附解説 日本工学士 駒杵勤治 閲

明治10年(1878)山形県に生まれる
明治35年東京帝国大学卒。 工学士


茨城県立水戸商業高等学校旧本館玄関・明治37年竣工
中央部分を移転保存の為、登録文化財(平成8年12月)。


旧茨城県立土浦中学校本館・・国指定重要文化財


旧茨城県立太田中学校講堂・・国指定重要文化財

                    序
 嘗て拙著和洋住宅建築学學に於て論述したるが如く、當今我邦に於ける建築には、形態の不備と構造の脆弱なるものが甚だ多い。
鎖國の時代ならいざ知らず、苟くも列國と肩を並べて、文化を競ふ明治の聖代に於て、物質的進歩を代表する所の建築が、粗雑拙劣を極めると有っては、他國人に對しても耻かしい譯だ、
殊に吾人の身命を容れ、財産を蔵する住宅には、、幾多の缺點があるので、今や建築家の多數は辛抱し切れなく成つて、頻りに改善を唱ふるにも拘はらず、一般人士の多數は唯だ唯だ奮い形式をのみ墨守して、他の新しい方式を顧みないのは甚だ嘆はしい次第だ。
彼の濃尾酒田の震災にしろ、函館新潟の火災にしろ、近くは大阪の大火といひ、此等悉く脆弱なる普請のョむに足らぬのを示すではないか、諺にも昨日は他の身、今日は我身の上といふ如く、何時又災禍の自家の頭上に襲ひ來るかも知らぬのだから、決して對岸の火災視すべきものではない。
拙劣幼稚なる設計の下に建設されたる住宅は、獨火災震災に當って危險なるのみでなく、家族の日常生活に於ても不便不利の點少なからずして、直接間接に非常なる損害を與ふるもの余輩は切に一般人士の覺醒を希望して止まぬものである。
要之、現代の住宅形式を改善し、我邦固有の幽靜閑雅なる特長を滅却するなくして、能く泰西の長所を加味し、構造材料は須らく舊慣を脱して新を採つたならば茲に始めて獨特の所謂新日本式を形成して、建築美を發輝することが出来やう。
また其れと同時に世間の人々も、完全なる家宅に住むを得て、安心なる生活が出来やうと思ふ、收めんには、世人一般が舊來行ひ來れる出入大工一任主義を捨てゝ建築家の助言に耳を籍さねばならぬ、而して各自に於ても亦幾分住宅其物の意義を了解して貰はねばならぬのである。

 余が親友小野氏、茲に鑑みる所ありて、此度和洋折衷各種建築設計圖を編著し、來りて余が校閲を求めらる。
幸に余が平素抱ける主意に合わせるものあるに由り、一は廣く一般人士の参考に資し、一は後進者の便宜を計るの意を以て、聊か修正補足を試みた。
 讀者幸に之に依りて得る所あらば、其喜悦は獨り著者のみではないのである。

   明治四十三年秋九月           工學士 駒杵勤治




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