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「竜の宝玉とはじまりの森(仮)」

第二章「春の嵐」 (二)


 夜会の日は綺麗に晴れ渡って、天気の心配はまるで必要ないようだった。西の迎賓館はすっかり朝から慌しい。内々のお披露目とはいえ、招待客はほぼ五十組にも及ぶ数で、基本的に夫妻での出席を見込むとなると、全体では百名以上になると予想された。
 その分の食器や椅子、立食のため卓はそれほど必要ないが、それでも料理や飲物を配置する十数卓の大きな卓が用意され、一卓一卓に真っ白な布が掛けられる。その他、大広間や館内を飾りつける花、控えの間の準備、各来賓の好みに合わせた料理や飲み物の手配、などなど。
 それを、遅い朝の陽射しの差し込む部屋で、アーシアは寝ぼけ眼のアナスタシアに、噛んで含めるように説明していた。
「こうした夜会や園遊会などを催すには、これだけの準備が必要なんです。今回はエレノア様が手配なさってくださっていますが、公爵位をお継ぎになったら、貴方が主として全て指図するものですからね。……聞いてますか?」
「ふぁーい」
 まだごしごし目をこすりつつも、アナスタシアは卓の上に頬杖をついてこくりと頷いた。アーシアは苦笑を浮かべ、それから手にしている数枚の綴りをアナスタシアの前に差し出す。
「これは、今日いらっしゃるお客様の一覧です。ファーガソンさんが作ってくれたものですよ。皆様の地位やお仕事、それからご趣味など書かれていますから、少しお読みになって、ご挨拶の時はこれを生かして会話なさってください」
「んー」
 視線を落とした綴りの上には、びっしりとファーガソンの几帳面な字がならんでいる。アナスタシアの細い眉根が歪んだ。
(うぇー、めんどくさい……)
「アナスタシア様」
 アナスタシアの心中を読んだように、アーシアは少し声を落として彼女を見つめた。アナスタシアは綴りをひらひらと手で弄びながら首を傾ける。
「お前が隣に居て、誰がどーでとかあーでとか教えてよ。覚えたでしょ?」
「私は出席できません」
 アーシアはきっぱりと無情に首を振った。ぱちくりと瞳を見開き、それからアナスタシアは驚いて椅子から立ち上がった。
「ええーっ! 何で!」
「何でって……普通に、私は出席できる立場にないですもの」
「そんなの関係ないじゃん!」
 アナスタシアにはかなり衝撃的な展開だったのだが、アーシアは全く事も無さそうに頷いただけだ。
「そういうものです」
「……やだぁ」
「嫌だではなくて……この先、私がご一緒できない場所はどんどん多くなりますよ」
 すっかり言葉をなくしたアナスタシアを眺め、晴れのお披露目の前に少しまずかったかと、アーシアは務めて笑みを浮かべた。
「まあ取り敢えず、今日貴方が貴婦人としての対応をなされば、私もとても誇らしいです」
 アナスタシアの顔を覗き込むと、まだ複雑そうな色を浮かべながらも、アナスタシアは渋々頷いた。
「頑張ってくださいね。……あ、それから、」
 深紅の瞳が恨みがましい色で、まだ何かあるのかとアーシアを見つめる。
「夜会では、あまりたくさん召し上がってはいけません。それも貴婦人の嗜みです」
 今度こそ、アナスタシアは盛大に抗議の声を上げた。


 ぎゅうぎゅうと締め上げた胴は苦しいが、夜会は粛々と始まった。アナスタシアの隣には、アーシアの代わりに大叔母が立っていて、それが少し、大叔母には悪いが残念だ。
 どうも来客は一斉に来るのではなくて、会が始まってからちらほらと、思い思いの時間に訪れるらしい。ただしそれにも決まった時間帯はあって、あまり遅すぎると失礼に当たるのだと、アーシアが教えてくれた。
(めんどくさいなぁ)
 それに蓋を開けてみると、随分若い客が多い。アーシアの言っていたように招待者が身内を伴っている事も多かったが、欠席する主の代理で出席している者達も多かった。特にアナスタシアと同年とまでは行かないが、二十代前後の青年達が多く訪れている。
(どうせ代理を出してくれるなら、もっと同い年の娘とかにしてくれればいいのに)
 そう言えば女性は夫人ばかりで、こういう席の華であるはずの若い令嬢達もあまり姿を見かけない。アナスタシアは本当にがっかりと肩を落とした。
 一方で、先代アスタロト公の美しさを知っているせいか、はたまたまだ社交界にあまり顔を出していないアナスタシア自身の噂を聞いているのか、青年達は代わる代わる挨拶に訪れ、熱心な言葉を掛けてくるのだが、アナスタシアにはどれも退屈な事ばかりだった。
 アナスタシアのそうした反応を見るのか、大叔母も微笑みながらもかなり事務的に彼等に対応している。それでも挨拶の順番待ちのように、アナスタシアの周りには遠巻きに人だかりが出来上がっていた。
(……次の方どうぞ〜、って感じ?)
 大叔母の応対を横目で見ながら、アナスタシアは随分な感想を抱いて心の裡で吹き出した。もちろん大叔母は、そんな事はおくびにも出してはいない。してはいないが、丁寧で、素っ気なさを感じさせない程度に素っ気ない。
「まあ、ようこそ。お父君はお元気? アナスタシア、こちらの方はデボア男爵のご子息で、ホルスト様ですよ。先の春から王立学術院にお入りになられて、」
(デボア……何か書いてあったなあ……)
 ファーガソン情報の紙に。忘れてしまった。アナスタシアは一応丁寧に頭を下げた。
「ようこそいらっしゃいました。大したお持て成しも出来ませんけれど、ごゆっくりなさっていってください」
 決まり文句もそろそろ舌を噛みそうだ。
 エレノアはにこやかにお辞儀した。
「ホルスト様、また後程」
 物足りなさそうな顔をして、また一人、青年がアナスタシアの前を去った。
(お披露目って、ホント退屈)
 始まってからずっと立ったまま、にこにこ笑って似たような挨拶を繰り返しているだけで、せっかくあちこちに用意されたご馳走も食べ過ぎるどころか口にすることもできない。主催とは何とつまらないものだろう。豪華な美しい装いだけが、せめてもの救いだ。首に巻いて垂らした柔らかい布をくるくると指で巻き、アナスタシアはこっそり欠伸をした。
(もぉー、飽きちゃった)
「あら、アナスタシアは退屈そうね」
 涼やかな甘い声で言い当てられてどきりと声の方へ顔を向けると、そこに居たのは同じ四大公爵家の一人、西方公ルシファーだった。周囲の青年達を中心に感嘆のざわめきが広がる。大叔母がさっと緊張して、ルシファーへお辞儀し数歩退った。
 ルシファーもまたとても美しい女性だ。アナスタシアと同じ黒髪に、暁の色をした紫の瞳が映える。
 先代アスタロト公やアナスタシアが、その属性である炎のような美しさと表現するなら、彼女はやはり、属性を表わした風のような、透明な美しさを持っていた。仕草や言葉も、少し気儘な風のような趣がある。
 幼い頃から母に連れられて良く会いに行っていたが、アナスタシアは彼女が大好きだ。
「ファー!」
 今日最高の来客に駆け寄って抱きつき、それからアナスタシアはさっと口元を押さえ、ルシファーを覗き込んだ。
「ファーじゃまずい?」
「構わないわ」
 柔らかく笑い、ルシファーはアナスタシアの頬に口付け、それからまじまじとアナスタシアを眺めた。
「似合ってるわねぇ、その衣装。赤かと思ってたけど、逆に瞳の色が引き立つわ」
「そう?」
「ええ、とても。お母様と同じくらい綺麗よ」
 アナスタシアの顔にぱぁっと浮かんだ誇らしげな表情にくすりと笑い、ルシファーは今日のお祝いを述べる。それから、ぐるりと周囲を見回し、少女のような悪戯っぽい表情を浮かべた。
「それにしても今日は随分若い集まりだわ。皆考えてることは同じなのね」
「?」
「惑わされないようにね」
 ルシファーはからかうようにアナスタシアの鼻先を指でつついたが、何を指しているのかはっきり教えてくれそうにもない。
「? それより、ファーは最後までいてくれるの?」
「そうしたいんだけど、ほら、ベールの奥方が少しお体の具合が悪いでしょう? この後お見舞いに行こうと思って。大した事はないらしいんだけど、それであの男、失礼な事にこの場を欠席してるのよ。まあ、エリザ様にベタ惚れだしねぇ〜。青い顔しておろおろしてるのを見て笑ってやろうと思って」
 ルシファーは常に冷静な態度を崩す事のない、王の右腕とさえ称される内政官房長官ベールの顔を思い出したのか、鈴を振るような声で笑った。
「ああ、そうなんだ。……ちぇ」
「まあ貴方は貴方で、きちんと自分の役目を果たしなさい。それにまだ、肝心なのが二人、来ていないじゃない」
「肝心なの?」
 アナスタシアが首を傾げながら大広間を見渡す様子に、ルシファーは明るく肩を竦めた。
「気に入らなかったら、思いっきり振ればいいのよ。それじゃあね。継承式を楽しみにしてるわ」
 ルシファーは自分の言いたい事だけ言うとたおやかに手を振り、周囲の者達が畏まりながら退いて開けた道を軽い足取りで抜けていった。
 また挨拶が再開するのかとアナスタシアが重い溜息をついた時、ルシファーと入れ替わるように再びその場が騒めいた。ただ、主に青年達が奏でるその騒めきには、先程ルシファーが登場した時とはまた違った、落胆を含んだ響きがある。
 何事だろうとアナスタシアが顔を上げる前に、大叔母が声を弾ませた。
「まあこれは、ブラフォード様。アナスタシア、ベルゼビア公爵家のブラフォード様が来て下さいましたよ」
(げげ、ブラフォード? 何であいつが来るんだ)
 ご挨拶を、と促され、渋々アナスタシアは顔を上げた。
 ベルゼビア公爵家の次男、ブラフォードは青年達の羨望と諦めの混ざった視線の中を悠然と歩み寄り、アナスタシアの前に立つと、その手を取って甲に口付けた。
 黒い濡れたような波打つ髪を緩く束ね、額に銀の飾りを締めている。父である公爵に良く似た面差しは、冷淡な印象だ。
「お招きに、礼を申し上げる」
 ブラフォードとはやはり、母に連れられて行った席で二、三度会った事がある。
 正直に言えば、アナスタシアはこの男が嫌いだ。姿形は確かに整っているが、物言いがいちいち勘に触る。常に他者を見下した尊大な態度を取るのだ。その辺りも、父公爵と非常に良く似ている。
 何故こんな奴を呼んだのかと、アナスタシアは隣に立つ大叔母を睨んだが、彼女は素知らぬ顔でブラフォードにお辞儀した。
「ようこそおいでくださいましたわ、ブラフォード様。いつもアナスタシアに贈り物を有難うございます。アナスタシアもとても喜んでおりますのよ。今日は公爵がいらっしゃれなかったのは残念ですけれど、アナスタシアには年の近い貴方が来てくださった事の方が嬉しいのではないかしら。アナスタシア、あちらの窓際のお席でゆっくりお話をなされては如何」
 今までのように挨拶をして終わりだと思っていたアナスタシアは、意外そうに大叔母の顔を見つめ返した。ずいぶん対応が違う。
「何で」
 口を開こうとした途端、エレノアはお辞儀に頭を下げた態勢からきっと睨み、アナスタシアの反論を一瞬で抑えた。それを目の前のブラフォードに気付かせないところが見事だ。貴婦人ともなると、この程度の芸当は朝飯前にできなくてはいけない、らしい。
「主の勤めでございますよ」
 低く鞭のように囁かれ、アナスタシアは頬を膨らませた。大叔母は満面の笑みをブラフォードに向ける。
「ご案内いたしましょう」
(何なんだっ。何でこんなヤツと仲良く話さなきゃいけないわけ?)
 アナスタシアは納得いかないまま、それでも仕方なく大叔母の後を歩き出した。
 二人を大窓の傍の長椅子へ導くと、大叔母は給仕に飲物を持ってこさせ、それから再びお辞儀するとすぐ背中を向けてしまう。
「あ、何か食べるの頂戴……」
 くるりと振り返った瞳に浮かんだ光に、アナスタシアは思わずたじろいだ。有無を言わさぬ光だ。
「ごゆっくり、お話など、なさいませ」
(――何で?!)
 言葉にならないままに、アナスタシアはあんぐりと口を開けたまま大叔母を見送った。
 ご馳走が回り中に散りばめられているのに、挨拶ばかりでさっきから一口も食べていないのだ。もうお腹が鳴りそうだった。これまで鳴っていないのはおもいっきり胴を締め付けている装いのせいに過ぎない。
 隣で含み笑いが洩れる。
「少しくらい、何か口にしたらどうだ?」
「――いい」
 基本的に貴婦人とは、こうした場ではほんのお飾り程度しか食べないものだとアーシアも言っていたし、何となく、この男の前でパクパクと物を食べるのは、気安く思っているようで癪に障る。
(それにしても、主催って何てつまらないんだ)
 はぁ、と溜息をついた時、ブラフォードが嘲るように笑った。
「恨みがましい視線が集中しているな。良くこれだけ集めたものだ。それに今日はやけに『名代』が多い」
 深い闇色の瞳を皮肉の籠もった光が過る。
 本来訪れるべき立場の者が出席出来ない場合に、代理が出席する事を「名代」と言うが、政治的駆け引きの常套手段としても使われる。それぞれ名代に誰を送るかで、その相手への意志を示したり、席にかこつけて、誰かを引き合わせようとする場合、など――。
「この場の誰もが今回の意義は想像が付いているだろう。見ろ、あちこちそわそわと落ち着きが無いことよ。直接関わりのない者でも、どことどうよしみを結ぶか、それを計算し始めている奴も多いだろうな」
「……はぁ?」
 素っ気ない視線と返事で答えて、アナスタシアは手にした玻璃の杯からぐいと甘い酒を飲み干した。
「何を?」
「この時期に招待を受ければ、誰もが期待をかける。もっともお前の叔母は既に絞り込んでいるようだが。もう一人は来たのか?」
「だから、何の話?」
 回りくどい言い方にイライラして、アナスタシアはつっけんどんに聞き返した。ブラフォードは薄い唇を曲げ、皮肉の籠もった眼をアナスタシアへ向ける。
「この会は、お前の婚姻相手を選ぶ為のものだろう。こうしていっしょくたに見繕われようとは、不躾な事よ」
「――はぁ?! ……何――何言ってんだ!」
 思わず声がひっくり返った。ブラフォードはその様子を面白そうに眺め、それから長椅子の上で、僅かに身を乗り出す。
「だが、そう悪い話でもない」
 一瞬耳を疑って、アナスタシアは目の前の酷薄そうな男をまじまじと見つめた。
「な、何が」
「新たなアスタロト公爵を、妻に貰う事がだ。まあこの場合は、お前が婿を取る方か」
 まだ頭が会話に付いていけない。
「何、ばかげた事――大体お前は、私の事好きなわけでも何でもないだろ!」
 思わずそう口にしたが、どうも余り的確な返しができないと、アナスタシアは自分に苛立った。当然のごとく、返ってきたのは冷笑だ。
「好きや嫌いの単純な議論がこの世界に向くか? お前も公爵家を継ぐのなら、身を置いている立場を弁えないとな。それに、何も全く無関心でもない。確実に、母親のように美しく育つだろうからなぁ」
「……ふざけんなっ!」
 顎へ伸ばされた手を鋭く払って、アナスタシアはブラフォードを睨み付けた。忍び笑いがブラフォードの口元から洩れる。
「本気だよ。魅力的な地位に、魅力的な妻だ。同じ公爵家とはいえ、次男の立場に甘んじているより遥かにいい。お前も、私を選ぶのが一番いいと思うがな。ここにいる誰より、私は地位が高いぞ。だからあの叔母君が真っ先に私をここに置いたのだろう」
 ブラフォードの話を聞きながら、アナスタシアは既に怒り心頭だった。
(そんな……そういう目的!? 何だよそれ!)
 要は、家と家とを繋ぐ為の接着剤的な役割だと言う訳だ。しかも散々着飾らされて、アナスタシア自身は結局いい見世物に過ぎないではないか。
 この青い華やかな衣装も、それを思うとこれ以上着ているのが苦痛に思えてくる。
(くそぉ)
 握りこぶしで唇を噛んだ時、広間の扉辺りから潮騒のような騒めきが広い室内に広がった。囁き交わす声から、誰が到着したのか、一番奥にいたアナスタシアにも知れる。
「漸くもう一人のご登場か。随分と勿体をつけるものだ」
 アナスタシアはブラフォードの低い笑い声と、周囲の客達の囁く姿を見比べた。客達の声には珍しいものを見たような、驚きが含まれている。
「ヴェルナー侯爵家の……」
「こうした場においでとは珍しい。侯爵もやはり今回の件は見過ごせないのかな」
「それはそうだろう、御次男を名代に出されるというのが、何よりの証拠だよ」
「これはどちらが……」
 客達の密やかな声と視線は、遠慮がちながらもしっかりアナスタシアとブラフォードの上に注がれている。
「何なんだっ」
 睨み返すのをようやく我慢して、アナスタシアは小さく呟いた。彼等の眼にあるのは、何かを天秤に掛けようとするような、慎重な光だ。
「ベルゼビア家との婚姻か、ヴェルナー家との婚姻か、それで奴等の寄る向きも変わる。――この場ではっきり態度に示してやるのが親切というものじゃないか?」
 ブラフォードは笑って立ち上がり、アナスタシアの腕を取ると手の甲に口付け、じっと瞳を注いだ。
「私を選ぶ方が賢い選択だ」
 アナスタシアは思わず奇声を上げて振り払いそうになって、辛うじて衝動を押さえ込んだ。
(気持ち悪ぃ〜!)
 彼の名誉の為に言っておけば、ブラフォードはその容姿と家柄で、社交界では令嬢達の憧れの対象になっている。
 そしてもう一人、令嬢達から絶大なる人気を誇っているのが、今アナスタシアへと歩み寄ってくる青年だ。
 ただ、通常の夜会などであれば華やかなざわめきに満ちただろうその二人の存在も、今は別種の空気をこの場にもたらしていた。
 三人の距離が近づくにつれ、周囲はしんと静まり返った。
 四大公に次ぐ地位を誇るヴェルナー侯爵家。その次男、ロットバルトは、この場に集中する興味の視線の中でアナスタシアに静かに一礼した。
 二十代も半ばのブラフォードより大分若く、まだ十七を過ぎたばかりの年齢だが、蒼い瞳には落ちついた色が見える。国内最難関と言われる王立学術院に首席で通過して以来、二年間ずっとその座を空けた事がないというのは社交界でよく上がる話題で、アナスタシアも聞いていた。
 何より、この青年が最も注目されるのはその並外れて整った容貌だ。先程のルシファーは風の透明さ、この青年は氷だ。
 少しだけ憤りを忘れて、アナスタシアは目の前の整った顔を眺めた。
(髪短いなぁ)
 見事な金髪を惜し気もなくばっさり切っている。綺麗な金髪なのに勿体ない、などとぼんやり思ったのは、貴族社会では男女共に髪を長く伸ばす風潮があるからだ。髪の長さも豊かさの現れとされ、かもじ職人は繁盛する。
 ヴェルナーという家柄が無ければ随分窮屈だろうにと丁度そんな感想を持ったとき、氷の面がふっと柔らかく笑みを浮かべ、それと同時に息を詰めて様子を伺っていた広間の緊張が溶けた。アナスタシアでさえ、思わず頬が赤くなるのが分かる。
「お招き有り難うございます。生憎、父は公務で参る事が叶わず、不調法ながら私が代わりに参りました」
 よどみなく述べるとアナスタシアの前に片膝を折り、作法のお手本のような優雅さで右手を取って甲に口付ける。
 それから立ち上がり、隣のブラフォードとアナスタシアを眺めて、整った頬に微かに笑みを刷いた。
「ですが残念ながら、少し訪れる時間を間違えたようですね。私が長居するのは失礼だ、本日はご尊顔を拝した事で満足する事に致しましょう」
(……ええ?! 早っ)
 アナスタシアすら突っ込みを入れかける程あっさり踵を返しかけたロットバルトを、エレノアは慌てて止めた。
「まあ、そのような事を仰らずに……。せっかくお運びいただいたのですから、ゆっくりなさってくださいな」
 エレノアの言葉に、アナスタシアに束の間忘れていた怒りが戻って来た。要はこの二人が、エレノアがアナスタシアに引き合わせようとしていた相手なのだ。ブラフォードが低い笑いを洩らす。
「私に気を回す必要は無い。主役を独占し過ぎては周り中から恨まれよう。私は暫く席を外すよ。王立学術院の首席がどのような言葉で口説くのか、学ばせて貰いたい気はするが」
「余り期待されてもろくな言葉は出ないでしょう。仰る通りまだ私は修学中の身で、こうした場での礼儀も満足に身に付けておりません」
 対峙するように向かい合った二人の姿に、エレノアを初め周囲の客達が再び息を詰めた。
 ほんの少しのやり取りが、そのままベルゼビア家とヴェルナー家の対峙のようなものだ。爵位の格としてはベルゼビア公爵家が上だが、ヴェルナー侯爵家もまた政治的に劣らない力を持っている。
 だからこそ、どちらがアナスタシアを、アスタロト公爵家の力を得るかで、力の均衡が変わってくるのだ。
「この場に名代として出る程だ、侯爵も期待をかけているのだろう?」
「欠席は失礼に当たる為に敢えて私を出しましたが、父も若輩者は恥をかかない内に退席する事を望んでいると思いますよ」
 ブラフォードの挑発的とも言える言葉に、ロットバルトは対照的に笑みを崩さず答えていく。遠巻きに見つめる客達は固唾を飲み、まるである種の劇を眺めてでもいるかのようだ。
 アナスタシアは胃の辺りがぐるぐると回っている気がした。
 彼等の眼は、どちらに靡こうかを測る色だ。
 話の中心にアナスタシアを置きながら、二人の言葉や客達の視線は自分の遥か上を過ぎるばかりで、アナスタシア自身を掠めもしていない。
 余りの気持ち悪さに、アナスタシアは、とうとうキレた。
 いや、取り敢えず、彼女にしては珍しく、抑えに抑えた態度だった。
「気分が悪い。少し外す」
 つっけんどんに言い捨てると、長椅子から勢い良く立ち上がり、引きずる裾もなんのその、アナスタシアは扉へ向かって大股で歩き出した。
「ま、まあ、アナスタシア! 何て言い方を……申し訳ございません、皆様、少しの間失礼致しますわ。どうぞお寛ぎになられてください……アナスタシア、気分が優れないと、そう言うのが礼儀ですよ! それに貴婦人がそんなに大股で歩くものではありませんよアナスタシア」
 天才的にアナスタシアにしか届かない小声と周囲へ詫びる声を使い分けながら、エレノアは小走りに彼女の後を追ってくる。
 アナスタシアは一瞬怒りを忘れ、彼女を尊敬した。
 とにかく広間を出て、エレノアの背後で扉が閉まるのを確認し、アナスタシアはくるりと振り返った。
「アナスタシア……」
「何度も呼ばなくても聞こえてるよ! そんで何なの、これ!」
「何なのは貴方でしょう。おもてなしの席で主人が来賓の方々を前にあんな席の外し方がありますか!」
「おもてなし? 来賓?! 単なる見合いじゃないか! ちなみに私は飾り! 馬鹿馬鹿しいっ叔母上は一体何を考えてるんだ」
「まあ、まあ……っ馬鹿馬鹿しいなどと、貴方の為ですよ!」
「家の為だろ! くそくらえだ」
「き、貴婦人が、貴方は」
「貴婦人? 食った事もないや」
「アナスタシア……!」
 エレノアがすっかり青ざめて唇を震わせた時、二つ先の大扉が開いた。咄嗟に笑みを浮かべさっと振り向いたエレノアはやはりさすがだと、アナスタシアは何か馬鹿馬鹿しくなって溜息をついた。
「まあ、ヴェルナー様、もうお帰りに? すぐアナスタシアも戻りますわ、もう少しゆっくりされて行かれては……」
 ふわりと裾を持ち上げロットバルトへと歩み寄るエレノアの背に、アナスタシアはおもいっきり舌を出した。瞬間、振り向いたロットバルトとバッチリと視線が合う。
 固まったアナスタシアを訝しむでも笑うでもなく、ロットバルトはエレノアへ視線を戻した。
(――)
 この反応はやりにくい。無反応な分だけ自分の子供じみた態度が恥ずかしくなって、ついもじもじと裾の中で爪先を捩っている間に、何の会話をしていたのか、エレノアはロットバルトへお辞儀するとどこか慌てて広間へと戻った。
(ブラフォードがごねてんのかなー)
 さすがに大の男が公衆の面前で恥を晒すとは思えないが、エレノアの慌てようからすると、多分彼への「おもてなし」とやらに関してだろう。すっかりアナスタシアを置いてきぼりだ。
(やっぱり私なんていらないじゃん)
 勝手にやっててくれ、と肩をすくめ――、ロットバルトが既に廊下を歩き出しているのを視界に捉え、アナスタシアは思わず後を追った。
(素通りかよ!)
「待てこら」
 再び裾を引きずって、アナスタシアはロットバルトの後を追いかけた。このすかした男に嫌味の一つも言って、取り敢えず溜飲を下げようと思ったのだ。足を止めて振り返ったロットバルトに、指を突き付ける。
「お前、もう帰るの? ここで帰ったらヴェルナーの負けって事になるんじゃないの? 負けて帰っていいの? 親父さんに怒られるだろ?」
 精一杯皮肉を籠めた口調にも、ロットバルトは淡々とアナスタシアを見返した。それは先ほどの綻び一つ見当たらない笑みからは想像も付かないほど、冷えた印象を受ける。
「一応、責務は果たしましたからね。後はヴェルナーが勝とうが負けようが、私の知った事ではない」
 エレノアの画策に腹を立てているにも関わらず、アナスタシアはその物言いにムッと目の前の顔を睨み付けた。
(責務?!)
 その程度? とぐらぐら腹が煮える。結局、何を期待する訳でもないが、そこにしかものの根本はないのだ。この「世界」は。
 体面と建前と虚飾ばかりだ。
 例えば、もっと本音のやり取りをしたいと思っても、思う方が愚かだと、そういう事だ。
「……くっだらない! 来るだけ無駄だ、バカじゃない?」
 ロットバルトは初めて、冷めた面にそれまでとは違う、呆れた色を浮かべた。
「……随分と期待を掛けるものだ。貴方はもう少し、政治や貴族社会の仕組みというものを学ばれた方がいい」
「何だとぉっ!? どういう意味だよっ」
 ロットバルトは食って掛かるアナスタシアを眺め、溜息をついた。
「それをご自分で判断出来るようになるべきだと、そういう意味ですよ。手始めに、夜会に戻る事をお勧めしますが」
「知るかっ」
 ちらりと面倒そうに蒼い瞳がアナスタシアの上を過ったが、それ以上何も言わずにロットバルトは一礼すると、アナスタシアが口を開く前に踵を返して廊下を迎賓館の玄関へと歩き出した。
 さすがにもう追いかける気もなくなって、アナスタシアは代わりに頬を膨らませた。
「――私が何も考えてないってのか」
 腹が立つ。今の言われようも、ブラフォードの発言も、この夜会を仕組んだ大叔母にも、全部納得がいかない。
 楽の音はゆったりと扉の向こうから響いてきていたが、もう戻る気は全く失せてしまった。
 夜会の席にいて来賓をもてなすのは、主催者であるアナスタシアの務めだ。途中で主人がいなくなるなど、前代未聞の醜聞だろう。
「……いいや。結婚なんかする気ないし。後は叔母上に任せよう」
 後始末まで付けてもらってもいいはずだ。大目玉を食らうのは容易に想像できたが、多分結婚話は全て流れるに違いない。
 ここで戻らなかった事がとんでもない結果を招くとは夢にも思わず、アナスタシアは広間に背を向けて、それからさすがに玄関はまずいと思い直し、裏口へと素早く歩き出した。



 エレノアが迎賓館から戻ったのは深夜のようだった。
 玄関辺りから何やら騒がしく、廊下を抜け、やがて部屋の扉を何度も叩かれたが、アナスタシアは無視して寝台の気持ち良い温もりにぬくぬく丸まっていた。
 ファーガソンには、エレノアとは明日話をするとも、絶対に誰も起こすなとも言ってある。結局この館の主はアナスタシアで、それは忠実に守られた。
 お陰でアナスタシアは、その日から暫くお別れする事になる寝台の温もりを、朝まで楽しむ事ができた。





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