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王の剣士 六【紺碧の守護者】

第四章 「剣士ザイン」

十七

「お前にそれを告げたのは誰だ」
 ザインは射抜くような眼光をホースエントに向けた。入り口にはオスロが呆然と立ち竦み、室内の光景を見回している。
 ザインが一歩近寄った瞬間、ホースエントは反射的に剣を振り上げた。
「この……!」
 振り下ろされた剣を、ザインはまだ剣の現われていない右腕で止めた。
 ぱきんと軽い音がしてホースエントの剣が根元から砕ける。ザインはその腕を伸ばし、ホースエントの長衣の襟元を掴んだ。
「ホースエント――街を裏切って、お前は何を欲している」
 ホースエントの身体を掴み上げたまま、ザインは倒れているファルカンへ視線を向けた。脇腹から大量に血が流れ、左腕の上腕も骨が折れている。オスロがファルカンの横に膝を着き、顔を覗き込んだ。
「しっかりしろ、ファルカン団長――!」
 ファルカンはうつ伏せたまま、浅い呼吸を繰り返している。ファルカンの傷を改め、オスロは青ざめた顔を引きつらせた。
「まずいぞ、ザイン、このままじゃ」
「――」
 ホースエントを掴んだままのザインの右腕が、手首から肘にかけ、盛り上がった。
 すうっと室内の温度が下がる。
 ゆっくり、腕に添って骨が張り出すように、白々とした刄が現われる。
 鈍く光を弾くその上に自分の目が映っているのを見つけ、ホースエントは恐怖に喉を鳴らした。
 ザインは掴んでいるホースエントの襟元を、ぐいと引き上げた。
「ホースエント。お前には聞かせてもらう事が山のようにある」
 目の前の剣から怯えた顔を背けながらも、ホースエントは早口でまくし立てた。
「わ、私には、味方がいるんだぞ! お前が幾らお、脅しても、私が怖がると思ったら大間違いだ」
「味方?」
「そそ、そうだ、お前など、足元にも及ばない相手だ。すぐに後悔するからな」
「ほぉ――」 ザインはにぃ、と口の端を吊り上げて笑った。「ヴェパールか」
 ヴェパールの名を切り札と思っていたホースエントはザインの口からその名が上がった事に驚き、青ざめた顔で黙り込んだ。
「意外だったな、領事のお前が西海と通じていたとは。王都が知ったらホースエント子爵家はその責を問われ、確実に断絶だろう」
「な、何を」
「幸い今は王太子殿下とスランザール公がレガージュにおいでだ。近衛師団もいる。詮議は早そうだ」
 ホースエントは目をしばたたかせてザインの言葉を反復していたが、やがてその面から血の気が引いた。
「――ち、違う」
 持ち上げた顔は冷や汗で光っている。口が何度か、声を立てないまま開け閉めされた。
「わた……私は、西海と通じてた訳じゃ」
「今さら気付いても遅い」
「違う、違うんだ、私はレガージュの為に」
「言い訳は後でしろ。案内してもらうぞ」
「あ、案内?」
 ザインはホースエントの身体を放るように扉へと突き出した。ホースエントは二、三歩よろけるように進み、怯えた顔で振り返った。
「ザイン、私は、ほ、ほ、本当に」
「お前がヴェパールと会っていたのはどこだ。そこに連れていけ」
「ま……て、ザイン」
 浅い息の下から絞るような声がザインを呼び止めた。
 ファルカンが何とか上半身を起こそうとし、咳き込む。血が口の端から零れた。
「止めろ……」
 霞む意識を必死に繋ぎ止めているのが見ただけで判る。
「ファルカン団長!」
 オスロが起き上がろうとする身体を抑え、法術士も覗き込んだ。
「団長殿、まずは傷の手当てをする。おとなしく横になっていなさい」
 だがファルカンは法術士の手を押し退け、ザインを見た。
「西海、には」
「――」
 右手をザインへと伸ばす。
「どうしても、行くなら、まず俺を、殺せ」
「――死にかかっている奴が何を言っている。――ファルカン」
 ザインはファルカンの傍に立ち、倒れている彼を見下ろした。冷えた、ファルカンの見た事の無い色の瞳に、微かに憂いがあった。
「お前には、お前自身のやる事があるはずだ」
 ファルカンは浅く早い呼吸を繰り返しながら、ザインを見上げた。
「俺、のやる事は、あんたを止める、事だ」
 意思は変わらない。だが傷は深く、ほどなく、呼吸は止まるだろうと思えた。
「王都の法術士殿、こいつに治癒の術を」
 法術士は頷き、ファルカンの傍らに膝をつくとゆっくりと長い言葉を唱え始めた。
「いい――」 ファルカンが法術士を払うような仕草をする。視線はずっとザインに据えていた。「ザイン――、俺の命に、誓ってくれ」
「――」
「頼む。レガージュの、為に」
 ファルカンは辛うじて腕を持ち上げた。
「その彼を、マリの船へ、連れて――メネゼス提督の、甥だ」
 初めて驚いた顔でザインはディノを振り返った。ディノは青ざめ、寝台の上から心配そうに自分達を見つめている。
「レガージュの、守護者として、あんたが」
「団長、いいから。なあ法術士さん、傷は治ってるのか? 血がずっと止まってない」
 オスロは傷口を抑えながら法術士を見上げて言った。法術士は厳しい表情を浮かべている。
「血が流れ過ぎている――術だけでは足りない、触媒が必要だ」
「触媒? 何を持ってくればいい、言ってくれ。うちの術士から貰ってくる」
「いいと、言っている――」
 ファルカンは再びオスロを押し退けた。
「ザイン、あんたが……誓ってくれれば、それで、全て」
 ザインはファルカンを見下ろし、はっきり告げた。
「いいや――俺には誓えない」
「ザイ……っ」
 ファルカンは何度か咳き込み、血の塊を吐いた。
「まずいな、術が間に合わない」
「触媒を持ってくる、教えてくれ!」
「言っただろう――レガージュの守護者は、もうお前達だ、ファルカン」
 ザインは右腕を持ち上げ、がり、と腕の内側を噛んだ。
 瞬く間に傷口が閉じるその前に、腕から零れた血が数滴、ファルカンの脇腹の傷に落ちた。
 一瞬、ファルカンの身体を包んでいた法術の術式が、半透明の模様のように浮かび上がった。青ざめた頬に僅かに赤みが差す。
「触媒の代わりだ。少しは繋げる」 ザインは法術士を見た。「必要な触媒は?」
「――充分……い、いや、クリーグと、セドナの葉を」
「オスロ、お前ピストレットの所へ走って、今言われたものを持って来い。それまではつ」
「判った」
 オスロは頷き、扉のところで立ち竦んでいたホースエントを押し退けると駆け出していった。
「ザ、イン」
 ファルカンはまだザインを呼んだが、ザインはファルカンに背を向けてディノと向かい合った。
『君が、ゼ・アマーリア号の――。メネゼス提督の甥御か』
『ディノ・メネゼスです』
『――偶然があるものだ』
 ザインはそう呟いた。『今回初めてだな』
 これまでレガージュを追い詰めるような事ばかりが次々と起きていた中で、初めて出てきた、レガージュにとっての好材料だ。
 ディノには意味が判らず、青年は問い掛けるような顔をしている。ザインはディノの疑問にはかまわず、その瞳を見つめた。
『君は、マリ海軍の前で君が見たものを証言できるか』
 先ほどまで、いや、今も纏っている身を竦ませる空気とは違う、もう一つの光がザインの瞳の奥にあった。
 レガージュを護る守護者が持つ光だ。
『――できる』
 ディノはもう一度、アレウスの言葉で言い直した。
「できます」
 しばらくザインは黙ってディノを見つめていたが、やがて頬に笑みを浮かべた。
 悼むように。
「ゼ・アマーリア号への手向けは、俺がする」
 踵を返し、部屋の隅にいたホースエントの肩を掴んで、部屋を出た。
 ファルカンは止めようと腕を伸ばしかけ、だが術が呼び込む眠りに捉われて手を落とした。




 レオアリスはファルシオンの右隣に立ち、周囲を見回した。
 マリの水兵達は皆剣の柄に手を掛け、いつでも抜けるように身構えている。
 もはや会談の体裁は、お互いがまだ剣を抜いていない事その一点で、辛うじて保たれているだけだ。
 メネゼスがいつ、号令するか――それが十を数える間か、百を数える間か、ただその程度の差でしかない。


(少し物足りなかったか――)
 結末を確信し、ヴェパールはセルメットの顔の下で笑った。
 ヴェパールの画策が功を奏したからとも言えるが、いささか拍子抜けの感もある。
 アレウス王国は三百年の間に、すっかり弱体化し危機感を失った。
(ビュルゲルめ、この程度を動かせんとは、つくづく三の戟の面汚しよ。所詮三部に名を連ねるには力不足だったのだ)
 かつての同僚をせせら笑いつつ、ヴェパールは改めて部屋の中央に立つレオアリスを眺めた。
 詳細までは知らないが、ビュルゲルを抑えた事はヴェパールも聞いている。
(だが結局、内陸部という自陣で、相手がビュルゲルごときではな)
 一回、いや二回、探るような視線が向けられたが、ヴェパールの存在に気付いた様子はなかった。
(剣を研ぐ機会も失われ――その為に存在する者が、哀れな事だ)
 まだ若く、戦乱を知らず。
 ふと、たった今、あの若い剣士とぬるま湯に浸かりきったアレウス国の者達に、三百年前と同じ感覚を味わわせてやりたくなった。
 どれほど面白いだろう――。
 その衝動を押さえ込む。
(これから、嫌でも這いずる事になる)
 マリ海軍がレガージュの街に火球砲を撃ち込めば、そこからもはや後戻りはできなくなる。アレウス王国も、マリ王国もだ。
 互いに不毛な争いにはまり込み、容易には抜け出せまい。
 見物だろう。
 そして西海は、アレウス国の国力が疲弊するまで待つだけでいい。
(いや――、ただ見ているのはつまらんな)
 どんな遊戯も、自分で駒を操り動かしてこそ面白いものだ。
 大戦が終結して三百年、暗い深海は刺激が足りず、常に暇を持て余していた。暗く閉ざされた世界では、互いに食い合うぐらいしかする事が無い。
 セルメットは駒を進める為に、一歩この舞台の中央に踏み出した。
「提――」
『メネゼス提督。会談は決しかけているように見えますが、我々はまだ充分には言葉を尽くしたとは言えません』
 ヴェパールを遮って発されたマリ語は、アレウス国側からだった。
 緊張を含んだ視線が集中する中、口を開いたロットバルトはファルシオンへ目礼してメネゼスと向かい合った。
「僭越ながら――我々の考えと貴国が目の当たりにされた事実とは、確かに相容れません。ですが議論を尽くす前に決裂するほど、我が国と貴国との関わりは単純ではないはずです」
 スランザールはロットバルトの顔を斜めに見上げ、顔を戻した。
 既に場は乱れ、始めにメネゼスが出した発言をファルシオンのみに限るという条件も現状に隠れている。
 この状況は不利に見えて、実際には紙一重ではあるものの、好機に立っていた。
「今互いに選択しようとしているものは、確実に、複数の面から互いの国益を損ねるでしょう」
 メネゼスは暫く黙っていたが、促すように視線を上げた。「――聞くに値するものかな。まあいい」
 だが部下に剣を下ろせとは言わず、自身も剣の柄に手を置いたまま、鋭い隻眼を見極めるように向けた。
「聞こうか」
「有難うございます。――先に王太子殿下がお話した通り、我々は今回の件についてレガージュから詳しく状況を聞いています。ただ、貴国のお考えをまだお聞きしていません」
「考え? 充分に伝えたはずだが、まだ理解できていないのか?」
「それは事態の第一の見え方です。いわば外郭の部分であり、全てではありません」
 メネゼスは黙って先を促した。
 ファルシオンは傍らのレオアリスを見上げて彼の表情を見つめ、それから自分の後方にいるロットバルトの言葉に耳を澄ました。
 何を言おうとしているのかファルシオンには判らない――ただ、何か見つけたのだろう。
「先ほど、南海でレガージュ船団の船が貴国の軍船を沈めたと仰いましたが――、それに対して一つ疑問があります」
「疑問?」
 メネゼスが会話を続けるつもりなのを見て、ヴェパールは内心舌打ちをした。
(せっかくあと一歩の所だというのに)
 落ち着いた会話など、させるべきではない。しかもアレウス国側は、ヴェパールの仕掛けを突こうとしているようだ。
 だがローデンの使者としてこの場にいる以上、下手に煽り立てるのも良策とは言えなかった。
(――)
 ロットバルトはメネゼスを見据え、ややゆっくりと告げた。
「状況をお聞きする限り、その船に、あなた方が不審を抱かなかったとは思い難いのです」
「――不審だと?」
「何故、わざわざ貴国の船員を見せしめのように掲げていたか――あからさまにレガージュ船団の船だと見せつけたのは何故か。そもそもあなた方の船団の前にその『レガージュ船団の船』が現われたのは、アマーリア号が沈んでから何日目でしたか」
「何を今さら、言い逃れを」
 副官が鋭い声を発したのを、メネゼスは手を上げて抑えた。
「いい、続けてもらおう」
「しかし提督」
 反論しかけ、メネゼスの顔を見て副官は口を閉ざした。メネゼスが口の端を上げる。
「なるほど――ゼ・アマーリアが沈められたのは前日の夕刻だ。距離を考えれば少し早いな」
 ヴェパールは苛立ちに頬を歪めた。
「もし、仮に何らかの目的を持って船を沈めようと考えた場合――我々はその職務の特性上どうしても、自分ならばどう事を進めるか、その手法を考えるでしょう」
 ロットバルトはメネゼスと副官を見つめた。
「提督、貴方の目からご覧になって、今回の『作戦』は如何です」
「――」
「マリ海軍はちょうど、近海にいた。ゼ・アマーリア号が沈んだ海域からそう遠くはなく、またレガージュの港も遠くはない場所です。迅速にレガージュへ船を進め、先手を取れる位置――潮流良く、と海軍では軍機をそう表現するようですが」
「――」
「ずいぶんと好条件です。そしてレガージュにとっては不利な条件でした」
 今や室内の熱は下がり始めている。まだロットバルトの言葉を信じた訳ではないが、釣り込まれるように状況を振り返り、考え出して・・・・・いるのだ。
「普段、貴国の軍船が航路としている海域ではないとも聞いています。今回あの海域にいたのは、臨時の演習か何かかと推察しますが、理由をお伺いしてもよろしいですか」
「……我々の今回の目的は海賊討伐だ。情報が入ったからな」
「情報?」
「近年、交易路を荒らしている海賊共の根城の位置だ」
「なるほど――それで腑に落ちました。これほど迄に早く貴船団がレガージュに到着した背景が、我々には疑問だったもので」
 メネゼスの隻眼がゆっくり細められる。
(――)
 ヴェパールはちらりと船窓へ視線を投げた。
 船団が浮かぶ海面がゆらりと揺れる。緑色の丸い光が海底に灯った。
 動かす事はできる。
 いつでも――用意する戦術は一手ではない。
「失礼しました、少々視点が逸れたようです。――しかしもし、レガージュがマリ王国の船を沈めようと画策したのなら、通常ならマリ海軍が近くにいる時は避ける。戦力差を考えれば、すぐに自分達が追い込まれるのは火を見るよりも明らかです」
 副官がメネゼスの横顔をちらりと見る。
「いずれ避けられないにしても、まずは伝令使なりを用いて貴国の情報を得、マリ海軍が近海にいない時を選び、介入時期を引き伸ばすのが常套でしょう」
 ロットバルトは一度、言葉を切った。「――レガージュに、マリの船を沈める目的と利があるのなら」
 マリの水兵達は戸惑い、ロットバルトの顔とメネゼスの顔を見比べている。
「敢えて海軍を挑発して見せた、そこから伺える目的は、ひどく歪んでいます。稚拙で一貫性も妥当性も無く、ただ悪意だけが見える」
 レオアリスは少し緊張を以ってロットバルトに意識を集中させた。西海の関わりこそ口に出してはいないが、かなり際どい選択をしている。
「翻って、レガージュが目指すレガージュにとっての利とは、交易港として栄える事です。レガージュこそがアレウス国の窓口と、貴国を含めた諸外国に認知される事こそ、レガージュの存在意義であり誇りとするところ。おそらくそれは、あなた方の国の交易港でも同じ事なのではありませんか」
「――」
「だからこそレガージュは王都を見つつ、同様の比重で諸外国を見ています。貴国との関係を崩す事は即ち、レガージュ自身を崩す事に他なりません」
 既に室内の熱は冷め、マリの水兵達は無意識の内に剣の柄から手を離していた。
「今起こっている事はレガージュを窮地に陥れこそすれ、決してレガージュに利の無い事です。引いては我が国にも」
 ロットバルトはそこで言葉を切った。レオアリスやグランスレイ、そしてファルシオンも、微かに息を詰め、メネゼスの反応を待った。
 メネゼスがどう捉えるか――。
 メネゼスは束の間腕を組んで口を閉ざしていたが、やがて組んだ腕を解いて隻眼に光を浮かべた。
「――なるほど、確かに一理ある。だが貴侯の言うとおり、レガージュが無実であるのなら、まずそれをどうやって説明付ける。我々はその答えを聞きたいのだ」
(乗せた――)
 レオアリスはゆっくり息を吐いた。
 メネゼスは対話を受けた。
 スランザールがその先を引き取る。
「あなた方を完全に納得させるだけの説明を、すぐに提示するのはやはり難しい。ただ、調査の余地は充分にありましょう。その間、貴国が船団をほんの少し退いて頂く分には、さほど状況の変化はござるまい」
「はは――! また随分と大きく出られたな。火球砲の射程を引けば、飛竜を有する近衛師団が有利になるが」
 喉を反らせたメネゼスに対し、ファルシオンが数歩、近寄って見上げた。
「近衛師団は、動かさない――ちかって」
 メネゼスや副官の剣が届く位置だ。レオアリスは踏み出そうとする足を抑えた。
 ここでレオアリスが踏み出せば、再びマリ水兵達に緊張を与える。
 メネゼスはレオアリスの心情を読んだように、レオアリスの眼を見て笑った。それからファルシオンへ視線を落とす。
「誓う? 何に誓われますか。我々の戴く王は違いましょう。各々おのおの誓っても意味が無い」
「――これにちかう」
 ファルシオンは胸元を探り、細い銀の鎖を引き上げた。
 胸の前に掲げられた鎖の先で、丸い、銀色の懐中時計が揺れる。
「――ほう、それは」
 メネゼスはこの場には意外なものを眼にして眉を上げ、そしてセルメットへ視線を投げた。ローデンが得意とする象嵌ぞうがんの技巧を用いた懐中時計だ。
「これは私の宝物です。これはたぶん、レガージュをとおって来たんだと思う」
 ファルシオンの言葉と細工の美しさに引き込まれるように、副官もマリ水兵達も、微かに光を弾く銀の懐中時計に見入っている。
 セルメット以外は。
「遠い国でつくられて、海と陸を旅してきたのに、おんなじ時間があって……ふしぎです。生まれた場所と、ぜんぜん違う国にいるのに。――この時計みたいに、どこにいても、誰にでも、同じ時間が流れているんだって」
 レオアリスはファルシオンの言葉に聞き入りながら、メネゼスの様子を眼で追っていた。
 メネゼスは何故か懐中時計ではなく、セルメットへ視線を向けている。
(――)
 そのセルメットはまるで無関心に、忌々しそうな顔でファルシオンを眺めていた。
「色んなものがレガージュから入って来て、レガージュから出ていく」
 自分の言うべき言葉が求められているものに合っているのか、正しいのか、ファルシオンには判らない。けれどファルシオン自身がそうであって欲しいと、そう思う言葉を口にした。
「だから私たちは、レガージュでつながってるんだ」
 ファルシオンは掲げていた懐中時計を、大切そうに両手に包み込み、額を寄せた。
「だから私は、この時計にちかう」
 室内の空気は先ほどまでの緊張と刺が拭い去られ、澄んでさえ感じられた。
 メネゼスは首を巡らせてそれを確認し、再びセルメットを見た。
「使者殿――、貴侯はどう思われる」
 セルメットが顔を上げる。
「どう、とは」
 セルメットは呆れた顔でファルシオンを睨んだ。「どうとも思いませんな。所詮言い逃れの為の戯言でしかありません」
「――クク」
 メネゼスが喉の奥で笑い、セルメットは不審そうな顔を向けた。
 レオアリスは身のうちで剣が騒めくのを感じた。
 メネゼスは。
「それだけか」
「提督?」
 メネゼスは剣の柄に手を置き、セルメットへ身体を向けた。
ローデン・・・・の使者殿――アレウス国が王太子殿下の掲げられた懐中時計、あれは貴国のものでは無かったかな」
「――、!」
 セルメットは息を飲み込み――、ばっとファルシオンを振り返った。
「象眼と銀細工は貴国の最も得意とするところ――だが商人たる貴侯が興味が無いか」
 室内の空気がざわりと揺れる。
「――ッ」
 セルメット――ヴェパールはファルシオンを睨み、それでも青ざめた頬に無理やりひきつった笑いを張り付けた。
「い、いや、それはただ、今は船を沈めた事が先決と」
「面白い男だ。俺達に都合良い条件を持って現れ、商人と言う割りには軍人のような考え方をする――」
「提」
 ヴェパールはぎくりと息を飲み、口を閉ざした。
 メネゼスの抜いた剣の切っ先が喉に向けられている。
「どこから来たのか――、だがローデンではあるまい」
 隻眼に鋭い光を浮かべ、低く歯の間から押し出すように尋ねた。
「何者だ」
 副官やマリ水兵達は驚きも一瞬の内に捨て去り、セルメットを睨んで剣の柄に手を掛けた。





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