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王の剣士 六【紺碧の守護者】

第三章 「潮流」


 ちゃぷ、と耳を叩く小さな音にメネゼスは薄らと目を開けた。
 首を巡らせても見えるのは、どこまでも続く海原と薄い雲を浮かべた空だけだ。もう水平線の果て、紫に近い色に暮れて行こうとしている。
 自分が横たわっている長い板を波が舐める音が、またちゃぷちゃぷと聞こえた。
 あの船に衝突された直後、甲板に叩きつけられて意識を失った。
 気付いて最初に眼にしたのは、自分達の船ゼ・アマーリア号が沈んで行く姿だった。
 メネゼスは海に放り出され、嵐の風と波に揉まれながら、砕けた船体の残骸に掴まって何とか溺れずに助かった。すぐ近くで仲間が同じように、折れた帆柱に掴まっているのが荒れた波間に時折見えた。
 ようやく波が収まった後、丁度そこに流れて来た丈夫そうな木の板に身体を乗せた。
 木の板と思ったら、それは寝台だった。船長用の、簡易だがメネゼス達がいつも使っている棚みたいなものではなく、ちゃんと脚のある奴だ。
 いつか自分の船を持ったら用意するつもりだった寝台だ。
 裏返っていたが、寝台はメネゼスの身体をしっかり受けとめてくれた。
 少し時期は早まったがやはり一人用の寝台はいい、とそう思った辺りで、荒れた波間に見え隠れしていた仲間の姿を思い出した。
 仰向けになったまま首を巡らせて、メネゼスは海の上に仲間を探した。
 一人、すぐ近くに浮かんでいた。
 ただ波間に見た奴とは違う。
 浮かんでいるのは航海士のボリスだ。
 メネゼスは腹這いになって手で水を掻き、ボリスに寝台を寄せた。
 声を掛けたが、喉から出たのは擦れた音だけだったから、ボリスは気付かなかったようだ。
 メネゼスは手を伸ばしてボリスの襟を掴み、不安定に揺れる寝台と服が海水をたっぷり吸って重くなったボリスの身体に四苦八苦しながら、四半刻くらいかけてようやく彼の身体を寝台の上に引っ張り上げた。
 仰向けにひっくり返り、ボリスに声を掛ける間もなく、メネゼスの意識は断ち切られるように真っ暗になった。
 それからずっと、海を漂っていた。
 時折気付いて目を開ける程度だったから自信はないが、夜を二回、多分、過ごしている。
 今は太陽がほとんど真横にあった。身体の右側に。
 だから故郷のマリは左側だ。
(ずっと……遠く)
 周りには何もない。あれほど漂っていた船の残骸も。
「水、が、欲しい――おい、持ってないか……」
 メネゼスの声はもう出るようになっていたが、ボリスの返事は無かった。
「水……」
 ひび割れた唇を湿らそうと舌で舐めたものの、期待と違ってかさかさと乾いた音がした。
 舌が紙のようだ。
 目を閉じる。
 船は――嵐の中を悠然と消えていった。
 意識が朦朧としていたせいで見間違えたのか――、まるで凪いだ海を征くように、揺れもせず。
(船じゃねぇ……あれは……別の生きもんだ)
 自分の考えはおかしいと思ったが、どうしてもその考えが離れない。
 あれは船じゃあない。
 だがそうだとするとあれは何なのか。
 何故、メネゼス達の船を沈めたのか。
 怒りが薄っすらと湧いてくるが、掠れる意識と疲労に覆われ、メネゼス自身にも上手く捉えられなかった。
 あれからどれほど経ったのだろう。
 救助はいつ来るのだろう。
 来ないかも、という言葉をメネゼスは打ち消した。
(叔父貴の船が来てくれる)
 叩き上げでマリ海軍の提督にまでなった叔父はいつも厳しいが、身内を見捨てるような真似はしない男だ。
(絶対に――)
 彼の叔父は本国にいて、ゼ・アマーリア号が沈んだ事など知る由もないと、普通の状態であればそう考えて絶望を抱いたかもしれない。
 ただメネゼスはそんな思考を働かせる余裕もないほど疲労し――今や死にかけていた。
 ちゃぷ、と波が寝台の底を叩く。正確には底ではなく、ひっくり返っているのだから波が叩くのは寝台の表だが。
 幾度と無く意識が遠退いて闇に落ち、再び持ち上がり光を感じ、それを繰り返す。

 ふわりと風が頬を撫でた。

 心地よい、疲労を癒すような風だった。
 それまでいかりのように重かった身体が軽く感じられ、苦痛が消えた。
 それでもう、自分は駄目なのかと、そう思った時だ。
 ふと、声がかかった。
「助けがいるだろう?」
 この海の真っ只中で、まるでどこかの街角にでもいるように声をかけられ、普通の状態であれば――いや、もう少し体力が残っていれば、メネゼスは跳ね起きて声の主を探しただろう。
 助け。
(いる)
 半分以上開かない瞼の下で、まだ目だけが動いた。
 その目を動かし、霞んだ視界に映る範囲では、誰の姿も見えない。
(誰だ――助けてくれ)
 返事は無い。
 幻聴かと思い、やはり自分も最後なのかと思ったら、また同じ声がした。
「船が近くにいるぞ。お前達の船を沈めたレガージュの船だがね」
 はっきりと――幻聴ではないと判った。
 メネゼスは乾いた唇を動かした。
「レガージュ……あれは、違う……」
 そう言ったのは、それが今のメネゼスの根底にある怒りだからだ。もしかしたらそれが、メネゼスをここまで生かしたのかもしれない。
 笑う気配がした。
「そんな状態で律儀な事だ。お前がレガージュや国の の前で、それを証言できればいいが」
 聞き取れない言葉があった。
 メネゼスはまた首を巡らせようとしそれを諦め、見えない声の主を探そうとした。
「誰、だ……あんたは……」
「私が誰であってもお前には何の問題もない」
 ふわりと風が吹く。
 風を受ける帆も無いのに、メネゼスとボリスを乗せた寝台は波を割り進み始めた。
 優秀な小船のように軽快な波音を立て、寝台は海原をぐんぐんと進んでいく。
 やがて前方に、濃紺の空を背景にしてぽつりと浮かぶ船影が見えた。
 ひるがえるレガージュ船団の旗を見る前に、メネゼスは再び眼を閉じ、眠りに落ちた。





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