十八
マリ王国との会談が始まって、そろそろ一刻弱になろうとしている。
ファルシオン達が中に入ってから、船に残ったフレイザー達はマリ海軍と互いに船上から監視し合っているだけで、これといった動きはなかった。
鮮やかな陽射しで彩られた空と、輝く青い海に囲まれ、安泰にすら見える。
ただそれも、表面上に過ぎない。
フレイザーはちらりと右手を見た。その先、フィオリ・アル・レガージュの対岸のすぐ先は、もう西海――バルバドスの領海だ。
「――」
レガージュの剣士、ザインの横顔が思い出される。それを努めて意識から押し出し、フレイザーは変化の無い甲板を、焦燥感を抱えながら見つめた。その下で会談が行われ、ファルシオンやグランスレイ達がずっと交渉を続けているはずだ。
(――、判ってるけど)
会談がどういう方向に進んでいるのか、全く情報が無い事がより焦燥を高めている。不安定な船の揺れが、余計にそれを助長するようだった。
いっそ乗り込んで行きたいとも思うが、自分の役割はこの船をファルシオン達が戻るまで何事も無くここに保つ事だと、何度もフレイザーは自分を宥めていた。
降り注ぐ太陽の熱がじりじりと肌を焼く。
胸の奥まで慣れない熱が届くようだ。
こんなに焦燥を覚えるのは、きっとこの熱のせいだと思った。
暑さに深く息を吐いた時、ふと、マリ海軍の甲板がざわめいた。
ざわめきはすぐに騒ぎになった。
「中将、あれを」
傍らの准将が指を差す前に、フレイザーの眼もそれを捉えていた。船縁に駆け寄り、手すりを掴んで身を乗り出す。
たった今までマリの水兵しかいなかった甲板に、何かが現れていた。
マリ水兵達の間から、それが見えた。
「あれは――」
メネゼスの剣の切っ先が真っ直ぐセルメットの喉元に向けられている。
副官やマリ海軍水兵達もまた、最初こそ驚いた様子を浮かべたものの、今は剣の柄に手を掛けていた。
足元が一度大きくうねる。船が波に揺られたからだ。だが誰も足元を乱す者はいなかった。
セルメットは噛み締めていた唇を解き、引き攣った頬を尚も笑いの形に歪めた。
「これは提督――、剣を向ける相手が違うのではありませんか。一体どうされたのです、私には何の事だか、さっぱり訳が判りませんな」
「そうかな。貴侯は物事を良く判っていそうだが」
メネゼスの行動に驚いたのはセルメットだけではなく、ファルシオンやレオアリス達もまた、驚いて顔を見合わせた。
レオアリスは口元を引き結び、メネゼスと――ローデンの使者、セルメットを見た。
いや。
メネゼスは「何者だ」と、そう言った。
ファルシオンの掲げたローデンの懐中時計を見て――、懐中時計を目にしたセルメットの反応を見て、何かを確信し、剣を抜いた。
それ以前に、メネゼスにはセルメットへの疑念があったのかもしれない。
(――ローデンの使者じゃあない)
ならば、どこの。
どくりと鼓動が鳴る。
探る視線が集中する中で、セルメットはつい先ほどまでの動じた様子をすっかり収めていた。
「物事なら良く判っておりますとも。ここから眺めていた私には、何が一番の問題か良く判ります。懐中時計一つが何になりましょう――それよりも、レガージュが嘘偽りを述べて貴方を騙そうとしていると、何故お考えにならないのです」
メネゼスはにやりと笑った。
「その可能性も無くはない。アレウス国の言い分はそもそも確証に欠けるからな」
「ならば先ずは剣を下ろし、私の話をお聞きください。誤解を解かせてはいただけませんか。まさか提督、レガージュへの疑いを全て解いてしまった訳ではございますまい」
セルメットは剣を向ける事を躊躇わせるような、悪意の無いにこやかな笑顔を浮かべた。メネゼスの視線がファルシオン達の上に動く。
「まさか。それもあり得ん」
その口調に、まだメネゼスがレガージュへの疑いを完全に解いていないのを感じ取り、セルメットは我が意を得たりと言葉を継いだ。
「では、どうぞ剣をお納めください。私共ローデンは、マリと事を構えるつもりは毛頭ありません」
セルメットはさほど声を張り上げている訳ではないが、室内にはっきりと響いた。その発言にこの場の者達全員が注目しているからだ。
「しかしもし、提督の思い違いで私を斬れば、ローデンは用意している兵をレガージュではなくマリへ向けるでしょう。そうなれば、ご自身と船団は、本国でかなり困ったお立場になるのではありませんか」
副官がメネゼスをちらりと見た。セルメットはその微かな動揺を見て取った。
「私をローデンの使者ではないと決め付けるのは早計です。勘違いをしておられる。提督が今選ぼうとしている行為は、あたら貴国と我が国との国交に罅を入れるものでしょう」
セルメットは余裕の表情で蕩々と言葉を紡いでくる。メネゼスの剣先は下がらないものの、その言葉と態度はマリの水兵達の上に僅かながら戸惑いを生じさせていた。
ローデン王国はアレウス王国よりも距離的にも近く、彼等の母国と親しい。
セルメットが事実、ローデンの正式な使者ならば――そう不安を覚え、お互いに顔を見合せる。セルメットは更に言葉に力を込めた。
「レガージュが何か確証を示せていますか――。奴等に確証など無いのです、提督」
「――」
「剣をお収めになられた方が良いでしょう――マリ王国とローデン、二国の友好の為に」
副官がメネゼスの判断を求めるように顔を向ける。「提督――」
メネゼスは副官を見て、その視線をセルメットへ戻した。
「――貴侯の言う事はいちいち尤もだ。なるほど――、俺もそろそろ、剣を持つ腕が疲れてきた事だしな」
「では」
近寄ろうとして、尚外されない剣先が喉を突きそうになり、セルメットは慌てて一歩退いた。
「メネゼス提督」
苛立ちの籠もったセルメットの声に重なるように、廊下がバタバタと騒がしさを増した。
『提督……!』
勢いよく扉を開けた水兵は、剣を抜き放っているメネゼスの姿に驚いてたたらを踏んだ。
『提』
『見りゃ判るだろう、取り込み中だ。後にできねぇか』
『い、いえ――、たった今、甲板に、レガージュから来たという者が現われ、その』
水兵は室内の様子と自分の抱えて来たものとで少々混乱したのか、舌を噛みそうな様子でそう言った。メネゼスがセルメットに剣を突き付けたまま、呆れた口調を返す。
『泡食ってちゃ判らねぇ、いいから落ち着いて話せ』
『は、その――ゼ・アマーリアの船員が、レガージュ船団長と共に、今甲板に』
『船員? アマーリアのか』
『は! その船員が自分を、ディノ・メネゼスと――』
『ディノ――?』
一瞬の間の後、メネゼスの面に明瞭な驚きが沸き上がった。『ディノだと?』
水兵がほっと胸を撫で下ろす。
『やはり、提督のお身内の』
『――その名前は確かに俺の身内だが、何故レガージュの船団長とここに来る』
『それについては詳しくは――、ただ、至急提督とお話したいと』
『自分でそう言ったのか』
『はい』
「何だ?」
レオアリスはマリ語を学んでおけば良かったと思いながら、ロットバルトを振り返った。辛うじてレガージュという単語は聞き取れた。
ロットバルトが掻い摘んで伝えた内容に、グランスレイと顔を見合わせる。
「あの治癒を受けていた船員か――」
メネゼスの、身内だと、そう言っていると。
(まさか――、そんな偶然があるのか。広大な場所を漂っていた相手を見つけて、それが……)
ふっと眼を上げる。ロットバルトと眼が合い、それからグランスレイ、スランザールと眼を合わせる。
そこにある同じ考えを見い出し、レオアリスは鼓動が鳴るのを感じた。
あの船員を助けたのは――。
ルシファーが纏っていたという、強い潮の香。
(――何を意味してる……)
何故、感じているものが安堵ではないのだろう。
メネゼスの視線がファルシオンに向けられたのに気付き、ロットバルトは戸口の水兵とメネゼスを見た。
『先ほども申し上げた通り、確かにレガージュが救助した男がいます。ただ、会話ができるまで回復していなかった為に、港を出る時点では、素性などは判っていませんでした』
『――』
『意識が戻ったのであれば、我々も彼の話をお聞きしたい。本来はその人物の話を聞いて、この会談に望みたかったところです』
メネゼスは束の間唇を引き結んでいたが、セルメットに向けていた剣を下ろすと右肩を回した。
『――連れて来い』
『は』
水兵は踵を返し、甲板へと駆け上がって行く。セルメットが一瞬肩を跳ねさせたのを見て、メネゼスは隻眼を細めた。
「セルメット殿――やはり少し風向きが変わっているようだ。新たな証言者はどうも俺の身内らしい。アレウス国側は歓迎するようだが、貴侯も当然、証言を聞くだろう」
「――」
ヴェパールは内心で鋭く舌打ちした。
(ホースエントめ、役にたたん)
しかしそう、メネゼスの言うとおり、確かに風向きが変わったのだ。
あの時、あの女がディノ・メネゼスを捜し出し、ザインの元に導いてから。
あの女は、初めからそのつもりだったのか。
ヴェパールの遣り方に口を出さないと言いながら、どこかで手を突っ込んで、掻き回すつもりだったのだ。
それが何を意図しているのか。
だが、一つ確実な事がある。
ディノ・メネゼスは、ヴェパールの仕掛けを崩す証言者足り得る――
ヴェパールは周囲をそっと見回した。
ほどなく、甲板から降りてくる足音が聞こえた。木の板目は良く音が立つが、ずいぶんゆっくり歩いている。
『失礼します――』
扉が開き、入ってきた男達の姿を眼にして、ファルシオンはびっくりして声を上げた。
「ファルカン――、どうしたんだ!」
入室したのはファルカンと老法術士、そしてゼ・アマーリア号の船員の三人で、だがファルカンは脇腹を血で真っ赤に染めている。青白い顔には、血を流した事だけが原因ではない、張り詰めた緊張があった。
傍らの法術士の灰色の法衣もまた、肩口に血が滲んでいる。
ファルカンはその場で膝をついた。力を失ってよろめいたようにも見えるが、しっかりした動作で頭を下げた。
「殿下――、詳しいご説明は後ほど――しかしまずは彼の話をお聞きください」
ファルカンがそう示した船員も、マリ水兵に支えてもらってようやく立っている状態だ。
だが顔を真っ直ぐにもたげ、メネゼスを見つめている。
ファルシオンはレオアリスの顔を見上げ、唇を結んだ。
『メネゼス提督――』
ディノは叔父と呼ばずに、そう呼んだ。室内がしんと静まり返り、二人に注目する。
メネゼスは束の間ディノを見据え、やがて息を吐いた。
「ディノか。良く――」
メネゼスは敢えてアレウス国の言葉を使った。ここがあくまでも公式の場であり、会見の一環だと示す為であり――、自分を提督と呼んだディノに応える為でもある。
傍らの副官はディノを見知っているのか、メネゼスの顔と交互に見つめ、安堵と喜びを露わにしていた。その様子に苦笑を浮かべる。
「良く生きて戻った」
メネゼスはそれだけ言うと、剣を身体の前に立てディノを見据えた。
「ゼ・アマーリア号の災禍について証言する事があると聞いた。間違いないな」
「はい。私はこの眼で、アマーリアを襲ったものを見ました」
「聞きたいのは一つだ。ゼ・アマーリアを沈めたのは誰か」
ディノは一度息を呑み、それから口を開いた。
「誰か、とは答えられません」
「おかしな事を言う。見たんだろう」
ディノが真っ直ぐに頭をもたげる。
「見ました。――けど、俺には判りません」
「判らない?」
「あれは、船なんかじゃ無かったからです」
奇妙な言葉に、神妙に聞いていた副官やマリ水兵達はポカンとした表情を浮かべた。メネゼスも呆気に取られている。
ディノは怯まず、言葉を継いだ。
「あれは船ではなく、俺には……全く何か、別のモノに見えました。あれの甲板にゃあ誰もいませんでした。本当です。あの嵐の中で、帆は張りっぱなしで……、なのに風とは全く無関係にアマーリアに突っ込んで来たんです」
メネゼスは室内へ視線を巡らせ、その場の様子を眺めた。
水兵達は唖然としながら、一体どういう事なのかと互いに顔を見合わせている。
レオアリスやスランザール達アレウス国側は、一言も発っさずに緊張に満ちた面持ちでディノを見つめていた。
(――)
セルメットはただ、口元を引き結び視線を前に向けている。
しばらくメネゼスは、ディノの言葉を反芻するように黙って隻眼に光を浮かべていたが、一つ息を吐いた。
「ディノ――、お前は、恐怖で夢と現実とをごっちゃにしてやがる訳じゃあねぇな?」
ディノは打って返すように頷いた。「頭はしっかりしてます。絶対に、船なんかじゃありません。あんなものは――、俺達の乗る船じゃねぇ」
一度息を吐き、ゆっくり、熱を帯びた声で続けた。
「あれを船だなんて、俺は認めません。あんなものに命預ける船乗りはいねぇ」
「――ふん」
ディノの憤りに口の端を上げる。
だが、メネゼスにも判る。
同じ船乗りとして、命を乗せる船は絶対だ。
「船じゃねぇ――なら、化け物か。海の魔物に沈められたと?」
ファルシオンはその単語を聞いた時、身を震わせて――、セルメットを見た。
スランザールがぴくりと眉を上げメネゼスを見上げる。
「ヴァイパル? 提督、失礼じゃが」
「行き逢う船を沈める海の怪物の事だ。レガージュじゃ少し違うか」
スランザールは皺顔の中の小さな眼に光を浮かべ、口を引き結んだ。
レオアリスはファルカンへ視線を向けた。ファルカンは血の気の薄い面を更に蒼白にしている。
「レガージュでは……、いえ」
その単語を口にするのを思い止まり、レオアリス達を見上げたファルカンの面に、警告の色がある。
ファルカンの危惧を、レオアリスは読み取った。
(ヴァイパル――)
どうしてもこの件は、そこに行き着くのか。避けて通る事はできないと。
「甲板には誰もいなかった――」
メネゼスはディノが言った言葉を低く呟いて、副官を見た。
「お前等、覚えがあるだろう」
副官が瞳を見開く。
「――あの時、二番船を沈めた、レガージュ船団の……」
そう言って一度、口を噤んだ。
「確かに、甲板には誰も――いませんでした」
接近して来る船を遠見筒で確かめた時も、肉眼で甲板を確認した時も。
「体当たりで船一つ沈めておきながら、無傷で引き上げて行きやがった。――怒りに目が眩んでたな」
メネゼスが冷えた笑いで頬を歪めた時、「だれ……」ファルシオンがポツリと呟やいた。
「殿下?」
レオアリスが視線を落とす。ファルシオンは真っ直ぐにセルメットを見つめていた。少し青ざめた額の下で、黄金の瞳が、不思議な輝きを帯びている。
「レオアリス――」
ファルシオンはじっとセルメットを見つめたまま、小さく呟いた。
「かたちが、変だ」
「形?」
どくり、と、剣が鳴った。
ファルシオンの言葉の意味を理解した訳ではない。
だが。
(不味い――)
背中に冷たいものが走る。
「お下がりください、殿下」
潮騒や船の気配と入り交じり、目の前の男の気配は掴みにくい。
ただ、今男が纏うものは、先ほどまでの「セルメット」の気配とは、確実に違った。
肌を、ざらついた布が撫でるような、不快感。
メネゼスは再び、下ろしていた剣を掴んだ。
ファルシオンの瞳の奥で光が揺れる。
「だれだ」
セルメットが口元を歪める。
「誰とは、また妙な言いがかりを」
「ちがう」
「何が……、――」
言葉の最中に両手を僅かに持ち上げ、セルメットは瞳に驚愕を浮かべてその手をじっと見つめた。
崩れていく。
身体が――微細な光の粒子を纏い、変容しようとしている。
隠していた形が暴かれ、強制的に、元の姿に戻されようとしていた。
セルメットの平べったい銀色の瞳が、ギラギラと光りファルシオンを睨んだ。
(馬鹿な、こんな事が……)
蒼白い肌が湿り気を帯び、ぬらりと光る。
抗いがたい。
「――は」
黄金の瞳。
幼い王太子の――、いや、三百年前、かつての戦場で、アレウス国王が纏っていた、その同じ光――
セルメットはファルシオンを見、レオアリス達とファルカンを見、メネゼスと――そしてディノを見た。
「ははは!」
喉に哄笑を弾けさせ、セルメットはその姿を変えた。
「!」
メネゼスが隻眼を見開き、次の瞬間には構えた剣を突き出した。
剣が音を立てて突き刺さる。
だが捉えたのは壁だ。
「チ」
セルメットはメネゼスの横をすり抜け、ファルシオンへ手を伸ばした。鉤爪が奔るように伸びる。
「殿下!」
スランザールはファルシオンを庇おうと手伸ばしかけ、そして全身で安堵の息を吐いた。
セルメットの手はレオアリスの左腕に阻まれ、ファルシオンに触れる事無く止まっていた。
グランスレイとロットバルトが抜いた剣の切っ先が、セルメットの喉元に向けられている。
マリの副官と水兵達も剣の柄に手を掛け、ただ、まだ起った事が理解できずにその場で緊張に息を呑んだ。
「レ……」
ファルシオンはレオアリスの右腕に抱き抱えられたまま、寸前で止まった鉤爪を見つめた。
セルメットの指先から伸びた鉤爪は、レオアリスの左手首から肘の間を貫いている。
通常の剣ですら、レオアリスの身体に触れた瞬間に砕けるはずだ。
ぽたりと血が滴る。
「レオアリス!」
「グランスレイ、殿下を」
レオアリスは目の前の男を見据えたままそう言った。
今や男はセルメットではなく、レオアリスにも覚えのある深海の住人の姿を現わしていた。
歪に突き出た後頭部と、血の気が失せ濡れたような肌。
銀の皿に似た両眼が光を弾く。
レオアリスの身体を微かな青白い光が取り巻く。
セルメットがレオアリスの左腕から鉤爪を引き抜くのと、メネゼスが再び斬り付けるのは同時だった。
メネゼスの切っ先が飛び退いたセルメットの影を掠める。
グランスレイがファルシオンを抱き取り、レオアリスは立ち上がると、まだ血が滴る腕に一度視線を落とした。傷はゆっくり閉じていく。
(――)
メネゼスは驚きと言うより呆れに近い表情を浮かべて、再びセルメットに剣を突き付けた。
「何者か、と聞くべきかな――だが、その姿は文献で見た事がある」
それに答えたのはスランザールだ。
「その者がどう答えても、我々にはとんと判らぬ答えじゃろう」
「――」
メネゼスはスランザールを斜めに見て、傷の走る頬を歪めた。「どうやら貴侯等は色々知っていたようだ。詳しく説明してもらいたいものだが――」
そう言ってセルメットだった男を見据える。
「だが確かに、アレウス国には禁忌があったか」
アレウス王国と西海バルバドスとの間で交わされている不可侵条約は、マリや他の国々でも知られている。
「効力があるのか? その条約は」
「――」
「まあ守る守らないは俺達の知った事じゃない。問題は一つ」
スランザールの様子を横目で眺め、メネゼスは軽く息を吐いた。切っ先の向こうのセルメットを睨み据える。
「――どうやら俺達は、利用されていたようだ。初めからか」
その言葉をセルメットはせせら笑った。
「今頃気付くとは、マリ海軍も大した事もない」
「アマーリアを沈めたのは貴様か、それとも他に仲間がいるのか」
セルメットはゆっくりと言い直した。
「私だ」
その一言に、この場に一人立つセルメットの自信が凝縮されている。
レオアリスやメネゼスだけではなく、マリ水兵達もまた、そこにいる男が内に秘める力を僅かなりと感じ取っていた。
姿を変えた今それは遮るもの無く、得体の知れない、喉元に重しを乗せられるような圧迫感となって打ち寄せて来る。
メネゼスは部下達の様子を見て取った上で、再び注意深くセルメットを見据えた。
「詰めが甘かったんじゃねぇのか。もう正体は割れた。今ここで、これ以上貴様に何ができる」
「正体が割れた? まさか。お前達が私をどれ程知っていると言うのだ、提督。我が名を唱えられると? 西海を行く愚かな船が、我の牙を逃れんと身を縮めながら我が名を唱えるように?」
嘲る口調でそう返し、セルメットは肩を震わせて笑った。
「我が名はヴェパール、西海が海皇の戟が一人――」
その名を口にした瞬間、セルメット――ヴェパールの身から風が吹き上がるように、圧力が叩き付けた。
『ヴァイパル……!』
マリの水兵達が息を呑み、恐怖に怯えた様子で一歩身を引く。
メネゼスでさえ隻眼に驚きを浮かべ、そしてそれを用心深く細め、奥歯をぎり、と噛み締めた。
「船を喰らい、引き摺り込む者」
ヴェパールの唇が、裂けるように広がる。
「船を操り、惑わす者――」
レオアリスはゆっくり息を吐き、体の裡で騒ぐ剣を宥めた。
(ヴェパール……)
ザインの。
三百年前の――彼の主の仇。
「そう恐れられる由縁を、教えてやろう」
海底で緑色の光がぼう、と点った。
横一列に展開する船団の、一番右端に位置していた船が、一瞬大きく揺れる。
船を囲む海面がぞぞ、と盛り上がる。
甲板に立つマリ水兵達が気付かないまま、薄い膜のように、海水は船体を這い上がり包み込み始めた。
ヴェパールは身体の奥で、海水が船体を覆っていくのを感じていた。それに比例して笑いが込み上げる。
「マリの提督――お前は船団を展開させて尚レガージュに配慮を示したが、もうじき奴等には無駄な配慮だったと判るだろう」
「……何をするつもりだ」
「何、大した事じゃない。ただお前の代わりをしてやろうと言うのだ」
嘲る笑いを含み、まるで舞台上の一幕を見るような目付きで、ヴェパールは室内の人間達を見回した。
「今からでも遅くはない、私と手を組んではどうだ――? 私がレガージュを陥としてやる。お前はその功績を本国に持ち帰るだけでいいのだぞ」
「手を組む? 船を沈めた張本人の貴様とか。笑わせる話だな」
「――残念だ」
ヴェパールは耳元まで裂ける笑いを浮かべた。
低い、だが鼓膜を揺らす炸裂音が響いた。
「何だ!」
メネゼスがぎくりとして音の方向を睨む。
メネゼス達にとっては何より馴染みのある音だ。
数瞬遅れて、どおっという激しい衝撃音が届く。
「火球砲――何故撃った! 何番船だ!」
マリの軍船が、火球砲を撃ったのだ。
「そんな命令はしてねぇ」
メネゼスの視線を受け、一番扉寄りにいた水兵が廊下へ飛び出す。
「私がしたのだ」
「――何だと」
メネゼスは肩口から、ヴェパールを睨んだ。
「いいや、命令ではないな。命令など無くとも何の支障もない。海の上では全てが、我が意のもとにある。幾らでも――、そう、ここにいる船全て、私は意のままに操れる」
ヴェパールは部屋の真ん中に立ち、ぐるりと見渡した。その視線をメネゼスに戻す。
「提督。お前達マリ海軍は交易船を沈められた報復として、国使であるアレウス国王太子を殺し、その後レガージュを攻撃、焼き滅ぼす――」
「――」
ヴェパールはまるで、預言者が託宣をするようにそう言ったが――、それは筋書きだ。
預言よりも確実な。
メネゼスは一歩踏み出した。
「これ以上、俺の船で勝手はさせねぇ」
「船に頼らねば海を征けぬ存在が、何を吠える」
「メネゼス提督――」
ヴェパールの放つ圧力に、すうっと別の、薄い刃のような空気が切り込む。メネゼスは声の方へ目をやった。
ヴェパールの向こうに立つレオアリスの姿を、青白い薄い光が取り巻いている。
「王太子殿下の御身をお護りする為――、この場で剣を抜く事を、お許しいただきたい」
スランザールがレオアリスを見て、「レオアリス」と一言だけ言った。レオアリスが頷く。
メネゼスは口元を歪めて笑った。
「律儀だな――、いいだろう」
レオアリスの右手がその鳩尾に沈む。
青白い光が零れ、室内を染めた。
誰もが息を飲み見つめる中、白刃が現れる。
月の光に浸したような青白い光を纏う、飾り気の無い、切り裂く事そのものの為にある剣――
ヴェパールはのっぺりした平坦な顔に浮かべていた笑みを、ゆっくり消した。
右手に剣を提げ、レオアリスはヴェパールと向かい合った。
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