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「竜の宝玉とはじまりの森(仮)」

第二章「春の嵐」 (三)


 てっきり怒りで血管が切れんばかりになっているだろうと思っていたエレノアは、寝ぼけ眼のアナスタシアに最大級の笑みを見せた。
「貴方の婚礼が決りましたよ」
 爽やかな朝日が差し込む窓辺で、大叔母の第一声は、それだった。
「――ふぁ? ふぉんりぇい?」
 大あくびをしながら、今日の朝飯かなぁ、とぼんやり考え
(婚礼)
 婚礼と言ったら――そう、結婚式の事だ。
 アナスタシアも前に一度、親族の娘の結婚式に参列した事がある。食事は美味しかったし、やはり花嫁はとても綺麗だった。
(花嫁……――え)
「えええーーーーっ!?!」
 頬を突然はたかれたように、アナスタシアは寝台の上を思いっ切り後退った。今まで離れ難かった眠気はすっかり吹き飛んでしまった。
 傍らのアーシアに眼を遣ると、彼も瞳を見開き、呆然とエレノアのふくよかな笑顔を見つめている。
「え?」
 エレノアはニコニコと微笑んだ。
「――え?」
 言葉にならないまま、寝台の背に寄り添って固まっているアナスタシアに、エレノアは大きく頷き返す。
「け、……継承式の事かな……?」
「それは既に段取りも全て終わっています。その後に行われる、貴方の婚礼ですよ」
「――良く判らないんだけど、誰が、誰と?」
「ですから、貴方と……あらいけない、私ったらすっかり慌ててしまって、肝心なお相手をお伝えしていなかったわねぇ」
 いや。本当のところは相手がどうのという段階ではない。
 エレノアの上機嫌な声に、アナスタシアは嫌な予感を覚えた。
「ベルゼビア公爵家の、ブラフォード様ですよ」
 誰だっけ。あの嫌味で尊大でひとを物としか思ってないような、陰険な男じゃないよなぁ。
「あの後、貴方ったら勝手に居なくなってどうしようかと思いましたけれど、ブラフォード様は気になさらないと仰ってくださって……」
 それは気にならないだろう。アナスタシアが居たって居なくたって、あの男には余り問題ではない。
 アナスタシアがまだあんぐり口を開けている間に、エレノアは弾むような足取りでアナスタシアの傍に寄ると、ふくよかな両手でアナスタシアの右手を包んだ。
「さあさあ、早くお起きなさいな。仕度をして頂かなくてはいけませんからね」
「……何の?」
「今日の午後、正式にお申し込みにいらっしゃるんですよ」
「誰が……?」
「全く、アナスタシアったらまだ寝惚けて。ブラフォード様に決まっているでしょ。さあ、早く起きて頂戴。昨日よりもうんと着飾らなくては……特別な、そうね、先日仕立てたばかりの服があったわ。それから、貴方の黒髪には白い花が似合うわねぇ。百合を用意させましょう。お迎えするお部屋は」
 エレノアの声はそれが人生最良の日だとでも言うようにどんどんと弾み――漸く、アナスタシアはぶつんと切れる音を聞いた。
「結婚なんてしなーいっ!!」
 耳を聾する大音声に、エレノアはびっくりしてその場で飛び上がった。
「アナ……」
「何が百合だ! 何が着飾るだ! 結婚!? 一体どこをどうやったらそんな話になるんだっ! 聞いてないぞ!」
 あらん限りの声で怒鳴り付け、アナスタシアは寝台の上で大きく息を吐いた。エレノアの後ろではアーシアが、困り切ってアナスタシアとエレノアを交互に見つめている。
「ですから、昨日貴方が先に帰ってしまうから、ブラフォード様がせっかく話を進めても良いと仰ってくださったのに、代わりに私がお聞きする事になったのではありませんか」
「何で叔母上が勝手に決めるんだ!」
「公爵家の事ですよ。私は貴方の後見人なんですから、お話を代わって伺うのは当然でしょう。第一私一人の一存ではなく、当然今回の件は一族のほかの皆様方も納得なさっているんですよ。お相手だけ、慎重に選べと、」
 あくまで、全く、それを当然と疑っていない顔だった。アナスタシアの意志を確認するとか、そんな過程は一切含まれていない。
 あの時戻るべきだったのかと……そう言えばヴェルナー家のロットバルトにもそんな事を言われたと――あれは忠告だったのだと今更ながらに気付く。
「回りくどい言い方だから判んないんだっ!」
 八つ当たりに枕を掴んで投げる。エレノアはまたきゃっと飛び上がった。
「アナスタシア、ちゃんと説明したでしょう」
「それじゃないっ、いや、そんなんどうでもいい!」
「じゃあ何なんです、ひと月後には公爵位を継ごうという方が、そんな子供のように……。アムネリアが聞いたら何と言うか」
「母上は結婚しろなんて言わない!」
「いいえ、アムネリアはいつも公爵家の事を考えていました。ベルゼビア公爵家との縁組みならアスタロト公爵家にとって何も問題ありません。アムネリアも同意しますよ」
 アナスタシアは悔しくてエレノアを睨んだまま、ぐっと唇を噛んだ。
(勝手に……)
 勝手に色々決めてきて、しかも。
「勝手に母上の代弁をするな!」
 それは、今までとは違う、弾くような固い響きだった。
 怒りに深紅の瞳を爛々と燃やすアナスタシアの前で、エレノアは怯えたように身を竦める。
「アナ」
「退れ」
「アナスタシア、話を」
「出ていけったら!」
 一片の取りつく島もない口調に、エレノアは暫くアナスタシアの顔を見つめていたが、微かな溜息を洩らして退出した。
 アーシアは戸口まで彼女を見送り、再びアナスタシアの傍らに戻ると、その横顔を覗き込んだ。
「アナスタシア様」
 柔らかい音色の響きに、アナスタシアの瞳が漸く上がる。
「……腹が立ったんだ」
 アーシアは黙ってアナスタシアの腕を取ると、寝台の縁に腰掛けさせた。アナスタシアは素直に従いながらも、じっと正面に視線を向けている。
 嵐が過ぎ去った後のようにすとんと落ち着いていたが、深紅の瞳の奥にはまだ炎の影が見えた。
「……何かお飲みになりますか?」
 こくりと頷くアナスタシアの様子を思わしげに一旦見つめて、アーシアは部屋を出た。背後でかちりと扉が閉まる音がし、歩き出そうとしていたアーシアは足を止めた。
(結婚……アナスタシア様が……?)
 それは、いつかは必ずするだろう。こうした貴族の家に生まれつけば、一般的な家庭よりも婚姻年齢は早い。
 アナスタシアはまだ十四だが、貴族社会で見れば早すぎる方ではなかった。僅か十歳で嫁ぐ娘もいる程だ。無論、政略結婚だが。
 それでも、こんなに早く――。
 自分でも気付かないままに、アーシアは重い溜息を零した。
 お茶の準備のために長い廊下を歩き、玄関広間の吹き抜けに出た時、階下から声が掛かった。広い階段の一番下に、エレノアが立ってアーシアを見上げている。
「アーシア。少しお話があるのだけど」
 しまったと思ったのは、エレノアの意図が判るからだ。アーシアにアナスタシアを説得するように言うつもりなのだろう。
 判っていても無視する訳にもいかず、アーシアはエレノアの元へ、階段を下りていった。
 玄関広間は縦に長い形状の窓をふんだんに設けて陽を呼び込み、広さと天井の高さにも関わらずとても明るい。その端の円柱の影に連れて行かれ、柱と大階段の投げる影の薄灰色に、何となくアーシアはほっとした。
 陽射しに輝かんばかりに明るい場所より、ここの方が今の気持ちにはしっくりくる。
 自分の事ではない、けれど。
 ずっと何か、胸の辺りが重苦しかった。
 エレノアはアーシアと向き合うと、その顔をじっと覗き込んだ。訳もなく、アーシアはぐっと口元を引き締めた。
「アーシア、判っていると思いますが、お前からもアナスタシアを説得して頂戴」
 アーシアは一旦躊躇ってから、遠慮がちに口を開いた。
「ですが、アナスタシア様はまだご結婚を望んではおられません。突然のことで驚いてもおられますし……私から、何かを申し上げるのは……」
「突然なんて、貴族の結婚というものはそういうものですよ。大切なのは、その相手方がどれほどこのアスタロト公爵家の力になるか、ということなのですからね。アナスタシアは公爵家に生まれたのだから、その事を理解しなくてはいけないんです」
「――」
「あの子は、まだそういうことを考えずにいるでしょう。アムネリアが突然すぎたから……だからまだ周りもそういう準備をしていなかったのは判るわ」
「でも、まだ十四というお歳なのですよ」
「そうよ。十四で公爵家を継ぐんです。それがどういう事か、お前にも判るでしょう」
「――」
「今大事なのは、新たなアスタロト公爵の地位を確実なものにする事です。それが、一族の総意なのですよ」
 アーシアには完全に、返せる言葉はない。アナスタシアの知らない場所で、結婚などという重要なことを勧めてしまう親族達には、当然憤りを覚えている。
 ただ、アーシアが憤ってみたところで彼等を諌められるわけもないし、一族の総意というのは、時に当主の意見を越えることもある。
 それを断ち切って自らの意見を彼等に納得させられるほど、アナスタシアはまだ当主としての実績も経験もない。
 エレノアの言った事は、理解できてしまう。全てがこれからなのだ。
「お前からもきちんと、アナスタシアに説明しておくれ。それで落ち着いたら、また私がお話をするから。もしも、どうしてもブラフォード様をお嫌というなら、ヴェルナー家のご子息でもいいのですよ。それはあの娘のお好みの相手が一番ですし、そうなら私が全て取り仕切って差し上げますから。とにかくね、先ずはご自分の役割を理解していただかなければ。全てあの娘の為なのですからね」
 エレノアの言葉を聞いている間中感じていたのは、憤りではなく、疲労だ。アナスタシアの事を考えてはいるのだが、その方向性が全く違って、歩み寄る事が出来そうになかった。
 「尽力します」とだけ言って、アーシアはエレノアにお辞儀して足早にその前を離れた。
 湯を沸かしお茶を淹れている間も、頭の中がぐるぐる回っているように思える。
 他の女官達は事の経緯をある程度知っているのだろう、アーシアに声を掛けようか掛けまいか、迷って水場の反対側で固まっていたが、アーシアと目が合うとわっと一斉に近寄った。
 みんなまだ若い女性達だ。今回の件は他人事でも無いのだろう、怒ったような顔をしている。
「アーシア、アナスタシア様は大丈夫?」
「私達にできる事があれば言ってね」
 加えて、彼女達にとっても、アナスタシアはこれまで大切に仕えてきた、愛しい存在だ。アナスタシアの明るさや彼等への接し方は、他の家とは全然違う。
「ありがとう。取り敢えず今は落ち着いてらっしゃるよ」
「エレノア様はひどいわ。アナスタシアお嬢様はまだ十四でいらっしゃるのに」
「ブラフォード様はそりゃ素敵だけど、もう二十も過ぎておいでじゃない」
「あら、五十も離れてるご結婚だって珍しくないわ」
「そういう話じゃないでしょ! 好きでもないお相手というのが問題なんじゃない!」
 みんな詳しく知っているものだと、アーシアは思わず苦笑を溢した。
「多分、大丈夫だよ。アナスタシア様が望まれない事なんて、成立しようがないもの。アナスタシア様が、この家の主なんだから」
 彼女達の心配そうな顔に務めて笑いかけて、アーシアは用意したお茶を盆の上に乗せ、再びアナスタシアの寝室に戻った。
 扉を開けると、まだアナスタシアは先ほどの状態のまま、ぼうっと卓に肘をついて座っている。
 アナスタシアの前に湯気の立つ茶器を置くと、ゆるゆる延びた手がそれを包み込み、口元に運んだ。
「美味い。これ好き。なんだっけ」
「……シェリルの花ですよ。香りが心を落ち着かせるんです」
「うん。落ち着く〜。いいよね、お茶って。アーシアは物知りだなぁ」
 これはまずいとアーシアは慌ててアナスタシアの上に視線を落とした。すっかりぼうっとしてしまっている。アーシアはエレノアに言われたとおり、アナスタシアを説得するかどうか束の間迷い――結局、正反対のことを言った。
「アナスタシア様、あのですね、…………どなたかにお口添えいただくというのは如何でしょう。エレノア様方がおっしゃる結婚というのは、要は公爵家を磐石のものにしたいという想いからでしょう? それは何も結婚でなくともいいと、そう思います。どなたか……ルシファー様あたりから、ほら、あの方もご結婚はなさっていらっしゃらないし、きっとお力になってくださいますよ」
「うん」
 こっくりと頷いて、アナスタシアはお茶をぐいっと飲み干した。深紅の瞳が、力強く正面を睨む。
「要は、舐められてるんだな、私は、完全に」
「アナスタシア様……」
「一人じゃ公爵家を治められないだろうとか思われてんだ」
「それは、」
 何も返す言葉が見つからず、アーシアは下を向いて唇を噛んだ。
 たった十四歳の少女が、国の四分の一の国土を掌握する公爵家を継ぐ。
 どうやれば自分がそれを支えられるのか、アーシアには検討もつかなかった。
 アナスタシアは暫く燃える瞳を天井に向けていたが、何を見つけたのかぱっと顔をアーシアへ戻した。
「じじいどもに会おう」
「アナスタシア様?」
「そうだよ、それが一番手っ取り早いじゃん! アーシア、長老会を開くと言って、一刻後に来させろ」
 アーシアは驚いて顔を上げた。長老会というのは、アスタロト公爵家親族の当主達で構成される意思決定機関だ。
 彼等を集めて、一体どうしようと言うのだろう。あまりいい考えには思われない。
「アナスタシア様、少しゆっくりお考えになった方が……」
「ゆっくりしてたらブラフォードが来ちゃうだろ! その前にじじいどもと話さないと、どんどん勝手に進んじゃうよっ」
 アナスタシアにだって今回の件を主導しているのが親族達であることは、良く判っている。
「んもう、いいよっ。ファーガス!」
 アーシアがまだ躊躇っているのに業を煮やし、アナスタシアはつかつかと扉に行き、開け放った。
「ファーガス! ちょっと来てよ! あ、エイミー、ファーガスを呼んで来て!」
 丁度廊下にいた女官に声をかけ、彼女が廊下を急いで駆けて行くのを見送ってから、再び室内に戻ってきてどすんと寝台に腰を降ろす。
 待つこともなく、すぐにファーガソンが部屋へ訪れ、アナスタシアへお辞儀した。
「アナスタシア様、どうなさいました」
 状況は既に知っているはずだが、ファーガソンは落ち着いた様子でアナスタシアを見つめた。
「どうもこうもあるか! 叔母上の画策の事だ! お前だって知ってたんだろ?!」
 ファーガソンは慌てる事もなく頷いた。アナスタシアは一瞬寝台から腰を浮かしかけ、座り直した。
「いいや、お前に怒ったって仕方ない。どうせじじいどもが糸引いてんだからな」
「貴方は、どうなさるおつもりですか」
 対比するように穏やかに問い返したファーガソンの声には、アナスタシアを慮る響きがある。横から二人を見つめていたアーシアには、彼が何かを心に決意しているように見えた。
 アナスタシアは急ぐように指先で寝台の縁を叩いている。
「直接話を付ける。じじい――長老会を呼べ」
「長老会を招集して、どのようにお話なさいますか」
 苛立ちを露わにするアナスタシアの前で、ファーガソンはあくまで穏やかな態度を崩さない。
「決まってんだろ?! こんな結婚話は取り止めだ。取り止めどころか、最初っからまともな話じゃないけどな」
 ファーガソンはしばし、アナスタシアの瞳をじっと見つめた。自分の意志を計られるような感じがして、アナスタシアは一度呼吸を整えてから、揺るがない事を証明するようにファーガソンに視線を返した。
 アナスタシアが長老達と対立する事を、ファーガソンは懸念しているのだろう。
(大丈夫だって、負けないから)
 その声が聞こえたかのように、ファーガソンはやがていつも通りの静かな笑みを返した。
「承知致しました。早速皆様に使者をお送りします。大広間を整えましょう。その間にお召し替えになってお待ちください」
 ファーガソンの変わらない態度に漸く落ち着いて、アナスタシアは寝台の上に両手を付き長い息を吐いた。ぐっと手を握りしめる。
(絶対に、こんなふざけたやり方、認めないからな!)
 部屋を辞すファーガソンを追って、アーシアは廊下へ出た。
「ファーガソンさん、本当に長老会を」
「アーシア、アナスタシア様のお召し替えの準備をしなさい」
 振り返ったファーガソンの顔には、先ほどとは違ったどこか張り詰めた色が見える。その表情に押されるようにアーシアは頷いた。
「それから――お前も、いつでもアナスタシア様のお傍に付けるように。常に冷静を保つのだ」
 そう言うとファーガソンは背を向けて廊下を歩いていく。アーシアはファーガソンを呼び止めようとして、自分が何を言おうとしているのか判らないまま、結局彼が廊下の角に姿を消すのを見送った。
 何故だか、嫌な予感がした。





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