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王の剣士 六【紺碧の守護者】

第三章 「潮流」

十二

「西方公」
 ロットバルトがルシファーを呼び止めると、ルシファーも振り向いて視線を持ち上げる。ロットバルトがゆっくり歩み寄って来るのを待ち、笑みを向けた。
「どうかした?」
 声をかけられるのは半分予想どおりと、そんな表情をしている。
「少しお話をさせていただきたいと――お時間を頂いてもよろしいですか」
「貴方からの誘いを断る女はいないわ、ヴェルナー。ここで? それとも二人きりで別の部屋がいいかしら?」
 ルシファーは戯れているように笑ってみせたが、周囲の視線は西方公とヴェルナーが何を話すのか、注目している。
 先ほどのルシファーの依頼――その裏にあるかもしれない、王の意思について――
 ロットバルトは口元に笑みを刷き、ルシファーの手を取って持ち上げ、指先に唇を寄せた。
「では、二人きりで」
 ルシファーがくすりと笑う。
「いいわ」
 ロットバルトはルシファーの手を取ったまま、すぐ隣にある小振りの談話室へ導いた。
 ふと微かな香りが漂い、それがロットバルトの意識を引いた。
 あまり嗅いだ事のない香りだ。独特の調合なのかもしれないが、少し、変わっている。女性が好んでつける香りとは違うように思える。
 香水というよりは、どこか強い匂いの立つ場所にいて、それが衣服に移ったような――。
 その香りを追うように瞳を細めたロットバルトの頬に、ルシファーは手を伸ばして指先で触れた。
「二人きりになったら、まずは相手の瞳を見るものよ。貴方にはそんなこと言うまでもないと思うんだけど」
「――失礼。珍しい香りを纏っておいでだったので」
「ああ……これ? そうね。でもすぐに消えてしまうわ。ほら」
 ルシファーが肩を竦めた時には、もう先ほどの香りは跡形も無く、代わりに柔らかい花の香が漂った。
「残念ね」
 口元に薄っすらと笑みを浮かべ、ロットバルトを見上げていたずらっぽく片眼を瞑て見せる。
 ロットバルトはその香りの事を、余り深くは拘らなかった。
 その時は。
 一歩身を引き、改めて向かい合う。
「それにしても今日の趣向は、ずいぶんと大胆ですね」
「そう?」
「少なくとも私には、今の段階でこの状況を見せる事は、周囲の憶測ばかりを深めさせるもののように思えます」
 ルシファーは暁の瞳を、揺らめくように細めた。
「それで私に何か意図があると思うの」
「何のお考えもなく貴方がこうした事をなさるとは思えません。来客達が噂しているような陛下のお考えがあるとも思えないですしね。もしあったとしても、貴方がこうした場所でそれを軽々しく示して見せるというのは、あまり似つかわしくない行為でしょう」
 西方公の言葉はそれだけ影響力を持っている。周囲は簡単に王の意思を見るだろう。
「――」
 ルシファーはじっと黙っている。少女のような涼やかな目元には、感情は汲み取れない。
「そもそも、アスタロト公は貴方の親しいご友人でもあるのでは」
「あら、貴方がアスタロトの心配までしてあげるなんて、あの子は喜ぶかも。ねぇ、少し相談に乗ってあげたらどうかしら。結構悩んでるのよね。恋愛相談は得意?」
「苦手ですよ。そのたぐいで私に有効な助言ができるとは思えませんしね。――特に今は」
 まぜっ返したもののロットバルトが乗って来ないと見て、ルシファーは残念そうに肩を竦めて見せた。ただ、どことなくそれを楽しんでいるようにも見える。
「今は、ね?」
「――何故、憶測を喚起しようとなさるのか」
「それは警告?」
「いえ、単なる疑問です」
 ルシファーはくすりと笑って一歩近付いた。軽やかなその一歩で、空気が質量を持って動く。
「――貴方みたいな鋭い男は嫌いじゃないわ。でも、長生きしないかもね?」
 風の力でなのか身体をふわりと浮かせ、肩に両腕を回した。体重など全く感じさせず、存在すら空気のような透明感で、瞳を覗き込む。
 唇を寄せ――、微かに笑った。
「……嫌だわ。女から迫ってるのに顔色一つ変えないのは失礼じゃない? それとも私に魅力が無いのかしら」
「充分魅力的ですが、本気ではない女性に手を出すのは後が恐いので」
「本気の女の方が恐いでしょ」
 ロットバルトは苦笑を浮かべ、ルシファーの両腕を取って解いた。
「貴方の想い人に恨まれるのも遠慮したい」
 ルシファーはふと顔を逸らした。
「いないわ、そんな男」
 自分の身体を浮かせていた空気をほどき、ふわりと床に降り立つ。
 一旦俯いていた面を、上げた。
「いたけど、三百年も前の話ね」
「――」
「あらまた。あれこれ考えるのは止めなさい。そういう男が早死にするのよ」
「――肝に命じます」
「それでいいわ。貴方が死んだら悲しむ人は多いでしょう」
 ルシファーは笑ってそう言った後、暁の瞳をふっと宙に彷徨わせ、それからロットバルトに背を向けた。



 エアリディアルは束の間アスタロトに視線を注ぎ、何を憂えているのか、藤色の瞳を微かに曇らせた。
 けれどアスタロトが広間に向けていた視線を戻した時には、もう瞳から憂いが払われた後だ。
「エアリディアル王女、お話って」
「そうでした。でも実を申しますと、改めてお時間をいただく話ではないんです」
 エアリディアルはそう言って、いたずらっぽく微笑んだ。
「あの場がとってもこんがらがっていたものだから」
「ああ、じゃあやっぱり仲裁っていうか、」
「余計な事かもしれません」
「ううん――いえ、全然」
 でもじゃあこれでもう話はないのだろうかとも思ったが、話が終わったらエアリディアルはすぐに帰る予定になっている。
 ずき、と胸が痛んだ。
「エアリディアル王女」
 つい名前を呼んだが、何を言おうとした訳でもない。
「えっと――」
 エアリディアルは小さく首を傾げ、アスタロトの言葉を待っている。
 藤色の澄んだ瞳が向けられている事に焦りを覚え、焦ったお陰でとんでもない事を口にしてしまった。
「レオアリス――じゃなくて、近衛師団第一大隊の大将と、話をされてましたけど、……あ、この間の、ファルシオン殿下の宴で」
 語尾は口の中で消えた。
 一体自分は何を聞くつもりなのだろう。
 血が音を立てて身体を駆け巡る。
 エアリディアルは瞳を軽く見開いていたが、ふわりと笑った。
「ええ――」
 その笑みにアスタロトの中の鼓動がますます高まって、まるで静まる術を忘れてしまったかのようだ。
「少しですけれど、お話する機会がありました」
 もうこの話題は打ち切ろう、と思いながら、勝手に口が動いた。
「あの、どう、思った、とか」
 何を聞いているのだろう。
 けれどうっかり口に出してしまった後悔よりも、エアリディアルがどう答えるのか、そればかりが気になった。
 そっと睫毛を上げてエアリディアルの顔を見て、何故だかどきりと心臓が跳ねた。
「殿下がとても大将殿をお好きだと伺っていましたが、その理由が判るような気がします」
 柔らかな、その響き。
 淡い、たった一言の呟きに染まるような。
 そんな気がしたと言うだけなのに、本当にそうだという気になってくる。
 どんどんどんどん、気持ちが一人で走り出してしまう。
 もし――、エアリディアルがレオアリスを、――好ましく思っているとしたら。
 令嬢達の噂話なんて、それこそ意味を持たない。
 誰がどんな事を言っても、きっとエアリディアルの意思が一番だ。
『いなかったらって、思う?』
 あの夜のルシファーの密やかな問いが、ふいに脳裏に甦った。
(そんな、こと――)
 王女が?
 息が苦しいほど、鼓動が早くて煩い。
(思わないよ)
 思いたくない。
 思いたくないと強く思う。
『思ったって変じゃないのよ。別に悪い事じゃあないわ』
 そんなふうに、割り切れない――
「アスタロト様? どうかなさいましたか?」
「あ、な、何でも」考えていた事を知られてしまったような気がして、慌てて首を振った。「――すみません、変なことお聞きして」
「いいえ」
 そう言った後、少しだけエアリディアルは何事か言い淀んだようだった。
 ほんの少しの間、ただ二人は流れる楽のだけを聞いていた。
 緩やかで高く、春を思わせる軽やかな旋律。
 アスタロトの心臓の音と重なり、不協和音を奏でている。
「――わたくしはそろそろ、失礼させていただきます」
 エアリディアルが立ち上がり、裾にふわりと空気を含ませて深くお辞儀する。アスタロトもぱっと立ち上がった。
「お気をつけて――」
 握手の為に手を差し出し、それはこうした席の挨拶には相応しくないと途中で思い直した。エアリディアルがアスタロトを見つめる。
「アスタロト様、外まで、ご一緒いただけませんか?」
「あ、はい」
 頷いて、エアリディアルに並びながらアスタロトは広間を見回し、レオアリスの姿を探した。
 今は広間には無い。
(そうか……)
 多分先に出て、エアリディアルが退出するのを待っているのだろう。
 その方が今日の異例さが目立たなくて済む。
 広間にいた来客達が一斉にお辞儀する中を、エアリディアルとアスタロトはゆっくり抜けた。
 来客達の視線には興味の色がある。
 アスタロトも彼等と同じ事が気になった。
 今日の宴は令嬢達が噂したとおり、王の意図があるのだろうか。
 エアリディアルの想いを王が知っていて、だから今日ルシファーに託したのでは、と。
 今日の急な宴とエアリディアルの出席、それから先ほどルシファーが依頼した警護。
 そう考え始めると、どれもそれを示しているとしか思えなくなってくる。
 王の意思。
『王が決めた事が絶対じゃあないわ』
 そう言ったのもやはりルシファーだ。
 じゃあルシファーは矛盾しているんだろうか。
 アスタロトの気持ちを、知っているはずなのに。
(知ってる、のに――)
 でもルシファーは、正規軍将軍と近衛師団総将とはあり得ないとも言ったのだ。
 アスタロトでは駄目だ、と。
 王が、認めないから。

 ふわりと冷えた空気が頬を撫ぜ、顔を上げると館の玄関を出たところだった。
 何の会話もせず黙ったまま歩いてきてしまった事を自覚して、さっと血が引いた。
(まずい――)
 王族に対して、公爵としてこんな対応は有り得ない。
「すみま……」
 エアリディアルと向き合った時、藤色の瞳がアスタロトを見つめ、不思議な光を宿した。
「貴方はきっと、ご自分の耳と心でお聞きになるものを、信じていらっしゃればいいのだと思います」
「え――」
 エアリディアルはそれ以上は言わなかった。
 玄関扉は左右に開かれていて、エアリディアルの馬車が階段下の馬車寄せに付けられている。
 その前に王宮警護官長だろう男が斜めに体を折って敬礼し、エアリディアルを待っていた。膝を付かないのは警護の為だ。
 馬車の前後に警護官達の騎馬が並ぶ。
 レオアリス達はルシファーが用意した馬を列の一番後ろに付けていた。手綱を取って真っ直ぐエアリディアルに顔を向けている今は、ほんの一歩後ろにいるだけのアスタロトとは視線は合わない。
 エアリディアルはアスタロトにもう一度別れの挨拶をすると、二人の女官に手を引かれ、馬車に乗り込んだ。
 扉が閉まると警護官達が馬に跨がり、レオアリスもそれに続いた。
 騎馬がいななきと共に動き出し、馬車が轍の音を立て、ゆっくり進む。
 アスタロトは頭を下げお辞儀をし、エアリディアルの馬車が通り過ぎるのを待った。
 二十名いた警護官の騎馬が過ぎていき、最後にレオアリスの乗った馬がアスタロトの前を通る。
 どきん、と胸が鳴る。
 手を伸ばせば触れられるほどの距離でしかない。
 顔を上げたい衝動と戦っていた時、ふ、と頭の上に何かの気配を感じ、つい身体を起こした。
 馬の上から伸ばされたレオアリスの手が、アスタロトの髪に触れるか触れないかの位置を過ぎたのだと判る。
(え……)
 瞳を見開いたアスタロトを見下ろし、レオアリスはにっと笑みを浮かべて軽く右手を振って寄越した。
 一言も無く、ただいつもと変わらない仕草。
 それだけで――、後は前を向き振り向かなかった。
「レ――」
 馬車の列が完全に視界から消えてようやく、アスタロトは先ほどのレオアリスの行動の意味に気が付いた。
 ぱっと頭の後ろに手をやる。
 見えないけれど、ちゃんと指先に感じられた。
 レオアリスがくれた髪飾りだ。
 触れた訳ではなくても。
 どくん、と鼓動が大きく打ち、瞬く間に身体中に響き渡った。
(気付いてて……)
 笑った。
 いつもと何も変わらない笑みなのに、思い出したとたん世界が変わった。
 苦しさを覚え、アスタロトは胸に両手を当てた。
 ぎゅっと締め付けられるような感じ。
 息ができないくらい苦しくて――
(――どうしよう)
 たったそれだけの事がすごく、嬉しい。
(私は、だめなのに……)
 今まで気付かなかった、馬車寄せの周囲に植えられた花の香がふわりと薫る。
 その薫りが少し、目眩すら感じさせるように強くて、アスタロトは両手を胸に当てたままぎゅっと目を閉じた。




 エアリディアルの馬車は何の問題もなく、王城の門を潜った。ルシファーの館から王城の正門までは馬車の速度でも四半刻ほどしかかからない。
 エアリディアルと王宮警護官達が城に入り大扉が閉じるまでを見届け、それでルシファーから依頼された急な護衛は終わりだ。
 レオアリスとロットバルトは役目を終え、馬を返して正門を抜けた。今日はこのまま乗って帰ってもいいとルシファーが言ってくれたので、手綱を引いて第一層に向かう。
 王城の周囲には高い塀と静かな夜の樹々が広がっていて、広い石畳の道が正門から真っ直ぐ伸びている。右手は北方公の敷地で、左手が先ほどまでいたルシファーの館だ。
 まだ宴が開かれているだろう館は敷地の奥にあり、王城の周囲四分の一を占める広い敷地を挟んだここには微かな音も聞こえない。
 レオアリスは塀の向こうの樹々に眼をやった。
「何事もなくお送りできて良かったな」
 それは本音だった。王族の警護はどんな時でも慎重さは失えない。
 ただ、疑問は無い訳ではない。
 レオアリスはロットバルトへ馬を寄せ、僅かに声を落とした。
「さっき西方公と話をしたんだろう。何と仰ってた?」
 ロットバルトはレオアリスを見た。あの時レオアリスには目的を言わずに席を外したのだが、さすがに気付いていたらしい。
 ただロットバルトがルシファーに確かめようとした事とは、少し方向が違うが。
「いえ、特には。余り勘ぐるなと釘を刺されましたが、それも当然でしょうね」
「まあ、西方公の意図があるんだろうし、師団の本来の役割でもあるから問題はあまりないが……」
 一端口を閉ざしてふと考える素振りを見せたものの、すぐそれを消した。
「早目に退席できたし、いいか」
 冗談めかして笑ったが、疑問が消えた訳ではなく、二人ともそれは理解していた。
 レオアリスがまたルシファーの館がある方へ視線を投げる。
「それにしても、アスタロトとはまた話せなかったな――最近元気が無さそうだったけど、今日は特にそうだっただろ。何悩んでんだか」
 ロットバルトはこの状況は理解しているとは思えないレオアリスの顔を、ちょっとした呆れも込めて眺めた。
 先ほどルシファーの館を出た時の様子に、アスタロトは今日眠れないかもしれないと思うと、さすがにロットバルトも同情を覚えた。
「何だ?」
「いえ――まあ、公とは早い内に時間を取って話をされた方がいいでしょう。話をして判る事はありますよ」
「そうだよな――」
 頷き、レオアリスは視線を通りの先に戻した。
 ざわざわと立ち並ぶ樹々が風に揺れた。





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