十六
腹から剣が、ずるりと引き抜かれた。
「――っ」
言葉を発しようとしたファルカンの口から、濁った音と血の泡が洩れる。
ファルカンはよろめき、廊下の壁に背中を凭れかけ、だが身体を支え切れず崩れるように膝を着いた。
ホースエントは荒い息を繰り返し、ぶるぶると震えながら剣を身体の前に突き出して、倒れたファルカンの身体を乗り越えて部屋に入った。
「……ま――て」
「ひぃ!」
ホースエントが高い声を上げて飛び上がる。ファルカンが左手を伸ばし、ホースエントの足首を掴んでいた。指がそのまま足首を砕きそうなほど食い込み、痛みを与える。
「ひぃい、は、離せっ」
振り下ろした剣がファルカンの左の二の腕に叩きつけられ、鉄が骨を砕く鈍い音がした。
「ぐあ」
「止めろ――何をしている!」
驚き、慌てた声が上がる。部屋の奥で法術士が立ち青ざめた顔を向けていた。
ディノが身体半分、寝台の上に起こしている。やはり驚愕に眼を見開いていた。
法術士が落ち着かせるように両手を前に突き出し、一歩、そっと踏み出した。
「一体何を考えて――剣を捨てなさい。ファルカン団長、安心しろ、今すぐ手当てをする」
「に、逃げろ」
脇腹と左腕に感じる焼け付く痛みよりも、もっと恐ろしい考えが、ファルカンの心臓を鷲掴みにしていた。
ホースエントは、何をするつもりだ?
「逃げろ――、ディノ、を」
身体を起こそうとしたが、力が入らなかった。どくどくと血が流れ出ていき、急速に身体が重くなる。鉛のように鈍く感じられる腕をなんとか回し腰を探したが、剣が無い。
つい先ほど、外して寝台の脇に置いたのだ。
「く……そ」
法術士が寝台の前に立ちはだかる。
「落ち着くのだ。剣を置いて」
「ど、どけ、この!」
ホースエントは甲高くわめいて、剣を闇雲に振った。法術士の長衣が裂け、血が壁に飛び散る。
「貴様、……ホースエント、ッ」
ファルカンは寝台の傍らに立て掛けた剣を見た。
遠すぎる。
(せめて、剣が)
法術士は寝台から離れてしまい、ホースエントが向けている剣のせいで動けない。青ざめた顔はホースエントに釘付けになり、ファルカンの視線に気付いていなかった。
気付いたのはディノだった。
突然の事に青ざめ凍り付いていたが、おののく瞳がファルカンの視線を追って、自分の寝台の脇に立て掛けてある剣を見た。
「う、う動くな、動くんじゃないぞ、二人とも……!」
ホースエントは喚き、法術士とファルカンへ、交互に剣を向けている。
「おとなしくしてろ!」
ディノは一度ファルカンと目を見交わし、ホースエントの横顔を盗みつつ、そろそろと腕を伸ばした。
剣の鞘に指先が触れ――、だが掴み切れず、剣は固い音を立てて木の床に倒れた。
「ひぃ!」
ホースエントが飛び上がり、振り向く。
倒れた剣と腕を伸ばしていたディノを見て、顔が青ざめ、すぐに怒りに赤くなった。
「きさ、貴様――わ、私をな、舐めるんじゃないぞッ、舐めるんじゃない!」
「止めろ、ホースエント!」
ファルカンが制止の声を上げたが、ホースエントは剣を振り下ろした。
飛び込んだのは老法術士だ。ホースエントの腕を掴み、振り下ろされた剣は法術士の肩に当たった。
切っ先は幸い、法衣を裂いただけのようだった。
「な、な、」
ホースエントは慌てふためきながら、法術士の法衣を掴んだ。血に濡れた剣の先を、法術士の喉に押し付ける。
「よ、余計な事をするな! 動――動くなよ!」
剣はホースエントの怯えを移してぶるぶると震え、うっかりと法術士の喉を斬り裂きそうに見えた。
「何が、望みだ」
喉を仰け反らせながら、法術士はホースエントを睨んだ。
「そ、そいつを寄越せ。そいつを殺して、マリに突き出すのだ!」
「な、何を考えて」
「私はこの街の領事だ、わ、私に断りもなくこの男を――か、勝手は事は許さん! 私が、私がこの街を救って見せるのだ! 領事たるこの私が!」
唾を飛ばして喚く男を前に、束の間、法術士は皺の深い理知的な面に呆れの色を浮かべた。
「――お前は何か、勘違いをしている。第一彼を殺したら、それこそ」
「う、煩い! 私に指図するな!」
法術士の喉の前で切っ先が暴れ、薄い皮膚が裂けて血が溢れ出す。
「そいつを殺せば、わ、私は、」
「ホース、エント……貴様、いい加減に……」
ファルカンは床の上に倒れながら、右腕の力だけで床を這った。血を失って重い身体は大して前に進まず、床には血の帯が引きずられる。
「ここ、ここは私の街だ! 私の言うとおりにすればいいんだ! そうしないから悪いんだ! 私の言うとおりにすれば上手く行く! そ、そう言ったんだ!」
ホースエントは法術士を突き飛ばし、背中を斬り付けた。法術士がファルカンの目の前に倒れ込む。
「貴様」
ホースエントはぎくしゃく向きを変え、凍り付いているディノの上に剣を振り上げた。
「止、めろ、ホース、エント……ッ!」
「私が――私が領事だ!」 ホースエントは叫んで、振り上げた剣をぶるぶると震わせた。
「レガージュには私が必要だと、この男を殺せばマリは引き上げると、そう言ったんだ!」
「ホ――」
「そう言った! わ、私こそ!」
「誰が、お前にそう告げた」
冷徹な声が掛かった。
ぐい、と肩を掴まれて背後を振り返り、ホースエントは肩を掴んだ相手と向かい合った。
「――ザ、ザイン」
|