保護するのが正しいのです。それに、ラナエの身柄は当面、近衛師団第一大隊でお引き受けくださいます。大将殿の部隊です」
「レオアリスが?」
 驚きと、僅かだが安堵がファルシオンの面に浮かぶ。
「でも、何で」
「ラナエは、保護が必要なのです。これ以上は、明日改めてゆっくりとご説明致します」
 ファルシオンはシルマンの言葉を考えているのか、少し眉根を寄せている。それを見てシルマンはもう一度ファルシオンに問いかけた。
「――近衛師団に預ける事を、ご承知いただけませんか」
 レオアリスの名を聞いてファルシオンが気持ちを変えるのではないかと思ったのだが、ファルシオンは迷って、それでも首を振った。
 シルマンはそっと溜息を押し殺し、またファルシオンの顔を見つめる。
「ではせめて、貴方様はこの者にお近づきにならず、この者には監視を付ける事をお許しください」
「――」
「どうか。みな、御身を案じております」
 シルマンが跪いたまま、深く頭を下げる。彼の声音には心底ファルシオンを案じる響きがあり、それ以上、ファルシオンには彼等の言葉を退ける事はできなかった。
「……ほんとうに、ラナエをつれて行かない?」
「お約束致します」
「……わかった」
 ハンプトンがほっと息を吐き、ファルシオンを促すように肩に優しく手を乗せた。
「さあ、ファルシオン様、ここは冷えます、ご寝所にお戻りください。」
 ファルシオンは一度ラナエを見たがラナエは平伏して身を縮めたまま顔を上げる事無く、言葉をかける事ができないままに、ハンプトンと共に部屋を出た。
 シルマンが部下を呼び、ラナエの警護を指示していく。床に伏せていたラナエを、警護官が寝台へ戻す。
 呆然としていたヒックスは、漸くシルマンに近寄った。
「シルマン殿、キーファーは」
「聞いた通り、ここで対応する」
「しかし――」
「ファルシオン様があれほどに強く仰った事を、簡単に覆す訳にはいかない。無論明日、もう一度ご説明申し上げご理解をいただくつもりだが、今日のところは貴殿もお引取り願おう」
 追ってご報告する、と言うと、シルマンはもうヒックスに背を向けてしまった。こうなってはヒックスは手ぶらで帰らざるを得ず、決まり悪そうに小さく口の中で了承を呟いて、部下達と共に引き上げた。


 ファルシオンの寝室に戻ると、暖炉に踊る火の暖かさにほっと息が零れる。
「ファルシオン様、明日もう一度、シルマン殿と私と、お話をいたしましょう」
 そう言いながらハンプトンは寝台に掛けられていた毛布を捲り、そこに横たえてあった熊のぬいぐるみの姿に眼を丸くした。微笑ましいその手口に笑みを浮かべてジェイクを差し出しながらも、寝台に上がったファルシオンをたしなめる。
「このような行為はなさらないと、お約束ください。先ほども心臓が潰れそうになりましたが、もし知らずにこれを見たらそれこそ全員の心臓が止まってしまいます」
「――ごめんなさい」
 ファルシオンは瞳を伏せて、ジェイクの手を握っている。
「――」
 ファルシオンが何をそれほどに思い悩んでいるのか、それがどうラナエと関係があるのか、ハンプトンは問うべきかどうか、暫く迷って幼い王子を見つめた。
「――ファルシオン様」
 ファルシオンは俯いたまま、小さな声で呟いた。
「ラナエは、レオアリスのところに行くの?」
「……それは、貴方様がご納得なさってからですが、ラナエの為にも」
「ラナエの、兄上は?」
 その言葉に、ハンプトンはそっと息を飲み、ファルシオンの俯いた顔に視線を注ぐ。
 イリヤがどのような存在なのか知る由もないハンプトンは、ラナエの兄が捕まったという事がファルシオンの心を悩ませているのだと、そう思った。
 ヒックスはキーファー子爵家が西海と繋がりがあって、それで捕らえられたのだと言っていた。西海などという恐ろしい内容では、ハンプトンにはキーファー子爵家の行く先は暗いものに思われたが、ファルシオンにはそうは告げられなかった。そっと首を振る。
「それは、私もはっきりは判りません。ただ、何も罪が無ければ、いずれちゃんと、ラナエの傍に戻ってきます」
 俯いたファルシオンを元気付けるように、ハンプトンは小さな手を握り締めた。
「けれど、どうであろうと、ラナエはちゃんと、大将殿が保護してくださいます、ですから――」
「レオアリス――」
 ファルシオンは顔を上げ、ハンプトンを見つめた。
「レオアリスを呼んで」
「――ですが、あの方にも」
 例えレオアリスであっても、ラナエを保護するまではできても、キーファー子爵家の処遇にまでは口出しはできない。その言葉を、ハンプトンは飲み込んだ。
 ファルシオンはその黄金の瞳に、強い光を浮かべている。
 ハンプトンが言葉を尽くして説明するよりも、レオアリスと話をした方がファルシオンは落ち着くのだろうと、そう思ってハンプトンは頷いた。
「判りました。明日、お呼びいたします。ですからどうか、今日はもうお休みください」
 ハンプトンの瞳に嘘がない事を見て取り、漸くファルシオンは納得したのか、毛布に潜り込んだ。



前のページへ 次のページへ

TOP Novels



renewal:2009.2.28
当サイト内の文章・画像の無断転載・使用を禁止します。
◆FakeStar◆