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「竜の宝玉とはじまりの森(仮)」

第三章「炎舞う」 (八)


 おなかが、空いた。
 アナスタシアはぐうぐう鳴っているおなかを抱え込んだ。
 道端に座り込み、暮れかけた空と、自分のおなかと、隣に心配そうに寄り添っているアーシアへ、ちょっと涙の溜まりかけた紅い瞳を向ける。
「……おなかすいた……」
 もう本当に、アナスタシアの胃は限界に近づいていた。今日は昼から何も食べていない。
 あり得ない事だ。
 それに寒い。
 昨日はアーシアが用意してきた食料やお菓子を、アーシアが作ってくれた焚き火なんかの傍で楽しくいただき、夜も開き始めた花の香りの流れる草原で、アーシアの用意してきた毛布に包まって、満天の星を眺めながらわくわくと心を躍らせて眠ったりした。
 長老会や叔母に腹が立ったから飛び出してきた割には、ちょっとした旅行気分だった。
 アーシアが持ってきた食料は、もうない。
 アナスタシアは今朝までに全部食べてしまった。
 今ではアーシアの背負った鞄には、調理用のお鍋と、香辛料の類しか入っていない。
 外套もない。
「寒いよう……お腹減ったよう……」
「アナスタシア様……」
 膝を抱えて身を縮めたアナスタシアをいたわるように、アーシアはそっと肩に手を置いた。
 しかし何と言うべきか……、この場の様子だけを眺めれば悲哀を誘う情景だが、事情を知っている者が見れば、少し情けない状態だ。
 ファーガソンなどは目頭を押さえるに違いない。
 それはともかくも、先ほどからアーシアは、どうしたらいいのかずっと考えていた。
 あの服飾店から追い出されたのは、お金が無いからだ。通りの店や屋台も、お金が無ければ何も買えない。それは先程果敢に挑戦し、敢えなく撃退されたところだった。
(僕はバカだ。アナスタシア様をこんなところに座り込ませて……僕のせいだ)
 アーシアにもっと知識や経験があれば、アナスタシアにこんな思いをさせなくて済んだのだ。
 それが何より悔しい。
(お屋敷に戻ることをお勧めすべきかもしれない)
 このままではアナスタシアに不便な思いをさせるばかりで、今のアーシアは、それを何とかする手段は持っていない。
 それでも――。アーシアは傍らの主を見つめた。
 アナスタシアは帰ろうとは一言も言わない。
 二人はそれぞれの想いにがっくりと肩を落とし、夕暮れの街に座り込んでいた。
 通りを行き過ぎる人々は、道の端に座り込んだ少女と少年を見ないようにして、足早に去っていく。
(どうしよう……)
 このままでは、宿にも泊まれないのは確かだ。昨夜の地域よりも北に近づいた分ぐっと寒さが増していて、この中を野外に寝るのは無理だろう。風邪をひいてしまう。
「おなかすいたぁ……」
 憐れだ。
 アーシアが腑甲斐なさに泣きたくなったとき――ふわりと、何かを煮込む暖かくて食欲をそそる匂いが漂ってきた。
 見れば、いつの間にやら通りの少し先に出た屋台で、煮込み料理の鍋がくつくつ煮えている。
「……ごはんだぁ」
 アナスタシアはふらりと立ち上がった。
「アナスタシア様?」
 アーシアも立ち上がり、彼女の後を追う。アナスタシアは夢遊病者のようにふらふらと、流れてくる匂いを辿って屋台の前に立った。
「らっしゃい!」
 屋台の奥の若い男が忙しく手を動かしながら、威勢よく声をあげる。だが、目の前に立った客が何も言わないので変に思ったのか、顔を上げた。
 アナスタシアは俯き、じーっと屋台に置かれた鍋に視線を注いでいる。
「――買うの、買わないの?」
 店主はアナスタシアを不思議そうに眺めた。ずいぶん立派な身なりをしているが、……変な少女だ。
 アーシアは慌ててアナスタシアの前に出て、店主へ首を振った。
「あ、その、買いません、すみません」
「何だよ、じゃあ商売の邪魔だから、そっからどいてくれよな」
 客ではないと判ると、店主はがっかりしたように片手を振った。
「すみません。さ、アナスタシア様、行きましょう?」
 だがアナスタシアにはアーシアの声も届いていないようだった。鍋に顔を向けたまま、地面に根が生えたかのように動かない。
 店主は肩の辺りでお玉をぶるんと回した。
「……ちょっと。邪魔だって。買うんなら買ってよ。金持ってんでしょ?」
「いえ、持ってないんです」
「はぁ?」と店主は胡散臭げに二人、特に俯いたままのアナスタシアを眺め、それから肩を竦めた。
「何言ってんだ、そんな良いモン着てぇ。金持ってないわけないじゃないの。うちのお代いくらだと思ってんのー?」
「はあ……」
「あ、忘れたの? 忘れたんなら、取ってくれば? 親から小遣い貰えんでしょ? 待ってるからさー。ちゃんと美味いのよ、これ。俺の自信作。今日は特に自信作。買ってくれるんなら俺も有り難いしねぇ」
「いえ……その、遠くて」
「……家が?」
「ええ、そう」
「ちぇ……」
 店主は心底残念そうに唇を突き出した。それから、ふとアーシアの耳飾に眼を止める。
「じゃあ、その耳飾一つ置いていってよ」
「……え?」
「ホントはさぁ、その彼女の耳飾って言いたいところなんだけど、俺結構善人だからね。彼女のじゃ値が張り過ぎらぁな。君の耳飾くらいなら、引き換えにしても悪くはないっしょ?」
「え、これ?」
 アーシアは自分の耳飾を指差した。
「そうだよ。ま、それも結構いいもんっぽいからさ、おかわりしてもいいし、良かったら麺も魚も付けちゃうけど、どう?」
「……こんなものでいいんですか? だってお金じゃないし」
「………………金が無ければ、モノでしょ」
 何を寝ぼけたことを言っているんだと言わんばかりに、店主は呆れて眉を顰めた。
「ああ、あんた等いいとこのお嬢さんと従者って感じだもんなぁ。あんま自分で買い物とかしないんだ?」
「すみません……」
「俺に謝られてもねぇ。で、どうするの?」
 アーシアは飛び付くように頷いた。こんなにいい方法があったとは思ってもいなかった。外す手間さえもどかしく、耳飾りを屋台の上に置く。
「じゃ、商談成立ね」
 店主はにこにこ笑って木のお椀に煮込み料理を汲み入れ、湯気の立つそれをアーシアに差し出した。
「ほい、どうぞ?」
 冷えきった心を温めるような、優しい彩りの料理に、アーシアは嬉しくなった。
「アナスタシア様」
 お椀を受け取ってアナスタシアを振り返る。アナスタシアはまだじっと俯いたままだ。
「アナスタシア様、ごはんですよ」
 とたんに、アナスタシアは弾かれたように顔を上げた。
「ホントに!? 食っていいの!?」
 そこで初めてアナスタシアの顔を見て、店主は途端に顔を真っ赤に染めた。とんでもない美少女だ。思わず屋台ごと差し出すように手を延べる。
「いやもう、食えるだけ食っちゃって!」
 まだ若い店主は、アナスタシアがずっと俯いていてちょっと不気味だなぁ、と思っていたことなどすっかり忘れた。
「おいしぃ〜!」
 美少女が本当に嬉しそうに頬を綻ばせたので、店主はまた顔を赤くした。
「お代わりどうです?」
 もうすっかりアナスタシア専用の屋台になったように、自分が使っていた椅子まで差し出し、アナスタシアが頷く毎にお代わりを椀に注いでいた。アナスタシア一人で食べつくしそうな勢いだ。
 アーシアは自分は食べもせず、アナスタシアの様子をにこにこ見つめている。
「君は? 食わないの?」
「いえ、僕はいいんです」
 アーシアはそれが当然のように首を振った。
「だって君も腹減ってるだろ? あ、もしかしてお嬢様と同じもんは食べないの? 決まり?」
「いえ。僕はあまり食べない方なんです」
「……でも、美味いよこれ。ねえ、お嬢様」
「うん! アーシアも一杯くらい食べろよ」
 アナスタシアは力一杯頷いた。アーシアは微笑み返し、それから「じゃあ、」と、手を伸ばしかけた。
 その時――。
「いたぞ、あそこだ!」
「あの屋台だ!」
 鋭い叫び声が上がり、路地の角に数人の男達が姿を見せた。我先に屋台を目指して駆けてくる男達を見て、店主が妙な声を上げる。
「ひゃあ! 警備隊だ! もしかして俺? 俺何にもしてないよー」
 だが、それ以上に慌てたのは、アナスタシア達だった。
「アナスタシア様、まずいです!」
「げっもうバレたの!?」
 アナスタシアは一瞬手にしたお椀と迫り来る警備隊士達を見比べ――、結局逃げる方を選択した。
「行くぞっアーシア!」
「はいっ!」
 二人は脱兎の如く駆け出し、ついで三人の隊士達が屋台の前を駆け抜けていく。
 店主は呆気に取られたまま、その光景を見送った。

 アナスタシア達は細い路地を飛ぶように駆け、いくつもの角を曲がって逃げ続けた。だが慣れない街に、相手はこの街の警備隊士だ。元々分が悪い。
 みるみる追い付かれ、袋小路に追い詰められてしまった。
 警備隊士達は完全に入り口を塞ぎ、肩をぜいぜい言わせながらも、ゆっくり近づいてくる。
「行き止まりだぞ、観念しろ!」
 壁の前で振り返り、アナスタシアは彼等を睨み付けた。アーシアはさっとアナスタシアと彼等の間に立つ。
「ファーガソン達はどうなったんだ! ちゃんと条件どおりにしてなきゃ、私は戻らないからな!」
 語気鋭く問いかけられ、警備隊士達は顔を見合わせた。
「? 何の事だ?」
「さあ」
 隊士の一人はアナスタシアの問いを無視して、ずいと寄った。飛び掛かれば押さえられる距離だ。
「さっきトートー服飾店でお前達が服を盗もうとしたと通報があったんだ! 特徴は十四、五の、身なりが良くて、長い黒髪の少女と青い髪の少年。お前達に間違いないな!?」
 今度はアナスタシアとアーシアが顔を見合わせる。
「盗むって……失礼な!」
 アーシアはさっと顔をきつく引き締めた。そんなつもりは全く無いし、アナスタシアにそんな言い方をするのは聞き捨てならない。
「何が失礼だ、金を払おうとしなかったんだろう」
「店主から事の次第は聞いてるぞ!」
「そ、それは」
「とにかく、事情を聞かせてもらおう。おとなしく」
「なあんだ、正規軍じゃないんだ」
 場違いに明るい声で、心配して損したと言わんばかりに、アナスタシアは溜めていた息を吐き出した。
「軍?」
 軍と聞いて、隊士達が驚いた顔を見交わす。が、彼等が想像したのは別の事だった。
「おい、こいつらもしかして手配者か?」
「単なるコソ泥じゃあないのか」
 少しだけ隊士達はおののいて身を退いた。あんまり大きな事件は扱った事がないのだ。アナスタシアはむっと頬を膨らます。
「誰がコソ泥だ! お前等ちゃんと確認してから来い!」
「アナスタシア様、もっといけません」
 隊士達に確認されてしまったら、ずっとまずい事になる。そうは言ってもこの時点でもう既に、この街には居られないが。
「アーシア!」
 アナスタシアは高らかに呼ばわった。
「はい」
 アーシアが頷き、すうっと息を吸い込む。青い瞳が瞼に閉ざされた。
 アーシアの形が空気に溶けるように揺れた。
 警備隊士達は、目の前に起こった信じられない光景に息を飲んだ。
 少年の姿が、ゆっくりと変わっていく。
 玉を磨き上げたような、青い、青い鱗。長い首と長い尾。広い翼――。
「ひ……飛竜……!?」
 そこに居たのは、濃紺の美しい鱗を連ねた、少し小柄な飛竜だった。
 アナスタシアがさっとその背に飛び乗る。
「行こう」
 飛竜――アーシアは、答える代わりに青い瞳をきらめかせ、大きく翼を広げた。





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