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王の剣士 六【紺碧の守護者】

第三章 「潮流」

二十

 南海に向って突き出した緑の岸壁の上に、今はぼろぼろに崩れ落ちた城塞の名残がある。かつて、四百年近く前に、西海との大戦の為に築かれたものだ。
 短い下草の上に崩れた石積みが残るだけのそこに、王都の法術士――法術院院長アルジマールは道を開いた。
『昔は良く使った場所だ――運が良かったね』
 ブレンダンににこりと笑ってそう言った。転移の法術とは基本的に、術者にとって未知の場所に飛ばす事が難しいからだ。
『まあ僕はどこでも、貴方の頭の中にある風景に飛ばせるが、それはちょっと危険だし』
 途中でうっかり別の場所を思い浮かべられちゃったらね、とアルジマールは年齢不詳の口元で笑った。
 本当なら昨夜、もう法術士とは引き合わせられていたから、王都を発つ事はできた。しかしアルジマールは飛竜で戻るより転位の法術を使った方が早いと勧めてくれ、その言葉に甘える事にした。
 移動が朝になったのは、レガージュの城塞跡に敷かれていた法陣が三百年の歳月に綻びていて、補修が必要だったからだ。
 当然ブレンダンにはそんな事を言われても良く判らない。
 アルジマールは平然と、一晩あれば直せると言ったが、遠隔地の法陣に手を加える事がどれほど困難で高度な技術を要するかなどは、皆目検討がつかなかった。
『直すのはそう難しく無い。僕が敷いたからね、あれは』
 というその言葉の方に驚いて、自分で敷いたというと一体この人は幾つだろうかと考えを巡らせ、あんぐりと口を開けていた。
 今朝、指定された七刻に法術院を尋ねると、もうアルジマールは用意をしてブレンダンを待っていた。まだ半刻も前の話ではない。
『何にせよこれで剣士殿に貸しが作れたな。いつ返してもらおうかなぁ〜』
 嬉しそうな口調にブレンダンは何となく焦りを覚え、『お礼なら私どもが払います』とそう言い掛けた時には、もう目の前に青い空が広がっていた。
「あれ――ここはレガージュか?」
 ブレンダンはきょとんと辺りを見回した。
 確かにフィオリ・アル・レガージュの、港と街を見下ろす岸壁の上だ。ザインの家の青い屋根の先が左手に見える。
 先ほどまでの薄暗く訳の判らない匂いの立ち込めた法術院ではなく、乾いた潮の香が鼻先をくすぐる、広い青い空の景色。
 そして海。
 少し頭がくらくらするが、それ以外は全くどこも何ともない。
 たった一瞬で王都から千九百里も離れた地に移動したという実感はまるで無いが、ここがレガージュである事だけは確かだった。
 ブレンダンは一旦帽子を取って頭を振った後、もう一度被り傍らの法術士を振り返った。
 一昨日、レオアリスからアルジマールへの紹介状を貰って、その足で法術院へ向かった。アルジマールは翌日――、昨日の夕方に、一番の治癒師を呼び寄せてくれた。
 深く被った被きの下の顔は、深い皺が何本も刻まれているが穏やかそうだ。
「あの、このお礼は私どもの方からさせていただくので」
「礼?」
「先ほど院長が、大将殿に貸しができたと。大将殿には無理に頼ってご紹介いただいただけで、今回の件自体には関わりはないんで、お礼は我々が」
「ああ、あれは院長の個人的探求心だから、余り気にする必要はない」
「はぁ」
 何となく相槌を打ったら、法術士はぎょっとするような事をのんびりと言った。
「いかにアルジマール院長でも、王に仕える剣士の腹は一存では裂けんよ」
 ぱちぱちと目をしばたたかせ、ブレンダンは取り敢えず思考を通常に戻してみた。
「――は、腹を割って話すって事ですかい?」
 法術士がのんびり首を振る。
「いやいや――、院長は剣士殿の剣に興味があるのだ。彼の剣は珍しい。普通腕だろう、剣士は。だから見てみたいのだよ」
「――」
 見てみたい。
 見るというのがどのような手段によるものか思いつきたくないが、とにかく何か問題が起きる前に早いところ充分な礼をしてしまおう、とブレンダンは強く思った。
「さて、病人はどこだね」
 法術士が首を巡らせる。それから目前に広がる朝日に青く輝く海を指差した。
「ずいぶん沢山の船がいるな――あれがレガージュ船団かね?」
 ブレンダンも老法術士の指先を追って沖合いを見つめ、まずは首を振った。
 半里ばかり沖合いに、十隻近い船が横一列に並んで停泊している。あれはまるでレガージュの街と向かい合っているようだ。
 太陽の光が海面に反射して、ブレンダンは眩しさに目を細めた。
「――あれは違います。あんなでかいのはさすがにうちの船団じゃありませんや――何ですかね、ありゃ」
 どこかの船団が入る予定だっただろうか。やけにものものしい。
 掲げられた船旗を良く見ようと、目の上に手で庇を作って猪首を伸ばす。
「何だ、マリの――」
 口を中途半端に開いたまま、ブレンダンの顔からざあっと血の気が引いた。
「ぐ、軍船? 何で――」
 はっきりとした言葉ではなく、ただブレンダンは瞬時に事態を理解した。
 昨日ファルカン達がしたように崖の縁に駆け寄り、港を見下ろす。
 港には、レガージュ船団の船が三隻揺れている。
「――ファルカンの船はあるな……、ああ」
 しかしたったの、三隻だ。十隻もの軍船に対して、僅か三隻。
 いや、そういう事じゃない。
 三隻でも十隻でも、始まって・・・・しまったら、終わりだ。
「何て事だ」
「どうかしたのかね」
 老法術士がブレンダンに歩み寄り、声をかける。事情を知らない法術士の面には、まだのんびりした色しかない。
「ああ、いや……」
 ブレンダンは曖昧に首を振りながら、一度左手に見えるザインの家の方を見た。
「ザイン――」
 そうだ、ザインだ。
 ザインがいるのだと思うと、例えようもない安堵が沸き上がった。
 今の時間なら、まだ家にいるかもしれない。「す、すぐ戻ります、ここで待っていてください」
 そう言ってブレンダンは法術士の返事を待たずにザインの家に駆け出した。傾斜のきつい坂道を登り、玄関に駆け寄る。
「ザイン――、ザイン!」
 扉を叩き、声を張り上げてザインを呼んだが、返事は無かった。
「ザイン!」
 家はしんと静まり返っている。二階の窓の鎧戸がしまっているのを見て、今はザインが留守でユージュが寝ているのだと判った。
「もう街か。そ、そりゃそうだ、あんなのに気付いてないわきゃない」
 くるりと向きを変え、今度は街へと走り出した。坂を上がってきた法術士の腕を掴んで走ろうとすると、老法術士は宥めるように両手を広げブレンダンを引き止めた。
「待て、待て。急ぐのかね」
「急いで街に下りる。悪いがあんたも走って」
「私には走るのはこたえる。あそこに行けばいいのだろう」
 法術士が指差したのは港の桟橋だ。この場所からだと街は崖に隠れ、桟橋だけが突き出して見える。
「は? いや、あそこまでじゃないが、すぐに街に行きたい。後から説明するが大変な事態なんだ」
 老法術士は逆にブレンダンの腕を掴み、何事かをゆっくりと呟いた。
「だから悪いが」
 ぐらりと足元が揺れ、次の瞬間にはブレンダンは港にいた。
「は……?」
 つい先ほどまで立っていた岸壁の上を見上げ、港を見回し、それを二、三度繰り返す。
 確かにレガージュの港の桟橋だ。視線を上げた斜面の途中に、交易組合の会館の建物が見えた。
 港にいたレガージュ船団の男達数人が、ふいに現われたブレンダンの姿に驚いて駆け寄ってくる。
「――すごいな、法術ってのは……なあいっそ、マリの海軍に何かぱっと」
「私の得意は治癒だ。――病人はどこかね」
 微かに、不審そうな光が老法術士の目の中によぎぎったのを見て取り、ブレンダンは口を閉ざした。
 ブレンダンが事情を判っていない以上に、この王都の法術士は事情を知らない。迂闊な事を口にしたら、王都にいらぬ疑いを持たれてレガージュの立場が悪くなる。
 カリカオテ達は王都にこの事は報告しているのだろうか。
「こちらです」
 法術士へはカリカオテやファルカンから事情を話す必要があると思いながらも、ブレンダンは港を出て街へ入り、坂道を上り交易組合会館へ向かった。



 ブレンダンと老法術士が交易組合の会館に向かう道すがら、あちこちで女達が店を開ける準備の手を止め、不安そうな顔を寄せ立ち話をしていた。子供達は軍船の恐ろしさよりも興味が勝るようで、港への坂道を駆け下りたり駆け上ったりしていて、興奮した声が騒がしい。
「あの軍船とさ、戦いになるのかな」
「九隻もいて、強そうだよ」
「レガージュ船団の方が強いに決まってる」
「でも昨日の砲撃見ただろ、まずいよあれ」
「あんな軍船、ザインがいれば大丈夫だって」
 子供達の会話の中に含まれた、戦いという言葉に、ブレンダンはどきりとした。
 ブレンダン達が通り過ぎると、立ち話をしている女達は、ブレンダンが連れた法衣姿の法術士を見ると訝しむ目を向けた。だがそれ以上に、坂道を上る間じゅう、後からついて来る法術士の不審の目が背中に張りつくように思えた。
 法術士の不審は、王都の不審だ。肝が縮む思いがする。
 交易組合の前に着いて、そこに見つけた光景にブレンダンはぎょっとして思わず立ち止まった。
 商人達が会館前に集まっている。会館の入り口にはレガージュ船団の男達が立ち、詰め寄る人々を押し留めていた。今通り過ぎてきた街の様子など、静かなものだったのだと思わせる熱気がある。
「何が起きてるのか説明してくれ! マリの使者は何て言って来たんだ」
「組合長やファルカン団長はいるんだろう」
「船団は何をやってるんだ」
 まだ朝の早い時間でありながら、二十人ばかりが集まっている。
「もう少ししたら説明がある! 何の問題も無い、落ち着いて待っててくれ」
 そう言う船団の男達自身にも、落ち着かない様子が見て取れた。
「昨日から一晩経ってるんだぞ! 領事は話を付けたんじゃないのか!」
「大丈夫なのか、レガージュは。交易はどうなるんだ。俺んとこの船は今日出るはずだったんだぞ」
「マリと戦争になるのか」
 ブレンダンは人々の間を掻き分け、会館の階段を上がった。
「団長の依頼で王都の法術士を連れて来た、入れてくれ」
 船団員はブレンダンの事を聞いているのだろう、すぐに脇の小さな扉からブレンダンと法術士を押し込むように通した。
 法術士の独特の長く陰鬱とした法衣を見た商人達から、今度は何事かと不安がる声が聞こえ、それもすぐに扉に断ち切られた。
 会館に入るとブレンダンは真っ直ぐに階段を上がり、二階の会議室に駆け込んだ。
「カリカオテ――! どうした事だ、これは。何が起こってるんだ?!」
 机を囲んで何かを見下ろしていたカリカオテやファルカン達は、顔を上げ、予期していない相手の登場に驚いた顔を見せた。ブレンダンの帰りは早くても今日の夕方だと思っていたからだ。
「ブレンダン! 帰ったのか、てっきり夜だと――」
「王都の法術院長が、何とかって法術で送ってくれた。それよりありゃあ何だ。マリの軍船が何であんなに来てるんだ。あれじゃまるで」
 カリカオテは口を開きかけ、ちょうどブレンダンの後から入ってきた老人を素早く見やった。
「――」
 ブレンダンがカリカオテの視線を追い、ああ、と頷く。
「この人が法術士だ、王都の」
「貴方が――」
 憔悴していたカリカオテの面が僅かに明るくなる。
「来てくださったか」
「ああ、何にしろ怪我人を回復させてやれる。どうだ、容体は」
「……一人死んだ」
 まだ表情に明るさが残っていたブレンダンも、愕然として言葉を詰まらせた。
「遅かったのか……」
 証人が失われてしまったという事は、マリ王国への釈明の機会も大きく失われたという事になる。
「じゃあもう、誰にも証明は……」
「いや、まだだ。まだもう一人助けた男がいる。その一人が目を覚ませば、全ていい方向に行くはずだ」
 皮肉な話だろう。
 荒れた海に投げ出され辛うじて命を拾った男が、今や溺れかかったこの街全体を引き上げる、頼りない一本の命綱だった。
「――何とかなる」
 扉の前に立ったままじっと彼等の様子を眺めていた法術士が、静かに口を開いた。
「――色々と込み入った事情があるようだが、まずはそのもう一人を助けよう。案内して貰えないかね」
 カリカオテやブレンダンがはっとして口をつぐむ。法術士に聞かれて不味い話を何かしたかと思い返してみた。
「そ、そうだ、ともかく、その男を早く治してやらんと」
 ブレンダンも頷く。
「この者にご案内させます」
 ファルカンの指示で、すぐに法術士の孫ほども若い船団員が法術士を案内して部屋を出た。
 法術士が部屋を出ると、どことなく緊張がほぐれ、ほっとした空気が流れた。
 ブレンダンは室内を二度ほど見回した。ここにいるのはカリカオテとファルカン、それからエルンストら三人の幹部だけだ。
「ザインはどうしたんだ? どこかに行ってるのか」
「――」
 カリカオテがファルカンを見、ファルカンが苦渋の面持ちで口を開く。
「ザインは、組合の意思で、拘束した」
 ブレンダンは呆気に取られ、目を剥いてファルカンを見た。
「な、何でそんな事を……! そんな――、そんな事がま、街に知られたら、大騒ぎになるぞ!」
「判ってる――」
「今だってありゃあ、何も説明がないって前に集まってんだろう、それが」
「判ってるんだ」
「――」
 唇を真一文字に引き結んだファルカンや、苦悩の色を浮かべたカリカオテの様子に、ブレンダンはそれが深い事情があっての事だと理解した。
「何があったんだ」
「――ザインは、マリの船を沈めたのが西海だと考えている」
「……さ、西海?」
「西海の首謀者を捜し出して捕らえれば、マリ海軍を納得させられるはずだと――。だが、そんな事をしたら今以上に危険な状況になってしまう」
 カリカオテが繰り返した昨日の経緯を聞いて、ブレンダンも唸った。
 ブレンダンにしても、カリカオテやファルカンの対応は間違ったものではないと、そう思える。
 そしてザインは。
「――ザインは……ザインの奴は三百年の間ずっと、同じ想いを抱えてたんだなぁ」
 ブレンダンは溜息のように、ぽつりと呟いた。
「忘れらんねぇのか」
「――」
 おそらくカリカオテやファルカン達も、それを考えただろう。考えた上での選択だ。
「俺達は街を、レガージュを守らなきゃならん」
「ああ。責めないよ、俺は」
 ファルカンはしばらくじっと、ザインを入れている三階の部屋のある方を見上げた。今朝も食事を運んだが、ザインは何も言わなかった。
 ふとファルカンの心に湧いたのは、西海への憤りだ。
 今更ながらに、今回の件を引き起こした相手に対し、じわりと怒りが芽生えた。
 西海との関係ばかりを考えて、その怒りを今まで感じていなかったのが不思議なほどだ。
 レガージュ船団長としてはそれでいい。
 だがザインを師とも仰ぎ、友人でもある者として、やはり一度怒りを自覚すれば、それが間違っていると切り捨てる事はできなかった。
「ファルカン」
 黙って拳を握り締めているファルカンの様子に気付き、ブレンダンはファルカンの名前を呼んだ。
「――俺は臆病者だな……。ザインの言うとおり……西海が絡んでるのはほぼ間違いないんだ」
 それを証明できれば。
 いや、ザインを助けて西海の関わりを証明し、マリ海軍を納得させてザインの望みも叶えて――
 そんな事もできないのだ、この街は。
 三百年、レガージュを守ってきた恩人に対して。
「何を言う。仕方ない。街を――国を危険に晒す訳にはいかない。ザインだってそれが判ってるから、我々の決定に従ったんじゃないか」
 エルンストが宥めるように言った。
「――」
 扉が叩かれ、すぐに開く。開いた扉から入ってきたのは、先ほどの老法術士だ。
「――、どう……」
 また悪い報せがもたらされるのではないかと身構えたファルカン達に対し、法術士は出て行った時と変わらない落ち着いた様子で一度廊下を振り返った。
「術は施した。順調に回復すれば二日ほどで目を覚ますだろう」
「二日――」
 口にして言い淀む。
 マリの要求期限は明日の午後二刻までだ。
「それじゃ間に合わない。何とか明日の朝、いや昼までに目を覚まさせられないか」
「難しい。元々本来備わっている治癒力を上げる術だ。度を越せば身体に余計な負担をかける事になる。それをしてでも必要だと、そう仰るかな」
「そうだ、一刻を争う事態なんだ――」
 勢い込んで頷いたファルカンに対し、法術士は冷静な目を向けた。
「なるほど」
 法術士が部屋の真ん中に進み出て、ぐるりと六人を見回した。
「私はあなた方から話を聞かなくてはいけない。無理な施術には納得の行く理由が必要だ。そして法術院として関わった以上、何も見なかった事にはできんのだよ」
 室内に沈黙が落ち、だがすぐにカリカオテがファルカン達の目を見てから頷いた。
「――判っています。決して隠そうとしていた訳ではありません。そのブレンダンも、今の事態は知らなかったのです」
 それから改めて老法術士に頭を下げる。
「フィオリ・アル・レガージュの交易組合長を務めるカリカオテと申します。この件の責任者は私とお思いください」
「カリカオテ、この件の責任は、俺が」
 ファルカンの言葉をカリカオテは右手を上げて制した。
「法術士殿――ご説明いたします。ただ、貴方はどこまで報告を上げられますか」
「院長へは話をする。その先は院長の判断になろうが――」
「王にご報告申し上げたい場合は」
 ファルカン達は強ばった顔をしたが、カリカオテに託したように黙って二人を見ている。
「陛下に、急ぎご報告し、ご判断を仰がなければいけない案件です」
 そうする事によってレガージュは、いや、交易組合は廃されるかもしれないが――これまで王への報告を避けて来たつけが廻ってきたのだ。
 街を守り、西海との争いを避ける為には、もうそれ以外道は無かった。






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