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王の剣士 六【紺碧の守護者】

第三章 「潮流」

十四

 ファルカンはレガージュの街の門を出て、街道の右手にある小道を登って行く。足で踏み固められた土の小道が緑の下草の中を緩やかに方向を変えながら登り、フィオリ・アル・レガージュの街の横にある見晴らしの良い高い岸壁の上を目指している。
 三百年も前には、大戦の為の城塞が築かれていた場所だ。
 石積みの城塞が、幾重にもアル・レガージュの周囲を覆った。
 城塞と城塞との間を吹き抜ける風の音が、常に高く低く街まで響いていたのだと言う。
 抜けるような青い空と輝く海とはおよそ不釣合いな、重厚で無機質な石の壁。
 ファルカンは書物でしかその情景を見た事が無い。
 大戦中は王都からの重要な補給線として城塞の中に転位の法陣が敷かれ、頻繁に兵や物資が行き来していたというが、今はかつての城塞の残骸とも言うべき崩れた石積みが、下草の間からところどころ覗いているだけだ。
 このまま風化していけばいい、と思う。
 荒事をこなすレガージュ船団を率いるファルカンでさえ、再び大戦のような争いを引き起こしたいとは思わない。
 だから、ザインともう少し話をする必要がある。
 昨日のあのザインの様子が、ずっと気になっていた。
『フィオリの船を沈めた奴だ』
 ザインは今回のゼ・アマーリア号の一件に、――ファルカンはそこで一旦自分を静めるように息を押さえた――、西海が、絡んでいると、そう思っている。
(――)
 頂上近くは道の傾斜も少しきつくなってくる。四半刻ほど登り続けて僅かに息が弾んできた頃に顔を上げると、頂上の下草の向こうにザインの家の青い切妻屋根が見えた。
 玄関への三段ほどの階段を昇り、ふと玄関脇に置かれた低い揺り椅子に視線を落とした。
 まるで引退した老人が微睡まどろみながら揺られていそうな椅子だと、ファルカンは苦笑を覚えた。これにザインが座って、昼寝でもするのだろうか。
「そう言えば三百歳越えてるんだったな。案外似合うかもしれん」
 自分はもう四十を越えたのだがザインは二十後半に見える。ファルカンが物心ついた時からずっとそうだった。
 ファルカンは右手で扉を叩いた。
「ザイン」
 耳を澄ますとまず聞こえるのは、背後の岸壁に打ち寄せる波音だ。街の中よりもずっと、この家を包むように寄せては返していく。
「ザイン、いるか」
 二度目に扉を叩いた後、家の中で足音がして、扉が開いた。椅子の上の小瓶に生けられていた野の花が揺れる。
 ザインは扉の前に立つファルカンを認め、少し意外そうに眉を動かした。
「ファルカンか――どうした、わざわざ」
「ああ……」
 いきなり用件を切り出すにも言葉が見つからず、ファルカンは取り敢えずザインの様子を眺めた。ちょうど出かけようとしていたのか、ザインは上着を着ている。
「街へ来る予定だったか」
 そう問うと、ザインは一度ファルカンに視線を向けてから、曖昧に返した。
「いや、特に出る用事はない」
 それから振り返って扉の左手にある階段の上を見上げる。ファルカンも自然とザインの視線を辿った。手摺りの向こうに二階の部屋の扉が見えた。
「ユージュはもう?」
「ああ――ここのところ良く起きてたからな。寝る期間が短い分、起きている期間も短いのかもしれない」
「難しいな」
 漠然とした言葉だったがザインは精悍な面にどことなく影を落として頷き、玄関を出ると後ろ手にそっと扉を閉めた。ファルカンに視線を戻す。
「ところでどうした。急な用には見えないが……マリの船員に変わりが?」
「いや、残念ながらまだだ。ただブレンダンからは法術院に繋ぎが取れたと朝に連絡があった」
「それは良かった、一安心だな。今日帰るのか?」
「治癒専門の法術士が別件で郊外に出てて、会うのが今日の夕刻らしい。だから王都を出るとしたら早くても夕刻以降だろうな」
「飛竜を借りて急いでも着くのは明日の夕刻か――それまでつといいが。何か少しでも事態が動いたら知らせてくれ」
「そうするよ」
 話しながらファルカンはふと、ザインはやはりどこかへ出掛けようとしていたのではないかと思った。何となく、ファルカンとの会話を急いでいるように感じられたからだ。
「――他で用があるのか? じゃあ俺の方は今じゃなくても……」
 一旦口を閉じる。
 それから、ザインへ身体を向けた。
 直感的に、そう思った。
どこへ行くんだ・・・・・・・
 まるで行く手を塞ぐように、ファルカンが短い階段の前に立つ。板目の床に低い手摺りが巡らされた玄関前は、手摺りを乗り越えるのでなければファルカンが塞いでいるこの階段くらいしか通る所はない。
「――どうかしたか?」
 ザインはファルカンとは真っ直ぐ向き合わず、身体を斜めに立ったまま、視線だけファルカンに向けた。
 はぐらかすような物言いが、余計に疑問を掻き立てる。
 ファルカンは一度、深呼吸するように息を吸った。
「俺の思い違いならそう言ってくれ。まさか――、西海の関わりを証明しようって言うんじゃないだろうな」
 ザインは黙ってファルカンの顔を見ている。
 玄関の広いひさしに太陽の光が遮られているせいで、長い間立っていると肌寒い。じわりと、体の芯に忍び込んでくるような寒さだ。
 こんな陰の中にいるのではなく、早く陽の当る場所に出たい。
 右手に広がる海の沖、水平線で何かが光を弾く。
(何だ……)
 あれを確かめに岸壁に行くべきじゃないか。
「――」
 この場・・・を離れる為の口実を探している自分に気付き、ファルカンは拳を握り込んだ。
 圧されているのだ、ザインの持つ空気に。
 ただ、このまま帰る訳にはいかない。
 この為に――、ザインを止める為に来たのだ。
 ふう、と大きく息を吐いたのは、自分を落ち着かせる為と、ザインがファルカンに圧迫感を与えて帰らせようとしている事にだった。
「ザイン」
 ザインは黙っている。その沈黙が何より雄弁にザインの意志を物語っているようだった。
 だからこそ、違う、と、ザインの口からそう言わせなくてはいけない。
「ザイン、長年レガージュを守ってきたあんたに生意気な事を言うつもりはないが、俺はレガージュ船団の船団長だ。レガージュを守るって意味じゃあんたと立場は同じだと思ってる」
「良く判ってるさ」
「だからもし、あんたがこの件で西海の関わりを探そうって言うなら、それは」
 視界の端にまた何かが引っ掛かった。先ほど光を弾いたものだ。
 意識してやり過ごし、しかし何故か無視しきれずに、引き寄せられるように顔を向けた。
 玄関の庇の陰の向こうは遮るものの無い陽光が満ち、岸壁に隔てられて広がる海が、ずっと遠く水平線まで見渡せる。
 光を反射するその水平線に、黒い小さな影があった。
 ファルカンは束の間ザインとの会話も忘れ、影に見入るように眉を寄せ、ぽつりと呟いた。
「船――」
 一隻だけではない。数隻の船が、水平線に姿を現わしたところだった。まだ陽炎のようだ。
「船団だ」
「船団?」
 ザインはファルカンの言葉に振り返って沖合いを眺め、庇の下を歩いて手摺りに手を掛けた。身を乗り出すように水平線を見据えたザインの表情が引き締まる。
「どこの船団だ」
 手摺りを越えて下草の上に降りると、ザインは大股に岸壁の縁に歩み寄った。岸壁を吹き上がる風が髪や服を煽る。
「あれは……」
 ファルカンは玄関の壁に掛けてあった遠見筒を掴んで、丸い筒を覗き込んだ。
 丸い視界がまずは青い海を捉え、船の舳先に割られて泡立つ海面を捉え、船体をぐっと上に移って甲板と帆柱を捉える。
 翻る旗が見えた。
 鼓動が一瞬止まり、どくんと大きく一つ打った。
「……マリだ」
 風に流れている旗はマリ王国海軍旗。
 ファルカンは遠見筒の視界の中、船の舳先から覗く二基の砲門に気付き、鳩尾のあたりがすうっと急速に冷えるのを感じた。
 舌が乾く。
「火球砲――」
 ザインが問いかける鋭い視線をファルカンに向ける。
「――マリ王国、海軍だ」
 駆け寄り、遠見筒を手渡しながらファルカンは早口でそう言った。
 ザインはしばらく無言で遠見筒の奥を睨んでいたが、やがてそれを下ろした。先ほど水平線から現われた船団は、僅かの間にぐっと近付いたように思える。
「何でマリ海軍が今、都合良くここにいる」
 ザインの声に怒りが滲むのが判る。それが二重にファルカンをひやりとさせた。
「偶然、補給に寄港したのかもしれん」
 そう言ってはみたが、自分自身全く信憑性が無い。ザインの言葉は容赦が無かった。
「組合に通知があったか?」
「――」
 答えられないファルカンに対し、ザインは切り替えるように視線を外した。
「……風が沖から吹いている。半刻もしない内に――射程・・に入るな」
 何の、と問い返すのは愚問だろう。
 マリ王国海軍が誇る火球砲――その砲門が、嫌でも目に付いた。
 射程――
 右側の眼下に広がる街を見下ろす。
 今ファルカン達がいる位置は街よりずっと高い。レガージュの街はまだ近づいて来る船団に気付いた様子はなく、穏やかな顔を見せていた。
 それが逆に硝子で作られた模型のように見える。
 後もう半刻後には脆くも崩れ去る平穏だと思えた。
「街に下りよう。すぐに街も気付くだろうが、カリカオテ達と話をすべきだ」
 遠見筒をファルカンに渡し、ザインはもう一度船団を睨んでからきびすを返した。
「ああ」
 ファルカンも後を追って、急ぎ足で先ほど来た道を下り始めた。
 傾斜の強い斜面を、次第に道など関係なく、下草に靴底を滑らせるように駆け降りる。
 鼓動が早く、街が遠く感じる。
 ちらりと左の海を見れば、マリ王国海軍の船団は確実にレガージュに近付いて来ていた。
 射程に入ったら、マリ王国海軍は、どうするのか。
(――どういうつもりで、マリは)
 恐れより困惑が強かった。
「くそ」
 街に着いたらまず何をすべきか。街の住人達を避難させる必要はあるだろうか。
 ふっと気付いて足を止め、前を行くザインに声を掛けた。
「ザイン、ユージュは! 起こさなくていいのか」
 ユージュを一緒に連れていった方がいいのではないかと思ったが、ザインは下って来た道を見上げ、首を振った。
「……いや、いい。俺の家はまだ大して問題はない」
 火球砲の射程にも、対象にも入りにくい。
「それに――」
 口にしかけた言葉を、ザインはしまい込んだ。
「何だ」
「とにかく街と、港だ。一番危険が高い」
 そう言うともう背を向け、ザインは斜面を降りて行く。
 ファルカンは一度迷い、それからまた走り出した。



 メネゼスは司令船の操舵室に置かれた椅子にどかりと腰を降ろし、両足を卓の上に載せると、靴先の向こう、前方の陸地に広がる街を眺めた。港には複数の船が停泊している。
 商業船が数隻と――、レガージュ船団の小型船が数隻。
 口元をにやりと歪めた。
「――相変わらずの繁栄っぷりだなァ、レガージュは」
 彼が最後にレガージュを訪れたのは、もう二十年も前、二十代半ばの若造だった頃だと、街の姿を睨みながら思う。
 独特の風景は、海から眺めた方が良く判る。
 特に攻略しようと考える者の視点には。
(相変わらず攻めにくそうだ)
 シメノス河河口の両側が崖のように高く立ち上がり、延々と左右に断崖となって伸びている。
 河口右手の比較的緩やかな斜面に、白い漆喰の壁と青い瓦屋根の家々がひしめきながら立ち並ぶ。街の通りを構成しているのはほぼ、狭く急な坂道と石段だ。
 街全体の造りは河に沿うように河口の奥へ入り込み、湾も深く、海に面している範囲はこうして見ると狭い。
 湾を守れば、敵の侵入を許す事の無い堅牢な城砦になる。
「お前はどう思う?」
 傍らの副官に視線を上げる。
「まずは警告として港に一発撃ち込み、様子をご覧になっては」
「撃つか、気の早ぇ」
 メネゼスは口元を歪めて笑ったが、まんざら否定する様子でも無い。
「だが火球砲の二、三発じゃちねぇだろうし、下手に砲門チラつかせるだけじゃ脅しにならねぇか」
 本国からの指示はレガージュの港を包囲し返答を待てというもので、攻撃せよとは言ってきていない。
 まだ。
 メネゼス達の怒りは、六日前のあの時よりずっと深まっている。
 ここに来る途中に軍船二隻をゼ・アマーリア号の沈んだ海域に向かわせ、アマーリアの船員二人を何とか救助する事ができたと昨日連絡があった。明日にはここで合流できるだろう。
 その二人の証言もまた、あの日レガージュ船団の船から救出した男と同じものだ。
 レガージュ船団の船が、ゼ・アマーリア号を沈めたのは、最早疑いようもない。
 傍らの副官はちらりとメネゼスの横顔を見た。
 救出した二人の中にも、メネゼスの甥はいなかった。
「しかし本国にも一言もねぇとは、とことんなめてやがるな」
 のんびりした口調とは裏腹に、メネゼスは近寄りがたいほどの怒りを纏っている。
「あそこまでやっておいて、こっちが戦乱を避けると、自分に都合のいい甘い事を考えてんのかね」
「――何故、レガージュはあそこまでやったんでしょう。不利は目に見えてますが」
「さてねぇ、さっぱり判らん。なんせ一言もねぇんだからな。長くやってて色々飽きたんじゃねぇか。うちを巻き込むのは大分迷惑だが」
 メネゼスは隻眼を伏せ、喉の奥で低く笑った。
「――まあ、その理由を吐き出させてやろう」
 鋭い眼光を向けられ、副官は背筋を張って合図の片手を上げた。
 一等航海士の声が伝声管を走る。
「全船、停船! 船首をレガージュに固定しろ」
 各船へと指令が送られ、メネゼスの乗った船を中心に、九隻の船はレガージュの街と向かい合うように横に展開し始めた。
 風を孕んでいた帆が巻き上げられていく。
 火球砲の射程に入るぎりぎりのところで、船団は停止した。
 帆が風を受ける音が止むと、一気に静けさが落ちる。
 波に揺られて船体が僅かに軋む音と、海鳥の鳴き声が辺りを支配した。
「さて、暫くここで待つか。まずは出方を見るとしよう。どんな言い訳をしてくるのかをな」



 ザイン達が街に入り坂道を下っていく間に、レガージュの街は波が寄せるような喧騒に包まれ始めていた。
 もう入り組んだ通りの低い屋根越しからも、近付いて来るマリ王国海軍の船団が見える。
 ザインとファルカンの姿を見付ける度、通りのあちこちから街の住民達が不安そうに海を見ながら問いかけてくる。
「ザイン、あれは一体」
「ああ、マリの船だ。入港したらカリカオテが話を聞くだろう」
「まさか、ファルカン団長、戦争なんて始まるんじゃないだろう?」
「当たり前だ。そんな事ある訳が無い。あんたは心配しすぎだよ」
「ゼ・アマーリアの関係だろうか」
「そうだろうな、おそらく……。ちょうど近海に居て、事情を聞きに来たんだろう」
 街の住民には、まだゼ・アマーリア号が沈んだ詳しい経緯を伝えていない。だから騒めきが街を満たしながら、混乱や恐怖は無かった。
 そもそもマリ王国海軍の船団がレガージュに姿を見せた理由は、現時点では判っていない。
 推測だけ――ただその推測は当っているだろうと思われたが、それには大きな疑問が付きまとう。
 マリ王国本国からは、どれほど急いでもレガージュに辿り着くまでに半月は掛かるはずだ。
 ゼ・アマーリア号が沈んでから、まだ六日しか経っていない。
(――)
 ザインは拳を握り込んだ。
 感じているのは強い苛立ちだ。
 ゼ・アマーリア号の沈没から、いや、それ以前から――、全てを仕組み、仕掛け、操っている者がいる。
 ファルカンの考えるとおり、既に彼は確信していた。
 ゼ・アマーリアを沈めた者。
 海から船を作り上げ、レガージュ船団の船に仕立てた者。
 マリ王国海軍をレガージュ近海へ導いた者。
(必ず、捜し出す――)
 じり、と苛立ちが胃の中で焦げる。
 あの船団が現れた事によって確実に、ザインは動きを封じられる。
(――)
 苛立ち。緩く立ち上がる怒り。
 掌に握りこんだ爪が食い込む。
「ザイン、見ろ! マリの船が停まった!」
 ファルカンの鋭い声に視線を上げれば、家々の屋根の向こうに広がる海に、マリ海軍の船団が横一列に展開しているのが見えた。
 帆が巻き上げられて行く。
「――、急ぐぞ」
 まるでこの港から一歩たりとも出る事を許さないとでも言うように、街の前面に展開したマリ海軍の船団を見据え、二人はざわつく街を駆け下り交易組合の会館へ向かった。





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