第十章「闇を征く者と標の光」 (三)
ぱちん、と乾いた音を立て、足元で踏み締められた枝が折れた。
「何だ、これは――」
カトゥシュ森林の宿営地に到着した救援部隊は、寝静まった宿営地の様子に驚きの声を上げた。兵士達がそこここに、倒れるように眠り込んでいる。既にレオアリスが敷いた法陣の輝きは失せていて、五つの印が夜の闇に浮かぶ標のように、彼等の前で微かに光っていた。
「法術……」
自らも法術士である彼等は、すぐに敷かれていた陣を完全に切った。一人が短く術式を唱え、ぱちりと指を鳴らす。空気の弾ける鋭い音が、眠っている兵士達の耳元で次々と鳴り響く。
その音で眠りを解かれ、兵士達は飛び起きて呆然と辺りを見回した。彼等は自分達が眠っていた事を咄嗟には理解できていないようで、宿営地の中を戸惑うような騒めきが広がる。
「法陣が高度な割には、未熟な術だな」
中将ボルドーは灰色の瞳を足元の印に向けた。百名近い人数を一斉に眠らせたにしては、印からはそれほどの力は感じられない。
「ウィンスター殿の報告にあった少年でしょうか。術士だという……いや、剣士かな」
先程術を切った法術士、少将のシアンが興味深そうに印に屈み込んでいる。
「そうだろう。リンデール中将の他には術士は配備されていなかったはずだし、この森に今他の術士がいるとも思えない」
「面白いですね。剣士が術を使うって聞いた事がないわ。だから術が中途半端なんでしょうか」
「呑気に分析している場合か。問題は、この相手が何を目的に術を使ったのかだ」
『危険と判断した場合は封じろ』
西方将軍ヴァン・ヴレッグはボルドーにそう指示した。それは黒竜だけではなく、剣士についてだ。ヴァン・ヴレッグは詳しい説明をボルドーに与えなかったが、何故、というボルドーの疑問はこの状況を見て懸念に変わった。
何の為に軍の行動を妨げるのか。レオアリス達の胸中も経緯も知らないボルドーが、軍に対する意趣があると考えたのも無理な話ではないだろう。
ボルドーは頬に厳しい色を浮かべ、宿営地を歩き出した。残りの法術士達もその後に続く。
被きの付いた長い外套を纏った法術士団独特の姿を見て、兵士達が自然と道を開ける。法術士達が外套を翻して歩く様は、いよいよ地底へ――黒竜の支配下への出立が近い事を示しているようだった。まだ呆然と座っていた兵士も慌しく武具の点検を始める。
「ウィンスター大将殿はおられますか!」
二度ほど呼ばわっただけですぐに前方で答えがあり、ボルドーは天幕の前に立つウィンスターの姿を認めて駆け寄った。一礼して膝をつく。他の法術士達も少し離れた場所で立ち止まり、ウィンスターに対して敬礼した。
束の間その場が静まり返り、風が枝葉を揺らす音が流れた。
「先遣として法術士団十名を率いて参りました。私は中将ボルドーと申します。封術を得意としており、先遣の中にも封術を得意とする者を多く揃えております。――状況のご説明とご指示を戴きたく」
「封術――閣下のお考えはそちらか」
「はい。黒竜をカトゥシュに封じます」
ウィンスターの瞳に浮かんだ光に答えるように、ボルドーは真っ直ぐ彼の目を見据えた。言葉では黒竜とのみ口にしたが、その裏に込めたものをウィンスターも感じ取っている。
ウィンスターもまた、ボルドーの知らない事を知っている。それは読み取れたが、少し迷って、結局ボルドーは深く尋ねるのを止めた。
黒竜の封印に加えて、アナスタシアの救出、剣士の封印、どれ一つ決して容易いものはなく、彼に余計な詮索をしている余裕はなかった。
「大将殿、ここに施されていた術に、お心当たりはおありですか?」
ウィンスターは頷き、背後の天幕を見た。既にそこがもぬけの殻なのは確認している。もう一つ、アーシアが居た天幕も同様で、彼等の荷物もない。
「おそらく」
視界の端に渋い顔をしたワッツが早足で近寄ってくるのを認め、ウィンスターはワッツの報告を聞く前に状況を読み取り、ボルドーに向き直った。
「ここにいた少年二人がいない。彼等によるものだろう」
「二人? 剣士の少年だけではないのですか」
「公の従者だ」
ボルドーが更に疑問を投げ掛けようとした時、ワッツがウィンスターに敬礼した。
「大将殿。宿営地内には二人とも見当たりません」
ワッツはボルドーに一旦目礼し、再び苦い色を宿した眼をウィンスターに向けた。いつにない焦りの色がその岩のような面に浮かんでいる。
「俺に一隊をお貸しください。連れ戻します」
「――」
「大将殿、このまま行かせろってのは無しですぜ。俺の監督不足ではありますが、ガキを煽った責任は貴方にもある」
「どういう事か、ご説明願えますか」
横合いからのボルドーの問いかけに、ワッツは苛立ちの籠もった眼を向けた。ワッツと同年か少し若いくらいの年だが、服装から法術士だと判る。
「あんたは……」
「法術士団の中将、ボルドーという」
ワッツはウィンスターの顔に素早く判断を問う視線を投げた。そこに込められた焦燥を敢えて無視して、ウィンスターが口を開く。
「先程も言ったように、ここには二人、少年がいた。一人は公の従者、一人は剣士だ」
「剣士かどうかは」
ワッツはその結論を保留しようと口を挟んだものの、ウィンスターは構わず続けた。
「おそらく二人は、公の救出に向かったのだろう」
「救出? 救出に行ったのですか?」
ボルドーは驚いた顔で、目の前の落ち着き払った顔を見つめた。
危険であれば封じろと言われた事から彼が想定していた状況とは、全く違う。躊躇いというよりは混乱がボルドーの面に浮かんだ。
「では何故、術など」
「言えば止められると思ったのだろうな」
ボルドーは考え込んでいる。
「――敵対の可能性は?」
「何の為に?」
ウィンスターは微塵もその可能性を疑っていないと言うように、僅かに瞳を見開いた。
「――」
「一人は公の従者だ。何故敵対する。彼等に黒竜に組する理由があるか?」
「いえ」
「一刻も早く救出しようという、子供らしい浅はかさだ」
一見刺のある物言いだが、傍らのワッツはやや意外な思いでウィンスターを眺めていた。どうやらウィンスターは二人を庇うつもりのようだ。
軍の行動を妨げた事は、処罰の対象になる。ウィンスターなりの罪滅ぼしだろうかとワッツは瞳を細めた。
「大将殿、こうしている時間はありません。一隊、いえ、十名お貸しいただければ十分です。許可を」
ワッツの言葉を遮って、ボルドーがウィンスターの前に進み出た。
「我々にお任せください。元より黒竜を封じる為に参ったのです。そのついでに連れ戻します」
ボルドーの口調が軽々しく感じられ、ワッツは少し苛立ちを覚えて彼の横顔を睨んだ。
「黒竜は軽い気持ちで封じられる相手じゃありません。黒竜なら黒竜だけに集中すべきでしょう。彼等は俺達が」
「残念だが、剣は今回役に立つまい」
「そいつは」
色をなしてボルドーに詰め寄ろうとしたワッツを、ウィンスターの冷静な声が阻んだ。
「護衛はいるだろう。ワッツ、十名選んで共に行け」
ウィンスターの言葉に二人は口を閉ざして敬礼し、ボルドーは背後の法術士達へと踵を返した。ワッツは眉をしかめたまま首を巡らせて、その背を眼で追った。
元々通常の部隊と法術士団の間には多少の軋轢がある。普段のワッツなら取り沙汰そうとも思わないものだが、黒竜の脅威を身を以て知り、二人の少年とその想いを知っている為に、ボルドーの言葉は軽々しく感じられていた。
ウィンスターはボルドーから視線を戻すと、歩きながらワッツを呼んだ。
「ワッツ」
低い声音に、ワッツは素早くウィンスターの傍に寄った。横を歩きながら視線だけを合わせる。だがウィンスターの口から出た言葉に、ワッツは驚いて足を止めた。
「ボルドーは剣士を封じろとの命も受けている」
「……は?」
前触れもない単刀直入な言葉に、ワッツが瞳をしばたたかせる。
「そりゃ……一体どういう事ですか」
ウィンスターは立ち止まる気はないようで、ワッツは再びウィンスターを追いかけて横に並んだ。
「私は今回、剣士を使おうとしたが、剣士とはそう御しやすいものではない」
「それで何で封じるなんて話になるんです」
「剣士の剣そのものが、時として黒竜にも劣らない脅威になるからだ」
「――」
ワッツの細い眼が険しくなる。
「特に経験豊かな者ならともかく、まだ剣すら操った事のない未熟な者では思わぬ事態を引き起こす事もあるだろう。それ故、ボルドーは場合によっては、剣士を封じる指示も受けている」
ワッツの顔はますます険しくなった。ウィンスターは上層部の考えを詳らかに語っているようで、その実まだ深い部分に閉ざされたものがある。
そもそも、レオアリスが剣士だと、何故ウィンスターや上層部が知っていたのか。
ただそれよりも、ワッツが強く感じていたのは憤りだ。少なくとも上層部は剣士を肯定的に捉えていない事は、ワッツにも判った。
「使える時は都合良く使って、危ないと思ったら処分ですか」
「気に入らんか」
「気に入りませんね」
ウィンスターは苦笑を浮かべ、ワッツの前を離れた。
「お前が判断しろ」
「法術士団の邪魔していいって事ですか?」
「そう思うのならな。出立を急げ」
ウィンスターはそれで話を打ち切り、今度はそこにいた他の兵を呼んだ。法術士団とワッツ達が出た後で、宿営地の全ての兵も彼等の後衛に回るべく指示をしていく。
「――」
(脅威……思わぬ事態だと?)
ワッツは荒々しく軍靴を鳴らし、ウィンスターに背を向けた。
(気に入るわけねぇ)
「クーガー! ウェイン!」
駆け寄った二人が既に出立の準備を済ませているのを眺め、ワッツは彼等の眼を見て頷いた。
「ガキ共を拾いに行くぜ。ついでに法術士団の警護をする」
「ついでですか」
クーガーとウェインがにやりと笑うのへ、ワッツも口元を歪めた。
「あくまで救出が目的だ。まあその過程で法術士殿達との目的とひっくり返るかもしれねぇが、気にするな」
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