一
この時期にしては少し暑い陽射しが瞳を眩ますようで、レオアリスは太陽に向かって手をかざした。
「いい天気だな――」
冬の冷気が漂いながらも、昨夜の雨雲は薄い帯を残すだけ、晴れ渡って気持ちのいい日だった。午前中の各中隊の訓練を一回りして、レオアリスは予定より少し早く第一大隊の士官棟に戻ってきたところだ。
昼にはまだ間があり、午後の仕事は諸々の書類の決裁が主になる。時間に融通が利く上、今日グランスレイは公休でいない。
レオアリスは再び空を見上げた。青い。冬の空とは思えないほど青く澄んでいる。
「――」
ハヤテ――彼の銀翼の飛竜とこっそり散歩に行こうかと、そんな考えがむくむくと頭をもたげた時だった。
「上将!」
不意に声をかけられ、レオアリスは不埒な考えを見抜かれたかのように首を縮めた。
「うわっ、すいません、思っただけで」
慌てて声のした方を見れば、士官棟の入り口から隊士のウィンレットが走り寄って来る。ウィンレットは事務官として配属されていて、士官棟の管理を担当している。
「びっくりした……グランスレイかと思ったぜ……」
「何か?」
ウィンレットは敬礼し、胸を押さえている上官の様子に髯を蓄えた厳めしい顔を傾げた。
「何でもない。それよりどうかしたのか?」
レオアリスは士官棟の入り口前の階段を上がりながら、後ろから付き従うウィンレットを斜めに振り返った。いつも寡黙なこの男が、珍しく困った顔をしている。入り口を潜ったところで、ウィンレットはぴたりと足を止めた。
「いや、その、――申し訳ございません!」
「はあ?」
いきなり頭を下げられて、レオアリスは訳も判らず瞳を瞬かせる。
「一体」
「侵入者がありまして」
「侵入者――?」
穏やかではない言葉に、今までのんびりしていたレオアリスの表情が鋭く引き締まる。漆黒の瞳に浮かんだ色は、先ほどまで執務を抜け出そうと考えていた時のものとは全く違った。
王の剣士と呼ばれる最高位の剣士、近衛師団大将としての姿だ。
「どこだ」
ウィンレットはその姿を誇らしさを持って眺め、それから戸惑ったように首を振った。
「いえ、実は侵入したのは子供でして……」
思ってもみない言葉に、肩から纏った長布を外しかけていた手を止め、レオアリスは瞳を見開いた。
「……子供ぉ? 子供って、侵入者が?」
「はぁ、ちんまいのが一人、どこかから潜り込んだようで」
「迷子の間違いじゃねえのか? 誰かの子供とか」
「いえ、どうも違うようです。警備の目に止まらない内に入り込んだらしく、二階の書庫の前にいたんで取り敢えず保護……いえ、確保しましたが、どうしましょう」
ウィンレットは困った顔でレオアリスを見つめている。
「うちの警備はガキに抜かれんのか……」
溜息と一緒に黒髪をくしゃくしゃと混ぜる。
さほど厳重ではないものの、士官棟には常時衛兵が立っている。棟内に入り込むまで全く誰も気付かなかったというのは、さすがに問題だ。
「すみません、油断してたつもりではないんですが」
「入り込んだのはその一人だけか?」
「くまなく捜しましたが、他は見当たりません」
ウィンレットはきっぱり首を振り、レオアリスは考えながら革靴の先でとんとんと床を叩いた。
「一人か。――まあなら、もう捕まえたんだからいいか。グランスレイが不在で良かったな! で、どうしたんだ、それ」
すぐにあっけらかんと笑って恐縮仕切りのウィンレットの肩を叩き、扉の奥にあるを階段を眺めた。
「上将にお会いしたいと言って聞かないので、二階に待たせてあります」
意外そうに、レオアリスが振り返る。
「俺に? 俺に用があって二階か――」
棟に入って左右に硝子張りの扉があり、正面の扉の無い出入口はレオアリス達の執務室のある中庭へ続いている。二階へは左右の硝子戸の奥の階段を昇る。
侵入者は、事前に第一大隊の士官棟を下調べして来なかったようだ。
「何の用だって?」
「それが要領を得なくて」
「ふうん。まあいいや、会ってみよう。執務室に連れてきてくれ」
「接見室でなくても?」
「あそこは窓もないしな。相手は子供だろ、いいよ、俺の執務室で」
接見室は元々、捕縛した相手を尋問する為の部屋だ。狭くて圧迫感がある。心理的効果を得る為に、敢えてそうして造られているのだ。
侵入者への対応としては間違ってはいないが、子供には酷な環境で、ウィンレットも同じように考えていたのだろう、レオアリスの許可が下りた事にほっと顔を綻ばせた。
「判りました、お連れします」
また敬礼し、それから左側の扉を開けて駆けていくウィンレットの背中を見送り、レオアリスはウィンレットとは別の方、執務室への角を曲がった。すぐそこが中庭になっていて、執務室は中庭を巡る回廊の奥にある。
陽の降り注ぐ中庭に一歩踏み込んだ瞬間、冷えた声がかかった。
「責任者自ら、規則を次々無視されては困る」
「うおっ! い、いたのか、ロットバルト」
角の壁に寄りかかり、ロットバルトは氷を思わせる整った顔に、遠慮の無い呆れた色を浮かべている。
「あー、びっくりした……ま、まあいいじゃねぇか、子供なんだし」
今の会話はばっちり聞かれていたのだろう、レオアリスはちょっと早口になって言い訳をした。
ロットバルトが息を吐き、壁から身を起こす。
「客観的に見ればそうですが、貴方にはまず隊の大将としての判断があるでしょう」
「隊の……まあ」
「第一に、侵入された事をなおざりにしない。第二に状況改善の責務を怠らない。第三に捕縛者に対しては規則に則って接見室で接見する、それから」
これまでで一番呆れた色が蒼い瞳に込められる。
「大将が身元確認も済まない内にほいほい考えもなく侵入者に会おうなどとしない」
えらい言われようだ。が、一理も二理もあるし口では勝てないので、レオアリスは素直に頭を下げた。
「――すみません」
と言いつつ、すぐひょいと顔を上げる。
「まあでも、興味ねぇか? 師団の士官棟に侵入する子供ってさ」
面白そうに輝いた瞳を、ロットバルトはすげない視線で迎えた。
「警備の盲点の洗い直しが先でしょう」
「そう堅い事言うなって。せっかくなんだから勇敢な侵入者の顔でも拝もうぜ」
中庭の回廊を執務室へと歩きながら、どことなくうきうきした口調でレオアリスは笑った。
回廊の左手には気持ちのいい中庭が広がり、中央の噴水がさらさらと音を立てている。
中庭への入り口とちょうど対角の位置に、レオアリス達の執務室があった。
第一大隊の執務室が他と少し違うのは、通常、大将の執務室といえば棟の最上階と相場が決まっているが、ここでは一階にあるという事と、各中将の部屋もこの一室に纏められている事だ。
その方が仕事が手っ取り早い、とレオアリスの意見でこうした配置になったのだが、確かに意志疎通が楽で仕事の効率は上がった。
二人が戻った時には広い執務室にはまだ誰の姿も無く、がらんとしていた。
中将、副将、そしてレオアリスを含めて六名の机が並べられているが、今日はグランスレイは公休で、フレイザー、ヴィルトール、クライフの三名の左中右軍の中将達は、現在演習場で指揮を取っている。
レオアリスは一番奥の、広い窓の前に置かれた自分の机を眺め、その上に山積みされた書類の束に、密かな溜息を洩らした。
(朝より増えてる……)
増やした張本人は何の感慨も見せずその山に近付くと、上に乗せられていた数冊の綴りを取り上げた。
「幾つかは今日の夕方までに総司令部に提出します。まずはこれらをご確認いただき、決裁を。それ以外は余裕がありますね」
「余裕って」
「明日の昼までで結構です」
(――「までで」?)
ロットバルトの机の上にも、まだ作りかけの書類が載っている。窓から見える青い空と机の上の書類の山を見比べ、楽しいハヤテとの空中散歩を敢え無く断念した時、扉が叩かれた。
「失礼します! 侵入者を連れてまいりました」
ガチャリと扉が開き、窓の外を見上げていた視線を戻して――レオアリスは絶句した。普段表情を変える事の少ないロットバルトでさえ、書類を取り上げた手を止めて、唖然とした様子でウィンレットの足元にいる姿を眺めている。
連れてこられたのは、まだ三歳か、良くて四歳位の――女の子だ。
てっきり男だと、しかも子供と言ってもせめて十代だろうと思っていたレオアリスは眼をしばたたかせた。
見間違えでも何でもない、正真正銘の女の子。くるくるとした亜麻色の巻き毛を頭の脇で二つに結って、とても可愛らしい。
「え、それ……? 子供って言うか、まだ幼児じゃねぇか」
「はあ、そうなんです」
「いや――」
そうなんですと言われても非常に困る。
一方で、少女はすっかり怯えた様子で、丸い大きな瞳を見開き、レオアリスとロットバルトとウィンレットとを恐る恐る見比べている。
「侵入者と評する事自体が間違いですね」
ロットバルトは肩を竦め、それからフレイザーの執務机を見た。
「フレイザー中将の戻りは」
「只今、南第二演習場で演習中で……おそらく昼過ぎかと」
「では、他の」
「あ!」
レオアリスが小さく声を上げる。少女がととっとロットバルトに近寄ってきゅっと軍服の裾を掴み、ウィンレットをそおっと振り返った。
「このおじちゃんこわい」
ひくり、とウィンレットの顔がひきつる。レオアリスは吹き出すのを堪えてぱっと口元を押さえた。確かに隊士の顔は揉み上げから口の周りまでたっぷり髭を蓄えていて、強面だ。
「おじちゃ……わ、私はまだ二十三で」
「まあまあウィン、子供の言う事だ」
「おねえさんがおはなしきいててくれるの?」
「お姉さん……?」
フレイザーは今いないけど……と少女の視線を追って、今度は堪らずレオアリスは吹き出した。少女の視線はじっと、ロットバルトに向けられている。
「上将」
ロットバルトの冷えた声も、さすがに余り甲斐はない。ひとしきり笑い転げてから、レオアリスはひらひらと手を振った。
「わ――、判った判った、そのおねーさんと俺が話を聞くから。いいぜウィン、戻って」
少しうなだれた様子でウィンレットが執務室を退出すると、残ったのはレオアリスとロットバルトだけになり、少女は漸くほっとしたようだった。
「とりあえず、そこに座るか」
部屋の真ん中に置かれている長椅子に座らせてその傍に膝を付き、俯いていた顔を覗き込む。少女の手はまだしっかりとロットバルトの軍服を握っていて、ロットバルトは解くのを諦めたのか、その脇に立った。
「名前は?」
「ターニャ。みっつ」
といいながら、小さい指を四本立てている。
(……どっちかなー)
多分三歳だろう。小指を曲げるのがまだ上手くできないのだ。
「ターニャは何でここに来たんだ? ここは近衛師団なんだが……何か用があるのか?」
こっくり頷いて、ターニャは何かを探すようにきょろきょろと部屋の中を見回した。
「けんしさんに会いにきたの。けんしさんは?」
たどたどしく「けんし」と言われて束の間考え、それからレオアリスはターニャに視線を戻した。
「俺だけど」
ターニャは驚いて顔を上げ、大きな瞳でまじまじとレオアリスを見つめた。
「……おにいちゃんがけんしさん?」
ちょっと疑わしそうに首をかしげ、それからロットバルトを見上げる。ロットバルトが微笑んで頷くと、漸く納得したのか瞳を輝かせた。
「よかった――けんしさんにおねがいがあるの」
「何で一発で信用されないかな……」
ぶつぶつ文句を言っているが、先ほどウィンレットとロットバルトへの評価を大笑いしたレオアリスにその資格は無い。ターニャは椅子を降りてレオアリスの前に立ち、小さな頭を精一杯下げた。
「おねがいします、ミーニャをたすけてください!」
思いがけない言葉に、二人が顔を見合わせる。ターニャの声は幼いながら、必死な響きがあった。
「ミーニャ?」
「あのね、いもうとなの。きのうあそびに行って、それからかえってこないの」
「昨日? 昨日って――」
昨日から帰ってこないというのはただ事ではない。レオアリスは膝を寄せて、しっかりとターニャの顔を覗き込んだ。
「父さんか母さんは? 捜しに行ったのか」
「お父さんもお母さんもおしごとでいないの。ターニャはミーニャをさがしに行きたいけど――こわくて行けないよぅ」
思い出して悲しくなってきたのだろう、すっかり涙声になってターニャはすすり上げた。
「みんなにたのんだのに、セルテおばちゃんはきいてくれないし、エルも大きなお兄ちゃんたちもこわがってさがしに行ってくれないのー」
レオアリスはターニャの背中をぽんぽんと叩き、努めて優しくゆっくりと問いかけた。これ以上泣き出す前に、状況を聞きださないといけない。
「落ち着けよ、な? ミーニャは何処に行ったんだ? 恐いって?」
「だって、おばけやしきなんだもん!」
「ん?」
おばけやしき。おばけ→お化け。やしき→屋敷。お化け屋敷。
変換するのに少し時間がかかった。
「――はぁ?」
ターニャの話はたどたどしく、しかも半分泣きながら話す為に筋道立った説明は到底できなかったが、掻い摘むとこんな感じだ。
ターニャの家は商売を営んでいて、両親は仕入れの為に昨日の朝から隣街に行っている。帰ってくるのは明後日だ。
家族は他には五つ年上の兄のエルと二つになる妹のミーニャ。両親の居ない間は、近所の総菜屋のセルテおばさんが兄妹を預かってくれている。
昨日の夕暮れ、ミーニャと一緒に遊びに出かけたところ、ミーニャはある家に入り込んだまま、出てこなくなってしまった。
そこは街外れの廃屋で、子供達からはお化け屋敷だと恐がられている場所だ。
ターニャはミーニャを捜したかったが、辺りはすっかり暗くなりどうしても恐くて入れなかった。
周りの大人達はその内戻ると言って取り合ってくれず、エルや年上の男の子達も恐がって誰もミーニャを捜しに行ってくれない。
「だから、けんしさんにおねがいにきたの。けんしさんはいちばんつよいんでしょ? エルが言ってたもん。けんしさん、ミーニャをたすけてくれる?」
幼い少女の涙ぐましい訴えに、レオアリスは是も否もなく頷きかけた。
「そのくらい」
「上将」
咎める響きに、レオアリスは立ち上がってロットバルトを睨む。
「お前なぁ、こんなちびを追い返すってのか」
「任せるべき相手は他にいますよ」
さすがに言い合う声は、ターニャを気遣って抑えられている。
「何言ってんだ、せっかくこんな所まで来たのに。こんなちびの足でどれだけかかると思ってんだ。きっと夜の間ずっと必死で考えて、朝一で出てきたんだぜ」
「問題はそこですか? おかしいでしょう。二歳児がいなくなって周囲の大人達が全く取り合わないなど、普通では有り得ない」
「だからここまで来たんだろ。第一お化け屋敷だぜ、お化け屋敷。見た……いや、ほっといたら危ないだろうが」
ひそひそと小声で言い合っている二人を見比べている内に、不安になったターニャはくしゃりと顔を歪め、とうとう大声で泣き出してしまった。
「うあぁぁあん! ミーニャがおばけに食べられちゃうーっ!」
「ほらぁっ、どーすんだ、限界切ったぞ」
レオアリスは慌ててターニャの傍にしゃがみ込んだが、どうしていいか判らずにロットバルトを睨んだ。
「けんしさんもおばけがこわいんだぁー!」
「って俺かよ。あー……、恐くない、全っ然恐くないし、妹は助けてやるから泣くなよ、な」
だが一旦堰を切った三歳児はそうそう泣き止むはずもなく、わんわんと執務室内に響く泣き声の中で、レオアリスは困り果てて頭を抱えた。
「――全く」
ロットバルトは溜息をつき、ターニャの前に膝をついた。頭をそっと撫ぜて顔を向かせる。
「安心しなさい」
穏やかな声に、ターニャはひくりとしゃくりあげ、それでもじっとロットバルトを見上げた。
「彼は嘘は言わない、必ずミーニャを助けてくれますよ」
「ほんとう?」
「もちろん」
大きな瞳が二人を交互に見つめ、嘘が無い事を悟ったのか、喜びで頬が薔薇色に染まる。
「おねえさん、ありがとう」
レオアリスは再び爆笑し、長椅子に突っ伏した。ロットバルトは上官に視線を投げたものの、諦めた様子で立ち上がる。
「まあ夕方までにはお戻りください。余り騒ぎを大きくしないように」
「何言ってんだ、お前も行くんだぜ」
笑いすぎて半分涙目になりながら身を起こし、レオアリスは手の甲で目元を拭った。
「――何故」
「子守り」
にやり、と嬉しそうに笑う。普段からかう事のできない相手をからかえるのは、かなり楽しいものだ。
「いやー、だって俺一人でまた泣かれても困るしさ。お前がそんな特技を持ってるとは知らなかった、意外だぜ」
ロットバルトが反論する前に、ターニャの顔を覗き込む。
「ターニャもねーちゃんがいた方がいいよな?」
「うん!」
ターニャは何の疑いもなく、にこにこと顔全体で笑い、両手を差し伸べた。
「だっこ」
「――」
氷のような、と評される視線も、三歳児には通用しない。
「持ってってやれよ。その方が早い」
黙り込んだロットバルトへ笑みを向け、溜息をつきながらも彼がターニャを抱え上げたのを見届けてから、レオアリスは立ち上がった。
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