TOP Novels


王の剣士
【番外四「黒森ヴィジャと雪呼ぶ獣〜と温泉紀行〜」】


 カレッサを出て再び飛竜を駆り、半刻ばかりが過ぎた頃だ。
 眼下にそれまでは所々でも覗いていた地面の姿は消え、一面雪に覆われた真っ白な世界が広がっていた。そしてその雪原の前方、地平線に黒い帯が一筋、すうっと浮かび上がった。
 この国の北限――。
「ヴィジャだ。あと半刻くらいで着くな」
 レオアリスの声に懐かしそうな響きが籠もる。
 ただ、黒森が己が名を呼ばれたのに気付いたかのように、雪はあっという間に叩きつけるまで強くなり、彼等の周囲で渦巻き始めた。
 明らかにそれまでとは違う風が黒森から吹き付ける。先ほど塗り直したばかりの温油も瞬く間に冷えて行くようだ。
「レオアリス、これ、いつもこんな感じ? やっぱさっきの人が言ってたヤツかな」
「どうだろうな……けど確かに悪天候の部類だ。余り有り難くない」
 この天候が頻繁にあれば、黒森に近付くのは難しいだろう。
 自分の村は――祖父達はどうしているだろうかと、ちらりと頭を掠めた。
 村へも、ここから飛竜で一刻程度で辿り着く。
「――」
 だが今は目の前の状況の方が重要だ。アスタロトはアーシアの背中で我が身を抱え込むように縮こまっている。元々火の質のアスタロトには、この寒さは余計こたえるはずだった。
 シュランに到着すれば身体を暖められる。通常ならこのまま半刻も飛竜を駆れば何の問題もなく着くが――。
 激しい吹雪はやはり先ほどの官吏の話と重なる。
 アスタロト達は残して来るべきだったかと思った時、激しさを増すかに見えた吹雪が、ぴたりと止んだ。
(何か、今――)
 大気が震えた気がした。何かの音の余韻のような……。
 レオアリスは耳を澄ましたが、その原因は掴めなかった。
 風が吹く。
 駆け抜ける強い北風が厚い雲を吹き散らす。
 唐突に生まれた雲の切れ間から、所々夕方の茜色の空が覗き、差し込んだ夕陽の欠片を浴びて黒森の樹々を覆った雪が輝いた。
 キラキラと白銀の表面を金と茜色に染め、その美しさはまるで彼等を迎え入れようとするかのようだ。
「すごい……綺麗ー」
 アスタロト達は感嘆の声をもらしたが、レオアリスは眉をひそめた。
(珍しいな――こんな止み方)
 もともと黒森の天気は気紛れだが、それでもここまで極端な移り変りは珍しい。
 飛竜達は厚い雲と暮れかけて茜色を濃くした、まだらの空の下を駆けていく。
 空気は冷たいが遠くまで澄み、穏やかとさえ言える中を五騎の飛竜は悠然と飛んだ。
 夕映えが消え、かいま見える空が濃紺に近くなった頃だ。
「あ、あれじゃないすか?」
 クライフが指差した先、森の中にぽかりと開けた小さな土地があり、そこからもうもうと白い煙が立ち昇っているのが見えた。
 地熱で熱せられ、地盤を抜けて沸き上がった熱泉が作り出す湯気だ。
 その合間に、幾つかの屋根が見え隠れしている。樹々に隠れている家もあるのかもしれないが、屋根は十棟あるかないか。村へと続く細い道が森の樹々の陰に見えた。
 雪を被っているとはいえ家や道が見えた事に、一行は何となくほっと息をついた。
「無事みたいですね――煙も」
 フレイザーが家々から細く棚引く煙を見てそう言った。閉ざされているという話は、思い違いだったのではないか。
「良かったわ」
「すごく小さい村なんだね」
 アスタロトが驚いたように呟いたが、本当に、その村は森のただ中にぽつりと存在していた。どこか寂しげに。
「ここらは大体こんなもんだよ。とにかくこれで問題なくシュランに着ける。吹雪がちょうど止んでくれて良かったぜ」
 そう言ってハヤテの騎首を向けかけ、レオアリスはふと手綱を繰る手を止めた。
 同時に――、何かが吠えた。
 レオアリスは視線を眼下に落とし、咆哮の沸き上がる場所を探した。黒森のどこかからだ。
 弦楽器の高音を引き伸ばすような響き。
 長く甲高い、悲しげな咆哮が白銀の世界を凍らせるように響いている。切れ切れに覗く暗い空に吸い込まれるように。
「――」
「何? 狼とか?」
「いや、狼はこんな遠吠えはしない」
 ヒィィ、と大気を震わせる余韻を引き、咆哮は消えた。
「声量からすると相当の体躯をしていそうですが――何も見当たりませんね。まあこの上空からでは樹の陰までは見通せませんが」
 ロットバルトは白い森を見渡し、レオアリスの判断を待って視線を向けた。
「そうだな――取り敢えず、黒森の獣達は俺達から近付かない限り襲っては来ない。腹を空かせてりゃ別だが、上空だしな、それほど問題は無いだろう。このまま村まで行こう。少し――」
 レオアリスの声に微かな緊張が混じる。あの咆哮が沸き上がった辺りは、村に近かった。
「村が心配だ」
「了解、急ぎましょう」
 クライフが飛竜の手綱を引き、飛竜の翼が空気を打つ。
 一転――
 空は瞬く間に掻き曇り、激しい風と雪が叩き付けた。風と風とが渦巻きぶつかり合い、世界を捻る。
 くるくると変わる天候にクライフが閉口気味に唸った。
「何だこりゃ……上将! ちぃっと不味いっすね!」
 風は四方から彼等を煽りたて、飛竜を操るのさえ困難なほどだ。既にお互いの姿は雪と風の幕に隔てられ、会話も大声を出さなければ聞き取れない。
 レオアリスは地上から渦巻いて吹き上げてくる吹雪の流れを睨んだ。ハヤテの強靭な翼ですら悲鳴を上げている。
「仕方ない、降りよう! このままじゃ巻かれて墜ちる。下に村への道がある。そこなら飛竜を降ろせるだろう。はぐれないように降りろよ!」
 すっかり視界を覆い尽くした雪の幕の向こうから、クライフ達の微かな返答が返る。
「アスタロト! 降りられるか?!」
 大丈夫、と切れ切れの声が届くが、アーシアの姿は見えない。
 風の唸りの中に、もう一度あの咆哮が混じった。
 一際ひときわ激しい風がうねり、ハヤテの躯が突風に煽られる。
 その風すら貫いて響く咆哮は僅かな躊躇いを呼んだが、今や体勢を保つ事すら難しい。
 レオアリスは手綱を引いた。
「ハヤテ、下だ」
 ハヤテは空気を翼で大きく一打ちして方向を変え、次いで翼を折り畳むようにして風を切り下降した。森の中の村への道を目指して降りる。
 ハヤテもクライフ達の騎乗する飛竜も、軍の作戦行動を行う為に訓練された飛竜だ。黒鱗の飛竜はこの激しい吹雪の中でも、大将であるレオアリスの指示と銀翼の動きに着実に従った。
 風に押されながらも飛竜達は黒森の中に降り立った。
 辺りを確認すれば、意図したとおり、村へ続く細い道に降りられたようだ。
 森の中は樹々が防風の役目を果たし、上空ではあれほど厳しかった風雪もどこか穏やかに感じられる。
 僅かに息を吐き、レオアリスはまだハヤテを中空に浮かせたまま、空を見上げた。
 空は黒い樹々の影と混じり合いながら、厚い雲と雪とで灰色のまだらに塗り潰され、まるで画家が闇雲に筆を振るった画板のようだ。
(こんなに荒れるなんて)
 先ほども感じたが、ただ激しい吹雪ならばともかく、これほどの急激な変化を伴う荒れ方は、十四年間黒森に寄り添って暮らしたレオアリスでさえ経験した事が無かった。
 黒森は、その懐に迎え入れた者には優しくすらある。
 やはりリールの情報どおり、この激しい吹雪には何らかの原因があるようだ。
 道が閉ざされ、村との連絡が途絶える――。
 そして黒森がこれほどに荒れる要因――それはあの咆哮だろうか。あの声が響いた後、天候が変わった――。
(天候を操る魔物――?)
 いないとは限らない。黒森は想像以上に広大で深淵な、魔物達の擁地だ。
 そこに気を取られていたレオアリスは、フレイザーの緊張した声で初めて事態を知った。
「上将、アスタロト様がまだです」
「何――」
 ぎくりとしてレオアリスは周囲を見渡した。
 フレイザーの言う通り、アスタロトとアーシアの姿が無い。
「――アスタロト!」
 張り上げた声は虚しく雪に吸収され、ただ吹雪の荒れ狂う音が返るだけだ。
(しまった)
 どくん、と鼓動が鳴る。
 アーシアを先に降ろすべきだった。
 作戦行動と変わらない意識でいたつもりだったが、そもそもアーシアは軍の訓練など受けていない。
 あの風で流され、降りる位置がずれたのだ。
「――あー、もう、何考えてんだ俺は!」
 自分の判断の甘さに腹が立ち、レオアリスは拳を握り締めた。
「アスタロトとアーシアを最後に確認したのはどの時点だ?」
 ロットバルトが樹々の間に視線を巡らせる。
「降りる間際まで公の騎影が左手にあったのは確認しています。直後に西から風の煽りを受けましたが」
「私の正面です。下降時には吹雪が視界に被って――西からの風を受けた時点では……」
「けど降りる間に方角なんて狂っちまってるぜ。日も暮れちまってどっちが西だか東だか判りゃしねぇ」
「とにかく手分けして探しましょう、きっと近くにいらっしゃるわ」
 レオアリスは中将達の話を聞きながらじっと考えていたが、首を振った。
「いや――個々に当てもなく動いても雪に巻かれるだけだ」
「ですが」
 フレイザーは落ち着かない顔でレオアリスを見た。レオアリスが一番ここに詳しいとは言え、周囲を吹き荒れるのはそれ以上に不安を覚えずにはいられないほどの吹雪だ。
「大丈夫、仮にも炎帝公って呼ばれる位だ、さすがにこの状況じゃ無茶はしないだろうし――」と言って見回した部下達の顔は、レオアリスの言葉には頷き兼ねる様子だった。レオアリスは不安が増した。
 アスタロトが、無茶をしない。
 言葉として成り立たない気がする。
「ま……まずはカイを戻して飛んでもらう。それが一番確実だからな」
 カイはまだ王都から戻っていないが、グランスレイへの伝言よりも先にアスタロト達を探すのが優先だろう。
「アスタロトを見つけてから移動を」
「上将」
 フレイザーが緊張を帯びた声でレオアリスを呼んだ。振り返った視線の先、フレイザーが指差した辺りの雪が動いて――盛り上がっていく。
「何だ?」
 クライフが飛竜に括り付けていた槍を抜き取った。穂先が白い雪の中で鈍く光る。
 レオアリス達の前で雪は腰の高さまで盛り上がり、そして獣の姿を形造った。
 現れたのは真っ白な一頭の雪豹だ。
「まさか」
 あの咆哮の主かと一瞬四人に緊張が走ったが、すぐに気が付いた。
 額に微かに光る近衛師団の紋章が刻まれている。
 紋章が強く光り、光に呼ばれたように雪豹の背にカイが降りた。
「カイ――なるほど、エンティの伝令使か――」
 レオアリスは雪豹に歩み寄った。
 第一大隊の法術士長エンティの伝令使は、カイとはまた違って一定の姿を持たず、その代わり状況に合わせた姿を取る事ができる。
 カイが自分の背を離れてレオアリスの肩に戻ると、雪豹はレオアリスを見上げ、鋭い牙を持った顎を開いた。そこに一通の封書が置かれている。
 レオアリスは封書を手に取り、開いた。
「グランスレイからだ」
「副将から?」
 フレイザーが素早く近くに寄る。
 レオアリスは書状を読みながら眉をしかめた。グランスレイから伝えられた事は、ベールが近衛師団に当てた書状の内容と同じ事だ。ベールの書状も重ねられていた。
 グランスレイは、レオアリス達がまだ黒森に入っていなければ、王都へ戻る事を促していた。
「これで飲み込めたな」
 ロットバルトはグランスレイの書状とベールの書状を読み、肩を竦めた。
「大公も最初から把握していた訳だ。人の悪い――上手い事乗せられたようですね」
「どうしましょう。いくら大公のご依頼とは言え、副将の仰るとおり、アスタロト様を見つけたら王都に戻りますか?」
「そうするのが一番だろうが……、シュランの村が気に掛かるな。さすがにこの状況を直に見て、放って帰る訳にも行かない。周辺に波及しても困る」
 この場所は、レオアリスの故郷にも近い。
 それに気付いて、中将達は表情を引き締めた。
「アスタロト達を見つけたら、あいつらはカレッサに帰そう。フレイザーが付いてくれ」
「承知しました」
「この吹雪だ、クライフ達も一緒に戻った方がいいかもな」
 吹雪に慣れないクライフ達を考えての言葉だったが、二人は視線を交わし、それぞれに見慣れた笑みを浮かべてみせた。
「冗談でしょ――大将一人残すほどへたれちゃいませんよ」
「まあ、私はもともと任務で来てますからね、何も問題ありません」
 彼等からすれば、レオアリス一人に任せて帰るなど有り得ない。それは戦闘時だけで充分な話だ。
 レオアリスは有難く受ける事にした。
「悪いな――。カイ、アスタロトとアーシアの気配を辿れ。見つけて、既に森の中に降りていたら先ずは動くなと伝えるんだ。すぐに俺に知らせに戻ってほしいが、周囲の地形によっては――」
 ふ、と空気が変わる。
 肌に触れる感触がはっきり判るような変わり方だった。
 再び――、あの引き裂くような咆哮が沸き上がった。
 彼等からはまだ遠いものの、上空で聞いた時よりも近付いている。吹雪の幕すら貫き、長く、尾を引いている。
 周囲で、再び吹雪の激しさが増した。
 レオアリスは厳しい表情でカイを見つめた。
「周囲の地形によっては、吹雪をしのげる場所へ誘導してから戻れ」
 カイが一声鳴いてレオアリスの肩から消える。
 レオアリスは改めて辺りを見回した。
 咆哮は既に止んでいたが、重く身に纏い付く空気が流れている。
「近くなったな」
 雪豹の前に膝を付き、双眸を見つめる。
「グランスレイに伝えてくれ。『既に遭遇した。状況を確認し、可能なら問題を取り除く』」
 雪豹はぶるりと身を揺すり、また元の雪に戻って崩れ落ちた。





前のページへ 次のページへ

TOP Novels



renewal:2010.01.16
当サイト内の文章・画像の無断転載・使用を禁止します。
◆FakeStar◆