八
それは言うなれば、自分の周囲だけ切り取られたと表現すべき空間だ。
たった今までファルシオンの館でファルシオンと向かい合っていたはずだったが、唐突に「区切られ」、ロットバルトは真っ白な空間に立っていた。すぐそこが境なのか、それとも遥か先に境があるのか、視覚では全く判別が付かない。
(大胆な事をするものだ)
居城の只中、ファルシオンの目の前で。ファルシオンの側からどう見えているのか判らないが、ここまでするという事を考えればおそらく、術に取り込まれたのは意識だけのような状態で、術の外では何も変わらず、ロットバルト自身はただ座っているように見えるのではないか。
まさかファルシオンの目の前から唐突に消えては、いらぬ騒ぎになるだけだ。
空間だけ切り離されたか時間も共にかは気になるところだが、生憎とロットバルトは法術には詳しくない。時間の無駄でしかないその事を追及するのは止めた。問題は一つ、仕掛けた相手がどう出るか。
最悪、この場から戻れないという事も有り得る。目の前にあるのは、それほどの暗渠だと理解していた。
(――)
視線を上げた先、正面に、人が立っている。
被きを目深に下ろしているため顔は定かではないが、正体を隠すつもりのない事は、纏った法術院の長衣からも知れる。
この相手が視線の主、イリヤ・キーファーの地籍簿に術を仕掛けた術士だ。
術士はロットバルトと視線を合わせると、まずは粛然と頭を下げた。術士の姿は時折、白い光に硝子のように透ける。
「ご無礼を――少々お願いがごさいまして」
あくまでも挨拶のような穏やかさを保ったまま、再び持ち上げた頬には笑みすら浮かんでいる。不定期に透ける身体は、光を通す毎に足下に白い法陣を浮かび上がらせた。
陣を切れば、術は破れるという事は聞いている。ただ既に術に取り込まれた中で術を破るなど尚更素人にできる事ではなく、そもそも法陣のある場所にいなければ、もしくはせめてその場所が判らなければ、術士でも破れないものかもしれない。
(まあ……気にしても仕方がない)
術士はロットバルトの瞳を真っ直ぐに捉えた。瞳は灰色、声の響きよりも老成した色が伺える。
「ヴェルナー中将。このお話、貴方の胸の内一つにお収めくださいますね」
穏やかな響きだが単刀直入で、否と言う余地を一切感じさせない。術士は依頼という言い方をしたが、これは至上の命令だ。
当然この術士個人の言葉ではなく、この国の最上位に座す存在の。
「――そうせざるを得ないのでしょうね」
術士は朗らかと言える表情で笑った。
「ようございました。もしお聞き入れ戴けなかった場合は、少々困った事になるところでした」
そう口にしながら、実際はそうなったとしても迷う事はないに違いない。
上辺と裏腹の容赦の無い言葉だが、ただ、ある違和感があった。術士の言葉は予想していたものより、数段穏やかだ。
(聞き入れなかった場合、か……)
聞き入れなかった場合とは、随分と悠長な話だろう。
「――この場で、私に質問の権利は?」
「ごさいません」
迷いもない回答に、ロットバルトは了承の代わりに軽く息を吐いた。
「仕方ない。もう少し状況を掴みたかったが、口を閉ざして聞かない振りをするのが最良の方策という事ですね」
術士がにこやかに頷く。
「スランザール公もそれをお望みです。無論近衛師団には、貴方の推論のひと欠けらもお話しになられてはいけません」
やはり、術士の言葉は、ロットバルトが戻る事を前提にしている。
「という事はこの場から戻れるのか。意外だな」
状況から考えれば、このまま何らかの形で留め置かれたとしてもおかしくは無い。それが、こんなふうに術を用いて異空間を作り出し、する事は単に釘を差すだけだろうか。
その疑問に答えるように、術士はそれまでとは違う、慎重な色を浮かべた。
「――最早、その段階ではないのです」
術士の言葉にそれまでの違和感と同じものを感じ、ロットバルトは眉根を寄せた。
「ただ封じ込めるだけだった状況は、変わりました」
違和感と言うよりも、胸騒ぎと言うべきか――。
「それは」
「質問を口になさってはいけません」
術士は白い空間を歩み寄ると、ロットバルトの横を抜け、半歩ばかり通り過ぎた所で足を止めた。
「ただ一つ。これは私のひとり語りでございます故、相槌などもご無用に」
「――」
ロットバルトは口を閉ざしたまま、ただ前を向いて立つ。
聞いていない振りをしろと言う、その言葉。
術士が語ろうとしているのは――王の言葉だ。
「例え何もご存知なくとも、王都を騒がす事態には、近衛師団として迅速に対処して戴く必要がありましょう」
(事態――)
イリヤは既に、何らかの事態を起こそうとしている。それに対して、近衛師団に対応せよ、と――?
術士はロットバルトの沈黙の意味を読み取り、視線を合わせないままに頷いた。
「今、王の御子たる王子は、ファルシオン様ただお一人」
まるで念を押すようにそう言って、一歩、二歩と歩みを進め、術士はもう一度立ち止まった。
「どのような事があっても、それは変わる事はありません。十八年前――、確かに、王子はお亡くなりになったのです。ですから――」
振り返りかけ、ふいに術士は身を固めた。同時に、
『誰だ!』
幼い――だが鋭い声が空間全体に響き、びくり、と術士が肩を震わす。
「お待ちを……」
押し留めるように術士は空に掌を向けた。一瞬、空間を金色の光が満たし、唐突に弾ける。
術士が光に手をかざして身を捩り、消えた。
瞬きの後には、ロットバルトは椅子に腰を降ろした状態のまま、元の場所にいた。壁際に置かれた時計を見れば、ほんの一呼吸の間ほども時は経っていないようだ。
まるで単なる白昼夢だったようにすら感じられるが、紛れもなく現実だったのだと証明するように、ファルシオンが顔を上げ、ロットバルトの背後を睨んでいる。
その瞳が放つ眩い金色の光が、ロットバルトの見る前で静かに薄れていき、やがて普段と変わらない幼いファルシオンの顔に戻った。
「今、誰かいた」
ロットバルトはひやりとした感覚を押し込め、素知らぬ顔をして振り返り、ただ嘯いてみせる。
「いえ――誰もおりません。何かございましたか」
ロットバルトの問いに、ファルシオンは戸惑いを面に昇らせた。どうやらファルシオンには、術士の姿や術そのものが見えていた訳ではないようだ。
「でも」
自身ですら何をしたか判っていないながら術を破ってみせた、その潜在能力の高さに改めて、この少年が王の子なのだという思いが過る。
イリヤにはほんの僅かしか顕れていない力がファルシオンに大きくある事は、単なる遺伝なのか、それとも環境――王の子であるという自覚故か。
どちらにせよ、イリヤにさほどの力が顕れなかったのは、この場合幸いと言えるのかもしれない。
手でも当たったのか、卓の上にあった杯が床に落ち、砕けている。それを拾おうとした時、二人の横で廊下に続く扉が開かれた。
「殿下、どうなさいました?」
扉を開けて現れたのはハンプトンだ。廊下まで聞こえたファルシオンの声に気付いて慌てて来たのか、ハンプトンは心配そうな顔でファルシオンを見つめ、その傍に寄った。
「――何でもない」
「……ヴェルナー中将」
眉を潜めたハンプトンの様子に、ロットバルトは笑みを返す。
「内緒話をされたいようでしたので、貴女の足音に驚かれたのでしょう」
「まあ、内緒話だなんて、一体」
「それを教えてしまったら内緒話にはなりませんよ。それより申し訳ない、せっかくの紅茶の杯を落として割ってしまった」
足元で砕けた白磁の杯を見て、素早く首を振る。
「いえ、お気になさらないでください、すぐ片付けさせますわ」
破片を拾おうと伸ばしたロットバルトの手を止め、それからハンプトンは背筋を伸ばして首を傾げた。
「では、もう少し下がっていた方がよろしいでしょうか」
「いえ――」
ロットバルトは一度口を噤んだ。ファルシオンとこの話をするのは、これ以上は避けるべきだろう。非常に聡い王子だ。
それよりも、何故ラナエ・キーファーがファルシオンの傍に上がったのか、それがこの場では最も気にかかる。その目的が兄の、イリヤの存在をファルシオンに教える事だけとは考え難い。
「――殿下のお側には、常にどなたかが?」
「はい。少し煩わしくお感じになるかもしれませんが、必ず私どもが。もしかしてそれが?」
ファルシオンの悩みになっているのかと、ハンプトンはそう思ったようだ。
「いえ――それは問題ありません。身辺警護の上でも必要な事だ」
ロットバルトの言葉にはどこか背筋を引き締めるものがあり、ハンプトンは知らず力強く頷いた。
「警護官も常におりますわ」
王室警護官――先ほどロットバルトが剣を預けたのもその王室警護官だが、彼等は近衛師団とはまた別の組織になる。王城全体の警護は近衛師団の役割になるが、王の私邸である居城内の警護は彼等の役割だ。ただ、直接的な指示統制は行わないものの、近衛師団総将は王室警護官の最高顧問を兼任する。いざという時の迅速な連動の為だ。
約三百名ほどの警護官が、昼夜を問わず三交替で居城の警護に当たる。ハンプトン達侍従は管理官という立場で、居城管理部の中に、管理官と警護官という二つがあった。
壁際に置かれた時計が正午を告げる。それを機にロットバルトはファルシオンに向かい合った。
「私はこれで退出させて戴きます」
まだ少し何かを問いたそうな様子ながらも、ファルシオンはこくりと頷いた。ハンプトンが案内の侍従を呼ぶ為に廊下へ出る。その足音が遠ざかるのを待ち、ロットバルトはファルシオンの瞳を見つめた。
「――殿下。余りその事にお心を煩わせてはいけません。ラナエという侍従は、おそらく少し思い違いをしているのでしょう。貴方の兄君はお一人だけです」
ファルシオンの表情からはまだ納得しきれていない事が読み取れたが、ロットバルトにはそれ以上の言葉を掛ける術は無い。ファルシオンが直接王に尋ね、王が答えを与える以外、ファルシオンの煩悶を解決する方法はないと、ただそう考えていた。
ロットバルトがもう少しファルシオンの心情を理解していれば、もっと丁寧に言い含めていたか、ハンプトンに注意を促していただろう。
侍従がファルシオンの傍に控えたのを機に、ロットバルトは跪き礼を捧げてから退出した。
ロットバルトが退出した後、ファルシオンはじっと椅子の上に座って、庭にその視線を注いでいた。
本当はもっと聞きたかった事があったのだが、それは口に出す事ができなかった。
兄と聞いた時のロットバルトが見せた表情は一瞬息を飲むほど厳しく、やはり口にしてはいけない事だったのだと、そう思ったからだ。
(兄上)
ただロットバルトはラナエが思い違いをしているのだと言ったが、ファルシオンにはどうしても、ラナエの言葉が嘘のようには思えなかった。
もう一人兄がいるのだと、そう言ったラナエの瞳は、とても悲しかった。
ファルシオンが、もう一人の兄の存在を知らない――。
その事をとても、とても悲しんでいるように思えた。
本当に、兄がいるのなら――。
知りたい。
それを確かめたい。
会いたい。
(ラナエに聞けば)
彼女に聞けば、全て判ると、ファルシオンは確信していた。
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