十一
 
 華やかさを増した宴を瞳に写し、まるで一枚硝子を隔てた外の空間にいるように、アスタロトは騒めきの中で一人溜息を落とした。
  視線がどうしても、先ほどまでいた窓際の席へ向いてしまう。
  ちょうどレオアリスがエアリディアル王女に挨拶をしているところだった。
 「――」
  新たに訪れた来客達がエアリディアルへの挨拶を済ませるまで、と思いエアリディアルの傍を離れたけれど、そう言い訳をしながら実際は、レオアリスがエアリディアルへ挨拶をするのを近くで見ていたくなかっただけだ。
  二人の方へ歩み寄って来た時、レオアリスの視線は一度だけアスタロトに向けられたが、すぐにエアリディアルへ戻された。
  片膝をついて手を取る、その決まり切った挨拶の仕草が、まるで違う意味を持つ気がして。
  差し伸べられた手の細い指先を、手袋をはめた手が恭しく取る。
 「――こういうとこ苦手だったくせに」
  ぽつりと呟いた。
  でも心の中にあったのはもっと別の事だ。
  自分には、あんな挨拶はした事がないくせに。
 (――)
 「アスタロト」
  名前を呼ばれ、はっとして振り返り、アスタロトは声の主を認めて視線を落とした。その表情を読み取り、声をかけた相手が嗤う。
 「あからさまな落胆だな。失礼だと思わんか?」
  ブラフォードはそう言いながら、アスタロトの前に膝を付くと右手を取った。
  手の甲に恭しく口付けるのがこうした席での女性への礼儀だ。
  王族に対しては、手を取り額の前に戴く。
  どれもただの儀礼。いちいち気にする事もない。
 「……失礼。でも、今はお前と言い合う気分じゃないんだ」
 「ふん」
  ブラフォードがアスタロトの姿を見つめ、笑う。すっと手を持ち上げた。
 「何?」
 「そぐわないものを身に付けているな」
  ブラフォードの指が白い髪飾りに触れようとして、アスタロトはさっと手で隠した。跳ね返すように睨む。
 「いいだろ、私が何つけようと。ほっといてよ」
  そう言いながら感じていたのは、喉の奥がぐっと詰まるような圧迫感だ。
  何で――気付くのがブラフォードなのだろう。
  一番気付いて欲しい相手は、まだ一言もかけてくれていないのに。
  付けてくるんじゃ無かった。アーシアが付けるように勧めてくれて、でもアーシアには悪いけれど、余計苦しくなるばかりだ。
  また何かからかいを含んだ言葉を言ってくるのかと思ったら、ブラフォードは特に何を言うでもなく、ただその薄い唇を笑みの形に歪めている。
  全て見透かされているような笑みに、アスタロトはブラフォードを睨み付け、でも何もいえなかった。
 「――じゃあ、これで」
  背中を向けたアスタロトを呼び止める事もない。
  分かり切った事は口に出すまでも無い、そう言うように――
 「――」
  アスタロトは足早に広間を出て、重い息を吐いた。
  吐き出した傍からまた、胸の底に重く流れ込んで行く。
 「……何やってるんだろ……」
  無意識に溜息が零れる。
 (ファーはどこに行ったんだろう)
  もう帰りたいのだが、ルシファーに断らずに帰る訳にも行かない。
 「ねえ、ファーは?」
  通りかかった給仕に声をかけたが、給仕も判らないと首を振った。
 「半刻ほど前に外へ行かれましたから、お庭か、少しの間お下がりになっておいでかもしれません」
 「そっか、ありがとう」
 (困ったな……)
  これでは帰れない。取り敢えず庭を探してみようと廊下を歩き、一つの部屋に入った時だ。
 「エアリディアル様が」
  ぽんと耳に飛び込んできたエアリディアルの名に、アスタロトはぴたりと足を止めた。
  ちょうどそこは左右に扉の無い談話室がある一角で、右側の談話室では何人かの令嬢達が集まっておしゃべりをしているようだった。
  アスタロトの立っている位置からは誰がいるかまでは見えなかったが、扉代わりに掛けられた幾重もの薄布が綺麗に左右に開いている。声からすると三、四人だろうか。
 「ルシファー様の宴だからいらっしゃるのはおかしくはないけれど、今日エアリディアル様までお越しとは思わなかったわ」
 「ご一緒できて嬉しいけど――ちょっと残念」
  その場が彼女達にだけしか判らない理由で笑いさざめく。
 「そうよね、せっかくルシファー様が素敵な殿方を呼んでくださったのに、エアリディアル様がいらしちゃあわたくし達なんて霞んでしまうわ」
  一人が声を潜める。
 「そこよ。ねえ、もしかして今日いきなりこの会を開いた目的って――」
 (目的?)
  アスタロトは傍の壁に手を付いた。
 「あら、今更そんなの。きっとルシファー様は陛下からお話を受けてらっしゃるのよ」
  どきりと胸が鳴る。
 (――王)
  談話室でも、令嬢達が身を乗り出した様子が判る。
 「それって何? どういうこと?」
 「何って、気が付いていらっしゃらないの? こんなに急なお席なのに、エアリディアル様が降嫁なされる家柄の方は、全員招かれてらっしゃるのよ?」
 (降嫁――)
  王女の降嫁としてすぐ対象に上がるのは、公爵家や侯爵家だろう。
  ただ、王が決めれば当然、地位に縛られるものではない。
 『王は、エアリディアル王女を降嫁させようと思ってたりしてね』
  冗談めかして言ったルシファーの瞳の色。
 (――今日)
 「じゃあ今日って」
 「ええーひどいわ、私期待して来たのに」
 「無理無理、貴方のお家柄じゃ」
  きゃあ、と笑い声が弾ける。
 「ほんと、そうと判ったらいつもより、話かけるのに気後れしてしまうわよね」
 「残念だわ」
  誰かの声がそっと囁く。
 「――でも、一番気後れしてるのはアスタロト様だと思わない?」
  アスタロトはぎくりと息を詰めた。それでようやく、自分が彼女達の話を立ち聞きしている事に気付いて恥ずかしくなったが、立ち去ろうと思っても足が動かない。
  令嬢達は一瞬黙った後、きゃあ、と笑い崩れた。
 「やだぁ、ダメよそれを仰っちゃ」
 「アスタロト様はこうした場所はあまりお得意ではないのよ。そりゃまあお綺麗だけど、あの方は軍の将軍ですもの、どちらかと言えばやっぱり男性的な事のほうが向いておいででしょ」
  少女の言葉にくすくすと抑えた笑いが広がる。
 「いくら身分がお高いからって、結局あれではお相手の方もつまらないでしょうし」
 「悪いわ。聞かれたら貴方のお父様が大変よ」
 「聞かれたらね。でもほんとの事言われて怒るのはどうかしら」
  立ち去らなくては、と思ったが足が動かない。
 「第一、ちょっと図々しいですわ」
 「あら、何が」
 「何って、ブラフォード様もロットバルト様も、あの方はずっと前に縁談をお断りになったわけでしょ。それなのに未だにお付き合いがあって」
 「――わかるわ! こういう場所でいっつもお話してらっしゃるし」
 「まだ未練があるんじゃない? 三年もあったら変わるものだし」
 「レオアリス様とだって、」
  どきりとしてアスタロトは談話室を仕切る布を見つめた。
 (――様だって。すっごい似合わない)
  吹き出しそうだと思ったのに、そんな衝動は全く浮かんで来なかった。
 (あいつ女の子達にそんな風に呼ばれてんだ)
  そんな風に呼ばれるようになったのだ。
  半年くらい前まではこんな場所で、彼女達がレオアリスの名前を出す事など無かった。
  理由など簡単だ。彼女達が望む、彼女達に必要な地位ではなかったから。
  アスタロトはずっと、その事が不満だった。
 「まあ、貴方は大将殿をお好きなの」
 「将来有望かも知れないけど、まだ早過ぎるんじゃなくて? 近衛師団総将になるって決まってからになさいよ」
 「……素敵じゃない」
 「それはまあ……でも今はまだ、お立場がねぇ」
  アスタロトはむっとして唇を噛み締めた。
 (――あいつのコトなんて全然知らないくせに)
 「貴方達はそうやって地位とかばっかり仰って、ちょっと失礼だわ」
  少女の怒った声に周りは笑ったが、アスタロトはつい彼女を応援したくなった。
 「まあ、でも結局あなただって、エアリディアル様を押し退ける訳にはいかないのよ」
 「そうよ、総将におなりになったら、伯爵位でしょ。可能性が――、ねぇ」
 「そうそう、エアリディアル様がどなたを選ぶか、それを待ってからでなくちゃ」
 「今日判るかしら」
  わっと盛り上がった空気に当てられ、アスタロトは息苦しさを覚えた。
 「じゃあ今日――」
 「アスタロト、ここにいたの。探したわ」
  いきなり肩に手を置かれ、アスタロトはびっくりして振り返った。
  朗らかな声を聞き取り、話をしていた令嬢達の声がぴたりと止まる。
  アスタロトが近くにいたのだと気付いて、談話室の令嬢達はさっと青ざめて互いに決まり悪そうな瞳を見交わした。
  アスタロトは咄嗟に首を振った。
 「――い、今戻ってきたとこ。ちょうどファーのとこに行こうと思ってたんだ」
 「そう? それは良かったわ。あっちこっちで皆、適当な噂話してるから。貴方そういうの好きじゃないでしょ? 今もそんな話をしてたみたいだし、貴方がもしかしてうっかり聞いちゃったら悪いと思って」
  アスタロトと令嬢達はそれぞれの場所で、ぎょっと飛び跳ねた。
 「ファ、ファー」
  ルシファーは完全に、状況を判って口にしているのだ。見れば口元に笑みが浮かんでいる。
 「ちょ、ちょっと向こう行こう、ファー」
 「あら、何で? 貴方も少し話をしたらいいじゃない。直接話をした方が誤解が少ないわ」
 「いいから……」
  心臓がばくばくする。
  壁の向こうの令嬢達がどんな顔をしているかは判らなかったが、ひたすら気まずい。
  とにかくアスタロトはルシファーの手を取った。
 「それよりどこにいたの、ファー。探しに行こうと思ってて」
 「ちょっとね」
  ルシファーは唇に薄く笑みを刷いた。
  その笑みがどことなく気になって、アスタロトはその時だけ気まずさも忘れ、ルシファーを見つめた。
  ふ、と一瞬、何かの香りが漂う。
 「――」
 「ルシファー様、アスタロト様」
  再び意識の外から、今度は柔らかく涼やかな声がかかり、アスタロトは後ろを振り返った。
  思いがけない相手――エアリディアルが服の裾をふわりと広げ、広間へ続く廊下に立っている。
  いつから居たのだろう――アスタロトはずっと広間に背を向けていて、気付かなかった。
  ルシファー以外の全員、先程よりもずっと、足元まで血が下がってしまったような状態だ。
  今の会話を聞いていただろうか。
  王女の澄んだ瞳に見つめられると、彼女は全て諒解しているのではないかと思えてくる。
 (――)
  どう、思ったのだろう、エアリディアルは。
  藤色の瞳がアスタロトと、談話室でおしゃべりをしていた令嬢達と――、最後にルシファーを見た。そのまま、唇にそっと柔らかな微笑みを浮かべる。
  ルシファーも笑った。
 「ルシファー様。わたくしはそろそろ退出させていただきますが、その前にアスタロト様ともう少し、お話をしたいと思っております。よろしいですか?」
  不思議なのは、穏やかなエアリディアルと普段どおり軽やかな笑みを浮かべているルシファーとの間に、どこか対立するような空気が感じられる事だ。
  本当にごく僅か、他の令嬢達は今の緊張に紛れて感じ取れないほどの、ごく僅かな頬を掠める程度の空気――
  それを破ったのはルシファーだった。
  丁寧に、ふわりと腰をかがめ、相手にうなじが見えるほど頭を下げる、最上級のお辞儀を返す。
 「何も問題はございません、王女殿下」
 「ありがとうございます――。アスタロト様はよろしいですか?」
  エアリディアルは微笑んでから、アスタロトへ視線を巡らせた。先ほど二人で話をしていた時の柔らかな印象とは、少し違う。
  凛とした――おそらく彼女が元から持っているだろう、芯の強さがその瞳や立ち姿に現れている。
  やはり王の娘なのだと、アスタロトは無意識に納得した。
 「もちろんです、エアリディアル王女」
  アスタロトは戸惑いつつも、圧されるように頷いた。
  この状況から離れられる事にはほっとする。
  けれど何となくだが、この場をエアリディアルに収めてもらったと、そういう感覚とはどこか違った。
  エアリディアルにはどことなく、厳しさ――そう、厳しさが加わっていて、それが単に今の少女達のおしゃべりに向けられたものとは思えなかったからだ。
  でもじゃあ、娘達のおしゃべりでなければ――
 「では広間で――先ほどの窓際の椅子でお話いたしましょう」
  けれどそう言って微笑んだ時の雰囲気は、初めのエアリディアルのものだった。
 
  広間へ入ると先ほどまでの緊張が嘘だったかのように、賑やかな空気が身を包んだ。ほっと息を吐く。
  アスタロトは室内に目をやると、扉のすぐ近いところにいるレオアリスの姿が、向こうからぽんと目に飛び込んで来た。
 (あ……)
  ロットバルトと、それから正規東方軍第一大隊の大将アルノーと話をしている。
 (笑ってる……)
  笑っているのが珍しい訳ではないのだが、軍同士という気安さからか楽しそうで、しかも正規軍のアルノーとそうして会話をしているのがアスタロトには余計嬉しかった。
  それに今ならすごく話し掛けやすいと思うと、つい足が止まりがちになる。
  傍らでルシファーが笑うのが判って、頬に血が昇った。
  もうアスタロトの想いなどルシファーは全てお見通しで、きっと今レオアリスと話をしたいと思った事も想像がついているのだろう。
  ルシファーはすっとアスタロトの横を離れ、二、三歩レオアリス達に近付いた。
 「レオアリス」
  それから、アスタロトへ一度笑みを含んだ視線だけを送る。
 (ファー?)
 「エアリディアル王女はもう少ししたらお帰りになるそうなの。来客として招待したのに任務みたいで申し訳ないけれど、貴方たち二人、王城までの護衛を引き受けてもらえない?」
 (えっ……)
  アスタロトは思わず、ルシファーを見つめた。
  ルシファーの思惑が良く判らない。
  いくら近衛師団の将校で相手が王族とは言え、こんな突然に護衛に付くのは余り例が無い。緊急時ならばともかく、王族相手だからこそ通常は前もって色々な調整がいるのだ。
  アスタロトと同じように、他の来客達も驚いて騒めいている。
  エアリディアルがルシファーの傍に寄り、彼女の右手をそっと押さえた。
 「わたくしの事は、あまり」
 「いいえ、エアリディアル王女、私もご招待申し上げた責任がございます。ちょうど近衛師団の大将達がいるのですから、王女のお側に付いていただいた方が心強いですもの。どうかしら」
  最後の言葉はレオアリス達に向けられたものだ。レオアリスがさすがに意外そうな表情を抑えたのが判る。
  どくん、と心臓が鼓動を打った。
  引き受けないで、と、掴みきれない意識の底で思う。
  レオアリスは傍らのロットバルトへ一瞬だけ視線を向け、頷いた。
 「王宮警護官もおいでですが――我々でお役に立てるのであれば、謹んでお受け致します。失礼ながら、馬を二頭お借りできれば」
 「ありがとう。感謝するわ。馬は用意させておくわね」
  ざわざわと、また広間が騒めいた。
  ズキ、と胸が痛む。
  エアリディアルを見れば穏やかな笑みを崩していないが、どことなく困ったようにルシファーを見つめていた。
 (レオアリスが、送って……)
  仕方がない。これだけ大勢が聞いている前でルシファーに直接王族の警護を依頼され、近衛師団の大将として断る選択肢など無い。
  それもエアリディアルの面前で。
 (近衛師団なんだもん、仕方ない……)
  でも。
  話を、したかったのに。
  エアリディアルはアスタロトと話をしたら帰ってしまうだろうから、今日も言葉を交わす時間が無いようだった。
  アスタロトは視線を落としたまま、その場を通り過ぎた。
 
 
 
  
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