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王の剣士 六【紺碧の守護者】

第四章 「剣士ザイン」


 フィオリ・アル・レガージュの街は街道を通ってやってくる旅人に対して、こここそが目的の場所だと示すように、斜面を下りながら目の前に広がっていた。
 王都から二千里を経て続く石敷きの街道が、街を囲む街門で終わる。
 大地の果て、諸外国との交易と親交の玄関口――二つの異なる要素を持ったこの街に対する修辞も、海に向って広がる姿はそれを実感させるに充分なものだった。
 青く連なる瓦屋根の更に向うには、それ以上に青く輝く海が横たわり、更に遠くになだらかな曲線を描く水平線があった。
 その光景は王都の近衛師団隊士達や、もちろん幼いファルシオンからも言葉を失わせ見入らせ、誰もが一度深呼吸するように感嘆の息を吐いた。
 近衛師団の飛竜の隊列はしかし止まる事無く、緑の斜面を降りて街道の手前から門の上を抜けていく。
 街門を越える時、天蓋部分の壁面に楕円の石板が掲げられ、一人の女性の横顔が描(えが)かれているのが目に入った。街を訪れる人々を迎えるようにも、街道の遥か先を見つめているようにも見える。
「あれはフィオリ・エルベの像です。彼女は街の名が示すように、三百年ずっとこの街の象徴なのです」
 レオアリスの視線に気付いたビルゼンがそう言った。
 彼女が、という思いでレオアリスはもう一度その横顔に目を向けた。
 大戦時に、途絶えていたこの街の交易を復興する為に力を尽くした人物。道の先を見つめる真っ直ぐな眼差しには、意志の強さとしなやかさが感じられる。
 ただ、どこか遠い印象があるのは、長い歳月の間に、彫り込まれた石が一部風化しているせいだけではないのだろう。
 彼女は、もう三百年も前に失われた女性ひとなのだ。
 剣士ザインの主であり、妻であった女性。
「――」
 街門を抜け、地上の道なりに近衛師団の隊列が上空をゆっくり抜ける。
 街の通りや窓、屋根の上にまで登って見上げているレガージュの人々にとっては、近衛師団などこの街では一生見る事がないと思っていたものの一つだろう。彼等はここ数日間で既に何度目か知れない驚きをもって近衛師団を迎えた。
 飛竜の翼と翻る近衛師団旗の間から、隊士の姿に交じって幼い少年の姿が垣間見える。乗っているのは銀翼の飛竜の上で、銀翼は大将の乗騎だ。
 何故それほど幼い少年が大将騎に同乗しているのか――、その容姿と年齢からそれが誰なのかに思い至ると、波のような騒めきは途端に大きなうねりになった。
「ファルシオン殿下じゃないか――?」
 どこかで声が上がる。
「まさか」
「いや、ファルシオン殿下だ」
 声はすぐに連鎖して広がり、次第に大きな歓声になった。


「近衛師団だって――」
「ファルシオン殿下が来てるんだ」
「王都の、王の剣士もいるって」
 子供達が騒ぎながら交易組合会館の広場を駆け抜け、石段を走って登っていく。
 ザインは一つだけ鎧戸の開いた窓から通りの様子を眺め、静かに息を吐いた。
 もうすぐ、王太子を擁した近衛師団が――、レオアリスが、ここに着く。
 ザインの脳裏に浮かぶのは、かつてのジンの姿だ。
 記憶の中の瞳が、ザインに何かを語り掛けている。
 ザインは窓に切り取られた海に目を向けた。瞳を射るような青い輝きが、脳裏のジンの姿を霞ませる。
 青く輝くその色は、彼女を失った時の色だ。
「ジン――。許せとは言わない」
 ただ、誰にも邪魔はされたくはなかった。



 交易組合会館前の広場に、次々と近衛師団の飛竜が降りていく。先導の五騎とフレイザーが飛竜から降り膝をついて待つ前に、ファルシオンを乗せたレオアリスの乗騎が降りた。
 既に会館前の広場は人だかりが出来上がり、若い近衛師団大将に導かれて降り立つ幼い王子の姿を、興奮と期待とともに見つめている。
 近衛師団の大将がこれほどに若いとなると、それが第一大隊大将だとすぐに判る。
 彼等が誇りとする剣士ザインと同じ、王に仕える二刀の剣士と、その跪く正面に立つ王子。
 住民達の目に、その姿は不思議と、レガージュの街とザインの姿に重なった。彼等のザインに対する信頼と親愛故もあっただろう。
「ファルシオン殿下――本当に殿下だ」
「王太子殿下をお遣わしになるとは」
 ファルシオンが長い間待ち望まれ、ようやく誕生した王子だと誰もが知っている。王にとっては、かけがえのない世継でもある。
「陛下はこの街にも、ちゃんとお心を向けてくださってるんだ」
 マリの海軍船団によって街には不安が満ちていたが、王太子ファルシオンと近衛師団の到着は、この街にも王の、国の庇護があるのだという安堵を、ゆっくりとしかし確実に広げていった。
 一方でファルシオンは、集まっている人々から注がれる視線を、背中にはっきりと感じていた。騒めきと視線から、言葉にはならない想いが伝わってくる気がする。
 それはファルシオンがこの国の王子だからこそのものだと、ファルシオンは理解していた。
 少し怖い。
 ついこの間、誕生日の祝賀式典で王都の人々に手を振った時とは、それは似ているようで全く違った。
 もっとずっと、質量のある想い。
 向けられる期待に、どう答えればいいのか――
「殿下」
 そっと呼ばれて顔を上げると、レオアリスがいつもと同じ笑みをファルシオンに向けた。
「彼等に目をお向けになってから、中にお入りください。今はそれだけで大丈夫です」
 聞きなれた口調でそう告げられ、高まっていた緊張がすうっと溶けた気がする。
「――うん」
 ファルシオンは瞳を上げて振り返り、レガージュの人々一人一人と目を合わせるようにゆっくり顔を巡らせた。
 色んな表情が見える。
 一人一人。
 そうか、と思いついてファルシオンは懐に手を当てた。そこに懐中時計がそっと音を立てている。
(おんなじなんだ――)
「殿下? どうかなさいましたか」
「ううん、大丈夫だ」
 ファルシオンは頷いて、しっかりと背筋を伸ばして交易組合会館の階段を登った。扉の脇には金髪の大柄な男が既に膝をついて待っていて、ファルシオンの顔を見て素早く叩頭した。
「レガージュ船団長、ファルカンと申します。この度は我々レガージュ船団と交易組合の不徳により、多大なご迷惑をおかけし、お詫び申し上げるすべもございません」
 ファルシオンはファルカンの前まで行くと、立ち止まって彼を見下ろした。ファルカンの面には、さきほど丘の上でカリカオテが浮かべていた決意と同じ色がある。
 束の間、ファルシオンは言うべき言葉を捜した。
「……良い。もうカリカオテからも聞いたのだ」
「は――」
 ファルシオンがもう一言、言葉を継ごうとした時、一人の男が群衆を掻き分けて広場に出ると、階段を駆け上がろうとした。
 気付いた人々が騒ぐよりも前に、男はあっという間に近衛師団隊士に取り押さえられ、階段手前の石畳に押しつけられた。
 男は必死に顔を上げ、真っ赤になった顔をで自分を押さえている隊士達を睨み付けた。
「放せ! 私はレガージュの領事だぞ!」
「領事?」
 取り押さえていた近衛師団隊士二人が、面食らった顔を見合わせる。
「私はホースエント子爵だ! 放せ、無礼者!」
「――これはホースエント子爵」
 ロットバルトが階段を降りて近付く。ロットバルトの面には呆れた色がありありと浮かんでいたが、ホースエントは見知った顔を見付けて安堵を浮かべた。
「おお、ヴェルナー殿、良いところに」
「良いところかどうか。王太子殿下の御前に前触れもなく駆け出されるとは、幾分思慮が不足されているのではありませんか。万が一、問答無用で斬り捨てられたとしても文句は言えないでしょう」
「き、斬るとは、そんなまさか」
「私だったらうっかり斬っていたかもしれないな。冷静な隊士に感謝してください」
 ロットバルトが隊士に放すよう指示すると、解放されたホースエントは一旦立ち上がり、石段の上から自分を見下ろしている幼い姿を見つけて素早く石畳の上に膝をついた。
 広場にいた人々はすっかり静まり返り、ホースエントを見つめている。ホースエントはそれには気付かず、前に立っていたロットバルトへ視線を送った。
「ヴェルナー殿、殿下と話をさせていただきたい」
「――」
 ロットバルトは階上を見上げた。グランスレイとレオアリスが脇に退り、入れ替わるようにスランザールがファルシオンの前に立つ。
「王立文書宮長、スランザール公です」
 ロットバルトに言われて初めて思い当たったのか、ホースエントはあたふたと平伏した。
「ご……、は、初めてお会い致します、私はレガージュの領事」
「ホースエント。貴侯は何をしにここに顔を出した」
「は――そ、その」
 スランザールの厳しい眼差しが、あたかもホースエントを打ち据えるように思える。ホースエントは縋るように見上げた。
「わ、私は――、ぎ、疑問がございまして」
「疑問? 疑問とは何じゃ」
「な、何故――、王太子殿下におかれましては、何故我が領事館にまず第一にお越しいただけないのですか」
「ホースエント――ッ」
 ファルカンが怒鳴り付けそうになるのをこらえぐっと頭を提げたのが、レオアリスからも判った。レオアリスはスランザールの横顔を見た。スランザールは眼差しを緩めずホースエントを睨み据えている。
 ホースエントは理解を求めようと薄笑いを浮かべた。
「本来、王家の方をお迎えするには、領事館が対応するのが筋と――交易組合は単なる街の組織に過ぎず」
「王太子殿下がどちらに赴かれるかは、その目的の如何いかんによる。そなたの口出す事ではない」
 スランザールはホースエントの言葉を遮り、ぴしゃりと告げた。ホースエントがおろおろと身を起こす。
「し、しかし、私は王から任命された領事です。これでは、これでは余りに不遇な処置に過ぎるのでは」
「領事を自認するのなら、何故これまで報告一つ上げなかったのか。昨日交易組合からこの段に至って漸く報告があった時でさえ、レガージュ領事館は何一つ報告を遣していない。それで領事と言えるか」
「ですが……その、」
「そなたの進退については、今回殿下がお心を煩わせる事ではない。追って地政院より沙汰があるであろう。それまで領事館で謹慎しておれ。どの程度の処置が下されるかは、そなたにも想定できよう。身の回りを整理しておくと良い」
 突き放す響きにホースエントはぱくぱくと口を開け閉めし、ようやく声を絞り出した。
「――スランザール公、わ、私は……! お待ちください! ――お待ちを」
 だがスランザールはファルシオンを促し、もう既に会館の扉を潜ってしまった。
「領事館にお帰り頂くように」
 ロットバルトは隊士に一言告げ、階段を登って扉へ向かった。隊士が丁寧に、だが断固としてホースエントを騒めく群衆の輪の外に連れ出した。
 静まり返っていた広場が、再びざわざわと人々の会話に紛れていく。
 ホースエントはしばらくうろうろと広場の周りを歩き回っていたが、群衆の意識はもう広間の中央に向いていた。
 彼等の視線の先では、近衛師団の小隊がファルシオン達が会館に入るのを見送り、それから沖合いのマリ海軍の船と対峙するように向き直っている。
 レガージュ船団の男達とも、普段領事館近くの詰所にいる正規兵とも違う姿に、レガージュの住民達はファルシオンが館に入った後もなかなか散っていかなかった。
 ホースエントが繰り広げた騒動の余韻と、そして何より、次にファルシオンがあの扉から出てきた時に何を言うのか、それが気になっているのもあるだろう。
 互いに興奮した顔を見交わしながら思い思いに予想しあい、じっと近衛師団と会館の扉に集中していたせいで、羞恥に顔を歪ませたホースエントが路地の隅でぶつぶつと何事か呟きながら会館を睨んでいたのには、気付いた者はほとんどいなかった。





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