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「竜の宝玉とはじまりの森(仮)」

終章「その先へ」 (三)


 棟の出口を抜けると少し解放されたような気分になる。誰ともなく息を吐き、顔を見合わせた。暫くお互いの想いに沈んで黙って立っていたが、気持ちを振り切りようにアナスタシアが顔をぐいと上げる。見上げた空では、まだ太陽が東の空から斜めに光を投げかけているところだ。銀杏の樹の柔らかい騒めきが、沈んだ気持ちを少しだけ浮き上がらせてくれた。
「――まだ昼には早いね。どっか行く? 行きたい所ある?」
「行きたい所か……」
「法術院でも見に行くか? お前、参考になるかも」
 何にしても御前試合に出られると決まったのだ。何か少しでもやっておける事はやっておいた方がいいと、アナスタシアは道の先、坂の上に見える尖塔を指差した。法術院はあの尖塔の下辺り、王城の中心部にある。
 レオアリスは暫くそれを見つめ、首を振った。
「――いや、法術院はいいや。見ても仕方ない」
 レオアリスの顔の上には、これまで御前試合と聞いた時に見せていた、あの純粋なまでの憧れの光が無い。今の一件で気持ちが失われてしまったのかと、アナスタシアは慌てて漆黒の瞳を覗き込んだ。
「あれ嘘だよ。諦め付くっていうの、からかっただけで――御前に出るなら見といた方がいいよ、行こ?」
 アナスタシアが何に慌てているのか気付いたのだろう、レオアリスは僅かに瞳を見開いて、それから笑った。
「やる気無くした訳じゃねぇよ」
「じゃあ」
「俺は、剣士として出る」
 きっぱりとそう言って、風が静かに樹々を揺らして過ぎていく通りに立ち、レオアリスは漆黒の瞳に光を灯した。
「お前が言ってくれた事を、証明してやる」
「――」
 心の奥にレオアリスの言葉の意味が伝わる。それを噛み締めるようにアナスタシアはゆっくり瞳を見開き、それからぱあっと頬を輝かせた。
「……じゃあ、優勝?」
 レオアリスは引き締めていた頬を呆れて緩めた。アナスタシアの思考は相変わらず唐突だ。
「そこまで行くかよ」
「行くよ! 絶対優勝! そんで正規に入るんだ」
「判んねえよ、そんなの」
「判るよ、私は」
 一度言葉を切り、アナスタシアはあらん限りの確信を込めて、力一杯頷いた。
「お前は優勝する」
「……何となく、そんな気になってくるな……」
 アナスタシアの深紅の瞳は、炎を宿したように強く輝いている。その光を見ていると、どんな嘘でも本当になってしまいそうだと、レオアリスは苦笑を洩らした。自分が優勝できると信じ込んでしまいそうだ。
「そんな気になるじゃなくて、そうなんだから。……でもそれじゃ、どこに行く?」
 すっかり気を良くしたのか、アナスタシアは愛らしく首を傾けてレオアリスとアーシアを眺めた。
「お前は帰らなくていいのか? 何か色々やる事あるんじゃねぇの?」
「――うん……」
 やらなくてはいけない事は、幾つもある。本当は今朝も長老会から面会の申し入れがあったのを、疲れているという理由で明日に引き延ばしたのだ。
 正直に言えば、明日も彼等と顔を合わせる気になれないだろう。というより、今の一件で、ますますその気力が無くなってしまった。
「いいよ。大丈夫。今日一日はお前に付き合ってやるから」
「ふうん……」
 レオアリスの曖昧な返事に、逃げたいと思っていた自分の心が見抜かれたように感じて、アナスタシアは素早く言葉を継いだ。
「どこ行く? 買い物? 服買う? 飯?」
 じっと物問いた気にレオアリスはアナスタシアの瞳を見つめていたが、今は無理に聞いても無駄だと思ったのか、その瞳を道の先に向けた。
「じゃあ、王立文書宮」
 アナスタシアがへにゃりと悲しそうな顔を見せる。王立文書宮などに行ったら、多分レオアリスなどはそれだけでもう一日が潰してしまうのが目に見えている。
「文書宮……? 何で「じゃあ」?」
「前の御前の記述とか見たいし」
「――文書宮行ったら、その後飯行く?」
「いいよ」
 レオアリスはあっさりと返事をしたが、それが本当かどうか非常に疑わしい。もう既に、文書宮にあるだろう書物の山を想像して、その漆黒の瞳を輝かせているほどだ。
「――じゃあ行く」
 渋々といった顔で頷き、それでもアナスタシアは先に立って、緩やかな坂道を登りはじめた。レオアリスも嬉々として、その後を歩いてくる。
「文書宮って、どこにあるの?」
「文書宮とか、法術院とか、あと内政官房や財務院、地政院などもそうですが、国の中枢を担う組織は大体王城そのものの中にあるんです。」
「そのもの?」
 普段はこの第一層から城のある第四層までをひと括りに「王城」と呼んでいるのだが、正式に「王城」という場合は、第四層を指す。
「ややこしいんだな」
「この辺りを王城と呼ぶのは、慣習みたいなものですね」
「城を見たら、またびっくりするぞ。当たり前だけど、うちの屋敷なんか目じゃないし、とにかく色々入ってるから、ものすごく広い。」
 また驚くだろうレオアリスの姿を想像して、アナスタシアは早くもくすくす笑った。
「迷子にならないように、ちゃんと付いて来てね」
「何だそれ。お前が迷うんじゃねぇの?」
「迷わないよーだ。……アーシアがいるから」
「僕、あまり王城には入った事ありませんよ」
 えっと驚いた顔をしたアナスタシアを見て、やっぱり迷いそうだとレオアリスが笑う。
「――大丈夫。一度行ったことがあるから!」
「一度かよ。何年ここに暮らしてるんだ」
「一度で十分なの、あんなとこ」
 そんな他愛のない会話を延々続けながら、三人はゆっくりと王城へ続く坂道を登っていった。


 結局歩くと一刻近い時間がかかる事を思い出し、再びアーシアの背に乗って、三人は王城の門の前に降りた。それから予想通り驚いた顔で目の前に聳える壮麗な城を見上げているレオアリスを引っ張りながら、正門を潜り、アナスタシアは城の玄関へと続く玉敷きの道をすたすたと歩いていた。正面の巨大な門を抜けると広大な広間に出る。
 アナスタシアは広間を見渡し、右を指差した。
「こっち。確か」
「確かって」
 広間にある広い階段を登るには身分証明が必要だが、一階部分は誰でも通り抜ける事ができる。アナスタシアは一度階段の右側にある通路を進んでくるりと広間へ引き返し、きょろきょろと辺りを見回してから、ぽんと手を打ち合わせて、今度はその階段の左側の通路へ向かった。
「……合ってんの?」
「大丈夫」
 ちょっと頬を染めつつ、それでもアナスタシアは確信を以って頷いてみせた。アーシアは全く見覚えがありません、と首を振ったが、アナスタシアにはこの長い折れ曲がった廊下には、見覚えがある。何度か角を曲ると、王城の中庭に出た。
「ここだ!」
 中庭には雨でも濡れずに通れるように屋根を設けた回廊が横切っている。確かに昔、母に連れられて来た覚えがあった。美しい庭に橋のように架けられた白い回廊を良く覚えている。王立文書宮があるのは、その回廊を渡った先だ。
 白い花崗岩を格子状に組み合わせた回廊の壁面からは、左右に整えられた緑の中庭が広がっているのが見える。行き交う学士や王立学術院の制服を着た学院生達も、王立文書宮がこの先にあると教えてくれていた。
 回廊は半分ほど進んだところで十字に交差して分かれている。アナスタシアはちょっと迷って、それから学院生が歩いてくる正面の道を選んで再び歩き出した。
「――あ、あれ! ほら、あの扉」
 回廊の行き止まりに、両開きの扉が見える。扉には知の象徴を表わす意匠である、葉を茂らせた年経た樹木が一面に彫られているのが、離れた所からでも見て取れた。外側には取っ手がなく、見ているとどうやら、外からは重い扉を押し開けて入るようだ。
「ほら、着いたでしょ」
 得意そうにレオアリスとアーシアを振り返ると、アナスタシアは扉に両手を置いて、重く大きな扉を押し開けた。
 軋んだ音を立てて開いた扉の奥には、天井の高く取られた広間が左右に広がり、天窓から差し込む幾筋もの光と舞い散る埃の中に、壁に上から下までずらりと並べられた書物を浮かび上がらせている。そこに収められた書物だけでも、一生かけても読みきれないほどの量だ。
 両奥の壁にはそれぞれ上部を弓状に作られた通路が設けられていて、更に奥があるのだと知らせている。アナスタシアは室内を眉を顰めて見渡した。
「えっと確か、一階だけでも十五は部屋があるんだ。皆こんな感じ」
 面白み無いよね、と隣のレオアリスを見たが、レオアリスの瞳はすっかり書物の山に釘付けになっていた。
「――すげぇ……これ、全部見ていいのか?」
「いいよ。持ち出す時は申請がいるけど」
 言うが早いか、レオアリスは糸の切れた凧のようにあっという間に書棚の間に消えてしまった。
「ちょっと――、すぐご飯だからね!」
 アナスタシアの呼びかけはレオアリスの背中に届かずに床に落ちたようだ。ぽつんと取り残されたアナスタシアが不満たっぷりの顔でアーシアを振り返る。
「あいつ、こんな所の何が面白いんだ。さっぱり判らない」
「貴方はもう少し興味をお持ちになった方がいいです。本当に色々あって勉強になるのだとファーガソンさんが言ってましたよ」
「私はぁ、痛快活劇なら好きだな! 良くあるじゃん、町人に身をやつして悪事を暴くってヤツー。あれいいよねぇ」
 アナスタシアの瞳がキラキラ輝いている。読むの面白いよね、というよりやったら面白いよね、と言い出しそうで、アーシアはすかさず首を振った。
「お食事とか、苦労なさいますよ。ご自分で作れなきゃ。お掃除も、お洗濯も、ちゃんと街の人のようにやれなくちゃいけません」
「そおなの? ちぇ。――ああ、お腹空いたぁ。レオアリスどこ行っちゃったの? 先にご飯にしたいなぁ」
 書架の影を覗き込みつつ、ふらふらと当てもなく幾つもの広い部屋を抜けて、閲覧用の机が並んだ一際広い広間に出る。並んだ仕切りの付いた机と、その前に座って静かに書物に眼を落としている幾人もの学院生や学士達を見るともなしに眺め、アナスタシアはぴたりと足を止めた。
「あ、ヤバイ」
「? どうしました?」
 余り出会いたくなかった相手が、一際目立つその姿で、窓際の卓で複数の書物を広げているのを見つけてしまった。ヴェルナー家のロットバルトだ。素早く通り抜けようとしたアナスタシアを、状況を理解していなかったアーシアは訝しそうに呼び止める。
「アナスタシア様?」
「あ、バカ!」
 何人かが顔を上げ、二人を煩そうに睨み付ける。その先でやはり視線を上げたロットバルトと、ばっちり目が合った。ロットバルトは微かに驚いたように瞳を開いたが、立ち上がりアナスタシアへ目礼した。
「お知り合いですか?」
「知り合いってものか。ヴェルナーだ」
 アーシアはぎょっとして慌ててお辞儀した。
「お辞儀なんかすんな」
 アナスタシアが立ち止まっている間に、ロットバルトは読んでいた書物を閉じ、上位の相手への礼儀作法に倣ってアナスタシアの前へ立つと、丁寧に一礼した。
「ご無事で何より」
 お久しぶりです、でもご機嫌麗しく、でもない第一声にアナスタシアの頬がぎょっと強ばる。
「ぶ、無事って……何で知ってんだ」
「大抵の者は知っているでしょう。無論公にされている訳ではありませんが、アスタロト公爵家程大きくなれば自然と動向は伝わってきます。もう少し慎重になられるべきでしたね」
 そんなふうに平然と言われ、どこまで誰に伝わってしまっているのかと、アナスタシアは空恐ろしくなった。あの家出を知られているかと思うと、顔に血が昇るのが判る。ここで静かに書物を読んでいる人達にまですっかり知られているような気分になって、辺り構わず睨みつけると、顔を上げていた閲覧者達がさっと頭を下げた。
(やっぱり知られてる?!)
 だが彼等は単に、このかけ離れて見栄えのいい二人が何の話をしているのか、興味を引かれていただけだ。アナスタシアは内心の焦りを隠し、ふん、と息を吐き出した。
「単なる、り、旅行だ!」
「そうでしょう」
 ロットバルトは表情も変えず頷き返す。苦しい言い訳すら、当然想定されていたもののようだ。
(くそう、ムカつく)
「そんじゃ、さよなら」
 くるりと背中を向けてその場を離れようとして、アナスタシアはふと立ち止まった。出奔する前夜にも同じような事があった気がする。
 この青年に忠告めいた事を言われて、無視して家に帰ったら翌日、出奔――。
(――あれ、何か判ってたのか?)
 それにこの青年は言ってみれば、アナスタシアと同じ立場だ。王立学術院の首席として将来を嘱望されているとも聞いた事がある。内政官房に進んで、いずれは国の重要な決定事項を任されるようになるだろう、と、確か、夜会の前にファーガソンが作ってくれた紙に書いてあった。
 ヴェルナー侯爵家の子息として、それからそこまで将来を嘱望されている者として、たぶん色々な知識を持っているはずだ。
 例えば、誰かに意見を言う時。
「ねえ、ちょっといい?」
 既に席に戻りかけていたロットバルトは、アナスタシアから声をかけるとは思っていなかったのだろう、意外そうな顔をして振り返った。氷のような印象の整った顔を向け、アナスタシアが何か言い出すのを待っている。
「えっと……あの時何か言っただろ? あれ判ってて言ったの?」
「……ご質問の差す所が、全く理解できませんが」
 声の中に、瞳の中にも呆れの色が過ぎり、アナスタシアはさすがに判りにくい言い方だったと言葉を継いだ。
「だから、戻るべきだって言ったじゃん」
「ああ――」
 夜会の席での事だと気付いて、蒼い瞳を細める。
「予測の範囲でしょう」
「予測の範囲って……だったら何で教えてくれないの?! 一言言ってくれればいいのに!」
 前もって判っていたらあんな騒ぎにはならなかったのだ。思わず文句が口を突いて出て、アナスタシアはそういう事を言うつもりではなかったと首を振った。それに大声を出したせいで周りの閲覧者達が迷惑そうな顔をアナスタシアに向けている。
「こちらへ。せめて廊下へ出てお話を伺いましょう」
 ロットバルトは部屋と部屋を繋ぐ短い廊下へ出て、中ほどの柱の前で振り返った。
「それで」
 言いたい事は文句だけか、と言われているようで、アナスタシアは視線を逸らし大理石の廊下に落ちた柱の影の先を追う。
「今のは無し。文句言いたい訳じゃなくて、……まあ家出たお陰で何倍もいい事あったし」
「――それは良かった」
 どうでも良さそうだ。早いところ本題を切り出さないと、話を打ち切られそうだった。
「過去はいいの、過去は。問題は、この先」
 ブラフォードとの件をどう解決するか、長老会とどう話すべきか――そこだ。
「だからさ、あの後結果的に結婚話になって、それを受けないとエレノア叔母は無能力みたいに言われるし、ファーガス達は首にされかけてるし――」
 元々アナスタシアは状況説明が上手い方ではない。これでは何を言わんとしているのか判りにくい。横で黙って聞いていたアーシアが時折口を挟みたそうにしている。ただ、アーシアがちらりとロットバルトを見ると、彼は取り敢えず話を最後まで聞くつもりのようだ。
「それなのに、私は全然、説得できないの」
(……あれ、だから何だ?)
 アナスタシアは自分自身顔をしかめた。自分がどうとかではなくて、一般的にどう問題解決すべきかを聞きたかったのだが、どうもそういう流れに持って行けていない。
 ロットバルトは眉一筋動かさない。その氷のような印象の整った顔を眺め、アナスタシアの心の中に後悔が湧いてくる。
(何でこいつに聞いてんのかなぁ)
 立場が近くて遠いから、逆に込み入った話をしやすいのはある。確かに今のアナスタシアの状況で、事情もある程度知っているし、一番いい相談相手の一人ではあるだろう。相談に乗ってくれるなら。
(乗りそうにない……)
 乗りそうにないし、相談というより愚痴を言っているみたいだし、そもそも会ったのはこの前の夜会が初めてだ。
「やっぱ……」
「説得するつもりがあって、何故それを最後までやらずに家を出たんです」
 話を打ち切ろうとして手を上げかけ、ロットバルトの問いかけにその手を中途半端な位置で止めた。
「何でって――そりゃ、腹が立ったから……向こうは強硬だし……」
「相手が強硬な態度だからといって説得を諦めるのなら、その程度の問題だという事でしょう」
 温かい言葉が帰ってくるのを期待していた訳でもなかったが、その言われ方はかなり堪えた。言う通り、だからだ。
 それでもムッとして、アナスタシアはロットバルトを睨み付けた。
「その程度って――なら、お前ならどうすんの? 偉そうに言うけどさ、あの頑固じじいどもを説得するいい手があるのか」
 ロットバルトは答えを教えるべきかどうか考えるように瞳を細めていたが、やや溜息混じりに口を開いた。
「再考を促す要素はありますよ。問題点を上げて不安を煽ればいい」
「不安て」
 彼等に不安に思われているから結婚話が出るのではないかと、そう言おうとして、ロットバルトの頬に浮かんだ微かな笑みにアナスタシアは開きかけた口を噤んだ。
「判りやすく申し上げれば、要は脅す事です」
「脅す? ……また出ていくぞ、とかって?」
 ロットバルトは再び呆れた色を浮かべ、今度ははっきりと溜息をついた。だが、一応最後まで教えてくれるつもりのようだ。
「ごく簡潔に言えば、まだ基盤の弱い所へそんな有力な家を呼び込んでいいのかと、そう問い返せばいいんです。そこが今回の最も根本的な課題のはずでしょう」
 暗い森の中で、顔にぱちんと小枝でも当たったように、アナスタシアは瞳を見開いた。そこに枝が伸びていたと、初めて気付いた、そんな感覚だ。
「――あ、そうか!」
 ロットバルトの言わんとするものはアナスタシアにも判る。この結婚話は、アスタロト公爵家の地盤固めの為のものだ。
 一言で母である前公爵の後を継ぐと言っても、全てが元のままという訳ではない。アナスタシアはアナスタシアとしての、新たな公爵家の地盤を築いていかなければいけない。今が一番不安定な時期なのだ。
 アナスタシアが納得したのを見て取り、これで用は終わったと言わんばかりにロットバルトはその場を立ち去りかけた。アーシアが慌てて呼び止める。
 アナスタシアは納得しているようだが、まだその方法が見えていない。
「すみません、その」
 おそるおそる声を掛けると、ロットバルトは足を止め振り返った。
「そんなに上手く行くでしょうか」
 そんな事かと言うように、ロットバルトは肩を竦める。
「行くでしょうね」
 返答は淡々と事もない口調で、アーシアは胸を撫で下ろし、かけた。
「ベルゼビア、或いはヴェルナーでも構いませんが、それを呼び込んだ場合に想定されるアスタロト公爵家の変動を多角的に例に挙げる。この場合、話を優位に進める為には、まず自らが状況を把握しているという事を相手に示す必要があります。最初に利点を最小限に挙げた上で負の変動を際立たせれば、基本的な心理は負の可能性に引きずられ易い」
 アーシアは――その後ろでアナスタシアも固まった。ロットバルトの言葉は手元の文章でも読み上げるように淀み無い。
「無論相手を論破する為には、事前に長老会を構成する各人の政治力や影響力、交友関係、協力体制、不和や綻びがあるか、不足している所はどこか、それらを充分把握した上で、それぞれの思考傾向に合わせて情報を適切に提示する事が重要です。まずは個々に面会して根回しをし一定の合意を得てからでなければ」
「……ま、待った! ちょっと休み!」
 真っ青になった二人を眺め、ロットバルトは微かに笑った。少し言い過ぎたとでも思ったのかもしれない。
「まあ、単に問題点を指摘するだけで解決するものでもない。どんな場合に於いても折衝を成功させたいなら、ある程度の下調べと根回しは必要だという事です。ただ、貴方に本当に問題を解決しようという意思があれば、無理な事ではないでしょう」
「……その気はある!」
 下調べとかなんとか、そんなもん無理だけど、というのは飲み込んだ。
「それは良かった。では、私はこれで」
 そう言うとアナスタシアが口を開く前に一礼し、今度は呼び止めさせる隙もなく、ロットバルトは元の広間へ歩き出した。ロットバルトの姿が廊下から消えて、アナスタシアは肺に溜め込んでいた息を解放の喜びを込めて思う存分吐き出した。聞き慣れない理詰めの言葉の奔流に、血まで凍り付いてしまった気がする。
「あれが王立の首席かよ……目眩した。叔母上があっち選ばなくて良かったぁ……。ブラフォードの方がまだマシ」
 あんな相手と下手に結婚なんてしたら、一生あの理詰めの思考で物事を進めなくてはいけなくなってしまう。アナスタシアの最も苦手な相手だ。
 ああして語っている間も表情一つ変えず、本心が全く見えない。普通あれだけの事を話そうとしたら、少しぐらい感情が籠もるのではないだろうか。
「あいつ、楽しい事とか全然無さそうだよね」
「失礼ですよ」
 さすがにアーシアにたしなめられて、アナスタシアは肩を竦めた。
「感謝はしてる」
 口に出しては冗談めかしてみたが、アナスタシアの内心はこれから踏み出す世界の一端を鼻先に突き付けられたような、そんな気がしていた。それもほんの一端だ。公爵家の当主として、どれだけの事をしなくてはいけないのか、自分にこれから求められるであろうものは、今こうして想像している以上におそらく、重い。
(良くみんな平然としてるよ)
 今のロットバルトにしろ、ブラフォードにしろ、ルシファーにしろ――母である、前公爵にしろ。
 それともああやって眉一つ動かさないでいなければ、やっていけないのかもしれない。
(母様――)
 母アムネリアはアナスタシアの前ではいつも微笑んでいて、そんな大変さは微塵もアナスタシアに見せなかった。でも時折、アナスタシアとアーシアを連れてふらりと出奔しあちこち旅行したのは、彼女なりの、いわば調整だったのかもしれないと、ふとそう思った。
(私に、母様と同じ事ができるのかな)
 自信など見当たらない。それでも、アナスタシアは今言われた事をもう一度真剣に考え直していた。
 長老会と、どう対峙すべきなのか。
 ロットバルトが教えてくれた事を全て実践するには時間が足りないし、今の自分にできるとも思えない。
 ただ、長老会を説得できる可能性は、少しだけ出てきた。
(じじいどもを脅す……)
 脅すというのはロットバルトが判りやすく比喩してくれたもので、本当の考え方はもう少し違うだろう。
 どこまでそれができるのか。
 長老会がやってくるのは明日だ。
「アナスタシア」
 何だか懐かしい声に呼ばれてぱっと振り返ると、レオアリスが嬉しそうに瞳を輝かせて廊下を歩いてくるところだ。どうやらアナスタシア達はレオアリスがいた部屋を通り過ぎていたらしい。
「すげぇな、ここ。一年だって籠もってられる」
「一年?! 一日だってこんなとこいたら埃被っちゃうよ」
「何言ってんだ、宝の山だぜ。これが無料解放なんて、王都ってすごい」
 何度目か判らない、感動の光を浮かべた瞳で、レオアリスは出てきた部屋を振り返った。それから、アナスタシアの表情に気付いて思わしげな色を浮かべる。
「――どうかしたのか?」
「え、何で?」
「いや。顔が強ばってるから」
 じわ、と心の奥から温かい感情が湧いてきて、アナスタシアは堪えるように唇を引き結んだ。
 長老会との確執は問題で、憂鬱だ。
 けれどこの事が無ければ、アナスタシアはレオアリスと出会っていなかったのも確かだった。
 彼等に感謝してもいい位だと、アナスタシアはそんな事を思った。
「何でも……」
 何でもない、と言おうとして思い直し、アナスタシアは一度口を閉ざした。口にするぐらい、いいかもしれない。レオアリスは多分そういう相手だ。
「……公爵家なんて、めんどくさい」
 アーシアは心配そうな瞳を上げてアナスタシアの顔を見つめたが、何も言わなかった。レオアリスも黙って次の言葉を待っている。
「でも――私も、自分で言った事を証明してみようと思うんだ」
「言った事?」
「私が、アスタロトだって事。皆の前で、誰にも疑われたり否定されたりしない位に、はっきり見せる」
 アナスタシアとレオアリスは互いに瞳を見合せて、どちらともなく可笑しそうに笑った。
「できるよ」
 もう一度、レオアリスはあの森で言ってくれた言葉をくれた。
 それは温かく、アナスタシアの背中を押してくれる。
(明日ちゃんと、長老会に会おう)
 逃げずに正面から話をしなくては、先に進めないのだから。
「お前も頑張れよ、御前」
「ああ」
 頷いたレオアリスにアナスタシアが不満そうな顔を向ける。
「そんな適当な返事じゃなくてさ、おーっ! とか言えないの?」
 アナスタシアは拳を振り上げて見せ、もう一方で上げた拳を指差した。
「……言わねぇ」
「えーっ、気迫が足りないよ、気迫が。ほらっ、一緒にやろ」
「何を……?」
 嫌そうな顔をするレオアリスに構わず、明るい廊下の真ん中でアナスタシアはまた元気良く腕を振り上げた。差し込む光に影が踊る。
「頑張るぞ、おーっ! って」
「――やだ」
 ちょっと格好付けたい年頃の少年らしく、レオアリスはふいと眼を逸らした。
「何言ってんの。要は気迫でしょ! ほら、一緒に」
 レオアリスの腕を掴んでぐぐ、と上に持ち上げる。
「よせ、この馬鹿力!」
「いいからぁ、ほら」
 腕を下ろそうとするレオアリスと上げさせようとするアナスタシアの攻防を、アーシアはいつかの森を思い出しながら賢明に何も口を挟まず眺めている。
(あ、アナスタシア様勝った)
 攻防の決着が着いたようだ。アナスタシアは嫌がるレオアリスの腕を思い切り持ち上げた。
「いくぞ、せーのっ」
「やかましい! ここをどこだと思っとるんじゃ!」
 しわがれた怒鳴り声が廊下の向こうから響き、はっと瞳を向けた先から、小柄な老人が物凄い勢いで走って来るのが見える。
「あっ、ヤバイ、ヌシだ! 走れ!」
「主?」
 レオアリスが聞き返す間にも、アナスタシアはもうくるりと背を向けて逃げ出している。
「ここに住み着いてる主だよ。スランザールっていう爺さん。捕まったら書庫に閉じ込められるぞ! 百冊本読むまで出してもらえないとか、徹夜で歴史やらうんちく聞かされるって」
「――いいんじゃねぇ? 俺ちょっと聞いてこようかな」
「ばぁか! お前ホントばか! いいから走れ! アーシアも!」
 レオアリスとアーシアが視線を合わせる。二人とも心の中に浮かんだのは、おそらく同じ光景だ。
 あのカトゥシュの森と、暗い坑道。
「何か、走ってばっかりだな」
「ですね」
 可笑しそうに笑い、それからアナスタシアを追って明るい廊下を走り出した。





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