二十四
まるで現実のものとは思えない光景だ。
耳元を轟轟と風と水の音が唸る。
十数本もの水の竜巻が天と海を繋ぐように立ち上がり、それが天然の檻となってマリ王国海軍の船団を取り巻いている。十一隻の軍船もファルシオン達の乗ってきたレガージュの交易船も、竜巻が起す荒れた波に木の葉のように揉まれていた。
それでいて、船体をぶよぶよと固まりに似た海水が捕らえている。
操舵は全く利かず、竜巻の間をすり抜ける無謀な行為さえ叶わなかった。
重く糊のような水に足を捉えられたまま、メネゼスは荒れた風が周囲を渦巻く中それを見上げた。
『ふざけた力だ――』
船を捕らえ、そして竜巻や水の幕を操る。それを全て一人の男が動かしているとは、実際眼にしていても信じ難い。
『ヴァイパルめ』
船を操り沈める海の魔物――そんなもの相手に、一体何をすればいいのか。
ここを切り抜け、兵士達を無事――、できる限り無事に、連れて戻るには。
『括りつけられて動けねぇんじゃ話にならねぇ』
見渡す甲板はどの船も、混乱し、兵士達は青ざめ怯えた顔でこの光景を見回している。
荒れた海とそこから立ち上る幾つもの竜巻。
その向こうの奇妙に青い空。
終わりに、見える。
『提督!』
竜巻が船腹に迫り、船が斜めに傾ぐ。足を水に固定されたままで、身体が振られる。帆柱の物見台にいた水兵が、ずるりと足を滑らせ、甲板へ落下した。
わっと声が上がる。
皮肉にも寒天状の水の塊が衝撃を吸収し、水兵の体はその上で一度弾んだ。だがすぐに落ちた肩から水に沈んで行く。傍に居た二人の水兵が慌てて手を伸ばし、同僚の身体を引っ張り出した。
メネゼスは息を吐き、それから足元の水を睨んだ。駆け寄ろうとしたが僅かに二歩、前に出れただけだ。
『チ』
『――メネゼス提督』
斜め後ろにいたロットバルトが、メネゼスの向こうに落ちた水兵と、マリの兵士達が彼を引っ張って何とか立たせるのを見つめながら口を開いた。
『好機かもしれません』
『何だと?』
このどこが好機なのかと、メネゼスは半ば呆れた顔でアレウス国近衛師団の参謀官を振り返った。
『どこがだ』 口に出してもそう言う。
ロットバルトは落ちた男を指差した。
『今、帆柱から落ちたのは、足を滑らせたからだと見えました』
『そうだろう。あれだけ傾けば、さすがに熟練でも立ってるのは無理だぜ』
『足を滑らせたという事は逆にこの海水、これの捕捉力が弱まっていると考えられます。あの兵士を引っ張り上げられるのがいい証拠です』
メネゼスは落ちた兵士を再び振り返り、男がまだ青ざめた顔をしているものの、甲板に断っているのを見、それから自分の足元を見た。
『ヴェパール一人でこれだけの質量を操るには限度があるはずです。十二隻の船を押さえ込むのに加え、あの水竜巻を操るのに要する精神力は並大抵ではないでしょう。見方次第では、好機とも』
二歩しか動けなかったと取るか、二歩、動けたと取るか。
『ヴェパールは敢えて我々を完全に覆いつくす事をしなかった。我々にレガージュとの戦いの結末まで見せようという肝でしょうが、それは今、裏目に出たとも言えます』
『――、なるほど』
メネゼスはぐ、と力を籠め、重く粘つく水を断つように、足を踏み出した。ざぶりと足元の水が鳴る。
『そういや、火球砲も生かしてくれてたな――』
耳元で風が唸っている。交じり合う激しい水音。
唐突に向きを変え目の前に迫った竜巻を、ハヤテは潜るように躱した。その向こうにもう一本の竜巻が迫り、斜め左へと抜ける。
ファルシオンは右へ左へと疾駆するハヤテの背から、荒れる竜巻と海を見下ろした。できるのはこうして見下ろす事だけだ。
無理な飛行を強いられ、ハヤテの強靭な翼にも負担がかかっている。
ぎゅっと眼を瞑る。
(父上だったら――)
今ここにいるのが父王だったらと、何度も何度も思わずにはいられない。そう思わせる理由はまた別のところにもあったが、ただその事がファルシオンの頭を占めていた。
父王ならば全てを救い、この混乱を収めたはずだ。
そもそも会談の時から、父王であれば何の問題もなく話を進め、結果は全く違っていたに違いない。
父王ではなくても、他の公爵達の誰かなら。もともとスランザールやロットバルトだけなら。
今この場で自分だけが、何の役にも立っていない。
何故父王は、何の力もない自分をこんな大事な場に向けたのだろうかと、そう思った。ファルシオンはただ助けられるだけで、誰も助けられない。
こんな姿を父王が期待していた訳ではないはずだ。
もっとできると期待をかけられていて、ファルシオンがそれに応えられていないだけなのかもしれない。
自分はもしかしたら、父王の命令を断るべきだったのかもしれなかった。自分には無理だと、そう正直に言うのもファルシオンの立場では大切な責任だった。
(そうだ――そうしたら)
グランスレイやロットバルトがファルシオンだけを逃がしたのは、ファルシオンが王太子だからだ。
レオアリスも――
唇を噛み締める。
(父上に、約束したから)
ハヤテの背で俯いたファルシオンを見て、スランザールは眉を寄せた。
「殿下」
俯いたファルシオンの視界に、傾ぐ船の甲板が見える。
ふとファルシオンはその甲板に目を留めた。
そうして、丸い瞳を僅かに見開く。
甲板の兵士達はまだ動こうとしていた。膝上まで水の固まりに捕らえられて尚、それを何とか取り除こうと必死に動いている。煽る風から船体を守ろうと、身動きの取りづらい甲板で帆を操っている。
二つ先の船の甲板に、グランスレイやロットバルトの姿が見えた。彼らはファルシオンを見上げている。表情までは見えない。けれど。
「殿下」
スランザールの緊迫した声に顔を上げると、目の前に水の壁があった。壁と思えるほど巨大な水の竜巻だ。渦の層までがはっきりと見える。
「!」
ハヤテが旋回する。ぐぐ、と水の壁がハヤテを追って動く。ファルシオンやスランザールの上に雷雨のような水と音が降り注いだ。
圧し掛かって来る。
ふいに、炸裂音が響いた。
首を竦めた瞬間、ファルシオン達を追っていた竜巻を、赤い閃光が貫いた。
メネゼスの指令船が放った火球砲だ。
竜巻の渦が一瞬止まり、次いで崩れ落ちる。ハヤテは翼を打ち、一気に抜け出した。
水が滝のような音を立て海面と船団の甲板の上に降り注ぎ、ファルシオンは首を巡らせてその飛沫の粒を見つめた。
一つ一つの水の粒に、眼下の軍船の姿が映っている。その甲板にいる兵士達の姿。
メネゼスや、ロットバルトやグランスレイ、近衛師団隊士達の姿。
(――ちがう)
何で自分に力が無いのだと、嘆くのはおかしい。
今しなくてはいけない事は、そんな事じゃない。
ファルシオンは船団を取り囲む竜巻を見つめた。
ハヤテが再びこの海域を抜け出そうと試みる。妨げられながら幾度も。その諦めない翼。
荒れる海に縫い止められ砕けそうに軋む船は、それでも諦めず、甲板の兵士達が必死に舵を取り帆を操って、自分達を掴む海水から抜け出ようとしている。
あの会談で、スランザールやロットバルト達は諦めず言葉を重ねた。
メネゼスは船を絡め取られた時も諦めずに、火球砲を海中に撃ち込んで船を動かした。
不利と判っていながら船を出したレガージュ船団も、傷を負いながらもディノを連れてきたファルカンも。
ファルシオンは全部、目の前でそれを見てきたのだ。
全て。
今もまだ、誰も諦めてはいない。
どれほど道が無いように見えても。
ファルシオンもまた、一度だって、諦めていない。
「――」
もう一度、ファルシオンは荒れる海面に瞳を向けた。
船室で、ファルシオンの前に立ち、剣を抜いた後姿が鮮明に浮かぶ。
ファルシオンの瞳の金色が色を増す。
どうすればいいだろう。
「殿下?」
スランザールはファルシオンが黙り込んだのに気付き、幼い頬を斜めから見つめた。
「――スランザール」
それは今までのファルシオンとは少し違った響きの声で、スランザールはファルシオンの言葉を待った。
「これを収めるには、どうしたらいい」
声には、強い意志が感じられた。まるで王その人の前にいるように思え、微かな感銘を覚えながら、スランザールは頷いた。
「――まずは船や飛竜の行動を妨げているものを、取り除く必要がございます」
「たつまき――? ……ちがう。――本当は、ヴェパールがあやつるのを止めさせなきゃいけないんだ」
「仰る通りです」
スランザールは頷いたが、ヴェパールを止める事は難しく、竜巻を止める事すら簡単ではない。
ハヤテは立ち塞がり追尾する竜巻と水の幕とを避け、常に疾駆している。海中のヴェパールの居場所を見つけるのは困難だ。
そして、見つけたとして?
だがファルシオンは瞳にくっきりとした光を浮かべている。
竜巻が、それそのものが意志を持ったかのように、火球砲を放ったメネゼスの司令船の船腹へぶつかる。
船が傾ぐ。
船体が激しい水の渦に軋み、今にも砕けそうな音を立てた。
(無くなれば)
ファルシオンは荒れる竜巻を睨んだ。
黄金の瞳が、じわりと輝きを宿す。同じ光がファルシオンの身体を包んで行く。
鼓動が鳴った。
一つ。
どくん。
沸き上がるようにもう一つの音が重なる。
レオアリスはうっすらと瞳を上げた。
ドクン。
意識の奥底を掠める、金色の光。
唇が、微かな呟きを浮かべた。
(……王――)
剣の、主。
近くにいる。
どこに。
守る為にいたのだ、自分は。
こんな所で、何を、しているのか――。
「――」
レオアリスの腕が上がり、胸に突き立っていた戟の柄を掴む。
青白い光がじわりと滲み、全身を包んだ。
自分の中に受け継がれる王の血――それをどう使うのか、ファルシオンはそのやり方をまだ良く知らなかった。
ただ、あの竜巻をどうにかしたいと、それだけだ。
メネゼスの司令船にのしかかり船を砕こうとしていたそれが、一瞬金色の光を内側に含み、次の瞬間に弾けた。
「!」
ファルシオンの身体が衝撃に押されたようにがくんと揺れる。スランザールがその背中を支えた。
「やった――」
竜巻が散ったその向こうに、青い空が広がっている。
「殿下、ご無理は」
後ろから覗き込んだファルシオンの額には汗が浮き、呼吸も荒い。ただ大きな瞳には結果への驚きと、喜びがあった。
「だいじょうぶ」
高揚した瞳をスランザールへと向ける。生まれて初めて、ファルシオンは自分の持つ力を意識して使った。
「もっと……、一つづつ、やらなきゃ」
ヴェパールは海上へ視線を向けた。光が幾筋も差し込む世界を分ける膜の向こうで、幾つかの変化が起きている。マリ海軍と
「ファルシオンか――またとない機会だ、この手で捕らえ我が君へ献上しようと思っていたが」
まだ発現を始めたばかりの微かな力の波動――そう侮り放って置くほど、ヴェパールは戦場での経験は浅くは無い。
手のひらの上に文字どおり浮かんだ緑の光球が明滅する。
「死体でも事足りる」
ヴェパールの周囲の水がぐぐ、と筒状に持ち上がった。
急激に海面が筒状に立ち上がったと思うと、ファルシオンの周囲を覆った。途端に周囲の一切の景色と音が断たれ、轟轟と鳴り響く音に包まれた。
「!」
ファルシオンはそそり立つ水の壁を見つめた。四方をすっかり取り囲んでいる。
「――スランザール」
何を言おうとしたのか自分にも判らないまま、声が掻き消される。
水の壁に空を切り取られ、ハヤテはやっと翼を広げられるだけの空間で必死に浮揚した。水は海面から上空へ、手を触れれば指を断ち切りそうな勢いで吹き上がっている。
ファルシオンは出口を求めて辺りを見回し、気が付いた。心臓が跳ねる。
水の壁が、次第に狭まり始めていた。
ハヤテの翼の先に激しい水流が触れ、翼を弾かれたハヤテは声を上げ、体勢を崩した。
「ハヤテ!」
ファルシオンは放り出されそうになりながら、懸命にハヤテの首に掴まった。ハヤテは体勢を立て直したものの、次第に逼る水流の壁で身動きがとれず、浮揚するのがやっとの状態だ。
ファルシオンの瞳に再び金色の光が揺れる。
「――止まれ」
水流は微かに金色の光を移し、逼る速度を落した。
だが、それだけだ。
止まる気配は無く、腹の中に抱えた者を押し潰そうと確実に逼ってくる。音が肌に触れるほど響き、心臓がぎゅっと掴まれるような気がした。
ファルシオンは眼を瞑りたい衝動を堪え、懸命に水の壁を見据えた。
「、止まれったら――!」
声を張り上げて、けれど何も変わらない。
ハヤテが苦しげに体勢を捩る。もうハヤテも翼を真っ直ぐに広げていられず、飛竜の身体は次第に水面に向かって落ち始めた。
頬や髪が飛沫に濡れ、しがみつく手が滑る。
ファルシオンを捕える事を確信したかのように、水流が激しさを増す。眼下の海面では水がすり鉢のように渦を巻いていた。
逼る水流の壁はもう目の前にあった。
ぶつかる。
(――レオアリス)
身を震わせる衝撃を感じた。
水流がとうとう身に触れたのだと思い、ファルシオンはもたらされる苦痛を予想して思わず顔を伏せ――、そしてその伏せた視線の先に奔る、青白い閃光を見つめた。
「――あ」
ファルシオン達を押し潰しかけていた水柱を、斜めに断つ光。
どくんと鼓動が跳ね、喩えようのない嬉しさが沸き上がった。
(剣、の――)
ハヤテが高らかに鳴いた。
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