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王の剣士 六【紺碧の守護者】

第四章 「剣士ザイン」

十九

 マリ海軍の軍船から放たれた火球砲は、一直線にフィオリ・アル・レガージュの港に突き刺さった。
 水柱と水蒸気が高く立ち昇る。
 居並ぶ十隻ものマリの軍船が驚愕にどよめく中で、火球砲を放ったその船だけが奇妙に静まり返っていた。
 船は完全に、薄い海水に覆われていた。目を凝らさなければ見えないほどの薄い膜だ。
 甲板も帆柱も帆も――操舵も。
 海水の膜に全身を包まれた水兵達が、ゆらゆらと不規則に身体を揺らしながら甲板や船室に立っている。
 甲板の下、舳先にある砲室では、マリの下士官が一人、やはり不自然に身体を揺らして砲台の前に立っていた。砲手の口元まで、薄い海水の膜が覆っている。
 半ば意識を失って青ざめ、呼吸もままならずに身体を痙攣させながらも、尚も砲身に手が伸びる。
 ごぼ、と口の端から泡と、声が漏れた。
『撃、て……』
 一本の光の筋が浮かび、砲身の周りを回転し始めた。
 じわり。
 砲門が再び、微かな赤い光を帯びる。
 軋む音を立てて船が動く。
 向かい風の中櫓を漕ぐ者すら無く、だが船は海面を滑るように、ゆっくり、陸へと進み始めた。



『何で命令もなしに撃ちやがったんだ! 一体どうなってる!』
 マリ海軍九番船船長、中将バレットは青ざめて怒鳴った。
 砲撃した十番船のすぐ隣に停泊していた九番船甲板は、僚船の惑乱ともいうべき突然の行動に混乱していた。慌しく船舷に駆け寄る者や、バレットの指示を仰ぐ声が飛び、特に砲室からは自分達も砲撃準備をすべきかと、伝声管がひっきりなしに問い合わせてくる。
『提督の指示はまだか!』
 レガージュの港が俄かに動きを増したのが見て取れる。
 初弾は港の入り口に落ちた。遠目でははっきりと確認できないが、おそらくはまだ、レガージュの港に損害は無い。
 マリ海軍が射程の外に停泊していた為だ。
 街に直撃しなかった事に彼等が安堵したのは、元々マリ海軍に攻撃の意志が無かったからではなく、指揮官であるメネゼスの指示が確認できていなかったからだった。
 そしていざ戦端が開かれれば、簡単に終わらない事も知っている。
 だがレガージュの港に火球砲を撃ち込んだ僚船は、彼等の焦りを嘲笑うかのように、レガージュへ向かって進み始めた。
 呼び掛けても信号を送っても、返信は無い。
 バレットは操舵室の窓に駆け寄り、身を乗り出した。
 甲板にいる十番船の兵士達は、誰一人振り返らない。
『何をやってる――!』



 初めに、誰かが沖を指差した。
「マリが――、火球砲を……!」
 会談中のマリ王国海軍の様子を港から見つめていたカリカオテ達にも、それはすぐに見て取れた。横列に展開している船団の内、左端にいた一隻の船首部分に光が集まっている。
「――まさか、撃つのか? そんな」
「会談はまだやっているはずだろう――、第一ファルカン団長が彼を連れて行ったばかりではないか」
「殿下はどうされた――まさか殿下の御身に何か」
 ビルゼンが前にいた船団の男を押し退け身を乗り出した時、初めの光が放たれた。
「!」
「わああ!」
 空気を揺さ振る低い音が遅れて届く。
 次の瞬間、港の入り口、防波堤の手前に火球が突き刺さった。
 どお、と高く水柱が立ち、水蒸気が吹き上がる。
 衝撃が風となり、カリカオテ達の頬を叩いた。水しぶきがここまで落ちる。
 停泊していた船が波に煽られ、帆をぶつけ合うほどに大きく船体を揺らした。
 港は――、街はしんと時を止めたように静まり返り、ついでわあっと騒がしくなった。あちこちで悲鳴や怒号が飛ぶ。
「撃ってきた――!」
「攻撃してきたぞ!」
「どういう事だ、カリカオテ! 何でマリは」
「マリは戦争を始めるつもりか!」
「王太子殿下は――会談はどうなったんだ!?」
「わ、判らん……、私にも、」
 カリカオテは白髪に包まれた頭を小刻みに振った。ビルゼンがカリカオテをきっと見据える。
「決裂したんだ! マリは攻撃してきた。最悪の結果だ――」
「殿下は」
「近衛師団が――、王の剣士が付いてる、ご無事に決まってる」
 ビルゼンは息を潜め、低い声を押し出した。
「船団を出そう」
「――それは」
「自分達で守らなくてどうする! 何の為の船団だ!」
「しかしまだ、殿下からは何のご連絡も」
「じゃあ何故攻撃してきた! ――もう会談など意味はない。せめて殿下をお救いすべきだ! それが我々のできる唯一の」
 ふいにザザアッ、と驟雨しゅううのような音が届いた。
 カリカオテ達は辺りを見回し、街の斜面の途中に視線を止めた。
 領事館の手前――正規軍の駐屯する館から、紅い飛竜が十数騎、飛び立つのが見えた。
 僅かに遅れて、交易組合の前に待機していた近衛師団の飛竜も飛び立つ。
 港へ降りてくる。
 それは戦乱の始まりに見えた。
「やはり、もう会談は……」
 近衛師団も正規軍も、その指示を受けたのだと、そんな声があちこちで上がる。
「――ザインを」
「ザインを連れて来る!」
 そう言って数人の男達が駆け出す。
「待て――」
 カリカオテは彼等を止めようとしたが、上げた手を虚しく下ろした。
 火球砲を放ったマリ海軍の船団を呆然と見つめ、豊かな白髪の頭を力なく落とす。
「――何という事だ」
 全て、何一つ上手くはいかなかったのか。
 レガージュは、無実を証明できないまま、マリ王国との戦争に進む事になるのか。
 それが完全に、向うべき方向を違えているのは確かなのにも関わらず。
 カリカオテの絶望に、街の誰かの声が差し込む。
「動いてるぞ……」
「向かって来る」
 顔を上げたカリカオテの視界に、ゆっくりと動き出したマリ海軍の船が見えた。
 近付いてくる。
 レガージュへ。
「街を――、射程に入れるつもりなんだ!」
 新たな混乱が、風に吹き散らされる炎のように街を駆け上がった。


 フレイザーは高く上がった白い水柱を睨んだ。
 何が起こったのか――理解したのは一呼吸した後だ。
 レガージュの港のちょうど入り口に、火球砲が撃ち込まれたのだ。
 それが威嚇故か、射程が不足していただけなのか、フレイザーには読み取れなかった。
 だが砲撃の事実に変わりはない。
「――何故」
 船の左舷を振り返る。
 メネゼスの司令船がそこにある。
 ファルシオン達はまだ出てきていない。会談が終わったのか、まだ続いているのか――今の今まで、指令船に取り立てた動きはなかったはずだ。
 小隊長のセオネルが走り寄る。
「中将、乗り移って殿下をお救いすべきでは――上将からの指示は」
「待て。何かおかしい」
 フレイザーは眉を潜め、司令船の甲板を睨んだ。フレイザー達からも、司令船の甲板の混乱がまざまざと見て取れた。マリの水兵達は舷の手摺りに鈴なりになって、明らかに砲撃をした僚船を見て驚いている。
「まさか、マリ海軍は、知らなかった――? 何が起こってるの――」
 火球砲を撃ったのは、一番左側に布陣していた船だ。
 その船体が陽光にゆらりと揺らぐように見えた。
「港に損害は無いわね? レガージュは」
 レガージュ船団の船は三隻停泊していた。三隻ともおそらくすぐにでも動ける状態にあるはずだ。
 だが船団を指揮するファルカンは今、マリ海軍の司令船にいる。指揮官が無く、レガージュ船団は混乱しているだろう。
「状況が解らない内に船団を出したら不味い。先ずは港に伝令使を」
「中将、砲撃した船が動きます!」
 フレイザーはセオネルが指差した方向を見て頬を張り詰め、それから司令船を振り返った。靴音高く船舷に歩み寄り、声を張り上げる。
「私はアレウス国近衛師団左軍中将フレイザーだ! 今そこでメネゼス提督の意を受ける指揮官は誰か!」
 ざわついた後、四十歳ほどの士官が縁に立った。フレイザーは男と真っ直ぐ向き合った。
「マリ王国海軍に問う――両国の会談が行われていながら、我等が王太子殿下が船に戻られぬ内に、何故砲撃した! これがメネゼス提督の意思と取るが、相違ないか!」
 フレイザーの鋭い詰問に対し、マリの士官はずっと混乱を面に浮かべたまま、首を振った。
「て、提督は――」



 紅玉の鱗を持つ十二騎の飛竜が次々飛び立つ。正規西方軍第七大隊レガージュ駐屯部隊の兵士達は飛竜を港に向けた。
 空からと――、地上でも歩兵隊が港へと駈け降りていくのを見送り、ザインはホースエントの襟元を掴んで身を隠していた路地から出た。
 領事館と正規軍の駐屯地は隣り合っている。軍の正門前を避け、ザインは領事館の高い塀を回り込んで裏門へ向かった。
 途中、一度振り返って街を見渡す。領事館前からも港を一望する事ができる。港に集まる者達、細い坂道を駆け上がる者達、慌てて家から飛び出す者達がぶつかり合い、通りは住民達で埋まっている。どこかで子供の泣き声が聞こえる。
 混乱しているのが良く判った。
 交易組合会館の前から、近衛師団の飛竜が飛び立つ様子が見えた。港に向かって降りて行く。もうザインが会館を抜け出した事にも気付いているのだろうが、騎首を領事館に向ける者はいなかった。
「――」
 ザインはそれを確認し、背を向けた。
「始めから、レガージュを攻撃する予定だったのか?」
 それが自分に尋ねたのだと気付いて、ホースエントは首が外れそうなほど横に振った。
「し、知らない……知らなかったんだ、本当だ」
「どうだろうな」
「本当だ! だ、大体、レガージュの守護者のお前が、こんなところで何をやっている。マリが火球砲を撃ったんだぞ! 今はあれを何とかするのが先だろう。街の奴等は不安になってる、カリカオテ達だけじゃ収められないぞ!」
「領事らしい言葉じゃないか――。お前が行って収めるか」
 かぁっと血を昇らせ、ホースエントは唾を飛ばした。
「わ、私はふざけてる訳じゃないぞ! あれを何とかしなくちゃ、レガージュはおしまいだ! 判ってるのか、攻撃を受けたのはレガージュなんだぞ!」
「静かにしろ。――」
 そう言い差して、ザインはまじまじとホースエントの顔を見た。
「な、何だ」
 ホースエントが狼狽えて顔を引く。
「――いいや。ただこれまで、領事としてお前ともう少し、向き合うべきだったのだろうと思ってな」
「――そ」
 思いがけない言葉に、ホースエントはせわしなく瞬きを繰り返した。ザインはもう先を歩いている。
「行くぞ、時間が無い。ヴェパールとの密会場所へ案内するんだ」
「……マリ海軍はどうするんだ。あんたが」
 一度だけ、ザインは港を振り返った。
「近衛師団がいる」
 そう言い切り、領事館の門を潜る。
 彼等が領事館に入ったのと入れ違うように、火球砲を放ったマリ海軍の船がゆっくりと動き出した。



 甲板が騒がしかったが、ここは切り離されたように静かだった。
 メネゼスはそこに現れた一振りの剣を、感心した眼差しで眺めた。
 剣が発する凍り付く気が、室内に満ちている。指先を動かして空気に触れただけでも断ち切られそうな、鋭利な刄の気配。
 彼の部下達は驚きと畏れに意識を掴まれて息を呑み、身を竦ませている。
(無理もねぇ)
 その凄まじい気配の中心にいる者が何故平然と立っているのかと、ついそんな事を思わせられる。
(あれと打ち合ったら、俺のこれじゃたねぇな)
 保つ剣があるのか、それも疑問だが。メネゼスは視線を左へ向けた。
(――さて)
 ただこの場でもう一人、ヴェパールだけは微動だにせず、侮蔑さえ感じさせる眼差しで白刃を見下ろしている。
(どう動く)
 レオアリスはヴェパールと睨み合ったまま、背後に指示を出した。
「グランスレイ、ロットバルト、殿下とスランザール公をお護りして退け」
「は」
 グランスレイは間を置かず頷いて、ファルシオンの肩にそっと手を触れた。
「殿下、失礼いたします。船へお戻りを」
 グランスレイの手に促されながら、ファルシオンは首を巡らせた。
「レオアリスは」
「私の事はお気になさらずに。殿下が無事にお戻りになる事が第一です」
「――」
 ファルシオンが唇を噛む。その不安そうな顔を見て、レオアリスは言い方が悪かったのだろうと、笑い掛けた。
「大丈夫です。俺は。信じてください」
「――うん」
 ファルシオンはまだ顔を曇らせたまま、それでも頷いた。
 ヴェパールが喉の奥で笑う。
「王子をどこに連れて行くつもりかな? この海の上で、どこかに安全な場所があると思っているのか」
「お前を抑えればいい話だ、三の戟」
「はは! ずいぶん傲慢な物言いだな若造」
 銀色の瞳の底が鈍く光を弾く。
「条約はどうする。お前達には不可侵条約を破る勇気など無いだろう」
「勇気? 言葉の使い方が間違ってる。だが、確かに、アレウス国に条約破棄の意思は無い」
 レオアリスは右手に剣を提げたまま、ヴェパールを真っ直ぐに睨んだ。
「お前には、西海に退いてもらう。これ以上――、何事も無くだ」
 ヴェパールが耳元まで裂ける笑みを浮かべる。
「――私を、ビュルゲルごときと一緒にするなよ」
 甲板から新たな喧騒が落ちる。すぐに廊下に足音が響き、マリの水兵が飛び込んだ。
『提督! 火球砲を撃った十番船が、レガージュへ向かっています!』
『何だと』
 レオアリス達も息を呑む。
 室内の空気が音を立てて静まり返るようだった。
 レガージュへ――。
 射程に入るつもりなのだと、瞬時に判った。
『すぐに停船命令を出せ――レガージュへの一切の攻撃を禁ずると、全船に伝えろ』
 水兵が駆け出すのを見送り、メネゼスはその隻眼でヴェパールを睨んだ。
『貴様……俺の船に何をしやがった』



『バレット中将、ど、どうすれば』
 航海士が咳き込んで尋ね、バレットは奥歯を噛み締めた。
 止めるべきなのか――、それとも会談の結果を受けたメネゼスの指示が十番船にだけあったのか、それが判らない。
 メネゼスの指示ならば、彼等の船も攻撃の態勢に入る必要がある。
 十番船はゆるやかに、だが確実にレガージュとの距離を詰めていく。
『――いや』
 バレットはぐっと木の窓枠を握り込んだ。
 メネゼスの指示だとは思えなかった。メネゼスが船団に混乱を来すような指示をした事など、これまでに一度も無い。
 見回した僚船は皆、彼等と同じように混乱している。
 メネゼスの指示ではない。
『止めるべきだ――』
 そこに、司令船の信号手から慌しく信号が飛んだ。
゛レガージュへの攻撃の意思無し゛
゛十番船は即時停船せよ゛
 だん! と拳を窓枠に打ち付け、バレットは声を張り上げた。
『――止めろ! 引き戻せ!!』
 マリの軍船が慌ただしさを増す。
 司令船やバレットの船を含めた僚船から引っ切り無しに信号が発されているが、十番船は停まる気配を見せない。
 十番船を睨んで、バレットはぎくりと動きを止めた。それに気付いた他の水兵や僚船からも、呻きに似た声が上がる。
 十番船の右舷の砲門が、微かだが、赤く熱を帯び始めていた。
『また撃とうとしているぞ――!』
 船は最早、レガージュの街への射程内に達している。
 今撃てば、確実に港に停泊している船や建物を焼く。
 司令船の指示は変わらず、繰り返し停船を命じている。十番船の行動は最早明らかに命令違反だった。
 二撃目を受ければレガージュも黙ってはいまい。確実に、戦闘になる。
 もうメネゼスは、レガージュへの攻撃の意思なしと通達しているにも関わらずだ。
 バレットは覚悟を決めたように、ぐっと顎を引いた。
『――回り込め! こいつで止める! 十番船の前に出るんだ!』
『船長!』
『迷ってる暇は無いぞ! 出せ!』
 操舵士は顔を白く張り詰め、頷くと操舵を握り締めた。
 船体をレガージュとの間に置いて、盾に――それしか止める手が無い。
 ぐぐ、と船首が方向を変える。
 だが陸から向かい風が吹きつけ、思うように速度が上がらない。
『急げ――! 櫓を降ろせ!』
 片側十本の櫓が降り、波しぶきが上がる。櫓が海面を漕ぐが、向かい風に押され、追い付く気配が無かった。
 十番船はまるで風は向かい風などではなく、追い風だとでも言うかのように進んでいく。
『帆を畳め――!』
 砲門が強く赤い光を帯びる。
 追いつかない。
『船尾でいい、ぶつけろ!』
『――間に合いません! 撃つ……!』





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