第三章「炎舞う」 (五)
世界は本当に広いのだと、レオアリスはしみじみ思った。
吐き出される白い息の向うには、延々と続くような街道と、草原、森や林、霞む山。それと晴れ渡った広い、広い空。
歩いても歩いても、その風景は変わらず、全く進んでいないような気持ちになって滅入った。
それにいくら北の辺境育ちとはいえ、一日凍てつく屋外を歩いていれば身体も心もキンと冷えついて、次第に感覚すら曖昧になってくる。時折両手を手袋の上からさすってやらなければ、指先が凍ってしまいそうだった。
雪こそ降っていなかったものの、街の周辺以外はまだ街道に積もったままで、次第に足は重く、疲労は水のように身体に溜まって一歩ごとに身体を揺する。
途中休憩を取ったのは一度、昼食の為に街道を降りた時だけだ。木切れを集めて焚き火にし、それから、たぶんムジカが作ってくれたのだろう、サラの主食を一切れ焼いて食べた。
ゆっくり噛みしめて食べ、そうする事で胃も、それから心も膨れ、暖かくなった。
食べ終えたら街道に戻り、また延々と代わり映えのしない風景の中を歩く。
午前中も早い時間にカレッサを出て、もう四刻は歩いているが、ずっと誰ともすれ違わない。多分上空から全体を眺めたら、黒い点がぽつんと一つ、街道の上を動いているように見えるのだろう。
日が暮れる頃には、まるで十日間も歩いているようにさえ思えた。足が棒のようになり、もうこれ以上はさすがに歩けないと思ったのは、陽が沈んで更に三刻は歩いた頃だろうか。
レオアリスは薄い月明かりの差した暗い街道の周囲を見渡し、今晩の寝る場所を探した。これまでの街道の様子から、多分それがあるだろうと期待をかけていたのだが、思ったとおり、少し先に黒っぽい建物の影が見える。
この辺りは酪農が盛んで、街道の左右には所々に、この近くの酪農家の藁小屋があった。
小屋の扉に手を掛けると、簡単に開いた。中も外も大差は無いほど暗かったが、後ろ手に扉を閉めて外の闇を締め出し、ほっと息を吐く。
室内は狭かったが、積み上げられた藁の山は、昨日の宿よりずっと暖かく眠りやすそうだ。
早速藁の上に丸まり、うとうととしかけた時だった。
ふいに、遠くで獣の遠吠えが静まり返った夜に響いた。
もの悲しく、恐ろしい響きだ。長く尾を引いて消えていく。
「……狼だ」
最初の遠吠えに応えるように、複数の遠吠えが重なる。呼び交わしながら、遠吠えは次第に近付いてくる。
レオアリスはさっと身を固め、剣を握りしめて耳をそばだてた。
息を潜め、鼓動を数える。
服の下に掛けた首飾りを、空いた手で無意識に握り込んだ。
暫くそうして息を潜めていたが、遠吠えは別の狩場へ向かったらしく、やがてゆっくりと遠くなっていった。
ほっと息を吐き、呼吸を二、三度繰り返した辺りで、レオアリスはもう深い眠りに落ちていた。
再び、朝日と共に歩き出し――陽が上がりきる頃には、だいぶ自分の考えは甘かったと思い始めていた。
「一番辛いのって、竜でも試合でもなくて、歩くのだ」
一歩一歩雪を踏みながら、わざと声に出してみる。どうせ兎や鼠しか聞いていない。声に出しながら歩くと、自然と足も進んでいく。
とにかく何でもいいから、思い付くままに口に出しつつ、レオアリスは一人きりの街道を歩いた。
「一人ってつまんねー!」「フォア遠いっ遠すぎだろ! つーかうちが僻地過ぎなのか」「何か、道が自動的に動いて運んでってくれないかなぁ。寝転がってるだけで目的地に着くとか。……ちょっと待て、これすげぇ良くねぇ? いいよなぁ。そういう術があったら絶対売れる。王都行ったら俺その研究しようかな。あっ……! でもそうすると、地面だから土系じゃん!」「今どこだここ。遠いよ」「御前の試合ってどんなんだろ。剣と術、別々だよなぁ。じゃないと懐に飛び込まれたら、あっという間に負けちまう」「フォア遠い〜」
その内、ぐるぐる何度もおんなじような事ばかりになってくる。
「自動的に……ってこれさっき考えたか。別の……」
ふと、レオアリスの声しか無かった街道に馬車の轍の音が響いた。
振り向くと、彼方にぽつんと黒い影が生まれ、次第に大きくなって形を明確にしていく。
「乗り合いかな」
そうだったらかなり運がいい、とレオアリスは街道の脇に避けながら、馬車が近付いてくるのを待った。
だが、来たのは乗り合い馬車ではなく、商隊のようだ。前と横に護衛が一人ずつ付き、先頭に荷馬車と、家畜の籠を乗せた馬車、それから乗車用の少し立派なもの、もう一台荷馬車、それから最後に護衛。結構羽振りの良さそうな商隊だ。
がっかりしながらもそれが近付いて、目の前をゆっくり通りすぎていくのを眺め、それからはっと思いついた。
乗せて貰えないだろうか。
「……待って、ちょっと!」
だめで元々と駆け出して、一番後ろの護衛の男の馬に並ぶ。
「ちょっと、頼みが、あるん、だけどっ」
男はレオアリスを胡散臭そうに見下ろしたが、馬を止める気配もない。その横に並ぶレオアリスは軽い駆け足状態だ。
(つ、辛ぇ……っ)
追いかけて続けても乗せてもらえなかったら、単なる体力の無駄遣いになってしまう。
最後の試しと、レオアリスは声を張り上げた。
「なあ! すいません! できたら、街まで、乗せて、もらえない、かな!」
護衛は剣を掴んだ腕を振り、追い払う仕草をした。
押されるように足を止め、レオアリスはよろめいて、膝に両手を付いて屈み込んだ。倒れそうだし、吐きそうだ。
(ダメかぁ……)
諦めかけた時だ。ギィ、と軋んだ音を立てて、商隊は止まった。
「何だ、どうしたね」
レオアリスの大声に気付いたのだろう、馬車の中から年かさの男が顔を出す。レオアリスはまだ心臓をばくばく言わせながら、何とか顔を上げた。
「――あ」
男はやはり胡散臭そうにこちらを見つめているが、この顔は見覚えがある。つい最近、確か。
呼吸が整ってくるに連れて、記憶も甦った。
「……山羊のおっさんじゃねぇか」
その言葉に男もしげしげとレオアリスの顔を眺め、ああ、と頷いた。
「二百ルス」
さすが商人、そんなふうに客を覚えるのかと、レオアリスは呆れて笑った。が、端から見ればお互い様なやり取りだ。
「何だ、ボウズ。お前の家はこの辺りなのかね」
「違うよ。えーっと、その……お願いがあるんだけど」
護衛の男はレオアリスの斜め後ろにしっかり付いて、まだ剣の柄から手を離していない。レオアリスはどきどきしながら素早く言葉を継いだ。
「フォアの街に行きたいんだ。できたら乗せてもらえませんか?」
商人はやはり顔をしかめた。
「お前、うちは乗り合い馬車じゃ」
「あら〜」
商人の言葉を遠慮なく遮る明るい声とともに、馬車の小窓が開き、女が顔を出した。レオアリスには見覚えが無かったが、彼女はレオアリスを見て可笑しそうに声を上げた。
「あんときの粘ったボウヤじゃないの。見てたわよ〜あんたの粘り」
二十代中間くらいの、さほど美人ではないが、華やかな印象の女だ。女は漸く身を起こしたレオアリスを眺め、商人を振り返って微笑んだ。
「乗せてってやったら、父さん。子供一人でこんなとこ歩かせるなんて可哀想よ。狼に喰われるか雪だるまになるかよ」
「そうひょいひょい身元の判らん者を乗せる訳には」
「身元ならしっかりしてるじゃない。おじいちゃん達もいて。ね?」
最後の「ね?」はレオアリスに向けられたものだ。レオアリスは多少面食らったものの、そこは当然、自信を持って頷き返した。
女はこっくりと力一杯頷いた少年が面白かったのか、声を立てて笑った。
「ほら、父さん。乗車賃ならあたしが出してあげるから」
商人がいいとも悪いとも言う前に、女はレオアリスを手招いた。商人は女――娘への反論を諦めたようで、護衛に頷いてみせると、馬車の中に引っ込んだ。
「ほら、いらっしゃい」
そう言って女が示したのは、自分が乗っている馬車だ。
「あ、荷馬車で充分……」
首を振りかけたレオアリスを遮り、女は今度は馬車の扉を開けてまた手招いた。
「あたしが乗車賃出してあげるんだから、馬車でいいのよ」
少し戸惑いながらも、レオアリスは一応身体をはたいてから、馬車に乗り込んだ。
小さな車内はそれでも四人は座れる広さがあり、向かい合わせに座席が作られている。女はにこにこして自分の隣の席を軽く叩いた。
「すみません、お邪魔します」
商人は呆れた様子だったが、それでもさすがにフォアまで子供が歩くのは無理だとも思ったのだろう。レオアリスをじろりと眺め、「まあ、凍ってしまう前で良かった」と言って、再び窓の外に合図した。
座席に座るとすぐに馬車は動き出した。
座って安心したせいだろう、どっと疲れが沸き起こり、礼を述べるのもそこそこに、レオアリスは眠りに落ちた。
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