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王の剣士 六【紺碧の守護者】

第一章「フィオリ・アル・レガージュ」


 ファルシオンの館は王城の六階層に位置する。王城は内政官房や地政院などが入る五階層から下の公的機関と、六階層より上の王の居城とに分かれていた。
 居城の東の一角が、第一王位継承者の為の館だ。
 王妃と王女の館は北側に位置しており、王の館は西と南に広がる。
 王族としての様々なしきたり故に仕方の無い事かもしれないが、この月には五歳になるとは言えまだ幼いファルシオンが父や、そして母や姉と離れて暮らしているのは、レオアリスには少し寂しい事に思えた。
 去年の暮れにあった事件で、ファルシオンの中に隠された淋しさを垣間見てからは特に、それを感じる。
 近衛師団の任務は王と王城の警護だ。王族の警護も同様に任務に含まれるが、それでもファルシオンの招請は任務の範囲とは少し外れている。
 だからファルシオンが呼び寄せる時以外、レオアリスが自分から王子の館を訪れる事は無いのだが、呼ばれた時は出来る限り仕事を調整して訪れるようにしていた。
 月に四、五回、一刻から二刻ほど、他愛ない遊びや読書、勉強に付き合う。それも正式できちんとした養育官は幾人もいるのだから、もう少し成長すれば剣術の稽古くらいは担えるだろうが、取り敢えず今は、純粋に遊び相手としてだ。
 ファルシオンが得られなかった兄の代わりに。
 そして時折、二人だけで秘密の話を――する。
 本当は臣下としての立場から、もっと儀礼的に接しなければいけないのかもしれない。
 しかし王その人も、今の接し方を良しとしているようだった。
 そして前提がどうあれ――レオアリスにとってもまた、ファルシオンとの時は貴重で楽しいものだった。
 できる限りの事はしたいし、危険からは守りたい。
 その想いが剣の主である王へのそれと同じなのか違うのか、それは判らないが、心からそう思っていた。
(もうすぐ殿下の誕生日か――早く何か贈り物を考えないとな)
 今月のもう十日後に、ファルシオンは五歳を迎える。
(秘密で――)
 そう考えると何とはなしに、わくわくしてくるものだ。
 何にしようか――クライフ辺りに相談すると、いい案が貰えるかもしれない。
(それとも、アスタロトかな)
 居城への門を通り、「控えの廊下」と呼ばれる白い大理石の廊下に出ると、レオアリスは一瞬眩しさに眼を細めた。
 ほとんど白一色の廊下に太陽の陽射しが満ちていて、少し眩し過ぎる位だ。
 廊下の左右にある控えの間で待つほどもなく、正面からファルシオンの侍従達が歩いて来るのが見えた。



「ファルシオン様、大将殿がお見えになりました」
 そう言ってハンプトンが両開きの扉を開けたとたん、ファルシオンは座っていた椅子から飛び降りて駆け寄った。
「レオアリス!」
 元気良く飛び込んで来たファルシオンの小さな身体を受け止め、一旦そっと腕をほどいてから、王子の前にひざまずく。
「今日もお元気そうなお姿をお見せ頂き光栄です」
 それから顔を上げ、笑みを見せた。
「ですが、臣下をお迎えになる時は、殿下はその場においでのままで結構です」
「レオアリスは何となく、ヴェルナーの言い方に似てきたな」
 嗜められたファルシオンは少し頬を膨らませた。この場合のヴェルナーは侯爵ではなく、ロットバルトの事だ。彼もまたファルシオンの教育官を担っている。
 まあ、似るかもしれない、とレオアリスは笑った。そもそも王城での礼儀作法はロットバルトから学ぼうと思っているのだから。
「ヴェルナーも堅い言い方をしますか?」
「勉強の間とか、ちょっとこわい」
 レオアリスが声を弾けさせる。確かに、ロットバルトは年齢によって態度を変えるという事は、性格的にしそうにない。
「伝えておきます。でも、あいつは実は結構面白いんですよ」
 そう言われてロットバルトが喜ぶかは判らないが。
「本当? 一緒に遊んでくれる?」
「んー。でも取り敢えず、名前で呼んでみてはいかがですか。もっと判る事がありますよ」
「そうしてみる」
 レオアリスは頷いた。
「しかし、同じ事を申し上げるのは、つまりそれが基本的な作法だという事です。殿下のお立場では臣下に対して――」
「レオアリスは父上の剣士で、私にはゆうじんだからいいんだ」
 得意そうにそう言うと、レオアリスの手を握って引っ張った。
「昨日、姉上がご本をとどけてくださったの。それを読んでいたんだけど、わからない言葉がたくさんあるんだ」
 先ほどまで座っていた円卓にレオアリスを連れていき、少し背伸びをして卓の上に置かれた本を示した。
「早く読んで、姉上に読めましたってお伝えしたいんだ」
「見せていただいてもいいですか?」
「うん。姉上はね、読んだ本のことをいろいろお話ししてくれて、私も姉上にかんそうを言うの。だからちゃんと読んでおかなきゃ」
「それは楽しそうですね」
「うん!」
 白い革の装丁の、薄い本だ。通常でも本は高価な品だが、これは特別にファルシオンの為に装丁されたのだろう。
 表紙を開き文章に簡単に眼を通す。この国の文化や流通について判りやすく記されていたが、使われている言葉も内容もファルシオンの年齢にはまだ少し難しいかもしれない。
 けれど、ファルシオンがこの本から色々と学べるように考えられているのだろう。流通の仕組みや文化を理解する事は、国を理解する事にも繋がる。
 そして内容を理解するだけではなく、興味を持ち、判らない事を自ら調べ、意味を考えるように。
(本当に、殿下の事を想っておいでなんだな――)
 新年の祝賀会などで王妃の傍らに立つ姿を何度か眼にした事があるだけだが、人々がエアリディアルの聡明さを口にするのも、こうした些細な配慮をみるだけでも頷ける。
「では、殿下がお読にみなって、判らない事やお聞きになりたい事を俺がお教えします」
「じゃあ、温室に行って読もう、あったかいから」
「温室――。ちなみに殿下、今日はお昼寝は」
「した。さっき。今日はレオアリスが来るから、早めに寝たの」
「――そうですか……」
 レオアリスは何故だか少し残念そうに肩を落としたが、ファルシオンはまたレオアリスの手を引いて、居間の隣にある温室へ向かった。



 侍従長ハンプトンはレオアリスをファルシオンの居室に案内した後、広い館の部屋を順に回って侍従達の仕事を采配していた。
 ファルシオンが気持ち良く過ごせるように、日々の仕事が無くなる事はない。
 それにもう十日後には、ファルシオンの五歳の記念祝賀式典があり、王や王妃、そして王女エアリディアルとの正餐がこの館で行われる。
 すべき事は山のようにあった。
 日除け布を新しいものに掛け替え、天井から吊された大燭台を磨き、その日の為に美しく咲かせた花を飾り。
 料理人達は特別な献立をもうすっかり考えて、その為の食材を国内や国外から取り寄せている。
(ご招待した方々も、皆様ご出席いただけるようになったし)
 ファルシオンは誕生日をとても楽しみにしている。
 そろそろファルシオン達に新しいお茶を持って行こうと思い、何の茶葉を淹れようかとあれこれ考えを巡らせていた時、廊下の向こうに顔を出した女官が少し慌てた様子でハンプトンを呼び止めた。
「あの、侍従長様、つい先ほどエアリディアル様がお越しになるとご連絡がございました。もうこちらに向われていらっしゃいます」
「エアリディアル様が? 判りました、すぐお迎えに上がります」
 これもまた王城のしきたりの一つではあるが、王妃と王子であっても、互いの館を訪ねる時は前日までに連絡をするのが通例だ。
 朝の日程確認の時点ではエアリディアルが訪れる予定は無かったが、ただこうした突然の来訪が珍しい訳でもない。
 特にエアリディアルは、本や珍しいお菓子など、ファルシオンへの贈り物を時折自分自身で届けに来た。
(それとも、今度の殿下のお誕生祝いの事かもしれないわ)
 ハンプトンは急いで館の玄関に向かった。
 玄関広間の扉を開けた時、ちょうどエアリディアルが彼女の侍従二人と、白い廊下を歩いてくるところだった。
「エアリディアル様」
 ハンプトンは小走りにエアリディアルへ近寄り、深々とお辞儀をした。
「ようこそおいでくださいました。お出迎えが遅れて申し訳ございません」
「いいえ、急に訪ねてきてしまってごめんなさい。ファルシオンはおいでですか?」
 エアリディアルはハンプトンが顔を上げるのを待って、口を開いた。柔らかく甘い、耳を傾けたくなる声だ。
 緩やかに波打つ銀の髪が白い顔と肩を覆い、腰の辺りまで流れている。彼女がそっと微笑んで立つ姿は春の陽溜まりに咲く花を思わせた。
 母である王妃と同じ、藤色の瞳。面差しも王妃にとても良く似ている。
 ほっそりした儚げな姿でありながら、その芯にはしなやかな意思を感じさせた。
「本日はちょうど近衛師団の大将殿がいらしているところで、今はお二人で温室で本を読んでおいでです」
「まあ。それではお邪魔になりますね。出直しましょうか」
 淡い紫の瞳を僅かに見開くように、エアリディアルが首を傾げる。
「いいえ、滅相もございません。殿下はとてもお喜びになられますわ」
 ハンプトンは恭しくお辞儀をし、先に立って温室へと歩き出した。微かな絹擦れの音が静かな大理石の廊下に流れる。
 女官達はエアリディアルの姿を見て立ち止まり、やはり深くお辞儀をして迎えた。
 通り過ぎたエアリディアルを見送り、誰ともなく溜息を零す。
 淡い陽射しの差し込む廊下でも、長い銀の髪が光を纏うようだ。その存在だけで、周囲を柔らかく照らすように感じられた。
 長い廊下を幾度か折れ曲がると、ファルシオンの居間があった。
「殿下、失礼致します」
 エアリディアルに付き従っていた女官達は扉の前で立ち止まり、ハンプトンとエアリディアルだけが扉を潜る。
 やはり居間にはファルシオンの姿はなく、ハンプトンは広い居間を抜けて隣にある温室への扉を軽く叩いた。
「殿下――」
 陽射しに満ちた温室に入り、ハンプトンは足を止めた。何かに遠慮するように息を潜めた様子に、エアリディアルがハンプトンの向こうを覗く。
「まぁ――」
 そこにある光景を見つめ、エアリディアルはそっと笑みを零した。
 ファルシオンはレオアリスに本を読んでもらっていたのだろう。少し前までは。
 温室の硝子から降り注ぐ柔らかな陽射しの中で、床に置かれた低い寝椅子にもたれかかり、二人とも眠ってしまっている。
 特にファルシオンはレオアリスの膝の上に半分身体を乗せて、すっかり熟睡中のようだ。レオアリスは寝椅子の背もたれに背中を預け、片手をファルシオンの背に置いていた。
 本は読み差しのまま、寝椅子に開かれて乗っている。寝椅子の傍に置かれた鉢植えの緑陰が、二人の上に直接陽射しが当たるのをちょうど良く遮っている。
 何とも微笑ましい光景だったが、今のハンプトンは少し慌てた。
「殿下、エアリディアル様が――」
 起こそうと近寄りかけたハンプトンの腕を、エアリディアルの白い手が柔らかく押さえた。
「いいわ、ハンプトン。せっかく良く寝ているのですもの、このまま寝かせて差し上げましょう。わたくしは帰ります」
「ですが、姫様とお会いになれなかったと判ったら、殿下は残念がられますわ」
「大丈夫。そうしたら、今晩また改めて参りますから」
 それからもう一度眠っている二人に視線を落とし、微笑んだ。
「気持ち良さそうね。ファルシオンは安心しきっているのでしょう」
 寝椅子の上で小さい身体を丸めるようにして、ファルシオンはぐっすり眠っている。
 寝椅子が庭園に向けて置かれているため、エアリディアルからはレオアリスの横顔が見えた。
「いきましょう。音を立てないでね」
 いたずらっぽくそう言って、エアリディアルは温室を出た。



 絹擦れの音がゆっくり遠ざかる。温室内はまた、暖かな光と微かな寝息だけになった。
「――」
 二人が去ったのを確認し、レオアリスは眼を開けて、息を吐いた。
「しまったな」
 起き上がるきっかけが無かった。
 ファルシオンを起こさないようにと思ったのもあるし、近付いて来たのがとても穏やかな気配だったからだが、まさか王女とは思わなかった。
 礼儀には大いに反する、というか、近衛師団という立場にありながら、王族を前に襟も正さないとは――。
「うぁあ、大失態だな――」
 思わず血の気の引いた頭を抱えた。まずい。非常に不味い。
 いや、それより何よりファルシオンが、姉に会えなかった事を残念がるに違いない。
「とにかく、後でハンプトン殿にお詫びしよう……」
 レオアリスが身を起こすと、ファルシオンも身動いだ。
 起き上がり、まだ眠そうに、両手で眼をこする。
「――レオアリス?」
「いつの間にか寝てしまったみたいですね。申し訳ありません、殿下、つい先ほど姉君がお見えでしたが」
「姉上が? どこ?」
 ファルシオンはさっと瞳を輝かせた。眠気はすっかりファルシオンの上から飛んでいってしまった。
「もうお帰りです。お起こしもせずに、大変失礼いたしました。また今日の夜にお越しになるようです」
「ホント?」
 残念そうな様子と喜びがさっと入れ替わる。
 まだエアリディアルの姿がどこかに無いか気にしながらも、ファルシオンはまた寝椅子に座り直した。
「本をぜんぶ読んじゃおう。夕方までに」



 エアリディアルを玄関まで見送り、ハンプトンは頭を下げた。
「申し訳ございません、エアリディアル様。いつもはああして殿下がお休みになられた時も大将殿は起きていらっしゃるのですが、今日は大将殿も少しお疲れだったようで……。私が先に入ってお声を掛ければ良かったのですが」
 自分が先に声を掛けていれば何も問題なく、レオアリスもエアリディアルをきちんと迎える事ができたはずだと、ハンプトンはハンプトンで深く反省していた。
 ファルシオンの侍従長として失格だ。
 ハンプトンの項垂れた様子に、エアリディアルが穏やかな瞳を向ける。
「いいえ、そもそもわたくしの予定は無かったのですし、何も問題はありません。ファルシオンが気持ち良さそうにお休みになっている姿を見ることができて、わたくしも嬉しくなりましたし――、それに、大将殿は起きていらっしゃったみたいですよ」
「え」
 エアリディアルはくすりと笑った。
「ファルシオンがしっかり寄り添っていらしたから、じっとしてらしたのね」
「まあ――。気が付きませんでしたわ」
「とても澄んだ空気で――、でも、他意がある者は近付くのは難しそう」
 遠くを見つめるような瞳でそう言って、またハンプトンへ柔らかい眼差しを向けた。





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