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王の剣士4 「かりそめの宴」
【第三章 「癒えぬ思い」】


 キーファー子爵邸の門の前にハヤテを降ろすと、ちょうど庭に居た老齢の男が気付いて慌てて走り寄った。銀翼の飛竜とレオアリスの軍服を見て、思いも寄らない訪問者に眼を瞬かせる。
 おそらくこの館の執事だろう男は、門を開けて招き入れながら、少し青い顔でハヤテの手綱を引くレオアリスを見つめた。
「その、――大将殿、……まさかラナエ様に何かあったのですか?」
「ラナエ? いや」
 何の事を訪ねられたのか判らず、執事の青い顔は少し気になったものの、レオアリスはまずはハヤテの背を示した。
「こちらのご子息をお連れした。事情は後から説明するけど、取り敢えず医師に見せたい」
 執事はハヤテの背中でぐったりしているイリヤを見つけ、皺の走る頬を震わせた。
「イリヤ様! 一体どうされたんですか?!」
「俺も詳しい事は判らない。とにかくそういうのは後回しにして、早く医師に見てもらった方がいいだろう。中に運んでも?」
 レオアリスはイリヤをハヤテの背から抱え降ろすと、腕を肩に掛けさせて身体を支えながら、視線で館の扉を示した。
「は、はい、今すぐ――」
 医師を呼んで来る、と言い置いて、執事は館の中ではなく、門の外に走り出した。驚いたレオアリスが振り返る。
「おい……もしかしてここに医者いないの?」
「すぐ近くに診療所がございますので、お呼びして参ります」
 門を抜けて、執事の姿もすぐ見えなくなる。
「近くって――」
 ここに来たのは館に医師がいるとイリヤが言ったからだが、離れた場所に居るのなら近衛師団に運んだ方が良かったのではないかと、レオアリスは瞳を伏せたままのイリヤの顔を見つめた。もっとも、それは今更言っても仕方が無い。
「それよりも、自分で呼びに行くなよ、自分で。どこに運べばいいんだ」
 医師を呼ぶのは誰かに任せるか、それとも誰か館の者を呼んでくれるかして欲しかった。今居る前庭には他に人影もなく、館から誰かが出てくる気配もない。
 とにかく早いところイリヤを暖かい部屋に入れてやらなくてはいけないと、仕方なく一人でイリヤを背負い直し、レオアリスは案内なしで館の扉を潜った。身を包む温かい館の空気にほっと息を吐く。
「すいません――」
 がらんとした玄関広間に声を掛けた時、背中でイリヤが身じろいだ。
「上――」
「気付いたか。具合は?」
「ましになった――。ありがとう、降りるよ」
「平気かよ」
 そう言いながらも、イリヤが降りるのに任せ、床に着いた足がふらついたのを見て手を伸ばす。
「肩ぐらい貸そう。それで、上?」
「俺の部屋が、二階にあるんだ。取り敢えずそこまで歩くの手伝ってもらえるかな」
「判った」
 レオアリスは頷いて、イリヤを支えながら正面にある広い階段へ向かった。ゆっくり階段を昇る途中、広間の右手に火の灯った暖炉が見え、誰か子爵家の者がいるのだろうと考えていると、ちょうど二階で扉が開く音が聞こえた。
「イリヤ、戻ったのか。ついさっき使者が来て、ラナエが――」
 振り仰げば、二階の扉が開き、男が一人廊下に顔を出している。先日会ったキーファー子爵だ。キーファー子爵はイリヤと、そしてイリヤを支えるようにして立つレオアリスの姿を見て、ぎょっと老顔を引き攣らせた。
「イ、イリヤ――、一体、何を……」
 まるで雷に打たれたかのように身体を硬直させた後、キーファー子爵はよろめくように二、三歩歩き、玄関広間の吹き抜けを巡る廊下の手すりに掴まった。階段の途中に立ったまま、レオアリスはキーファー子爵を安心させる為に、声に力を籠めた。
「落ち着いてください。この寒い中濡れたせいで体温が極端に下がったみたいですが、怪我は無いようですから。俺は偶然会って、ここまで連れて来たんです」
 レオアリスの言葉にも、キーファー子爵はじっとイリヤとレオアリスを凝視している。その表情は、イリヤを心配していると言うよりは、もっと違う事を理由にしているように思えた。
 どちらかと言えば、レオアリスがこの場に居る事に驚いているような――。
「――とにかく、部屋に運びますが」
「あ……ああ……」
 階段を上がると、まだ立ち尽くしているキーファー子爵の横を抜け、イリヤが示した扉を開ける。キーファー子爵の視線はずっと、驚きと――不安とも言える形に見開かれたまま、二人の姿を追っていた。
(何だ――)
 何か、少しおかしい。
 何故、キーファー子爵はあれほど驚いているのか――。
(違う……)
 驚いていると言うより、まるで恐れているように見える。
 部屋の入り口で立ち止まり、振り返ってキーファー子爵の姿を見つめたレオアリスの前で、イリヤが腕を伸ばし、部屋の扉を閉ざす。
 がちゃり、と鍵の掛かる音がした。
「――」
「気にしないで。養父は驚いてるだけだ、色々――、色々事情があってね」
 微かに眉を寄せて振り返ったレオアリスににこりと笑って見せ、それから自分の足で寝台に寄ると、身体を投げるようにどさりと座り込んだ。イリヤが寒さに疲労しているのは嘘ではない。
 だが、掛け布を手繰り寄せて身体を包んだものの、横になる訳でもなく、扉の前に立つレオアリスを真っ直ぐに見つめている。
 心の奥底で、しまった、という思いが過ぎったが、それに明確な理由がある訳ではなかった。ただ、ロットバルトの言葉とあの時の様子が、頭の中に浮かび上がる。それは今更ながら、レオアリスの意識に微かな警告を伝えていた。
「まあ座ってよ。立たせっぱなしじゃ申し訳ない」
「――いや、いい。これで帰るよ。もともと運んだらすぐに戻るつもりだったしな。まあ、何があったかは判らないが、ちゃんと医師に見てもらって」
 言いながら、扉を開けようと取っ手を掴んだ手を、ふと止める。見れば扉は、内側からも鍵がないと開かない作りになっている。
「鍵――」
 振り返ったレオアリスの前で、イリヤは掌を開いてその上の鍵を示した。
「すぐ開くよ」
 友人に仕掛けた悪戯が見つかった時のような、親しみを覚える、そんな笑顔と口調だ。イリヤをじっと見つめた後、溜息を吐いて、レオアリスは寝台に近寄った。
「鍵を掛ける必要はないだろう」
「水を被ったのは、わざとだ」
 イリヤの手の上から鍵を取ろうとしていたレオアリスの手が、ぴたりと止まる。
「何だって?」
「だから、わざと水を被ったんだよ」
「――何で」
 イリヤは鍵を手の中に包むとその手を隠すように後ろにつき、瞳を見開いたレオアリスに、にこりと笑いかけた。
「話をしたかったからね、君と。とっさに思いついた事だけど、上手く行ったな」
 全く悪びれる様子も無ないイリヤを見つめて、レオアリスは今度こそはっきりと眉を寄せてイリヤを睨んだ。
「どういう事だ」
 細められた漆黒の瞳には見る者の身を縮ませるような鋭い光が宿ったが、イリヤはレオアリスの視線を躱すように、窓際に置かれていた文机の椅子を指し示した。
「まあ座ってよ。別に取って食いやしない、そう構えなくてもさ。君は剣士だ、出ようと思えば扉を破って簡単に出られる。窓は、この部屋には露台は無いけど、二階程度から飛び降りても君なら怪我はしないだろ。そう考えればほら、鍵なんて何の意味もない」
「ふざけてるのか?」
「真剣だよ。言っただろ、話をしたいんだって」
「――」
「ほんの少し――俺の話を聞いて欲しい。……王の剣士にね」
 それは今までの悪戯めいた口調とは違う、一瞬の訴えるような響きがあった。
 イリヤは再び、その響きが嘘だったかのように、にこにこと微笑んでいる。
 本来ならここできっぱりと断って帰るべきだっただろう。
 だがそうやって笑いながら、イリヤの瞳には無視できない光が浮かんでいる。その右の瞳の金に引かれるように、レオアリスは背後にあった椅子に腰を下ろした。
「……話って」
 イリヤが満足気に笑みを刷く。
「ああ、その前に、お茶でも持って来よう。ちょっと待っててくれるかな」
「そんなもの」
「俺が飲みたいんだ。わざと水を被ったって言ったって、さすがに冷えたしね。凍死するかと思った。でも北の辺境よりは、ずっとましかな?」
 イリヤの態度はどう捉えればいいのか、掴み所がない。ふざけているのか、真剣なのか、まともに話を聞くべきなのか、それとも相手にしない方がいいのか。
 レオアリスが黙っているのをどう受け取ったのか、イリヤは寝台から立ち上がり、鍵を使って扉を開け廊下に出ると、軽い音を立てて閉ざした。再び、鍵の閉まる音がする。
「おい」
 レオアリスは一度椅子から腰を浮かしかけ、それから溜息を吐いて座り直した。
「――何考えてるんだ」
 不信感はあるものの敵意や害意を感じる訳ではなく、イリヤの言うとおり、その気になればこの部屋からはいつでも出られる。まさか扉を斬りはしないが、窓から飛び降りなくてもハヤテを呼べば簡単だ。イリヤがレオアリスをここに閉じ込めよう、と本気で考えているとは思えなかった。
 その事が余計、警戒心を薄くする役割をしているとは気付かず、レオアリスはする事も無く室内を見回した。
 何の変哲も無い、普通の部屋だ。寝台と文机、本棚と衣装棚だけの殺風景な部屋だが、十代半ばの少年の部屋はどれもこんなものだろう。机の上には古い革の表紙の本が一冊、真ん中に丁寧に置かれている。それ以外は机の上の本立てに、壁に寄り添うように並べて立てられていた。きちんと片付いているのは性格だろうか。
(わざと水を被っただって――?)
 レオアリスは、イリヤに先日の話をもう一度聞きたかったが、イリヤがこんな回りくどいやり方をしてまでレオアリスに話したい内容が、あの事件についてとは考えにくい。それならただ近衛師団に来ればいい事だ。
 それとも、近衛師団では話しにくい事が、何かあったのだろうか。
「――何にしても、話を聞いてみるしかないか……」
 もう一度溜息を吐き、レオアリスは鍵の掛かった扉が開くのを待った。





「イリヤ! お前は、一体何を考えている!」
 階段の降り口にいたイリヤを、玄関広間に立っていたキーファー子爵が睨み、叱責の声を上げた。イリヤは薄く笑みを浮かべ、階段を降り、養父に歩み寄る。
「言ったでしょう、彼に近付くのが、一番早いやり方だって」
「だからと言ってこの館に招き入れるなど――もし、何かあったら」
「もし? 何があるんですか。話をするだけだ」
「しかし」
 なおも言い募ろうとするキーファー子爵の後ろで、玄関の扉が開いた。
 息を切らせて戻った執事はイリヤがそこにいる事に驚いた顔をし、続いて入ってきた男を振り返る。
「ヘイリー先生を、お連れしたのですが……」
 五十位の少し白髪交じりの男が、手にしていた黒い鞄を床に置いて、イリヤ達を見回す。
「患者は?」
「私です。というより、でしたっていうか」
 イリヤが照れ臭そうに笑うと、ヘイリー医師は呆れた顔でイリヤと、自分を呼びに来た執事を軽く睨んだ。
「でしたってな……私も忙しいんだ、他に患者も居る、ふざけてもらっちゃ困る」
「すみません、せっかく来ていただいて――。確かに体調はあまり良くないんですが、大げさにし過ぎて執事を驚かせてしまったみたいです。申し訳ありません」
 渋い顔をしたものの、ヘイリー医師はその場でイリヤの瞳を覗き込み、額に手を当てて首を振った。
「確かに熱があるな。高熱と言うほどではないが――、一応薬を出しておくかね?」
「そうですね、お願いします。本当にすみません」
 三度目に頭を下げられ、人の良さそうな医師は呆れ顔ながらも、手を上げてそれを押しとどめる。
「いや、大した事がなかったんならそれでいい。もし状態が悪くなるようなら診療所に来なさい」
「はい」
 足元の黒い鞄を取り上げ、金具の付いた口を開けて薬を取り出しながら、ふとヘイリー医師は顔を上げて背後の扉を振り返った。
「そう言えば、庭にいるのは銀翼の飛竜だね。どなたか、軍の大将が? 事件でもあったのかと、それで怪我をして呼ばれたかと思ったんだが」
「違います。先生をお呼びしたのとは関係なく、来客としていらっしゃってるんです。ご存知でしょう? 王の剣士」
「イリヤ!」
 キーファー子爵は眉を吊り上げてイリヤを睨み付けた。ヘイリー医師は目を丸くして、広間を見渡している。
「王の剣士が、こちらに?」
「ちょっと、知り合いで」
「イリヤ」
 子爵の咎める声に、ヘイリー医師もそれ以上口を挟んではいけないと思ったのだろう、イリヤに薬を手渡すと鞄を閉めた。
「それじゃ、私はこれで帰るがね。症状が軽いからといって無理をしないように」
 背を向けかけたヘイリー医師を、イリヤが呼び止める。
「ああ、先生。ちょっとお願いがあるんですが。ついでという訳ではないんですが、もうひとつ薬を処方していただけますか」
「薬? どんなものを」
「最近少し寝付けなくて。睡眠薬があれば、何日分かいただけませんか」
「ああ。それなら手持ちがあるよ。どんな状態だね? 横になってからも全く寝付けない? 朝まで?」
「そういう時も。頭が冴えて眠れなくて。色々考えてしまうのがいけないのかもしれません」
「悩みか。神経が高ぶっているのだろう。それなら少し強めのものを三日分ほど置いていくから、どうしても眠れないときに服用しなさい。ただ、あまり頼るものじゃない。利く分、却って身体に負担を掛けるからね」
「はい、ありがとうございます」
 ヘイリー医師が再び鞄から取り出した薬を礼を言って受け取り、彼が玄関を出て扉が閉ざされるのを見送ると、イリヤはそれを持ったまま厨房へ向かった。
「イリヤ、どうするつもりだ?」
「貴方も睡眠薬は持ってましたよね。でもこっちの方が利くかと思って」
「そういう事を聞いているんじゃない。何のつもりで彼を連れて来て、しかもヘイリー医師にまでべらべらと」
「話をするつもりで来てもらったんです。先生には聞かれたから答えたんですよ。だってごまかしたら余計おかしいでしょう?」
「イリヤ!」
 イリヤは振り返り、静かに、口元に笑みを広げた。
「任せてくれればいい。西海なんかよりずっとましなやり方です」
 キーファー子爵は言葉を探すように、口を引き結んで視線を泳がせている。反らした顔でそっと笑みを零し、イリヤは再び厨房へ向かったが、ふと足を止めた。振り返った瞳には、それまでと違う光がある。
「そう言えば、さっきラナエがどうとか言いかけてましたが、どうかしたんですか?」
「倒れたらしい。王城から使者が来た」
 さっとイリヤの表情が硬くなる。
「――何故」
「王宮の管理官は風邪だと言っていたが、熱が高いそうだ。長引けは一度ここに戻さなければならん」
 さすがに娘の容態に気を揉んでいるキーファー子爵の口調に対し、イリヤの瞳に浮かんだのは、冷めた光だ。
「――丁度いいかもしれないな。ラナエには戻ってもらった方が。……いや、それともまだ殿下の傍にいてもらった方がいいか……。どう思います?」
「――」
 イリヤの口調は、つい数ヶ月前まで何とかキーファー子爵の目を忍んでラナエに会おうとしていた少年のものとは、まるで思えなかった。自らがそう仕向けておきながら、キーファー子爵は不快さを覚えてイリヤを睨んだ。
「多分これで、大きく一歩、王に近付ける。そうしたら、ラナエにはもう少し協力してもらわなきゃ」
「イリヤ」
 肩を掴もうとしたキーファー子爵の手を躱し、イリヤは奥の厨房に入った。子爵は忌々しそうに口を引き結び、イリヤを一瞥して階段へ向かったが、執事がイリヤの後を追う。
 厨房の流しの前で、イリヤは鉄瓶に水を汲んでいた。
「イリヤ様、何をなさっているのですか」
「お茶を淹れようと思って。来客だからね」
 茶器を食器棚から出し、手馴れた仕草で水を入れた鉄瓶を火に掛ける。
「そのような事は、私が」
 代わろうと伸ばした執事の手を押さえ、イリヤは窓の外を示した。
「いいよ。それより、あの飛竜を厩舎に入れておいてくれるかな」
「は、はい。――あの、そうすると暫くいらっしゃるのですか? ご夕食をご用意した方がよろしいでしょうか」
 イリヤは振り返り、流しに手を付いて寄りかかりながら執事の顔をまじまじと見つめ、それから笑った。
「そうだね。いるかも」





 がちゃ、と音を立てて鍵が外れ、扉が開く。思った以上に長く待たされて、レオアリスは少しうんざりした様子で、入ってきたイリヤに顔を向けた。
「お待たせ」
「待たずに窓から抜けようかと思ってたところだ」
 不満たっぷりの声に、どうやら少し短気な性格のようだとイリヤが笑う。
「実行しないで待っててもらえて嬉しいな。暇だったらこの本でも読んでれば良かったのに。面白いよ、これ。読むと――人生が変わる」
 イリヤは文机の上に茶器を載せた盆を置き、古い革の本を手に取ると、レオアリスに差し出した。何度も項を繰ったのだろう、本の四隅は少し革が剥がれてめくれかけている。
「遊びに来た訳じゃない」
 レオアリスが呆れた口調で返すと、イリヤは肩を竦め、本を机の上に戻した。代わりに陶磁器の茶碗を取り上げ、今度はそれをレオアリスに差し出す。
「どうぞ。紅茶だけどいいかな」
 のんびり茶など飲んでいる状況なのかと言いたげに、レオアリスは一旦それを断るように手を上げかけたが、さすがに断るのは悪いと思ったのだろう、礼を述べて茶碗を受け取った。琥珀色の紅茶からは暖かい湯気が上がっている。イリヤは自分の紅茶に口をつけ、暖かさに安心したように息を吐いた。
 その様子を黙って眺め、イリヤが顔を上げたのをきっかけに、レオアリスは真っ直ぐその瞳を見据えた。
「それで、話って」
「急ぐね。もう少しゆっくりしようよ。せっかくなんだから」
「騙して連れて来て、何がせっかくなんだ?」
「同年代の友人って、俺少ないんだよね。貴重な機会って言うか。皆も驚いたらしくて、さっきも執事が夕食用意するかなんてさ」
 何やら思うところがあったのか、レオアリスが複雑そうに眉をしかめる。その様子に、イリヤはにやりと口元を緩めた。
「あれ、もしかして君も友人いないほう? マジで? 何だか安心したなぁ」
「勝手に安心すんな。何にも言ってねェ」
 眉をしかめたまま横を向いたレオアリスの様子を見て、イリヤは声を立てて笑った。
「笑うところじゃ――、……うわ、やべぇ!」
 レオアリスがいきなり立ち上がり、手にしていた紅茶が零れそうになる。イリヤは素早く茶碗を押さえ、驚いた顔でレオアリスを見上げた。
「何……」
「まっずい、俺、アスタロトと待ち合わせしてたんだ……」
 この部屋には時計はないが、時計があろうとなかろうと問題にならないくらい時間が経ってしまっている。カイに知らせに行ってもらおうと思っていたのすら、レオアリスはすっかり忘れていた。
「あいつ、怒り狂ってるな……」
 心底まずそうに呟いたレオアリスの瞳を、イリヤが下から覗き込む。
「アスタロト公と? じゃああの辻にいたのって、待ち合わせか」
「そうだよ。まずいぜ……さすがにもう帰ってるだろうけど……」
 イリヤは突然立ち上がり、レオアリスに向かって思い切り頭を下げた。
「ごめん! 君の都合も考えないで、勝手なことして、本当に――」
「あ、いや……」
 ずっと頭を下げられたままでは、焦っている方が申し訳なくなってくる。アスタロトには後で幾らでも文句を言わせて気の済むまで奢る事にして、レオアリスは椅子に座り直した。
「いいよ。後で謝る。それより」
「うん――」
 束の間躊躇ってから、イリヤは寝台に改めて腰かけ、もう一度頭を下げる。
「本当に申し訳ない。俺の話はすぐに済ませるから」
「いいって」
「それ、飲んじゃってよ。邪魔だろ? 冷めない内に」
 先ほど危うく零しかけた紅茶に気付き、レオアリスは気持ちの切り替えも兼ねて口元に運んだ。香りの良い紅茶は、幸いまだ温かい。レオアリスの動作をじっと見ていたイリヤは、にこりと笑った。
「話はすぐ終わるよ。本当はその日記を読んでいてもらえれば、もっと早かったけど」
「日記――?」
 イリヤが指したのは、先ほどの革の本だ。
「それ。日記なんだ、俺の、母の」
「母? そんなの読めって勧めたのかよ。大切なものだろう」
 他人が興味本位で読んでいいものではないのではないか。だがどこか苛立ちにも似た表情が、一瞬イリヤの頬を掠めた。
「別に。どうせ秋の始まり位に死んだんだ」
 返事に詰まって、レオアリスはイリヤを見返した。あっさりと、イリヤが笑みを返す。
「そんな気にしなくていいよ。これを言わなきゃ話が始まらないから言っただけだ」
「――」
 イリヤは寝台に腰かけたまま、膝の上で両手を組んで、その手越しに木の床に視線を落とした。そっと、慎重に、イリヤの口から言葉が零れる。
「母は、その日記にずっと彼女の人生を綴っていた。驚くくらい丁寧に、ずっと。彼女が十五・六位の頃から死ぬまでの間だから、本当に長い間だよ」
 感心するよね、とレオアリスに笑いかける。
「さっきは読むと人生が変わるなんて言ったけど――それは俺自身の事だ」
 瞳を文机の上の日記に向け、暫くイリヤは口を閉ざしていたが、再びレオアリスに向き直った。
「何から話すのが一番いいかな――。そうだね」
 色違いの二つの瞳、それぞれが別々の光を刷いて揺れる。
「イリヤっていうのは正確に言うと本当の名前じゃない。俺の本当の名前は――、ミオスティリヤと言うんだ」
「ミオスティリヤ……」
 レオアリスは呟くように繰り返し、瞳を見開いた。
 ミオスティリヤ――。
 つい最近眼にした花だ。季節外れで珍しかった上、見た場所が場所だけに、良く覚えている。
 王の庭で。
 小さな青い花が揺れていた。
「忘れな草」
 ふと、頭の芯にじわりと重い痺れが湧き上がるのを感じ、レオアリスはこめかみを押えた。レオアリスの驚きをどう捉えたのか、イリヤが唇を歪める。
「そう、忘れな草って意味だよ。悪趣味な名前だろう」
 語る言葉には自嘲の響きが満ちている。まるでその名を嫌って――憎んですらいるような、切り捨てるような響きだ。
「――」
 何故そんな思いを抱いているのか。イリヤはそれを話そうとしているのだろうか。レオアリスはこめかみに手を当てたまま、黙ってイリヤの顔を見つめた。
「母の日記には、俺の父親の事が書いてあった。一度も顔を見た事も、父が誰なのかも聞いた事は無かったし、母は絶対口にしなかったけど――日記には残したんだ」
 イリヤは一度言葉を切り、溜息とともに再び口を開いた。
「俺は、母が死んでから初めて、この日記を読んだ」
 イリヤが何を言おうとしているのか、まだ良く掴めない。ミオスティリヤという響きが頭を巡り、イリヤの言葉に集中できないせいでもあったし、頭の奥が次第に重みを増しているせいでもあった。
「父親が誰なのか、日記には全て書いてあった。――驚いた。そんな事、有り得ないと自分でも思ったよ。誰が聞いても、有り得ないって言うだろう。でも、最終的に俺は母の日記を信じた」
「日記には、何て――」
 導かれるようにそう口にして、ふと、聞くべきではないという考えが頭を過ぎる。ただそれは、思考に圧し掛かる重い痺れにどうしても邪魔をされた。
 イリヤの二つの瞳が、じっと注がれている。
「日記にはこう書いてあった。俺の父、母の夫だった男は」
 ゆっくりと、イリヤが言葉を紡ぎ出す。
「――この国の王だと」
 瞬間的に、圧し掛かっていた重みは薄れ、レオアリスは押えていた頭を上げて、まじまじとイリヤを見つめた。
「王――」
 レオアリスの微かな呟きを受け取って、イリヤが頷く。
「そう。俺の母はあの第二王妃、シーリィアだ。第一王子を暗殺した咎で、処刑されたはずのね」
 イリヤの言葉に隠された恐るべき事実に揺さぶられるように、レオアリスは自分の視界が揺れているのを感じた。思考は再び、これまで以上に重くなり、身体も同じように重い。
「そして俺は、シーリィアの息子」
 重い頭を振り、レオアリスが何とか言葉を綴る。
「まさか。そんな話は」
 そんな話は聞いた事が無い。第二王妃とその子供が生きているなど――。
 第一王子暗殺の悲劇、それは巻き添えになったとも言える第二王妃とその子供の悲劇でもある。
 この十八年間、あの出来事を思い出すごとに、人々は彼等を悼み、そっと口を噤んできた。
 それは王家の触れざる闇の部分であり、消す事のできない事実だ。
 イリヤが、王の。あの第二王妃の、息子――。
 ファルシオンの。
「――っ」
 頭の奥が揺れる。
 イリヤは俯くように頭を押えているレオアリスの姿を、静かに見つめている。その頬は自嘲に染められていた。
「聞いた事がないだろう。当然だ。俺は生まれながらに、存在を消されたんだから」
 今までの口調が嘘のような、冷ややかな響きだ。
 レオアリスは頭の重さを堪えるように瞳を細めた。その視界の中で、イリヤの銀に近い白い髪と、右目の金が浮かび上がっている。
「――まさか」
「そう。言われてみれば、似てるだろう?」
 王と、ファルシオンとの間にあったはずの、失われた面差し。イリヤはその面差しに笑みを刷き、ゆっくり、区切るように告げた。
「だから、君には、俺に協力して欲しいんだ。王に、会えるように」
 言葉の中に潜む、強い、狂おしい感情。その正体は何か。
「王の剣士――。君なら、俺を、王のもとに導ける」
「……何、言って」
 椅子の背に手を掛け、イリヤの顔を見ようと上げた視界が、ぐらりと揺れる。
「?」
 自覚のないままに床の上に膝が落ち、レオアリスは肩から床に倒れ込んだ。木の床が目の前にあり、漸く倒れたのだと気付く。
 身体を起そうと手を付いたものの、全身が重く、腕には全く力が入らない。
「何、だ……」
 強烈な睡魔だ。頭に圧し掛かっていたそれが、レオアリスの意識をしっかりと捉え、引き摺り込もうとしている。
 霞む視界の端で、イリヤが寝台を立つのが見えた。
「剣士にも、睡眠薬って効くんだな。強いのをもらっておいて良かった」
「――紅、茶」
「うん」
 顔を上げイリヤの姿を捉えようとしたが、意思に反して頭は床に落ちた。
 急速に視界が狭まり、暗くなる。
 お休み、と言う代わりに、イリヤはにこやかに笑った。
「起きたら、多分食事があるよ」
 睡魔に閉じ込められる一瞬、窓の外で揺れる花に注がれていた、黄金の瞳が過った。



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