四
司法警護部副官のヒックスから漸く、第一大隊に状況の報告が入ったのは深夜も近かった。使者が携えてきた書状にざっと眼を通し、ロットバルトはまず軽い呆れの篭った溜息を吐いた。
「司法警護の副官が、通常任務の範囲も遂行できないのか」
司法警護部で身柄を引き受けるのが、正当で且つ、近衛師団が前面に出すぎない順当なやり方だ。正当な範囲での引き受けが出来ないのでは話にならない。
「どうなったんだ」
ロットバルトが寄りかかっている執務机に手をつき、レオアリスは書状を覗き込んだ。
「暫く身柄の引き受けは難しくなりました。殿下がお止めになったようです」
弾かれるように、書状から視線が上がる。机の上に置かれた右手が、握り締められた。
「殿下が――じゃあ、ラナエ・キーファーは」
「まだ居城に」
レオアリスはロットバルトが差し出した書状にもう一度目を通した。記されているのは言い訳じみた内容ばかりだったが、レオアリスはそれを読んで納得したようだ。
互いの表情の中にあるのは、同じ一つの結論だ。レオアリスは溜息とともにそれを口にした。
「――殿下はもう、イリヤの事をお知りになったのかもしれないな」
書状には、ファルシオンが司法警護部の請求を退けた理由までは記されていなかったが、ファルシオンが知ってしまったのだろうとは予想ができた。
「早めに手を打ちたいところでしたが……師団が前に出ず、というのはもう難しいですね」
それを聞きながら、レオアリスは執務室の窓の外へ視線を逃がした。
結局、周囲がどれほど口を閉ざそうとしても、動き出した事実は速度を増していくばかりだ。
雪の坂道を転がる玉のように、速度と質量を増していくそれを、止める事ができない。
いずれ砕けるその欠片がどこへ散るのか――。
厳しい眼差しの横顔を一度眺め、ロットバルトが声音を低くする。
「司法警護部が引き受けられなかった以上、殿下には直接貴方が引き受けるとお伝えした方がいいでしょう。殿下のお耳に入る前にという条件は変わりましたが、それでも尚、西海がどう出てくるか判らない状況でラナエ・キーファーを居城に置いておく危険性の方が今は重要です」
ファルシオンがラナエの引き渡しを止めた事で、事態は大きく変わり始めている。近衛師団が前面に出ない、などという悠長な事を言っている場合ではなくなって来ているのは確かだ。
ロットバルトは書状を畳んで机の上に置き、席を立った。
「明日、私から殿下にご説明し、ラナエ・キーファーの身柄を引き受けます」
レオアリスは窓の外に視線を投げたまま暫く考えていたが、首を振った。
「――いや、俺からご説明する」
「しかし」
ロットバルトはいつもの冷静な面に、僅かな懸念の色を宿した。それを見て、レオアリスが苦笑を浮かべる。
「お前ほどじゃないにしろ、俺にだって説明くらいはできる」
「そういう事では」
ロットバルトが懸念しているのは、レオアリスではファルシオンに対して説明する上で、感情を差し挟まず事務的に処理するのは難しいだろうという点だ。レオアリスはイリヤについての対応で揺れている上に、元々キーファー子爵家を抑える指示を下したのは、レオアリスの本意とは違う。
もしファルシオンがラナエから、彼の兄がイリヤだと聞いていた場合、いや、聞いていなかったとしてもレオアリス自身が事実を知っている以上、それを抑えてファルシオンと対面しなくてはいけない。
レオアリスもまた、ロットバルトが何を懸念しているか想像はついていたものの、それを押し切るように僅かに声を強めた。
「それに近衛師団大将として、俺には説明責任がある」
レオアリスの顔を見つめ、一呼吸置いて、ロットバルトは頷いた。
「――失礼しました、確かに貴方の仕事だ。しかし、状況からして殿下がご納得されない可能性は高いでしょう。その場合は、陛下に申し上げるほかありません」
例えファルシオンが幼く、また事情を把握してはいなかったとは言え、それは第一王位継承者の言葉だ。一旦王子が退けたものを覆す事は容易ではない。ファルシオンが引き渡しを受け入れなければ、それ以上は王の勅旨に拠る他はない。
「そうだな」
頷いて、それからレオアリスは壁に掛かった近衛師団旗を見上げた。
王の判断、それが、どうなるか――。
早ければ明日には、イリヤの処遇は決まる。
レオアリスは心の中では、イリヤは王と会う事ができるだろうと、既にそう考えていた。
けれど、全く懸念がない訳ではない。
王へはアヴァロンを通じて経緯を報告しているが、肝心な事は伝える事ができていないままだ。
アヴァロンに報告した時、師団総将は西海の使隷の捜索を指示したが、イリヤについては一言も触れなかった。触れない事でレオアリスに対し、口を閉ざせと示してみせたとも言える。
(王は――。いや)
ゆらりと視界の端が揺れて室内が少し暗くなり、レオアリスは顔を上げた。ロットバルトが部屋の四隅に置いてある燭蝋の一つに覆いを被せ、消したところだった。
「これ以上は明日にならなければ動けません。今日はもう休むべきです」
「ああ――そうしよう」
思考を振り切るように頭を振って、レオアリスは執務室を出た。
冴え冴えとした月明かりに照らし出され、ただ噴水の音だけが途切れる事無く響く中庭は、凍るように冷たい空気に覆われている。けれど身を引き締める空気は、レオアリスにとって心地よく感じられるものだ。
冷えた空気が思考を結晶させ、形作っていく。
レオアリスは王城が聳えている方角の夜空を眺め、息を吐いた。
「青い、花――」
夜の冷気の中に吐き出された息は、あの花のような結晶になって、青く凍り付く気がする。
「――」
「上将」
振り向いたレオアリスの視線を、ロットバルトの蒼い瞳が捉える。そこに浮かんでいるのは警告の色だ。
口にすべきではないという一点では、今もロットバルトの考えは変わってはいないし、レオアリスもそれは理解している。
「――判ってる」
言葉にも出してそう言い、ただ奥底にある思いは飲み込むように頷いて、レオアリスは回廊を出口へ向かった。
翌日、レオアリスが面会の申請の為に王城へ向かおうとしていた時に、見計らったかのようにファルシオンからの招命が届いた。
驚くというよりは、やはり、という思いが浮かぶ。だがロットバルトにはああ言ったものの、ファルシオンにこの件をどう説明したらいいのか、まだ少なからず迷いがあるのは自分でも判っていた。
ファルシオンはおそらく、兄に会いたいと、そう言うだろう。
そして、イリヤはレオアリスに対して、自分が王に会えるようにと望んだ。
もし、それを二つとも叶える事が可能なら――。
(そんな感情論で動ける事じゃない)
そうして同じ思考を幾度も巡らせ、その振れる方向が定まらない内に、居城の入口に到着してしまった。
息を吐き、白く高い両開きの扉を潜る。
いつものようにファルシオンの侍従に案内され、長い廊下をファルシオンの待つ館へと向かう間、目にした侍従達の顔は昨夜の一件からか、みな心配そうに沈んでいた。
ファルシオンの部屋の扉の前に、ハンプトンの姿がある。真っ直ぐに顔を上げ、廊下を歩み寄るレオアリスに静かに頭を下げた。
「お呼び立てして、ご迷惑をおかけします」
「いえ、全く問題はありません。……殿下は」
品のいい眉根に憂慮と僅かな疲労を見せながら、ハンプトンはそっと言葉を零した。
「昨晩から――、いいえ、一昨日の晩からずっと考えておられたのですね。ラナエの言った事で……」
レオアリスは他人には判らないほどだが息を飲み、ハンプトンを見つめた。
「ラナエ・キーファーが何を言ったのかは、お聞きになりましたか?」
ハンプトンは首を振った。
「ファルシオン様は、お話しくださいません」
それを聞いて安堵したのは、あくまでこの件は、周囲に対して事実と違う面を見せておかなければいけない為だ。
王が、判断するまで。
それまでの間だ。
扉を開こうとして、ハンプトンが手を止める。
「大将殿、ラナエはどうなりましょう」
ハンプトンにしてみれば、ラナエは幼い王子の心を騒がした相手でもあり、忸怩たる想いがあった。その一方ではやはり、まだ十六の若い娘が軍に身柄を押えられるという事への心配も強い。
今朝、ハンプトンがラナエを再び訪ねた時も、彼女は泣き腫らし打ち拉がれて、ハンプトンの問いかけにもただただ詫びるばかりだった。
そして、どうか自分も、赤の塔に入れてくれ、兄や父の傍に行かせてくれ、と、手をついたまま繰り返した。
その姿が痛々しく、叱責の言葉も喉に上がる前に消えてしまった。
父も兄も投獄され、ラナエにはもう帰る場所もないのだ。
「まさかラナエも、牢獄に……?」
けれど、レオアリスが頷いたら、ハンプトンはその足でラナエに知らせに行っていたかもしれない。だが幸いにか、レオアリスはそれを否定した。
「彼女は特に何か罪を犯した訳ではありません。保護という意味合いが強いのですが、それでも居城に置いたままにはできませんから」
「そう、ですね……」
自分の微かな落胆をハンプトンは戒めた。例え本人がそれを望んだとしても、十六歳の娘が牢獄に入っていい訳が無い。
近衛師団で保護をするのが、今の段階では一番いいとは、ハンプトンも思っている。西海の事も心配の一つだが、この若い大将ならばラナエの身を慮った対応をしてくれるだろう。
そしてファルシオンがこれ以上、ラナエの言葉に引き摺られる前に、ラナエを居城から出す必要もあった。
『ラナエの兄上が』
その言葉は、明確な理由の判らないままに、ずっとハンプトンに不安を与えていた。
ハンプトンは少し伏目がちに、今朝の事を思い浮かべた。ファルシオンは朝起きてすぐレオアリスを呼ぶように言い、そして、それだけでは落ち着かず、手紙を書いたのだ。
まだつたない文字の、想いを込めた手紙だ。
「……ファルシオン様は、陛下にお会いになろうとされたのですが、今日は陛下のお時間がいただけず」
「陛下に?」
レオアリスは息を潜めたが、ハンプトンはそれには気付かず、心細そうに頷いた。
「ラナエを連れていかないようにと、お願いをされたかったのです。お手数もお書きになって」
「陛下は、それをお読みになったのですか?」
「陛下の侍従長はそのようにおっしゃっていました」
「――」
ハンプトンとしては、できるなら王からファルシオンに、ラナエを近衛師団に預けるように諭して欲しかったというのが本音だ。
一方でレオアリスには、王がファルシオンの手紙を読みながら会おうとしなかった事の方が引っ掛かった。
ハンプトンは会話を区切るように頭を一つ振り、申し訳なさそうに微笑んでみせた。
「愚痴のような事を申し上げてしまい、失礼いたしました。――ファルシオン様、大将殿がおいでです」
押えがちな呼び掛けに、「入って」と、打ち返すように返事が返る。
ハンプトンが扉を開くと、白い陽射しに溢れた部屋の窓際で幼い姿が立ち上がった。
「レオアリス――」
レオアリスの姿を認めたファルシオンの表情には、不安と戸惑いと、そして期待が交じり合っている。レオアリスは呼吸を整え、一歩部屋の中に足を踏み入れた。
「殿下」
跪こうとしたレオアリスに駆け寄り、ファルシオンは腕を一杯に伸ばしてぎゅっと抱きついた。
その姿に兄を想うファルシオンの心が強く現われているようで、ハンプトンは何も言えずに二人を残して扉を閉ざした。
レオアリスが跪くと、ファルシオンは小さな手をその身体に回して、彼の肩の辺りに頬を押しつける。レオアリスは手を上げて、まだ柔らかい髪を撫ぜた。
ファルシオンは暫くそのままじっと動かず、泣いているのかと思ったが、やがて上げた瞳には確かに揺れる感情の他に、息を飲むような強い意思の光が浮かんでいる。
跪いたレオアリスの肩膝に手を置き、切迫した、もどかしそうな声で、ファルシオンは口を開いた。
「レオアリス――ラナエをつれて行かないで」
「――」
レオアリスは唇を引き結び、ファルシオンの黄金の瞳を見つめた。
答えないレオアリスに焦れるように、ファルシオンはもう一度、同じ事を繰り返した。
「ラナエをつれて行っちゃだめだ」
息を吐き、レオアリスは静かに問いかけた。
「何故ですか?」
「だって、ラナエは」
そこまで言いかけて、ファルシオンはレオアリスの背後の扉をちらりと眺め、更に声を潜めた。
(――)
驚きを覚えたのは、ファルシオンがそれを秘密だと理解しているという事と、それ以上に、不安に満ちた表情の中に、一つ、全く異なる感情があったからだ。
いや、それこそが、当然一番に、ファルシオンにあるものなのかもしれない。
喜び――。
「ないしょだぞ」
ファルシオンは自分の目線の位置まで降りてきているレオアリスの瞳を見つめ、大事な事を告げるように、そっと口を開いた。
「私には、もう一人、兄上がいるんだ」
予想していても尚、その言葉に息が詰まった。動揺を悟られなかったかどうかファルシオンを見つめたが、ファルシオンはレオアリスがただ驚いただけだと思ったようだ。
「ほんとうなんだ」
真摯な口調で、ファルシオンはそう言った。
再び、今度はもっとはっきりと込められた喜びに、レオアリスは束の間躊躇うようにファルシオンを見つめていたが、やがてゆっくり息を吐いた。
ファルシオンがどこまで知っているのか、確かめなくてはいけない。
「もう一人……殿下、それはどういう事ですか?」
答えるファルシオンの言葉には、迷う様子がない。
「ラナエの兄上が、私の兄上だって」
頬を強張らせ黙り込んだレオアリスを見て、信じていないのだと思ったのだろう、ファルシオンは少しの不満も含め、訴えるようにレオアリスの服を握る。
「うそじゃない。ラナエがそう言ったんだ――私の兄上は生きてるって。ラナエの兄上なんだって」
瞳は先ほどまでの不安をすっかり塗り替え、それを聞いた時の驚きと、兄がいるのだという興奮に、きらきらと輝いている。
「生きてるんだ、レオアリス、私の兄上が」
幼い声に乗せられた喜びの響き。
「すごいだろう?」
レオアリスも喜んでくれるだろう? と、瞳が瞬く。
レオアリスは幼いその顔を見つめた。
ファルシオンはラナエが言った言葉を信じきっている。まだたった四歳の幼い子供なら、それは仕方のない事だとも言えた。
そしてラナエの言葉を、補強している、希求。
兄への、ファルシオンの強い思慕だ。
「――」
この場でそれは嘘だと、そう答えるのは簡単だ。
そして立場上、そう言わなければいけないのは判っていたが、レオアリスにはすぐそれを口にする事ができずにいた。
ファルシオンの希求とは色を異にしたとしても、レオアリスの中にも確かに、ある種の期待があるからだ。
「……それで、ラナエ・キーファーを連れていくのを、お止めになったのですか?」
「だって、ラナエは、兄上をたすけてほしいって言った」
がつんと頭を殴られたような、そんな感覚があった。
その感覚を更に追い打つように、ファルシオンの言葉が零れる。
「レオアリス――、兄上を、たすけて」
「――」
息を飲み、唇を噛み締める。
事態の進む速度に、眩暈すら覚える。
(駄目だ)
ラナエの言葉は間違っていると、そう言わなくては、ファルシオンはただそれだけを見て、他の事など判らなくなりそうに見えた。
今はそう告げる事が、近衛師団大将としての、レオアリスの役割だ。
「殿下、お聞きください。――ラナエ・キーファーが兄上と言ったのは……」
何と言って説明すべきだろう。
イリヤの存在を隠そうとする経緯、そしてもう一人の兄がいるという事がどのような意味を持つのか、それを幼いファルシオンに理解しろと言う方が無理がある。
もう一人の兄について――イリヤについては触れてはいけないものだなどと、ひたすら兄を慕うファルシオンにどう説明すればいいのか。
だから告げるとすれば、ラナエの言葉は真実ではないと、全てを否定しなければいけない。
ファルシオンの期待、喜び、全てだ。
躊躇っている間にも、レオアリスの膝に載ったファルシオンの小さな手が、ぎゅっと軍服を握り締める。
「ねえ、レオアリス、兄上をたすけて」
「それは――」
「つかまってるんだって。でもきっとまちがいなの」
レオアリスの思惑など知らずに、ファルシオンの瞳が真っすぐ、不安と――期待に満ちて、レオアリスの視線を捉える。
「きっとみんな、兄上だって知らないんだ」
鼓動が跳ねるように音を立て、レオアリスは揺れそうな身体を抑える為に力を込めた。
「レオアリス」
見上げてくる、ファルシオンの瞳。
反らしがたい金の瞳は、父王のものでもあり、イリヤのものでもある。
イリヤと、――王の。
レオアリスが剣の主と定めた、王の金の瞳。
「父上に、おはなししようと思ったんだ。でも、父上は今日いそがしいっておっしゃって、お会いできないの」
寂しげで悔しそうな響きの言葉の中の、王の名に、レオアリスは思いから引き戻された。
「おてがみをかいて、兄上のことをきいたのに」
「陛下が……」
それはハンプトンも言っていた。そして、その手紙の中で、ファルシオンは兄の事を、父王に聞いた――
「――」
ファルシオンの手紙を読んだ上で会わなかったのなら、王はイリヤの事をファルシオンと話すつもりはないのだ。
少なくともこの時点では。
ファルシオンは食い入るようにレオアリスを見つめている。そこに浮かぶ無条件の期待と信頼が、はっきりと伝わってくる。
「だからレオアリス、兄上をたすけて」
レオアリスなら望みを叶えてくれると、ファルシオンはそう信じている。
爪が食い込むほど手を握り締め、レオアリスは顔を上げた。
「できません」
ファルシオンの瞳が、色を失ってさ迷う。ファルシオンに真っ直ぐ面を向けたまま、表情を崩さないように、レオアリスは更に拳を握り込んだ。
「できないって……、なんで――? だって、だってレオアリスは剣士じゃないか」
戸惑い、混乱して、ファルシオンは立ち尽くしたままレオアリスを見つめている。
ふと、屋外の冷えた空気が二人の間にだけ、流れ込んで来たように感じられた。けれどその冷たさに怯んで退く事はできなかった。
王はまだ、その考えを明らかにしていない。王の決断が下る前に何かが起きれば、取り返しのつかない事になる可能性もある。
「王子である貴方が、無理にそんな事をなさってはいけません」
「でも、」
「キーファー子爵家が捕らえられたのは、相応の理由があったからです。いずれ解放されるにしても、正当な手続きのもとでなくてはいけないんです」
ファルシオンは俯いて、唇を噛み締めている。
「――殿下、」
「レオアリスは、私が兄上に会えなくてもいいんだ」
打ちひしがれた、いや、裏切られたような声に、判っていてもやはり、レオアリスは言葉を失った。
暫くファルシオンは黙って足元を見つめていたが、やがてとても小さな声で呟いた。
「……もういい」
「殿下、」
「兄上は、私がたすける」
「それは駄目です」
ばっと顔を上げ、ファルシオンはレオアリスを睨み付けた。
「何で! もうレオアリスにはかんけいないっ」
「いいえ、俺にも関係があります。王や貴方をお守りするのが俺の役目――」
「そんなの、しらない!」
どん、とレオアリスの肩を押し、ファルシオンは一歩、彼から離れた。
「殿下」
床に片手をついて揺れた身体を支えながらも、レオアリスは強張ったファルシオンの顔に真っ直ぐ瞳を向けた。
ラナエの身柄の引き受けとは別に、もう一つ、ファルシオンに言わなければならない事が、レオアリスにはある。
器用に隠せばいいだけかもしれないが、いずれ判ってしまう話だ。
「キーファー子爵家を――ラナエ・キーファーの兄を捕らえたのは、俺です」
驚きに瞳を見開いて――ファルシオンは後退った。
面に浮かんでいるのは、まるで見知らぬ者を見るような、そんな眼差しだった。
「――なんで」
視線という形の無いそれが、確かな存在感を持って痛みを生じさせるものなのだと、そんな事を漠然と思いながらも、レオアリスは言葉を続けた。
「近衛師団大将として、そうする事が必要だと判断したからです」
近衛師団が動いた以上、その意思は、レオアリスの意思だ。そして、王は近衛師団の判断を否定しなかった。
「だから尚更、その行動を崩すような事はできません。それは俺ではなくても、同じ事です」
ファルシオンはレオアリスをまじまじと見つめ、今度ははっきりと、彼の傍から離れた。
「ラナエ・キーファーの」
「出ていけ」
零れたのは、明確な、拒絶の響きだった。
だがレオアリスはなお、片膝を付いたまま背筋を伸ばし、言葉を継いだ。
「殿下、ラナエ・キーファーを第一大隊で預かる事をご了承くださいませんか。このままここにいる事は、彼女にも貴方自身にも、余り安全とは言えません」
「だめだ!」
「――では、陛下に許可を戴きます」
その言葉にファルシオンが押さえ込んでいたものが、弾けるように吹き出した。
「でてけったら!」
ファルシオンはそこにあった水差しを掴んで、投げ付けた。
闇雲に投げたそれが、一直線にレオアリスの肩に当たり、砕ける。
繊細な硝子細工のそれは身を傷付ける事さえ無かったが、軍服と床を水で濡らした。
息を飲んだのはファルシオンの方だ。
「あ――」
けれども湧き上がった様々な感情をどうしていいか判らず、ファルシオンはその場に立ち尽くし、俯いた。
「ファルシオン様、今の音は……」
扉を叩く音とともに、扉の向こうからハンプトンの声がかかる。ファルシオンはびくりと肩を震わせ、さっと顔を背けた。扉が開き、床の上に砕けた水差しと二人の様子を眼にしたハンプトンは、両手を上げ、胸元を押さえた。
「ファルシオン様……大将殿、一体」
「しらない!」
顔を伏せ、レオアリスの方を見ないようにしてそう言うと、ファルシオンは身を翻し、隣の寝室へ駆け込んだ。
ばん! と彼らの間を切り離すように、激しく扉が閉ざされる。
「ファルシオン様――!?」
青ざめた顔で、ハンプトンはレオアリスを振り返った。レオアリスの表情と、彼の軍服の右肩がびっしょり濡れているのを見て、頬を強張らせる。
「大将殿、一体」
レオアリスは一度扉を見つめ、それからハンプトンに頭を下げた。
「すみません……殿下を怒らせてしまって」
「そのような――」
首を振り、だがハンプトンはすぐに、第一王子の侍従長の立場に相応しい落ち着きと対応を取り戻した。壁際に置かれていた低い台の抽斗から布を取り出し、濡れた軍服の上を押さえる。
「とにかく、別室でお召し替えを」
「いや、このままで結構です。――すぐ乾きますから。それより、ラナエ・キーファーについてですが、私が上手くご説明できずに、殿下のご許可をいただく事ができませんでした」
「では」
「陛下にご説明し、ご許可を戴くつもりです」
レオアリスの面に浮かんでいる厳しい表情に、自然とハンプトンは背筋を伸ばした。
「彼女の身柄を引き受けるまで、殿下が会話をされる事のないように、どうぞお気をつけください」
ハンプトンはレオアリスの瞳を見つめ、おそらく幾つも浮かんでいる疑問を胸の中に収めて、静かにお辞儀をした。王子を守る事、それがハンプトンの役割で、キーファー子爵家に関わる事は近衛師団と、そして王に委ね口を挟むべきではないと、この古参の侍従はよく理解している。
「――承知いたしました」
レオアリスは目礼して、廊下へ出た。扉を閉ざす前に、ハンプトンが奥の扉を叩いてファルシオンに呼びかける声が聞こえた。
「だれも入ってくるな!」
耳を刺す、悲しみと憤りに満ちた声が返る。扉を閉ざし、その前に立ち止まって、レオアリスは床に視線を落とした。
ファルシオンにとっては、裏切られたと、そう感じているだろう。仕方ないと判っていても、その想いがありありと表れた瞳を見るのはやはり少し辛かった。
できるなら、ファルシオンの望みを叶えてやりたい。
そんな考えが簡単に浮かび、ぐっと両手を握り締める。
(……それは、王がお決めになる事だ)
その考えに蓋をして、レオアリスは振り切るように一つ、息を吐いた。
ファルシオンは寝台に飛び込んで、柔らかな枕に顔を伏せた。
レオアリスなら、ファルシオンの願いを聞いてくれると思っていた。
あんなに冷たく、笑いもしないで駄目だと言われるなど、全く想像もしていなくて、それがすごく悔しくて、悲しくなった。
「もういい……」
レオアリスも、父王も、ファルシオンの話を聞いたらきっと、兄をすぐ助け出し、ファルシオンに会わせてくれると思っていた。
それなのに、父王は会ってはくれず、レオアリスはファルシオンの願いを聞いてくれない。
「きらいだ。父上もレオアリスもきらい」
一緒に、喜んでくれると思っていた。
「だいっきらいだ」
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