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王の剣士 六【紺碧の守護者】

第四章 「剣士ザイン」

二十六

 海面から揺らぎながら差し込む光が、互いの姿を照らす。
「長かったのか短かかったのか――、だが、待ちくたびれたのだけは確かだ」
 ヴェパールを眺め、ザインは獰猛な獣が牙を剥き出すように笑った。
「三百年振りだ――」
 目の前に立つヴェパールの姿が、ザインの脳裏に三百年前のあの日をまざまざと甦らせる。
 船は燃えながら、この海に沈んで行った。
 彼女を連れて帰る事は叶わなかった。
 守れと。
 彼女が言ったからだ。レガージュと、その街の人々を――。
 ザインはその言葉に殉じてきた。剣の主の意志に。
 だが、もういい。
 ファルカンやカリカオテ、街の住民達の顔を思い起こす。
 もう彼等には、ただ一人の守護者など、不要だ。
 レガージュは三百年の間に、充分に発展してきた。アレウス国の交易の窓口として内外にその名を知らしめ、その通り機能する。港には様々な国の交易船が入港し、街には常に活気が満ちている。
 それは彼女がかつて望んだとおりの姿だろう。
 もう、充分だ。
 あの日彼女と交わした約束は。
(フィオリ――)
 彼女の姿は今でも鮮明に脳裏にある。三百年、まるで薄れる事は無く、ザインの記憶に寄り添っていた。
 ただ今、その眼差しに浮かぶのは、どこか悲しそうな色だ。語りかけるような瞳。
 何故、と。
 その眼差しがザインの胸を刺す。
(理由を問うのか、君が)
 何故。
 ザインは微かに笑った。
(もう君は俺の名を呼ばない。それが理由だ)
 彼女は悲しげに瞳を伏せる。その姿は、別の面影に変わりかけた。
 それはもっとずっと幼い――
 ザインはそれを無意識に――いや、判っていて、押し込めた。ヴェパルを正面から見据える。
 湧き上がる。
 ふつふつと、身体の――魂の奥の方から、湧き上がってくる。
 その感情に身を委ねる。
 抑えていたものを解放する。
(ようやく――)
 剣士の、本能――
 ヴェパールは瞼の無い目に嘲る色を刷き、ザインを眺めた。
「久しぶりだな。と言ってもあの時、私とお前はほとんど刃を交えていなかったが――。三百年、のんびりできただろう? 毎日良い想い出に浸れたはずだ。死による劇的な別れほど、人の心に美しく残るものはない」
 ヴェパールの嘲りに返すように、ザインの口元に笑みが浮かぶ。
「ああ――、毎日、考え続けてきた」
 レオアリスはヴェパールへの憤りを覚えながらも、相反する不安と共に届かない距離に立つザインを見つめた。
 ザインは淡々と、笑みさえ浮かべたまま答えている。
 いや――。
 たかぶる意思を抑え、宥めすかし、――その沸き立つ感情を、味わっている・・・・・・
 レオアリスは、その姿を良く知っていた。
 かつて対峙した剣士と、同じだ。
「ザインさん!」
 ザインは振り向かない。
 右腕の剣が脈打つのを眺め、ヴェパールは身体の前に浮かぶ緑色の光球に手をかざした。
「ふん――剣の主すら守れなかったお前が、今さら何をするつもりだ? 三百年間、ただ剣を錆付かせて来たのだろう」
 海水が微かな振動を伝える。ヴェパールは肌を打つその冷たい気配に眉を寄せた。ザインの剣の振動だ。
 ザインが笑う。
「――俺が何故、主を失ってからもずっと生き恥を晒してきたか――、すぐにお前にも理解できる」
 レオアリスは息を呑んだ。ザインの纏う気配が、変わっていく。面に浮かんだ表情――
 もはや隠す様子もなく、ザインは喜色を顕(あらわ)にした。
「ようやく、貴様をこの手で切り裂ける」
 嬉しくて堪らない、と。歓喜に溢れ、狂気に似た――。
 それは、バインドが抱えていた狂気だ。
 ザインは自らの剣を完全に制御し、剣士としての本能を律していた。少なくともレオアリスにはそう見えた。
 バインドの狂気は、剣士の本能でもありながら、それでもバインド自身の性質に寄っているのだと、どこかでそう思っていた。
 けれど今、ザインは。
 自ら、剣の渇望を選んだ。
 どくりと鼓動が鳴る。
 バインドが笑う。

 お前にも・・・・選べる・・・――

「……駄目だ――! ザインさん、剣を引いてください! このままじゃ」
 戻れなくなる。
 その言葉が思考を掠め、はっとする。つい先ほど、定かではない意識の中で、ザインがレオアリスに告げた言葉だ。
『お前は、戻れ』
(あれは)
 ザインは初めから、全て決めていたのか。
 選んだ・・・
『お前が俺を斬れ』
(――っ)
 身体は動かない。ザインは対照的に、まるで大地を蹴るように軽々と、足元を蹴った。剣が白く発光する。
「止めろ!」
 ヴェパールの前で海水が渦を巻き、ザインとの間に広がる。
 防御壁だと判ったが、ザインは構わず右腕の剣を振り下ろした。
 海水がたわむ・・・
 剣はあっさりと防御壁を断ち切り、ヴェパールの額に落ちた。
 ヴェパールの身体が沈み、剣はただ海水を斬り裂く。ザインの剣が過ぎた後に一瞬真空が生まれ、海水が瞬く間に流れ込んでそれを埋める。
「っ!」
 海水の振動が叩きつけ、レオアリスは瞳を細めた。身体を覆う空気の膜が震える。
 レオアリスが剣を合わせた時に感じた通り、豪剣と言える太刀筋だ。剣は全てを巻き込み、砕こうとしているように見えた。
 ヴェパールはザインから離れながら、剣が掠めた額を抑えた。骨まで覗いた傷が素早く閉じる。
 緑色の光球に手をかざす。ザインを取り囲む海水がぐぐ、と縮み、押し潰そうと圧力を掛けた。
「それで海水を操るのか?」
 ザインは笑って右腕の剣を振った。
 剣はやすやすと圧し掛かる海水を斬り裂き、ザインを解放する。そのままザインは再び、足元を蹴り間合いを詰めた。
 ヴェパールの腹部に波紋が立つ。
(戟――)
 レオアリスが警告を発する前に、波紋の中心から戟が飛び出す。ザインは意に介さず、剣を薙いだ。
 戟がザインの左腕に突き立ち、同時に横薙ぎの剣がヴェパールの胸を裂く。
 ヴェパールが退き、ザインの腕に突き立っていた戟の切っ先が外れる。ザインの剣がヴェパールを追い、海を断った・・・。剣の波動が海底まで伝わり、海中に砂が巻き上がる。
 ザインとヴェパールの間が巻き上がった砂煙に隔てられる。視界を妨げられたのか、ザインはその場で辺りを見回した。
 砂煙の間から戟が飛び出す。戟は不意を受けたザインの腹部を抉った。
 ザインは笑っていた。
 戟の柄を掴み、矛先が更に食い込むのも構わず砂煙の中からヴェパールを引っ張り出すと、そのまま、ヴェパールの右腕を断った。
 ヴェパールの苦鳴が響く。
(何て戦い方だ――)
 まるで防御など気にしていない。そして剣を振るう事そのものを、楽しんでいる。
(あの動きも……、この海中であれだけ動けるのは何故だ)
 レオアリスは腕を上げる事さえ満足にできない状態にあり、それはただここが水中だからと言うよりは、手足に重りをつけられているように感じられた。
 ザインとの差異があるように見えて、これは同一のものだ。
 誰かが、介在している。
 恐らく先ほどザインが話していた相手が。
(王都か、レガージュの法術士か――?)
 違う、と感じた。法術の気配は感じられない。
 それがどういう相手なのか――、判らないながらも、ザインの味方だとは何故か思えなかった。
(――)
 だがこのままなら、ザインはほどなく、完全にヴェパールを捕える。
 これはザイン個人の問題ではない。国と国との、西海との条約再締結に関わる問題だ。
 ザインの姿を見上げて浮かんだ考えを打ち消し、レオアリスは重い腕を持ち上げ鳩尾に当てると、右の剣を引き出した。
 ザインがちらりとレオアリスへ目を向けた。「――いつまで、ここに置いておく。俺に語った目的とずいぶん違うな」
(まただ。一体誰に)
 レオアリスは辺りを見回した。誰の姿も見えない。
 ただ、どこかで誰かが笑った気配がした。
 唐突に、右腕が誰かに掴まれたように重くなる。
「何だ――」
 剣を握った右手は、力を込めてもぴくりとも動かなかった。
 ザインが眉を潜める。
「連れていけと、そう言っているんだがな」
「貴様、誰と話している」
 ヴェパールが猜疑を含んだ声で鋭く言った。
「知っているんじゃないか――?」 ザインが踏み込み、刃と戟が激しく噛み合う。戟の柄がしなり、白い刃がヴェパールの喉の目前で止まった。
「――貴様……まさか」
 ヴェパールはのっぺりとした顔をどことなく青ざめさせ、合わせた剣越しに、ザインの背後へ視線を走らせた。
「よそ見をしている余裕があるのか?」
 ヴェパールが気付いて戟を退こうとする前に、ザインの剣が戟の刃を砕いた。喉元を掠めた切っ先が皮膚を裂き、血を迸らせる。
「――!」
 ヴェパールは片手で喉を押さえると砕けた戟を振り捨て、傍らの緑色の光球へ手を伸ばした。
 ザインの剣が緑の光球を捉え、断ち切る。光球は砕け、霧散した。
「これが無くても、お前は船を操れるのか?」
「――」
 ヴェパールの面が怒りで染まる。その怒りを、目の前のザインではなく、その背後のどこかへ向けた。
「――御方・・
「――」
「これは一体、どういうおつもりか」
 ザインが瞳を細める。ヴェパールはしばらく黙り、何の反応も返らない事に面を苛立たせ、再び続けた。喉から吹き出る血を押え息を切らせながらも、薄い唇を歪め、蔑む口調で問う。
「これは、あの方への裏切りと、そう受け取っていいのでしょうな」
 返事は無い。
「御方――、今更、王国での立場が、惜しくなられたか」
 ザインは面白そうに笑った。
「やはり、繋がっていたな。まあどうでもいいが……」 ちらりとレオアリスを見て、一瞬だけ瞳に何かの色を走らせる。
 その色に、レオアリスは何故か判らないまま不安を覚えた。
(――誰だ)
 何故、ザインは自分を見た。
 ヴェパールは何を言っている?
 王国での立場……?
「御、方――」
 低い、ようやく吐き出したような声だった。ヴェパールは一目で判るほど息を切らしていた。手で押さえている喉から、指の間を縫って血が染み出し続けている。
「よもや、この海を、お忘れか。この海は、あの方の、愛した――」
 どこかで、誰かが笑った。
「回復しないのね……傷」
 そっと囁くような声に、ヴェパールが不快そうに口を引き結ぶ。
「そこまでなりふり構わないお前は、初めて見たわ。あの触媒はずいぶん大事だったみたいね」
 レオアリスは声のする方を探った。海面から光が降るように、声が降ってくる。
(女……?)
 くぐもって聞き取りにくいが、口振りはどうやら女のようだ。
「大事なものはしっかり守らなきゃ」
「――」 ヴェパールは慎重に、掠れた息を吐いた。「初めから、こうする、つもりで……」
 微かな笑い声が降る。
「別に裏切るなんて言っていないわ。第一」
 一瞬、ひどく酷薄な間があった。
「もういない相手を、どうやって裏切るの?」
「……だが、貴方は、まだ」
「――あはは!」
 笑い声が弾けた。海中に反響し、あちこちから降り注ぐ。ひとしきり笑った後、嘲るように言った。
「お前がそんなに夢想家だとはね。小娘みたいに、永遠を信じているの?」
「――ふざ、けるのは」
 レオアリスはこめかみの辺りでどくどくと血液が脈打つ音を聞いた。
 くぐもって聞き取りにくいが、どこかで、聞き覚えがある。
 この、話し方。
 口調。
(誰、だ……)
 どこで聞いた。
「まあ、協力すると――そんな事を言った気もするわね。どう? 貴方にも義理が無い事も無いし、協力して欲しい? その方が公平でもあるわ」
 ザインは黙ってやり取りを聞いていたが、肩を竦めた。
「くだらない茶番だ。もういいな?」
「そうね――茶番よ。全て」 声は再び嘲った。
「ならもう終わりだ」
 右腕の剣が発光する。
 ヴェパールは既に肩で大きく息をし、喉を押さえてよろめきながらザインを見た。自らの命運が尽きかけている事に対する信じ難いという思いと、僅かな、だが確実な恐怖がそこにある。
「御方――」
「命乞いか? 似合わないぞ、三の戟。貴様もいつも、誰かの命乞いを聞いて来ただろう」
 ザインの剣の切っ先が、ヴェパールの額に当てられる。額からぷつりと血が滲んだ。「それを受け入れた事があったか」
「待て……」
 ザインは冷酷と歓喜を含んだ瞳でヴェパールを見下ろした。
「三百年、待った」
「ザインさん――!」
「茶番だから……もう少し付き合ったら? ここからは見応えがあるわ。――特にお前には」
 剣の動きがぴたりと止まった。ザインの瞳が見えない相手に向けられる。
「――何を企んでいる」
 含み笑いと声が降る。耳に溶かし込むように囁く。青い世界が揺れる。
 ゆらゆらと揺らぐ、浅い夜のような世界。
「お前がもし、想いを抱え続けたのなら――私はお前を助けたのにね」
「――」
「でももうお前は、抱え続けるのに疲れてしまった」
「……何を」
「三百年――」
 声には遠く、懐かしむ響きがあった。
「私は忘れたわ。もう、顔も定かじゃない」
 ザインはヴェパールに剣を突き付けたまま、その切っ先を睨んでいる。
「お前は抱え続けるのを止めた。永遠が苦しいから。永遠など無いのに」
 ザインが奥歯を噛み、剣を握り込む。
「――思い違いだ」
 女はくすりと笑った。
「お前には、未来があったのにね――ほら」
 ザインがぎくりと黒い双眸を見開く。そして油の切れた人形のような仕草で、それを見上げた。
(……どうしたんだ……)
 レオアリスはその視線を追った。
 海面の近くに、丸い光が浮かんでいる。
 ザインが奥歯を噛み、息を吐き出した。
「――ユー……ジュ」
(ユージュ……?)
 レオアリスは驚いてその光を見つめ、瞳を見開いた。
 視線の先で、丸く不安定な泡に包まれたユージュが落ちてくる。ユージュは球の中に膝を着き、ザインの姿を見て、必死に叫んでいる。
 領事館で、ザインを追ってきたユージュの姿がザインの脳裏に閃く。
「――貴、様――ッ!」
 肌を震わすような怒りを纏い、ザインは姿の見えない相手を睨んだ。
「どういうつもりだ――ユージュを放せ」
「お前はその未来だけを、大切に守っていけば良かったのに」
「ふざけるな」 ザインは吐き捨て、ヴェパールに突き付けていた剣を外した。剣が白く発光する。
 両眼に切迫した光が差す。
「放さないなら、貴様から斬る」
「その子が育たないのは何故?」
 唐突に問われ、ザインは黙り込んだ。
「――」
「簡単な話――」 声が憐れむように囁く。「お前に、守られる存在である為よ」
「……黙れ」
「いつでもその子は、お前の心の奥底にある渇望を感じていた――。お前の心は別の場所に向けられていて、その子の上には無い。その子はお前のすぐ傍にいたのに」
「――」
 クスクスと笑い声が降る。その鈴を振る声に重なり、低い笑い声が忍び寄ると辺りに満ちた。
「ほぉ……あれは、お前の子供か。お前と、お前の主の」
 ザインは視線を落とし、瞳に強い動揺を浮かべた。
 ヴェパールは喉を押さえていた手を離していた。砕け散ったはずの緑の光球が胸の前に浮いている。波の間から、光の粒が集まり、光球はみるみる元どおりの姿に戻った。
 ザインが再び剣を突き付ける前に、ヴェパールは波を立ててザインから離れた。
「良く似ている」
 追おうとしたザインの足が、がくりと止まる。たった今まで自在に動いていた手足が、重い。
 ザインの面から血の気が失せた。
「――手を出すな」
「手を出すな、か、面白い。先ほどまでは嬉々として私を殺そうとしていた奴が」
 ヴェパールは平べったい両眼に愉悦を浮かべ、ザインを眺めた。
「手を出すなというのなら、それなりの代償が必要だろう」
 ヴェパールは耳まで裂ける口を大きく開いた。
 喉の奥から戟の切っ先が現れる。
 柄の途中まで現わした戟を、ヴェパールは吐き出した。
 ザインは身動き一つせず、ヴェパールの戟はザインの左脇腹を易々と抉った。
「ザインさん!」
 レオアリスは右腕に力を込めた。
 まるで動かない。
「っ」
「父さん!」
 ユージュが泡の壁を叩き、何度も何度も叫んでいる。
「御方は楽しい趣向を与えてくださった――。命乞いをするのは、今度は貴様のようだな」
 脇腹を抉った戟は向きを変え、ザインの左肩を後方から切り裂いた。
 通り過ぎ、再びザインへ切っ先を向ける。右頬をざくりと切る。致命傷には至らない程度で、鉾はザインの上に傷を刻んでいく。
「止めろ――! いい加減にしろ!」
 レオアリスの右手の剣が青白く発光する。ぎし、と身を包む檻のような空気の膜が軋む。
 身を包む、空気。
 頭の片隅を思考が掠める。
 酸素――海水の中から精製している。
 法術ではない。もっと別の。
 例えるなら、王やアスタロトに似た能力――
 大気。
 チカチカと警告が明滅する。
 だがレオアリスは目の前の光景を睨んだ。
「止めろ!」
 右手の剣では足りない。
 戟がザインの左脚の腿を切り裂く。
 ヴェパールは肩を震わせて笑った。
「抵抗もしないとは――、それほど子の命が惜しいか、ザイン」
 ザインは黙ったままヴェパールを睨み、立っている。怒りを、抑え込んで。
 肌に届くその怒りの波に、ヴェパールは笑みを深めた。
 腹立たしい。先ほどザインは自分に、浅ましい感情を与えた。
 命乞いをさせた。
 ヴェパールの口元が、大きく吊り上る。
「当然、惜しいだろう。大切な主の忘れ形見だ」
 緑の光球が明滅する。ざわりと海中が揺れた。
 ヴェパールの背後に影が生じたかと思うと、その影の中から巨大な鮫が身をくねらせ、現われる。
 小船ほどもあろうかという鮫は、浮かんでいるユージュの横を擦り寄るように通り過ぎた。並んだ鋭い鋸歯と、その奥の深い口咽。
「止めろ」
 鮫は尾びれでユージュを包む泡を叩いて過ぎる。泡は弾けそうにたわんだ。ユージュが青ざめた瞳を見開き、身を縮める。
「こいつに餌をやりたいところだが――どうするか」
「止めろと、言っている」
「は――」
 ヴェパールは勝ち誇り、喉を反らして笑った。
「ならば――そうだな。お前のその剣を差し出してもらおうか。少しは腹の足しになるだろう」
「父さん! そんな事しないで――!」
 ユージュは首を振り、父の姿を見つめた。
 ずっと――、母を守り切れなかった事を後悔してきたのを、知っている。
 いつも家の先のあの場所から、輝く海を見つめていた。
 父の望みが何か――。
 ユージュには、良く判っている。
「父さん――いいよ」
 止めに来たつもりだった。ゼ・アマーリア号が沈んで以来、父の姿は今まで見た事がないほど、怖かったから。
 ユージュの知っている優しい父がいなくなるように思えた。
 けれど、そんな・・・事はもっと嫌だ。
「いいから……」
「どうする」
 鮫は再び、ユージュの周りをぐるりと巡った。ユージュはびくりと首を縮めながらも、血の滲むほど唇を噛み締め、湧き起こる恐怖を堪えた。
 ザインは黙っている。ヴェパールは苛立ち、舌を打った。
「子よりも、主の仇を討つ事を選ぶか? さすがは剣士といったところだな。まあそれもいい」
 鮫の尾びれが海水を叩く。ユージュを包む泡が震える。
「では、餌の時間だ」
「――待て」
 低い声が遮る。ヴェパールは悠然とザインへ視線を投げた。
 ザインはヴェパールを射抜く光を浮かべ、だが右腕を降ろした。
「いい心掛けだ」
「父さん、駄目だ!」
 ユージュは自分を包む泡を必死に叩いた。これが割れてもいい。喉は半分掠れかけている。
「止めてよ――! 父さん」
 あの部屋で、自分を全く見てくれなくて、怖かった。
 でも、今の方が怖い。
「父さん――、ボクはいいから……」
 ザインはユージュに視線を向けず、ヴェパールを見据えている。
 緑の光球がぼう、と揺れる。鮫は尾びれで海水を叩き、ザインへと向かった。
「嫌だ――!」
 ザインの右腕に、鮫が喰らい付く。ユージュは両手で顔を被った。
 ぶつり、と音がした。
 鮫はザインの剣を右腕の肘から食い千切り、尾びれを動かして擦り抜けた。
「――わああ!」
 ユージュが泣き叫ぶ声が響く。
 怒りに目の奧が眩むような感覚の中で、レオアリスは右腕にあらん限りの力を込めた。
「動け――動けよ! 畜生ッ!」
 右の剣だけでは、足りない。
 まだ空の左腕に力を込める。
 ザインは食いちぎられた右腕を押え、よろめくとその場に膝を落とした。
 レオアリスはぎくりと息を止めた。
 鮫が再び、向きを変える。腕を押え顔を伏せたままのザインへと向かっていく。
「――動け」
 ジリジリと苛立ちが増すほどではあるが、左腕が上がる。力を入れ続けていなければ、すぐに押し戻されそうだ。
 鮫はザインの背後から迫り――、横を擦り抜けた。ザインはぎくりと血の気の失せた顔を上げた。
 鮫はユージュへと、正面から近付いて行く。
「や、めろ――。手を出さないと」
「誓ったのか? 誰が」
「――止めろ……」
 ザインはよろめく身体を起こした。
 鮫が牙の並んだ顎を開く。その前にユージュを包む泡がある。
 レオアリスは持ち上げた左腕を、鳩尾に当てた。
 鮫が泡ごと、ユージュに食らい付く。
「ユージュ……!」
「父さ――」
 ユージュが腕を伸ばし、ザインを見た。
 口が閉じ、二人の間が閉ざされる。ユージュを呑み込んだ鮫は、悠然と身を反した。
 一瞬、辺りは全くの無音のように静まり返った。
「っ」
 レオアリスは息を抑え、剣を掴んだ左手を引き上げた。
 青白い光が零れる。
(間に合う――、間に合え)
 鮫はまだ空腹を抑え難いかの如く、身を捩ってザインへ向かった。
 ザインは俯いたまま、身動みじろぎ一つしない。ヴェパールは堪え切れない愉悦を滲ませた。
「そいつも喰らっていい。ザイン、昔のよしみだ、子供と共に主の下へ行かせてやろう」
「――いい加減にしろ!」
 レオアリスは左の剣を引き出した。海中が鼓動するように一度揺れ、鮫が怯えたように身を躱した。
 女が笑った。
「邪魔しちゃダメよ」
「――!」
 ずしりと左腕に重圧が掛かる。
 ヴェパールはレオアリスから眼を離し、再びザインへ視線を戻した。鮫が海中を旋回し、再びザインへと向かう。
「主との再会だ」
「――ザインさん……!」
 目の前に鮫が迫っても、ザインは全てを諦めたのか、俯いてぴくりとも動かない。
 鮫はザインの右肩から胸に喰らいついた。
 鋸のような平たく鋭い牙が食い込み、肉と筋肉、骨を断って行く。
 ザインがぎり、と奥歯を噛み締め、初めて顔を上げた。
「――」
 レオアリスは、僅かに息を呑んだ。
 ザインの上に、それまで見せていた狂気は、欠けらも無い。
 鮫に食い付かせたまま、ザインは左腕を持ち上げた。
 腕を、鮫の喉に突き立てる。皮膚を破り、肉を裂き、ずぶりとザインは腕を沈めた。
 鮫は逃れようとして身を捩り、ザインから顎を離した。ザインの身体に刻まれた全ての牙の跡から血が噴き出す。海水がとどまるところを知らず、血を流し溶かしていく。
 自らの血が辺りを赤く染めるのも構わず、ザインは左腕を更に沈めた。
 喉から硬く白い皮膚を裂き、腹へと達する。
 確かな感触があった。
 そのまま、掴み、ぐいと引く。
「――ユージュ」
 暴れる鮫の腹を蹴り、ザインはユージュを引き摺り出した。





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