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王の剣士 六【紺碧の守護者】

第四章 「剣士ザイン」

十四

『……の前で、それを証言できるといいが……』


 誰かがそう言った。女だった。
 微かに笑っていた気がする。
(――誰の、前だ)
 聞き取れなかったが、確かにそう言った。
 三日間海を漂っていた彼を見つけて
 それから
(ど、こか――移動した。俺は船に乗ってたっけかな……)
 まるで小型の帆船のような速度で波間を進んだ。頬に当る風と波を跳ねる浮遊感が感じられた。
(違う。あれは船なもんか。船長の寝台だったじゃねえか)
 バラバラになった船の。


『船じゃない』


 男の声がした。聞き覚えのある声だ。
(ああ? 何だって?)
『船じゃない』
 判った。自分の声だ。
『あれは船じゃない』
(船じゃあないって、そりゃそうだ――寝台だったろ)
 薄暗い視界が縦に横に大きく、不規則に揺れている。
 嵐だからだ。
 嵐の中に、彼の船は閉じ込められていた。
 荒れ狂う風と波から何とか帆柱を守りながら、嵐が過ぎるのを待っていた。
 ゼ・アマーリア号。
 古参のいい船だ。
『船じゃない』
(ああそうだ。そこらに浮いてる物に必死に掴まったんだからな)
『船じゃない』
(だから、知ってるって――)
 ふいに、暗闇を切り裂く雷光のように、映像が浮かび上がった。


 嵐の中を、  来た。


(二隻――)
 船が、嵐の中を、二隻――真っ直ぐにやって来た。
 彼はそれをはっきりと見ていた。
 同じように嵐に閉じ込められた船だとそう思い、同じように帆柱を守ろうとしているだろう乗組員達を探して甲板を眺めた。
 誰も。
 誰もいない。甲板には誰も。
 帆柱に張られた白い帆が、風に大きく膨らんでいるだけだ。
(おかしい――)
 そう、それはどこか、おかしかった。
(あんなに帆を張っちゃ、柱が折れる)
 荒れ狂う風が帆柱を折るから、嵐の時は何がなんでも最優先で帆を畳むものだ。それが生死を分ける。
(馬鹿か、何をやって)
 そう思って、ぎくりとした。
 おかしい・・・・
 帆は、船体に直角に張っていた。全身に風を受けるように。
 だが風は、横から吹いていた。
 前から吹き、横から吹き、後ろから吹いた。
 帆は一度も、向きを変えなかった。
 初めて――、恐怖を感じた。
(来るな)
 彼等の船に、ゼ・アマーリア号に、真っ直ぐ突っ込んで来る。
 意志を持ち、悪意を発散し、ゼ・アマーリアを砕こうと
(来るな――、来るなッ!)
 来るな来るな来るな来るな――!



 衝撃があった。
 バリバリと船体が裂ける音を、メネゼスは聞いた。





「……」
「……で」
「……が、早く……」
 誰かがすぐそばで、ぼそぼそと話をしている。
 言葉は、最初は頭に入ってこなかった。
 何拍か置いて、それがマリ語ではなく別の国の言葉だと気付いた。どこの国かは思い出せなかったが、意味は判ったから知っている国だ。
「ファルシオン殿下は、マリ海軍の……メネゼス提督と、今ごろ……会談を……」
(メネ、ゼス――?)
 自分の名だ。
 いや、メネゼス提督と聞こえた。
 それは自分の叔父の事だ。
「もう、間に合わないか……あんたには手を尽くしてもらったのにな」
 壮年の男の疲れが滲んだ声に対し、落ち着いた老人の声が返る。
「いいや――この男が助かった事に変わりはない。それがまだしもだ。助かった事だけでも伝えるといい」
「ああ。だが、メネゼス提督は納得するかどうか」
「全ては殿下にお任せするしかあるまい」
(叔父だ――、叔父貴――)
 そこにいる誰かを呼ぼうとして、束の間メネゼスは躊躇った。
 唐突に恐怖を感じたからだ。
 人の気配や話し声が、幻だったら――自分は今も海を漂っているのだと、思い知らされたら。
 気が狂う。
 船が沈んで故郷から遠い海に放り出されたメネゼスが、他国の人間の口から、叔父の名を聞くなど都合が良すぎる話だ。
 ただの、自分自身が作り出した幻聴――
 だがメネゼスは生きたくて、声を出した。
 彼が助けてくれる。
『――叔父、貴』
 一瞬の沈黙の後、驚いた気配が伝わった。
「眼が覚めたのか! おい、あんた」
 確かな声が返り、肩に手が当てられた。
 喜びが沸き上がる。
 メネゼスは重い目蓋を精一杯の努力でこじ開け、首を巡らせた。暗い。
 目が見えにくいのかと思ったが、実際に部屋の灯りを落としているせいだった。
 大柄な金髪の男が顔を覗き込み、マリ語で尋ねた。
『判るか? ここはレガージュの交易組合だ。あんたが海を漂っているところを見つけて、連れてきた。俺は――、レガージュ船団の船団長、ファルカンだ』
『海――、お、俺は、助かった……のか』
『そうだ、もう心配無い。この法術士の先生が治癒の術をほどこしてくれたからな』
 メネゼスが視線だけを巡らせると、枕の横に座っていた老人がゆっくり頷いた。
『気分はどうかね』
『――いい方だ。少し、目眩がするけど』
 メネゼスは息を吐きながらそう言って一度目を閉じ、それから首を振った。
『いや、すごく気分はいい――、踊り出したいくらいだ。助かったんだろ、俺は』
 ファルカンが力強く頷く。
『そうだ。もう何も心配は無い』
『――』
 メネゼスは押し黙った。
 閉じた瞼の間から涙が盛り上がり、つう、と乾いた頬を伝う。
『生きてるのか――』
 肩が小刻みに震え、押さえていながらも、嗚咽おえつが洩れた。
 ファルカンはしばらく黙って、メネゼスの額に手を当てていた。改めて見れば彼はまだ二十代半ばで、ファルカンからすれば船団の若い乗組員達に重なる。
『生きてるよ。本当に良かった。すぐに、マリに帰れる。すぐ帰してやる』
『――ありがとう――、ありがとうございます』
 しばらくの間、室内にはメネゼスの嗚咽だけが流れていた。
 落ち着いたのを見計らい、ファルカンが水差しを取り上げ細い注ぎ口をメネゼスの口元に当てる。メネゼスはゆっくり飲み込み、そしてゆっくり息を吐いた。
『――ありがとうございます。落ち着きました』
『ああ。水以外が欲しかったら言ってくれ』
『いえ――あの、ボリスは……寝台に、一緒に乗ってた』
 ファルカンは重苦しい息を吐いた。この青年を見つけた時、一緒に乗っていた男は既に亡くなって数日経っていた。
『――駄目だった』
 メネゼスは黙り込み、しばらくじっと左隣に視線を向けていた。
『そうですか……』
『――だが、あんたが助かって良かったよ。あんたは――』
 メネゼスは明瞭に口にした。
『ディノ、メネゼスと言います』
 ファルカンが眼を丸くする。
『――メネゼス? 海軍の?』
 息を呑んだような沈黙があった。見上げれば、ファルカンは緑の瞳を驚きに見開いている。
『あんた――、まさか、海軍提督のメネゼスと関係があるのか』
 何故驚くのか、それが判らなかったが、メネゼス――ディノは頷いた。それより何故叔父であるメネゼスの名前が出ているのだろう。
『叔父です』
 ファルカンはまじまじとディノを眺めた。
『叔父の名が聞こえて、目が覚めたんだ――あなた達が話していた、と思う』
『――』
『? どうか、しましたか?』
『いや……、いや』
 そう言いながら、ファルカンの声はそれと判るほど上ずっていた。
『そうか、メネゼス提督の――』
 ファルカンの緑の瞳の中に、強い光が宿る。
 一気に、希望が見えた。
「殿下にお知らせ致そう。伝令使が良いか――」
「いや、彼を船に連れて行く。その方がいい」
「では私が送ろう」
 二人は慌ただしく言葉を交わしている。
「おい、キース、来てくれ」
 ファルカンは扉の外にいる部下に声を掛け、また法術士と向かい合った。
「すぐ送れるか。彼の体調は」
「さほど問題は無い、彼の寝台ごと送ろう。そうすれば身体にも負担が少ない」
「よし――!」 ファルカンは勢い良く、右拳を左手の手のひらに打ち付けた。「行ける! だが時間は無い、今すぐ」
『一体何が』
 ディノはファルカンの服の裾を掴んだ。
『叔父が、まさか叔父がいるんですか』
 ファルカンが興奮した様子のまま頷く。
『あ、ああ、いる。いるんだ』
『俺を――アマーリアを探しに?』
 そこでようやく、ファルカンは肝心な事を思い出した。
『ああ――、そうだ、ディノ、あんたはゼ・アマーリア号が沈んだ経緯を話せるか』
『アマーリア、が』
『嫌な事を聞いて済まん――』 そう言った後、ディノが首をかしげるほど、黙りこんだ。
『ファルカン団長?』
『あんたは――、ゼ・アマーリアを沈めた船を――、見たか』
 ディノの返答は束の間の間があった。
『ディノ?』
 ひやりとして、ファルカンが問い掛ける。まずかった、と思った。
 沈めたのがレガージュの船だと、そう責めるのでは、と。
 それほど厳しく暗い眼をしていた。
『ディノ』
『見た――』
 息遣いには恐怖と、怒りがあった。
 ファルカンと法術士は、息を呑んでディノ・メネゼスを見つめた。
『けどあんなのは、船じゃあねぇ』
「――それは」
 ごくりと喉を鳴らす。
『それは、どういう、事だ』
『嵐の中で帆を張って、平然としていやがった。あんな、ふざけたもの――ありゃあ、別の』
 ディノは不思議な事を口にした。
『別の生き物――いや、何か・・だ』
 ファルカンは法術士を見た。法術士は黙って首を振ったが、心の中では判っていたかもしれない。
 ファルカンもその単語を頭に浮かべた。
 西海――
 そしてそれを掻き消す。
 そこには触れない――、王太子はそう決めたのだ。ファルカンも、カリカオテ等も触れるべきではないと思っている。
『ディノ。頼みがある』
 改まった口調に、ディノは寝台の上に半身を起こしてファルカンと向き合った。
『その話を、あんたの叔父――メネゼス提督に伝えてほしい』
『叔父に――』
『メネゼス提督は、俺達レガージュ船団がゼ・アマーリア号を沈めたと思っている』
『――』
 一瞬、確かに彼は身構えた。
 叔父でもあり、海軍提督でもある存在の言葉は、彼には重いものだろう。
 彼が見たものを、見間違いだと、そう考え直させるかもしれない。
『今、メネゼス提督の船団がレガージュの港の前面に陣を置いている。レガージュ――いや、国として謝罪が無ければ、街を焼くと』
 ファルカンは誠意を込めて、ディノを見た。
 彼が、この街を救う希望だ。
 ファルカンは腰に括っていた剣を鞘ごと外し、ディノの寝台の傍らに立て掛けた。
『だが、俺達はそんな事はしていない。剣と、船と海に誓って――決して』
 それは船乗りの誇りを掛け、誓う言葉だった。
 その言葉に彼等は命を乗せる。
『――』
 長い間、ディノは黙って自分の手元を見ていた。
 ファルカンは言葉を積み上げそうになるのを懸命に堪えた。
 やがてディノが顔を上げ、ファルカンを見た。
『俺は、俺の見たものを、叔父に――メネゼス提督に伝えます』
 ファルカンも彼の顔を見つめていた。
 疲労はまだ色濃く、不安と緊張に満ち、だがそれ以上に明確な感情がそこにはあった。奥歯を噛み締め、軋んだ音が立つ。
『あの船――いいや、あいつは許せねぇ。アマーリアを――、船長やボリス達を沈めやがった』
 船乗りにとって船は家、乗組員達は家族も同然だ。
 それを無惨に沈められ、ディノの瞳には強く激しい憤りがあった。
『沈めて平然と、あの嵐の中を去って行った』
 憤りに震えている肩を、ファルカンは右手を伸ばして震えを抑えるように掴んだ。
『絶対に許さねぇ』
『――』
『すぐに、準備をする。もう少し寝ていた方がいいだろう』
 法術士がディノに横になるように促す。
『貴方をマリ海軍の船に送るから、話はその後だ』
 ディノが寝台に横になり、ファルカンは彼の肩に置いた手を離し、ぐっと握り込んだ。
(ザイン――この男は、あんたが助けたんだぞ)
 ザインのいる部屋の方を見上げる。ここにザインが居れば、考え方を変えてくれるのではないか。
 そう考えながら、ふと廊下への扉を見た。
「? どうした、遅いな――聞こえていないのか」
 先ほど廊下へ声を掛けたのに、誰も入ってこようとしない。ファルカンは訝しそうに呟いて立ち上がり、扉に向かった。
 がちゃりと扉を開く。
「おい――」
 廊下に立っていたはずのファルカンの部下が、壁に持たれるように座り込んでいた。
「何をしてる――居眠りでも」
 一歩近寄りかけ、ファルカンは足を止めた。
 おかしい。
 俯いているせいで、表情は見えなかったが、ぴくりとも動かない。
「おい、キース」
「船団長」
 駆け寄ろうとして唐突に背後から声をかけられ、ファルカンは振り返った。
 すぐそこにホースエントが立っていた。顔は紙のように白く血の気が失せ、肩で上下に荒い呼吸を繰り返している。
「ホースエント。どうした――何をしている。お前は領事館に戻ったんじゃ無かったか」
「――」
 ホースエントは答えず、ファルカンに、ゆっくり近付いた。
「ホ――」
 どん、と体当たりするようにホースエントがぶつかる。
 ファルカンが目を見開き、右手でホースエントの肩を掴んだ。
 腹に熱が走る。
 視線を落とすと、ホースエントが両手に握り締めた剣の柄が見えた。つばから先は、ファルカンの脇腹に埋まっている。
 ホースエントの向こうで、廊下に座り込んでいるキースの体の下に血が溜まっているのが見えた。
「――何」
 背中に手を回し、探る。
 背中から、剣の白々としたやいばが突き出していた。
「――、ホースエント……、貴様」
 突き出た剣の根元から、血が沸き上がり、ぼたりと木の床に落ちた。





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