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王の剣士4 「かりそめの宴」
【第三章 「癒えぬ思い」】


 正午を半刻ほど過ぎてロットバルトが第一大隊の士官棟に戻った時、執務室内にはレオアリスの姿は無かった。執務室内にいるのはグランスレイだけだ。
 グランスレイは帰るなり眉を顰めたロットバルトの様子に、彼が何を心配したのかすぐ想像が付いたのだろう、安心させるように笑みを浮かべた。
「公とご一緒だ。昼食をお取りになると言ってハヤテを連れて行かれたから、戻られるのは夕刻近くになるだろう」
 昼食を、と言いつつも、グランスレイは既にその後の行動も勘定済みだ。
「公と? ああ、最近さすがに、時間がありませんでしたからね」
 ロットバルトも頷いて、最後の方は声におかしそうな響きを滲ませた。基本的に彼等の公休と言われる休暇は月六日ほどある。ただこの一ヶ月というものレオアリスは何かと忙しく、アスタロトとも出かける事が少なかった。ハヤテも一緒ではグランスレイの言う通り、帰りは遅くなるのだろう。
 ロットバルトが外套を脱いでそれを扉の横に掛けている間、グランスレイは書類を手に取り、眼を通しながら話しを続けた。
「ただ、戻られたらお前の話を聞きたいと、そう言っていた。朝の件でな。気にされていたぞ」
「――」
 当然、何か反応があるだろうと思っての言葉だったが、ロットバルトは不自然に黙っている。グランスレイは書類に落としていた瞳を上げた。
「どうかしたか」
「いえ――」
 ロットバルトは自分の執務机の横に立ち、瞳を細めたまま、視線は壁に掲げられた近衛師団旗に向けられている。グランスレイは重ねて問おうとはせず、その様子を黙って見つめた。
 師団旗に向けていた視線を戻し、ロットバルトはグランスレイに向き直った。
『近衛師団にも、一言も口にしてはいけません』
『例え何もご存知なくとも、王都を騒がす事態には、近衛師団として迅速に対処して戴く必要がありましょう』
 突き付けられた相反する二つの条件をどう成立させるか。
「副将。イリヤ・キーファーの件、判断を全て、私に一任して戴けますか」
 グランスレイが眉を上げる。
 かなり大胆な依頼だとは、その表情から見れば判る通り、口にしたロットバルト自身理解しているようだ。それを見て取り、手元の書類を閉じてグランスレイは身体ごと参謀官に向けた。
 朝のあのやり取りの後では、ロットバルトはレオアリスと話をするつもりでいたはずだったが、今の言葉はそれを一足飛びに飛び越している。
 そして、「西海」ではなく、「イリヤ・キーファー」について、全権を委任して欲しいと言った。
 レオアリスにではなく、グランスレイに。
 単にレオアリスが不在だから、まずグランスレイに言ったという訳ではないだろう。
 副将であるグランスレイまでの判断を求めている――要はグランスレイまでで判断を止めたいという事だ。
 その結果生じる責任を負うのは、ロットバルト自身であり、許可を与えるグランスレイであり、大将であるレオアリスには預かり知らぬ事にしたい、と、そういう事なのだろう。
「――何がある、イリヤ・キーファーに」
 ロットバルトはグランスレイの薄い緑の、謹厳さと知性を宿した瞳を見つめた。
 意図は伝わっている。ここで組織としての対応を検討できれば話は楽だが、グランスレイにさえ、事の全貌を説明する訳にはいかないのが現状だ。
「……スランザール公は、触れるなと仰いました」
「――」
 グランスレイは太い眉を上げ、内容を吟味するように腕を組んだ。暫くは窓の外の樹々の騒めきばかりが聞こえていたが、やがてグランスレイの低く問いかける声が騒めきを消した。
「触れるべきではない状況下で尚、隊を動かす必要があると考えているのか?」
「判りません。ただ、口も耳も目も塞いだ状態で、対応せざるを得ない部分が出てくる可能性はあるかと」
「――上将に説明できる範囲のものはあるか」
「そうですね――。考えます」
 ふざけた発言のようだが、瞳には鋭い光がある。
 説明はできない。その説明を成し得ない中で、間違わず、停滞なく対応しなければならない事がある、とロットバルトは考えているのだ。
 それを読み取り、グランスレイは組んでいた腕を解くと頷いた。
「お前に任せよう」
「有難うございます」
 珍しく、ロットバルトはほっとした表情を浮かべた。その事が想定される事態の深刻さを、より物語っているとも言える。
「お前の危惧が現実のものにならないといいが」
 ロットバルトは頷き、机を回って椅子に座りかけて、ふと立ち止まった。
(危惧?)
 その言葉に引っかかりを覚えたのだ。
 果たして、何を以って今、自分はイリヤの存在、そしてこの状況を危惧すべきものと考えているのか。改めて考えれば、今抱いている危惧は、イリヤの過去、ファルシオンの言葉、そして術士の言葉、それらから漠然と感じているものに過ぎず、突き詰めれば、実体がない。
 まだイリヤの目的は明らかではない。不自然な養子縁組という形を取って王都に上がって来ている以上、そこには何らかの目的があるのだろうが――それを危険なものと単純に判断できるほど、ロットバルトにイリヤに対する理解がある訳でもない。
 ロットバルトは顔を上げた。
「今更、それを言うのか……」
 呟きを聞き取ったグランスレイが、執務机の向こうから訝しそうに視線を寄越す。
「何だ?」
『このお話、貴方の胸の内一つにお収めくださいますね』
 術士はあの時、まず初めにそう言った。
 ロットバルトは確かに、イリヤ・キーファーの、王家の伏せられた過去に触れただろう。
 口止めで済んだのは幸いだが、逆にこれほどの事実を前に口止めだけとも言える。
(いや、違う。俺の考えている方向が)
 目の前にある「事実」に引き摺られないよう、慎重に軌道修正をしなければならない。
 まずひとつ。それ・・を知っているのは既にロットバルトだけでは、無い。
 ラナエ・キーファー、おそらくはキーファー子爵。一部だけとは言え、ファルシオンにも不確かながら兄という存在は教えられている。
 そして、イリヤ本人。
(――何故今更口止めなんだ?)
 今更、黙っている事に、どれほどの意味があるのか。
 イリヤが王都にある事は、既にスランザールも、王その人も知っている。
 危険性があると考えているが故に事実を封じ込めようと言うのなら、公然とであれ、秘密裏にであれ、王から近衛師団へ、イリヤに対する何らかの下命があってもおかしくはない。
 ロットバルトは一度扉へ瞳を向けて、それが開く気配のない事を確認してから、グランスレイを見た。
「副将、何らかの事実を隠す場合、その目的として何が考えられますか?」
「隠す?」
 唐突な問いに、グランスレイは訝しそうに繰り返した。
「例えば、十七年前の、北の一件。あの時貴方は全てを知っていながら、口を閉ざしていた。何の為に隠していたか」
 グランスレイは気まずそうに眉を寄せた。同じように扉を確認してから、気が進まない様子ながらも、口を開く。
「上将が真実を知る事で、万が一にも過去の事態が再燃する事を避けたかったのだ」
「――」
「そして当然、第三者に知られれば、上将の立場は難しいものになる。あの過去が払拭されるまで、どれほど時間が掛かっても、事実は伏せておくつもりだった」
 ロットバルトはこつりと一度、指先で机の上を叩いた。
 過去を知って、再燃するもの。
 もし、王家とは無関係のところで暮らしていた者が、自らが王家の血統だと知った場合、非常に単純に考えた場合の、「彼」の望むものは想定できる。
 王位、王位継承権、あるいは血統という自らの正当性の復活。
 その存在を危険性という観点から捉えれば、自らが正当な世継ぎだと主張する為に、武力を用いてその正当性を強行に突き付ける、というやり方は、非常に慎重さを欠いた不確実なものではあるが、一つの手段として考えられる。
 ただキーファー子爵家は私兵を有さず、所領の警護は、その地域一帯を管轄する正規軍が担っている。そうした状況下で王家に近付くには、有力な協力者を見つけるか、兵力に寄らない別の手段を取る事を考えるだろう。
 確実に、自分を王に認めさせる為には。
(違う)
 思考が再び引き摺られているのに気付き、もう一度、ロットバルトは思考を引き戻した。
 そこは上辺だ。ロットバルトが漠然と危惧として捉えていた部分であり、術士がロットバルトに伝えた部分。
 いわゆる「王族としての地位復権の要求」は、現実に最も起こり得るもので、イリヤの目的もそこにあるのだろうと想定はできるが、今明確にすべきはそこではない。
 胸の内に収め、一言も洩らしてはならないと、この段階に至って尚求める理由こそが、全ての根源だ。
 イリヤがどう動くかそのものではなく、ロットバルトのような、第三者がそれを知った場合に初めて意味を持つ。
 この一件は、そう――
 事実の秘匿をこそ、最大の目的にしているように見える。
 イリヤという存在を、伏せる事を。
 思考の網に引っかかったそれを掴み、ロットバルトは落としていた視線を上げた。
(――何故……イリヤ・キーファーは今、生きている?)
 イリヤが生きているという事は、あの事件の処理に、重大な過失があった事に他ならない。
 誰かが、第二王妃を逃がした――
 すうっと、腹の辺りが冷える。
(何故、こんな簡単な事に気付かなかった)
 身篭っていた第二王妃にまで死を齎した、あの事件の非情なまでの結末は、そうする事で王家の威光を示し、同時に未来に於いて同様の事態を起そうとする考えを徹底的に封じ込める為のものだ。
 王の指示のもと、全てが迅速に、粛々と行われたはずだ。そこに過失の存在は許されない。
 収束までの二日。
 誰も、余計な手を加える事のできない迅速さ。
 誰一人、余計な事は考えず、事態の進行の速さと、その結末に愕然とする他はなかった、たった二日間の出来事。
 判決後の報告書には、首謀者であるウィネス男爵家と並んで、第二王妃の処刑実行が明記されている。
 にも関わらず、イリヤは現実に、生きている。
 それは誰かが、あの一部の隙もない迅速さの中で第二王妃を逃がし、あたかも処刑が実行されたかのように報告書を作成し、それを以って第二王妃の死を公然のものとしたという事だ。
 では――第二王妃を逃がしたのは。
 ロットバルトは、ごく微かに呟いた。
「――王」
 触れるな、とは。
 砕けた欠片が一つになるように、はっきりとした形が、見えた。
「そういう事か」
 がん! という音を立てて、遠慮の欠片もなく扉が開かれた。
 咄嗟にグランスレイもロットバルトも、剣の柄に手を伸ばす。
「レオアリスはっ!?」
 現れたのはアスタロトだ。開いた戸口に立ちはだかり、深紅の瞳できっと二人を睨み付けている。
 開け放した扉から、中庭に降りた青い飛竜の姿が見える。士官棟の入り口で案内を請わず、いきなり中庭に飛竜を降ろしたのだろう。事務官が慌てて走ってくる姿も見えた。
「――公」
 グランスレイはロットバルトと視線を交わし、手にしていた剣を降ろすと、一礼してアスタロトに近寄った。
「公、どうなさいました。お約束はここではなかったはずですが」
「じゃ、どこ?!」
 間髪入れずに問い返す、と言うより言い返すところに、アスタロトの苛立ちが伺える。陶器のような白く滑らかな頬をぷくりと膨らませているのは、確かに怒っているのだ。グランスレイは状況が見えず、戸惑った様子でアスタロトを見つめた。
「どことは――西外門の辻でと、貴方が」
「いないもん!」
「は?」
 それまで、グランスレイに任せようというつもりでいたロットバルトも、素早く視線を向ける。
「だからぁ、レオアリスのヤツいないんだったら!」
「というと」
「この私を、半刻も待たせたんだぞ!」
「いや、しかし私と演習場で別れた後、すぐにお約束の場所に向かわれたと思いますが。こちらには戻っておられません」
「でも来なかった!」
「……少し落ち着いて話をしましょう」
 平行線を辿り出しているやり取りを切り、ロットバルトは二人に近寄った。
「待ち合わせは西の外門辻、そこに来ていないという事ですね」
「そうだよ。四半刻で戻るって言っておいたのに……そりゃ私の用も半刻ぐらいかかったかもしれなかったし、だからレオアリスもそれ位で来るつもりなのかと思って待ってたんだ。けど、それからもう半刻待ったけど、全然来ないの!」
「――待ち合わせをされた時刻は」
「確か、正午の半刻ほど前だったはずだ」
 アスタロトに代わってグランスレイが時計を見ながら答える。
「一刻」
 ロットバルトはグランスレイの視線を追うように、蒼い瞳を壁際の置時計に向けた。今は既に正午を一刻ほど過ぎようとしている。
「第二演習場に行ってみたけどフレイザーはあの後すぐ出たって言うし、ハヤテもいないし、連絡ひとつ寄越さないし」
「――」
 話す間にも、二人の表情が厳しさを増していくのに気付き、アスタロトは一度口を閉ざし、グランスレイとロットバルトを交互に見つめた。
「……何。何かあるの?」
 アスタロトの顔も、今では憤りの影は失せ、代わりに気がかりそうな表情が浮かんでいる。
「レオアリスが、連絡ひとつ寄越さないで約束破るなんて変だ。だからこっちで何か急用があったかと思って来たんだ。ここじゃなかったら、――どこ」
「判りません」
 返すロットバルトの声の響きは、低い。そのまま扉に歩み寄り、そこに居た事務官を呼んだ。
「ウィンレット事務官」
「中将、何が?」
 アスタロトの飛竜を振り返りながら、事務官、ウィンレットは少し緊張した顔で駆け寄り、踵を鳴らして敬礼した。
「第二演習場へ行って、フレイザー中将に上将の行き先を確認して欲しい。どちらへ行くとは仰っていなかったようですが、飛竜で出ているから誰かしら飛ぶ姿を見ているでしょう。どの方面に飛んだか、それが判った時点で一度報告を。もし演習場にお戻りであれば、急用だと言って至急こちらへお戻りいただくように」
「はっ」
 ウィンレットはきびきびとした動作で再び敬礼し、踵を返して士官棟の出口へと、回廊を走っていった。
「ロットバルト」
 グランスレイが歩み寄る。その顔に浮かんでいるのは、懸念の色だ。
「ハヤテをどこまで辿れるか、まずはそこから調べてみましょう」
「――」
 ロットバルトはアスタロトに顔を向けた。
「公、アーシアをここへ呼んでいただけますか?」
 ここへ、というのは飛竜の形ではなく人の姿で、という意味だと、アスタロトもすぐに理解して頷いた。アーシアを手招き、再び二人を振り返る。
「いいけど……どうするの?」
「一つ、可能であれば彼に頼みたい事があります」
 中庭に居た青い飛竜はアスタロトの手招きに応じてふるりと身を震わせ、十六歳ほどの少年の姿に変わる。それからアスタロトに駆け寄った。
「アスタロト様」
「お前に聞きたいんだって」
 アスタロトがロットバルトを指差し、アーシアは真剣な面持ちでその前に立つと、丁寧に頭を下げた。
「なんなりと」
 この礼儀正しい少年がグランスレイやロットバルトを前に挨拶から始めないのは、今はそうした形式を取っている場合ではないと理解している為だ。
「アーシア、貴方には同族の気配が判ると、以前上将からお聞きした事がありますが」
 アーシアはそれですぐ、何を問いたいのかぴんと来たようだ。少し言いにくそうに首を振った。
「僕が判るのは、限られています。とても強い感情を発している場合だけです」
 ロットバルトは特に失望した様子も見せなかったが、逆にアーシアはもう一つ、自分から提案した。レオアリスが一言もなくアスタロトとの約束を破る事に、アーシアもまた、疑問を抱いていた。
「でも、飛んでみましょうか。もしかしてハヤテが僕を見つけるかもしれない。彼は頭がいいから、聞いていればレオアリスさんがアスタロト様と待ち合わせをしてたのは判っているはずですし……。とにかく、レオアリスさんの行った方向が判れば、その方面を回ってみます」
「それが頼めると有難いな」
「ねぇ、何をそんなに心配してんの? やっぱ何かあったの?」
 アスタロトの問いかけに、ロットバルトは彼等の背後の扉を閉ざした。
「待ち合わせに連絡ひとつなく来ないとは考え難い。何か途中で重要な案件が出たか――」
「術士に探させたら?」
 ロットバルトはふと口を噤み、アスタロトの瞳を見つめながら首を振った。
「――いえ。今の段階で、そこまで大事にしなくてもいいでしょう。そうしている間にも、戻るかもしれませんしね」
「でも――」
 アスタロトの様子は、不安と不満が入り混じっている。ロットバルトやグランスレイは、何か思い当たる節があるのに、それをアスタロトには隠しているように見えたからだ。
「何かあるんなら、私だって」
「有難うございます。ただ、もう少し待ちましょう。行く先が判るか、戻った場合はご連絡差し上げますが、お気にかかるようでしたら、お時間が許せば、隣でお待ちになりますか」
「――居た方がいいの、それとも居ない方がいいの?」
 アスタロトの率直な問いかけに、ロットバルトは苦笑を浮かべた。言外に、アスタロトが帰るように誘導しようと思っていたのは確かだ。例えアスタロトではあっても、極力第三者がいない方がいい状況だからだ。
「では、後でご連絡いたします」
「……判った。アーシアが必要なら呼んで」
 柔らかな唇を引き結んで、アスタロトは執務室を出た。二人にお辞儀してから回廊に出たアーシアが、アスタロトの傍らで首を傾げる。
「僕達だけでも少し探しますか?」
「――」
 アーシアはもう一度、今度は不思議そうに首を傾げた。いつもなら自分から探しに行くと言いそうなアスタロトが、じっと唇を結んだまま黙っている。
「アスタロト様?」
「変だろ。あの二人。特にロットバルトの方」
「変?」
「変だよ。お前には見えなかっただろうけど、私が扉を開けた時、あの二人、剣を取ったんだ」
「剣を……」
 アスタロトの不安がアーシアにも伝わるように、アーシアの鼓動も早まった。
「内心じゃものすごい問題だと思ってんのに、私には大した事なさそうに見せようとしてる。私はレオアリスの友人だし、一応正規軍将軍だぞ、協力なんていくらでもできる」
「一応って」
 アーシアは苦笑を洩らしたが、一方でアスタロトの鋭さに驚きも覚えた。そんな所まで、彼女はあのやり取りの中で考えていたのだ。
「だけど、私にさえ見せたくないものがあるんだったら」
 アスタロトが見上げた空は晴れ渡り、午前中、久しぶりにレオアリスとあそこを飛ぼうと思ったままの色だ。肌を刺す空気の冷たさとは裏腹に、抜けるように青い。
「本当に、私は黙って待たなきゃいけない事態かも」






 深く眠っているレオアリスを部屋に残し、イリヤは再び鍵を掛けて部屋を出ると、書斎に向かった。
 余り時間は無い。彼が眼を覚ますまでの間に、幾つかの事を手早く済ませなければ。
 書斎に入り、養父の机を借りて、便箋を抽き出しから取り出す。キーファー子爵家の紋章が透かし模様で入っている上質な便箋だ。
 墨の壺に筆の金具の先端を浸し、じっとそれに瞳を向けて、便箋にしたためる文面を考えていた。
 自分の心を決める為の、多少の躊躇いも含んだ時間でもあっただろう。
 だがそれも僅かの間で、イリヤは筆を持ち上げると、その後は迷う事無く二通の手紙を書いた。途中で立ち上がり、執事を呼ぶ。
 執事はすぐにやってきて、イリヤが手紙を書き上げ、蝋を溶かして封筒に落とし、キーファー子爵家の紋章を封蝋の上に押すのを待っていた。
「エイムズ、ちょっと頼まれてくれるかな」
「はい」
「これを、それぞれ届けて欲しい。一通はラナエの所。それからもう一通は」
 そう言って宛名を示す。
「必ず、その場で読んでもらいたい。だから一緒にこれを持って行って、まずは手紙じゃなくこれを見せるんだ。多分すぐ信用されるよ」
「これを、お持ちしてしまっても?」
 エイムズは手元の黒い布を見て、遠慮がちに問いかける。
「大丈夫。汚れちゃったし、早めに洗った方がいいだろうしね。とにかく、必ず読んでもらって」
「承知しました」
 受け取った手紙を丁寧に懐にしまい、エイムズはお辞儀してイリヤの前を離れた。
 扉を開ける前に振り返る。
「もしラナエ様に直接お会いできたら、何かお伝えする事はございますか」
 イリヤは便箋をしまう手を止めて、おかしそうにエイムズに顔を向けた。
「届けてもらう手紙に書いてあるよ。……でも……、そうだな」
 暫らく考え、にこりと笑った。
「――元気でって、そう伝えて」
 エイムズは何か心に引っ掛かったようにイリヤの顔を見つめたが、結局それを言葉にできないまま、扉を閉ざした。



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