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「竜の宝玉とはじまりの森(仮)」

第十章「闇をく者としるべの光」 (九)


「――っ、戻れ……!」
 凍るような視線に射貫かれて我に返り、レオアリスは今出てきた道に身を翻そうとして、立ち止まったアーシアの肩にぶつかった。
「アーシア? 何……」
 凍り付いているアーシアの視線を追って、レオアリスは息を飲み込んだ。坑道の奥から、竜の立てる重い音が近付いてくる。
「――」
 袋の鼠だ。
 ここに繋がっていると判っていたからこそ、竜はゆっくりと二人を追ってきたのだ。侵入者をいつでも噛み砕けるが為に。
(どうする……)
 留まっても戻っても、結果は同じだ。竜に囲まれれば、待っているのは死しかない。
 きし、と頭上の岩が鳴る。
 竜の立てる擦れるような独特の擦過音が、ゆっくりと近付いてくる。
(戦うしかない)
 ここまで来たのだ。
 傍らを見れば、何も武器すら持たないアーシアは、それでも決然と瞳を上げている。
(戦うんだ!)
 アーシアに背を預けるように振り返り、レオアリスは頭上を睨み付けた。
 二人の真上にいた一頭の、銀色に燃える両眼と視線が合わさる。
 風が吠え――竜達が一斉に吼えた。空気がビリビリと震え、細かい岩の欠片が降り注ぐ。
 レオアリスの手元から雷撃が走り、頭上に迫った一頭を撃った。雷撃はちょうど、獲物を噛み砕こうと開いた喉に突き刺さり、竜の巨体がもんどり打って地面に転げ落ちる。
 それを合図のように、壁に張り付いていた竜達は、ばさりと翼を広げた。
「アーシア! カイに付いて走れ!」
 剣を引き抜き、レオアリスが叫ぶ。
 この先に、必ず道があるはずだ。
「駄目です! 僕も」
「アナスタシアを救けるんだ! それがお前の目的だろ!」
 迷うアーシアとレオアリスの間を、竜の身体が擦り抜けるように飛び、退いた二人の距離が開く。
「アナスタシアを救けて、俺が生きてる間にここに戻って来い! そしたら今度は俺を救けられるだろ?」
 冗談めかして言ってみたものの、さすがにあまり笑えなかった。アーシアは僅かに躊躇い、それを振り切るように身を翻した。
「必ず――!」
(アナスタシア様を――)
 掠めるように飛ぶ翼を掻い潜り、アーシアはカイを追って駆け出した。

 天井から降下し迫り来る竜へ、剣を背中から振り抜く。剣は一瞬青白い光を纏い、翼を易々と切り裂いた。片翼を失った竜の身体が地面に激突する。
「――」
 その思いがけない切れ味にレオアリス自身驚き、まじまじと刀身を見つめた。
(これが、まさか)
 ある種の期待を持って見つめたレオアリスの視線の先で、剣は刀身を震わせたかと思うと、次の瞬間根元から砕けた。
(駄目だ、この剣じゃ……)
 いつも剣は折れる。いつもと同じ事だ。
 この剣ではない。この剣では駄目なのだ。
 どくりと身体の裡で鼓動が響く。
 右手から迫った竜に折れた剣の柄を投げ付け、飛び退く。雷撃の法陣を組もうとしたレオアリスに、新たな竜が爪を伸ばす。襲い掛かる爪や尾を躱すのが精一杯で、あっという間に法陣を組む余裕など無くなった。
 ただ、まだ希望はある。
(引き付けて、アーシアさえここを抜ければ)
 ちらりと投げた視線が飛び交う竜達の隙間にアーシアの姿を見つけ、色を失った。
 アーシアはぴたりと足を止めていた。アーシアの前には二頭の竜が首を低く下げ、行く手を完全に塞いでいる。
 複数の翼の音が容赦なく空間を掻き回す。縦横無尽に空間を飛ぶ竜達の姿が、闇に浮かんでは消える。
 まるで逃げ場を失って立ち竦む獲物を、どう狩ろうかと思案するように、竜達は爪を伸ばしては引っ込め、急激に迫っては闇に消えた。
 遊んでいる。
 急がなくとも、この獲物はいずれ引き裂かれ、胃袋の中に収まるのだと、そう思っているかのようだ。
 どくりと鼓動が鳴る。
 今度は近かった。壁一つ隔てた同じ空間に在る、そんな感覚だ。
 手を伸ばせば、取れる。
 剣が。
 呼んでいる。
 レオアリスが気付かないまま、じわりと、微かな青白い光がレオアリスの身体を取り巻いた。
 竜達の羽音が、一瞬静まり返る。
 何を感じたのか、直後に竜達は一斉に吼えた。
 獲物に飛び掛かろうとした、その時。
 突然、激しい炸裂音が響き、天空の太陽のように、頭上に煌々と光が輝いた。
 闇に包まれていた空間が強い光で満たされた。暗闇に慣れていた眼が痛みを訴える。
 腕で眼を庇いその場に立ち尽くしたレオアリスとアーシア、警戒して身を伏せ唸る竜達を、光は奇妙なまでに白々と照らし出している。
 ぐにゃり。
 光球が歪んだ。
 その腹から光の線が吐き出される。
 光は真下にいた一頭の竜目がけてするすると伸び、先端が三つに分かれ竜を囲むと、地面に繋ぎ止めるように突き立った。ひどく緩慢な動きに見えて、それはひと欠けらの慈悲もなく竜の動きを奪う。
 ぶつん。
 光の尾が光球から切り離され、一度地面に吸い込まれたかと思うと、ぼう、と三つの印が浮かぶ。そこから再び立ち上がった白い光が、もがく竜の身体を包み込んだ。
「法術――」
 光はそれ自体が生き物のように動いたが、紛れもなく法術だった。レオアリスが宿営地で使った法術と発動の仕方が似ている。
 レオアリス達の目の前で竜の身体が、その足元からじわじわと色を変えていく。灰色の、無機質な、石に。
 光は竜を完全に石へと変えた後、輝きを消した。目の前にあるのはもはや竜の精巧な彫刻のようだ。今にも動きだしそうな、というのはこの場合間違った表現に違いない。竜は確実に、たった今まで動いていたのだから。
 ぐにゃり、ぐにゃりと光球が蠢き歪む度、次々と光の線が放たれ、一頭、また一頭と、確実に竜を捕え石へと変えていく。
 レオアリスは術の主を探して辺りを見回したが、照らし出された広間の中にも背後の坑道にも、術士の姿は見当たらなかった。
「――すげぇ……」
 レオアリスが感心して見入ったのも無理はない。視認できない標的をいとも容易く、正確に封じていく――高等法術だ。
 「誰が」と呟いたが、それが誰の手によるものかはすぐに想像が付いた。軍の――、王都の術士。チェンバー達が言っていた、法術士団の術士だろう。
 状況も忘れ、石化した竜の翼に触ろうと手を伸ばした時、背後で鋭い羽音がした。
「レオアリスさん!」
 アーシアが鋭く叫ぶ。振り返ったすぐそこに、牙を剥いた竜が迫る。飛び退こうとして、運悪く石像に阻まれた。
「しまった」
 仲間を失った竜は怒りに両眼を燃やし、せめてこの獲物を噛み砕こうと顎を突き出した。
「っ」
 石像の竜の足元が開いている。咄嗟に潜り込んだレオアリスを掠め、竜のあぎとはレオアリスの居た場所――仲間の石像を捕らえて、ばりん、と噛み砕いた。
 恐るべき力に、ひゅっと喉から音が洩れる。
「レオアリスさん!」
「来るな! 自分でなんとかする、お前は先に行け!」
 そう言ったものの、石像の竜の腹が邪魔をして、この下から抜け出せるのは正面しかなかった。その正面には竜の牙がレオアリスを噛み砕こうと口を開けている。ぎりぎりまで下がっても、竜が首を伸ばせば難なく届いてしまう。
 突き出される牙を辛うじて躱し、レオアリスは竜の鼻先を思い切り蹴り付けた。だが竜は一度頭を振っただけで、再び牙を剥く。
「レオアリスさん!」
 上空の光球はぐにゃりと蠢いたが、それきりだ。あとたった一頭を残して、光球は力を失ってしまったかのように見えた。
 駆け寄ろうとしたアーシア背後で、足音が鳴った。
「どけ!」
 太い声と共に、アーシアの横を大きな影が走り抜ける。見覚えのある姿にアーシアは驚いて立ち止まった。ワッツだ。
 ワッツはレオアリスに食らい付こうとする竜へ駆け寄りながら、背中にしょっていたぶ厚い盾を取り振り上げると、その平らな面を竜の頭めがけて力任せに叩き降ろした。
「オラァ!」
 野太い気合と岩を砕くような音と共に竜の長い首が弾かれ、竜の重い身体が地面に倒れ伏した。
 半ば唖然とそれを見ていたレオアリスの目の前に、竜の長い首が投げ出される。竜は首をだらりとのばしたまま、完全に気を失っている。
「――す……げぇ」
 普通、いくら小型とはいえ、竜を殴り倒すだろうか。レオアリスの雷撃など、この威力に比べると遊びみたいなものだ。驚くというより最早呆れて、レオアリスは伸びた竜と身体を起したワッツのいかつい姿を見比べた。
「ふん。盾ってのは相手をど突くモンだ。覚えときな」
「あんたは例外でしょう。止めてくださいよ無理な事教えるのは」
「坊主、真似しようなんて考えない方がいいぞ。この人しかできん」
 後から坑道を駆けてきたクーガーとウェインが、やはり呆れた眼で伸びた竜を眺め、漸く呼吸ができるというように身体を伸ばして息を吐く。坑道からは、他にも数人の兵士が駆けて来る姿が見えた。正規軍が二人に追いついたのだ。
 あの坑道にいた竜もワッツが殴り倒したのかもしれない、などとレオアリスは倒れている竜を見ながら想像した。
「状況に合わせろってこった。――それより、小僧」
 ワッツは太い腕を伸ばし、まだ座り込んでいるレオアリスの襟首を掴むと、石像の下から引き抜くように立ち上がらせた。
 光球は既にそこにいた竜を全て封じ終えて動きを止め、白々とした光を投げていた。広い空間には風の哭く音だけが響いている。
「てめぇ、どういうつもりだ」
 ワッツの細い眼は容赦なくレオアリスを睨み据える。それだけで震え上がりそうな迫力があった。何と言っても、竜を一撃で殴り倒した男だ。
 その眼を、レオアリスは負けじと睨み返した。今更言い訳をして誤魔化すつもりはない。
「――アナスタシアを救ける為だ」
「救けるだ?」
「そうだ! 生きてるって判ってんだから救けるのは当たり前だろ!」
 ワッツの岩のような顔が更に険しくなる。あっと思ったクーガーが止める前に、ワッツは顎をぐいと引き上げると、レオアリスの額に勢い良く頭突きを喰らわせた。
「いっ!」
 堪らず額を抱えてしゃがみ込んだレオアリスの前に、ワッツが立ちはだかる。
「ふざけんじゃねぇ! たった二人で何ができる! 救けに来てテメェが死んだら全く意味なんてねぇんだぞ!」
 レオアリスは額を押えたまま、それでも睨み返した。
「そんな事言ってたら、何にも始まらないだろうっ」
「くそガキ。知った風な事言ってんじゃねぇ。大体テメェ、軍の行動を邪魔した責任どう取るつもりだ? 一歩間違えば、全部がパァになるところだぜ」
「それは、その間に、何とかするつもりで」
 ぐい、と太い腕が拳を握り込んで持ち上げられ、レオアリスは飛んでくる衝撃を覚悟して、ぐっと唇を引いた。クーガーとウェインが慌てて腕を抑える。
「まあまあ、無事だったんですから!」
「そういう問題じゃねえ」
 二人をぶら下げたままでも、ワッツの拳はレオアリスの頬を捉えそうだ。
「ワッツ少将、そこまでにしろ」
 冷静な、だが少し刺を含んだ声がかかり、レオアリス達は声のした方向を見上げた。
 広間の壁に開いた幾つもの横穴、風の通り道となっている坑道の入り口に、男が立っている。レオアリスとアーシアは始めてみる顔だが、ワッツは「ボルドー中将」と男の名を呼んだ。踝まである長衣が強い風に音を立ててはためいている。
 気付けばそうした入り口のそこ此処に、同様の軍衣が見えた。
 ボルドーは冷ややかな眼で真っ直ぐにレオアリスを見下ろした。
「剣士――剣は使えるのか」
「――」
 またそれか、とレオアリスはぐいと唇を引き締めた。できれば彼自身が、使い方を教えて欲しい位の話だ。
「答えろ」
 理由は判らなかったが、ボルドーの持つ敵意に似た意識を感じて、レオアリスもボルドーを睨み付けた。ワッツがまだ襟元を掴んでいた手を離し、耳元で囁く。
「ガン垂れんな。法術士団だ。お前の就職先になるかもしれねぇだろ」
 ワッツは冗談めかしたが、法術士団と聞いてレオアリスは僅かに瞳を見開いた。
「法術士団――」
 では彼等が、この竜達を封じた術士なのだ。しかし何故初対面の相手から微かとはいえ敵意を向けられるのか、そのウィンスターに対面した時には感じなかった感情に、レオアリスは眉を潜めた。
「どうなんだ」
「……使えない。でも関係ないだろ」
 先程感じた、すぐ隣に在るような感覚は既に遠退いている。もう少しで掴めそうな気がしていたが、それを告げる気にはならなかった。
 ボルドーは暫く検分するようにレオアリスの姿を見つめた後、視線を外した。
「――地上に出てから諮問にかける。これ以上邪魔になる前に連れて行け」
 それまでレオアリスを殴るつもり満々だったワッツだが、急に嫌そうな顔になってボルドーを見上げた。
(こいつぁ、さっきわざと試そうとしやがった)
 口には出さなかったが、ボルドーはレオアリスが剣を使うかどうかを確かめようとして、あの時光球を動かさなかった事に、ワッツは気付いていた。
(ムカつくが、利用させる事ぁねぇ)
「――お言葉どおり、俺達はガキを連れて帰りますよ。おう、クーガー、ウェイン、こいつ抑えてな」
「帰るって、ちょ」
 慌てるレオアリスを二人に放り出し、ワッツは傍らのアーシアに手を伸ばした。アーシアに躱す間も与えず、両肩を後ろからがっちりと押さえ込む。そうして押さえ込むとアーシアの足が地面から浮き上がった。
「帰るってのは、地上に帰るって事だ。後は法術士団の仕事だ。奴等がやるってんだから、奴等に任せな」
 驚き戸惑っていたアーシアは、打たれたように顔を上げた。
「待ってください、そんな、アナスタシア様が」
「軍に任せろ。その為の軍だ」
「アナスタシア様は生きてるんです! 居場所だって判ってます!」
「ならその居場所を教えろ」
 ワッツは取り付く島も無かったが、アーシアは必死に食い下がった。こんな所で、もう眼と鼻の先にアナスタシアがいるというのに、帰るなどできる訳が無い。
「僕自身が行きたいんです! お願いします、行かせてください!」
「駄目だ」
「お願いします! 僕は行かなくちゃ」
 アーシアの必死の懇願にもワッツは譲る気配を見せなかった。レオアリスはクーガーとウェインの顔を見たが、彼等もその考えは同じのようだ。
(どうする)
 本来は軍に任せるのが当然だ。それはレオアリスにも、アーシアにも判っている。
 けれどそれで片付けられる話ではないのだ。理屈ではない。
「放して――放せっ!」
 アーシアは憤り、精一杯の力で抜け出そうと暴れたが、振り回される手や足が顔や体に当たってもワッツはびくともしない。そのまま引き摺って軽々と地上へと連れ出せそうだ。
 ボルドーがこの場を区切るように口を開いた。
「ワッツ少将、すぐ引き上げさせろ。我々は黒竜を捜し出し、作戦に移る」
 ボルドーが手を上げると、別の坑道の入り口に立っていた術士が頷いて、低く術式を唱え始めた。探索の法術だ。
「……法術士団は何をするつもりなんだ?」
「黒竜を封じるんだよ。どうにかな。地底と地上、双方から印を置いてなんたらかんたら」
 ワッツは鼻先をしかめて最後は適当に流したが、レオアリスは驚いて瞳を見開いた。二箇所で同時に、大規模な法陣を組む。二点同時の法術など聞くのは初めてだ。どんな条件なのかは判らないが、法術士同士の呼吸が合わなければ発動は難しい事は、レオアリスにも判る。
 だが、今はそれに感心している暇も、黙って見ている暇も無い。もう一度、レオアリスは声に力を込めて、ワッツを見上げた。
「黒竜を封じるのなら、それは任せる。任せるっていうより、その方が全然いいに決まってる。けど、アナスタシアはまだこの下にいるんだ。今更帰れったって、そんなの納得できない」
「納得するとかしねぇとか、そういう問題じゃねえ」
「もうすぐそこなんだ、帰るより探す方が早い」
「それよりもおっ死ぬ方が早え」
 きっぱりと言い切ってワッツは顎をしゃくり、クーガーとウェインに坑道を示した。ぐっと奥歯で苛立ちを噛み締め、レオアリスはクーガー達に腕を掴まれたまま、一歩踏み出した。
「俺達にだって、救けようとする権利があるだろ!」
「権利云々は責任能力があるヤツが言うもんだ。この場合、お前等より俺達の方が責任能力は高い」
 顔に似合わず、ワッツはレオアリスの抗弁を巧みに流していく。論破できずにレオアリスはイライラと唇を噛み締めた結果、……叫んだ。
「アーシア! 先に行け!」
 強行突破だ。アーシアもまた問い返す事無く頷いて――、一つ身を震わせると、飛竜となってワッツの腕を弾くように抜け出した。
「うおッ」
 驚いたクーガー達の手が緩んだ隙に、レオアリスも身体を縮めて擦り抜ける。クーガーもウェインも他の兵士達も、法術士達すら飛竜に変わったアーシアの姿を唖然とした顔で見つめていて、レオアリスはその間に彼等の間を走り、竜の石像を縫うように広間の奥に見える坑道へ走った。
「……テメェ等、いい加減にしろっ」
 最初に我に返ったのはワッツだ。一瞬どちらを捕まえようか迷ったものの、レオアリスを追いかけてワッツも地面を蹴る。
 追い縋るワッツの腕を邪魔するように、アーシアが翔ける。
「この」
 アーシアは一度くるりと空中に円を描き、ワッツの頭を飛び越して奥の坑道へと向かった。
 ――微かに、足元が揺れた。
 ほんの僅かな、地面に肌を付けていなければ判らない程の震えだ。
 だが、アーシアはぴたりと動きを止めた。
「アーシア! 何してる!?」
 坑道の手前で振り返ったレオアリスが、中空に浮かんだままのアーシアに気付いて叫んだ。
「――」
「アーシア!?」
 アーシアは何かを探るように、何かに耳を研ぎ澄ませているように見える。追い付いたワッツも、レオアリスを捕まえるのを忘れてアーシアを振り返った。
「何だ……」
「しっ」
 レオアリスは口元に指を当て、アーシアの聞いているものを聞こうと耳を澄ませた。法術士の詠唱も途切れ、しん、と沈黙が落ちる。
 レオアリスやワッツ、他の者達も次第にそれに気付き、訝しそうな顔で広間を見回した。
 地面が揺れている。
 小刻みに、振動が脚を這って身体を昇って来る。
「――地震か?」
 ワッツが眉根に皺を刻み、落石を警戒して岩の天井に眼を向けた。ボルドー達も同じように、辺りを見回している。
 だがアーシアは凍りついたまま、それだけは変らない青い瞳を、釘付けにされたように地面に向けていた。アーシアの視線を追って、レオアリスはじっと足元を見た。
 振動は次第に大きくなり――、不意に、地面が跳ねた。
 その衝撃で、一人の術士が坑道から足を滑らせ落下する。気付いたワッツとウェインが走り、地面に激突する前にその身体を捕まえた。
 その間にも、振動は収まる気配を見せず振幅を増している。
 レオアリスは揺れる足元を見据えたまま、ある考えに拳を握り締めた。
(下。――まさか)
 素早く眼を向けたアーシアは、中空に凍りついたまま翼を震わせ、大きく肩で息をしている。恐れて――恐怖に震えている。
(まさか、下に、黒竜がいるなら――)
 ぞっとして、レオアリスは頭上を振り被った。ボルドーと視線が合う。
「結界を張れ! 早く!」
 ボルドーはレオアリスの言葉に眉を潜めた。
「何を」
「何でもいいから、早く張るんだ! 今すぐ! できるだろ!?」
 黒竜がこの下の空間にいるとしたら。この揺れは――
「――黒竜の息が来る!」
 呆然とレオアリスを見返し、ワッツもまた理解した。ワッツは既に一度、黒竜の酸の息が丘を溶かして吹き上がる様を眼にしている。
「ボルドー中将! 結界だ!」
 ボルドーが僅かにでも自尊心を守る事を選んだとしたら、この先の結果は全く違っていただろう。ワッツの強い口調に頬を引き攣らせたものの、ボルドーは体の前に、素早く一抱えもある法陣を描き出した。
 法陣は光を発し、回転しながらレオアリス達の足元に落ちた。
 揺れる地面の上に、ボルドーの張った結界が光の盾となって広がる。光の盾が足元を覆うのが早いか、それを競うように――
 ずしん、と坑道全体が大きく揺れた。
 足元の岩盤がどろりと溶けて崩れていくのが見える。光の盾に触れて、じゅうと音を立てた。ワッツが呻いた。
「溶けてやがる……」
 次の瞬間、白い光と共に、溶けかけた岩が濁流のように吹き上がった。
 地面は完全に崩れ、石と化した竜を飲み込み、溶かして行く。
 結界は黒竜の息に触れた瞬間、光を増してそこにいる者達を包み込んだ。薄い幕が強風に煽られるような音を立て、激しくうねる。荒波の上の小船のように結界は上下左右に揺れ、その都度中の者達は足元に倒れ、転がった。
「もつのか、これ!」
 誰かが悲鳴のような声を洩らす。みしみしと結界が軋み、光の奔流の中で歪む。
 あともう僅か、黒竜の息が続いていたら、おそらく結界は負荷に耐え切れず弾け飛んでいただろう。だが、次第に光は弱く、細くなり始めた。
「――」
 何人かが固く瞑っていた眼を開け、恐る恐る辺りを見回して安堵の息をつきかけて、――凍りついた。
 結界すら突き抜ける、胃の腑を振るわせる咆哮が響く。
 次第に薄れていく白い酸の光の幕の底、溶けて失われた岩盤の下から――
 巨大な黒耀の竜が身をもたげ、翼を広げて、咆えた。





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